第一話 バーチャルレーサー(6)

 高らかにそう宣言したつばさのエーベルージュが、第一コーナーの先にあるダンロップコーナーへと突入していく。このダンロップコーナーも、エーベルージュは赤い孤を描いて優美華麗に突破した。

 それに実況レディのジェニファーが惜しみない賞賛を送る。

「鮮やか! さすが赤いエーベルージュ、コーナーは抜群だ! さあ、続いてバロンのブルーブレイブがダンロップコーナーに入る!」

「これ以上、離されるわけには……」

 つばさとの距離は離れていく一方である。焦る気持ちと戦いながら、迅雷はダンロップコーナーへと突入していく。このとき、焦りが敵となることを、迅雷は長年のレース経験から既に感得していた。感得していたのに、アクセルを踏み込んでしまった。

「おおっと! ブルーブレイブ、またしても外に大きく膨らんだ。あわやコースオフだ!」

 迅雷はアクセルペダルから足を離し、ブレーキを踏んで無理やりいったん停車し、再発進してマシンを探りながらコーナーを曲がりきった。

 ――この俺が、こんな無様なコーナリングを。

 つばさのコーナリングが曲線なら、今の自分のコーナリングは直角だった。

「プリンセスのエーベルージュはどんどん先へ行ってしまうぞ! バロンはこの調子で大丈夫か!」

 ジェニファーの煽りをやり過ごし、迅雷はつばさからかなり遅れて次のS字コーナーへ向かう。

「さあ、独走気味になってきたエーベルージュ、踊るような身のこなしでS字コーナーを楽々突破! 一方バロンのブルーブレイブはどうだ?」

 どうもこうもなかった。つばさにかなり遅れてS字コーナーに入った迅雷はコースオフしないのが精一杯で、減速しながらどうにかこうにかやり過ごしている体たらくである。しかもコーナーを迎えるごとに、首筋に凄まじいGフォースがかかる。

「ぐ……!」

 狂おしげな表情の迅雷を見て、サイモンがピット画面から声をかけてくる。

「どうした、ボーイ。ボーイの今感じているGフォースは所詮まやかし、ボーイの脳が感じている錯覚に過ぎん」

「そうは云いますけど……」

「だがボーイ、ボーイは実際には火傷をしていないのに、火傷をしたと思い込んだ人間の肌に蚯蚓腫れが出来たという話を聞いたことはあるかね? 幻のGフォースでも、ボーイにとっては本物と変わらん。苦しければ、Gフォースをカットすることだ。恥じることはない。あのガールはミドル・クラス、ボーイの五分の一の負荷しか、かかっていないのだから」

 なるほど、そうすれば体にかかる負荷は楽になり、今よりもっと落ち着いてコーナーに挑戦できるだろう。しかし迅雷は一秒も迷わず、ヘルメットの下でわらって云った。

「お断りです。もうコーナーを四つ越えた。ここで感覚を切り換えたら、今までの四つが無駄になる」

 するとサイモンは嬉しそうに顔を綻ばせた。

「いいぞ、ボーイ。その調子だ。その燃える闘争心が、ボーイを更なる高みへと連れていくのだ! 私のデザインしたマシンは最強、それを駆るボーイは最速だ。信じて突き進んでいけ!」

「了解!」

 迅雷の両目は、もはやぎらぎらと輝く太陽のようだ。だが現実には、つばさとの差は広がっていくばかりである。しかしそもそも、初めて乗るマシンで初めて走るコース、しかも練習フリー走行もなにもなし。これでまともに走れる方がどうかしているのだ。だから一周目でやることは決まっていた。

 ――オープニング・ラップは捨てる。マシンとコースを探るのが最優先だ!

 迅雷はそう割り切るとS字の先のショートコーナーへ向かったのだが、このときつばさはショートストレートの先にあるヘアピンをもクリアしていた。

「エーベルージュ独走! 本サーキット最長のバックストレートに入ります!」

「あはははは!」

 長い直線に入って少し気を抜いたらしいつばさが、このとき通信画面から迅雷をせせら笑ってきた。

「どうしたんですか、お兄さん? 差が広がる一方ですよ! 私より速いんじゃなかったんですか。なんならマシンが悪いってことにします?」

「……云い訳はしない。運命がカードを混ぜ、俺たちが勝負する。与えられた条件で戦い抜くのもレーサーの資質の一つだ。それにおまえは勘違いしているようだが、このマシンはそんなに悪くない」

「ストレートに強いからですか? それだけ青ければ確かにそうでしょう。トップスピードもそこに到達するまでの加速力も、恐らくオンライン・フォーミュラにおいて五本の指……いえ、あるいは、ナンバーワンかもしれません。しかしね、お兄さん。コーナーのたびにコースオフしかかっているようでは、レースになりませんよ」

「コースオフしなければいいんだろ?」

 迅雷がそう云ったとき、ジェニファーがまたしても声を振り絞って叫ぶ。

「U字のヘアピンを前に、バロンのブルーブレイブは急減速です!」

「ふん。そりゃあ、ゆっくり走っていればコースオフはしませんよ」

「云ってろ。おまえに追いついたら、このマシンがいかに優れているかを教えてやる」

 迅雷はそう云ってステアを右いっぱいに切った。マシンがゆるりとヘアピンを乗り越えていく。

 ――減速しすぎたな。もうちょい、いけるか。

 迅雷は頭のなかにあるサーキットのことを記したノートに新しい情報を書き込みながら、もうヘアピンを越えた先にあるバックストレートを見ていた。直路すぐじが遙か彼方まで伸びている。

「ブルーブレイブ、本サーキット最長、メインストレートより長いバックストレートに入ります。さあ、青いマシンにとってはタイムを稼ぐ絶好のポイントだ!」

 ジェニファーにそう煽られるまでもなく、迅雷はアクセルペダルを思い切り踏み込んでいた。そのとき、迅雷はマシンが爆発したかと思った。マシンがばらばらにならないのがおかしいほどの凄まじい急加速である。

「は、速い! 速い速い速い! なんという加速! おもえば私も実況レディとして務めて三年、これだけ青いマシンは見たことがありません。この爆発力は異常だ!」

「お、おおお――!」

 迅雷もまた、幻のGフォースによってシートに押しつけられながら、この加速に度肝を抜かれていた。AR表示されている速度はあっという間に時速四〇〇キロを叩き出し、しかもなお上昇中である。仮想サーキットの直線路を、ブルーブレイブは走るというより貫いていた。

 程なくして、遠ざかっていたエーベルージュの背中がふたたび見えてきた。通信画面のなかのつばさが愕然と目を見開く。

「な、なんという、馬鹿げたスピード!」

「青いからな」

 迅雷は恬として云ったが、実のところブレーキのタイミングに迷っていた。このバックストレートの出口にある右コーナーは、先ほどのヘアピンを例外とすればこのコースで一番きつい。したがってブレーキのタイミングが思案のしどころなのだが、初めて走るコースであるため、いつブレーキを踏めばよいのか皆目見当もつかない。

 ――先を行くつばさを参考にするか? いや、駄目だ。向こうはコーナリング重視の赤いマシン。あいつと同じタイミングでブレーキを踏んだらこっちは飛び出しちまう。

 已むを得ず、迅雷はまだかなりの距離を残しながらアクセルを抜いた。

「おっと、ここでブルーブレイブは減速。一方、エーベルージュはここから加速だ!」

「なに!」

 ジェニファーの実況通り、もう間もなくロングストレートが終わろうというのに、エーベルージュはまだ加速していた。

「曲がれるのか、そのスピードで!」

「曲がれちゃうんですよね、このスピードで!」

 楽しげにそう答えたつばさが通信画面のなかでステアリングを切った。エーベルージュはアウトインアウトの素晴らしいコーナリングで右コーナーを美事に曲がってみせた。

「なんという素晴らしい走り、美しい走り! エーベルージュ、コーナーを高速で乗り越えていく!」

「やるな……」

 ふたたびつばさに差をつけられた迅雷は、ストレートが終わる手前でブレーキを踏んだ。急減速によって、叩きつけられるような衝撃に襲われる。ブレーキを踏むたびに、体を巨大なハンマーで叩かれているようなものだった。

 ――くそっ。これじゃあ身が持たないし、効率も悪すぎる。スピードを無駄に殺してしまう!

 胸裡に毒づいた迅雷は、このとき、ふっと心づいたことがあった。

 ――いや、そうだ。スピードを殺しちゃ駄目なんだ。てことはだ。

 このとき、迅雷はブレーキペダルから足を離した。その分だけマシンがまた加速し、ステアリングを右に切っても、遠心力によって車体は左に膨らんだ。

「おっと、危なーい!」

 ジェニファーの云う通り、アウトラインのぎりぎりを通り抜けたコーナリングであった。だが、しかし、横殴りのGフォースを乗り越えた迅雷はわらった。

「そう、これだ。これでいいんだ」

 このブルーブレイブというマシンをどう走らせればいいのか、ようやく迅雷にはそのヴィジョンが見えてきた。薄暗い森のなかを通り抜けて、広々とした平野に飛び出した気分である。

「わかった! わかった! ブルーブレイブ。ブレーキを踏むたび俺を襲う凄まじい衝撃は、おまえからの抗議の声だったんだな! 自分をそんな風に使うなって云う」

 迅雷が浮き立ってそう叫ぶと、通信画面のなかでつばさが小首を傾げた。

「なにをはしゃいでるんです?」

「マシンの声が聞こえただけさ」

 そう云ってわらう迅雷に、つばさが冷たい声をあてる。

「マシンの声? そんなの聞いてないで目の前のレースに集中したらどうですか。お兄さん、本当に周回遅れになりますよ」

「それが出来るって云うなら、やってみろよ」

 迅雷がそう云って通信画面越しにつばさを睨みつけると、彼女はちょっと怯んだようだが、すぐに眉を吊り上げ負けん気の強そうな顔をして叫んだ。

「ぶっちぎってあげますから!」

 つばさのエーベルージュが新たなコーナーを越え、最終コーナーへと向かう。一方、迅雷はやはり初めてのサーキットをそろそろと慎重に走っていた。相変わらずマシンはコースオフしそうになるし、コーナーを迎えるたびに横殴りのGフォースがかかる。頭では錯覚だとわかっていても、体の方はあまりのリアリティに軋みをあげる。

「最終コーナーを周り、メインストレートに戻ってきたエーベルージュが二周目に入ります。それにかなりの遅れを取ってブルーブレイブが、今、最終コーナーを回ったところだ。さあ、このままレースはプリンセスのエーベルージュが終始独走するのか、それともバロンがここから意地を見せるのか!」

 このようにして、一周目オープニング・ラップは迅雷の完敗で終わった。


 三周目に突入するころには、迅雷とつばさの差は決定的なものになっていた。

「ううん、これはかなり一方的な展開になってしまった! しかしまだ第三ラップ、ライトニング・バロン、果たしてここから挽回できるか!」

 実況レディのジェニファーがそう煽るが、これまでのブルーブレイブの走りを見ていれば、巻き返しは不可能だと誰もが思っているだろう。

 だが一人だけ諦めていない男がいた。もちろん疾風迅雷本人である。

「さあここはどうする、ブルーブレイブ」

 迅雷は恋人の名前でも呼ぶようにマシンの名前を呼びながら、三周目のダンロップコーナーの攻略にかかっていた。すると通信画面のなかでつばさが不満そうに声をあげる。

「そうやって独り言を云いながら走るの、やめてくれませんかね。私と話して下さいよ。さっきからなにを云っても無視じゃないですか」

「話しかけるな。今、どうやったらこいつが気持ちよく走れるか相談してるところだ」

「相談って、マシンとですか?」

「そう、マシンとだ。云っておくが、俺は真面目におまえに勝つ気でいるからな」

 それきり迅雷はふたたびブルーブレイブとの対話に戻った。このマシンに気持ちよく走ってもらう一番の肝は、ブレーキを踏まないことである。一周目でそのことに心づいた迅雷は、極力ブレーキを踏まないことを念頭に置いてマシンの声に耳を澄ませ、このサーキットとこのマシンとの最適解を探っていた。

 ――ブルーブレイブ。もっとおまえの声を聞かせてくれ。おまえはどんな風に走りたい?

 マシンの求める最短経路クリティカルを感じ取り、それを自分の技倆で実現する。迅雷が今やっているのはそういうことだ。本来であれば、練習フリー走行でやることを、本番でやっているのである。

 そして迅雷の走りは徐々に変貌を遂げつつあったのだが、今のところそのことに気づいている者は誰もいなかった。

「……つまらん」

 つばさは迅雷が無反応であることに憮然とすると、目の色を変えた。そこからの走りを、ジェニファーが美声で褒め称える。

「エーベルージュはまさに快進撃、コーナーと云うコーナーを飛ぶように、踊るように突破していきます!」

 まったく、そのコーナリングときたら華麗かつ流麗で、観客たちは誰もがため息をついたに違いない。彼らはもうつばさの走りにしか注目していなかっただろう。だがこの時点で予兆はあったのだ。

 その予兆に最初に気がついたのは、つばさのピットに入っていることりであった。ことりがそれに気づいたとき、レースは五周目に入っていた。


        ◇


「――あ」

 ピット画面のなかでことりがそう声をあげたので、つばさは片眉をあげた。

「どうした、ことり?」

 レースの最中にあってそう気楽な口調で話しかけるだけの余裕が、つばさにはある。迅雷は遙か後方にいたし、ベータ時代から四年間乗っているマシンで、しばしば練習に使っている知り尽くしたコースを走っているのだ。付け加えれば、つばさは仮想Gフォースを、ミドル・クラスの上限である二〇パーセントではなく、一五パーセントにカットして楽々と走っていた。Gフォースが現実に即していなくても、感覚がそれに慣れてしまえばゲームで走るのに問題はない。

 レースは五周目、あと十周あるとはいえ、つばさはもう勝利を確信していたが、ことりの方はなにかの数字を見ながら考え込んでいる様子である。

「ことり?」

 つばさが重ねて問いかけると、ことりは数字から目を上げて、カメラ越しにつばさと目を合わせた。それが狐につままれたような顔である。

「あのね。四周目なんだけど、映像を見てたら迅雷さんの走りが急に綺麗になった気がしてたの。三周目まではなんかおっかなびっくりでがたついた走りをしてたのに。それでタイムを確認したら、実際にぐっと伸びてる」

 ことりがそう云ったとき、まさにジェニファーも実況でそのことに触れた。つばさはちょっと眉をひそめた。

「それがどうした。タイヤが温まったんだろう。オンライン・フォーミュラはタイヤの状態もきちんとシミュレートするからな」

「それはお姉ちゃんも同じでしょう」

 ことりが少しばかり口吻を尖らせて云うので、つばさはちょっと鼻白んだ。

「そうだな。だがまあ、タイムが上がったことについては、あれだ。あのお兄さんもさすがに少しは慣れたんだろう」

「うん、そうなんだと思うけど……」

 そのはっきりしない様子に、つばさはステアリングを切って軽やかにコーナーを突破しながら、姉の目をして問いかけた。

「なにか気になることがあるのか?」

 するとことりは表情を和らげ、一つ頷いて云う。

「うんとね、迅雷さんのタイムの上がり幅がお姉ちゃんの上がり幅より大きいの」

「それはそうだろう。元がひどかったからな。向こうの方が、伸びしろがあるさ。だが私のラップタイムを越えたわけじゃないんだろう?」

「そうだけど、あの青いマシンでよく走るなって思って」

 そう云われてみると、つばさも首筋に一瞬冷気を感じた。

「適応しつつある?」

「そういうこと」

 それきり姉妹は黙り込んだ。まだ偶然であり、まぐれかもしれなかったからだ。ミラーのなかにブルーブレイブの姿は見えない。

「もう充分に引き離した。最初の三周で勝負はついたんだ。今さら追いつけやしないさ」

 つばさはそう嘯いたものの、心の底では僅かに焦り出していた。

 ――まだ十周残っている。ここは幅が狭くて抜きにくいサーキットというわけじゃない。となれば、逆転もありうるのか?

 だがつばさが迅雷に差をつけているのもまた事実なのだ。つばさは少し乱暴な運転で最終コーナーを回り、五周目をクリアしたけれど、このとき実況レディのジェニファーはつばさに触れもしなかった。彼女は先ほどから迅雷に付きっきりである。

「バロンのブルーブレイブ、第四ラップに入ってから俄然と走りがよくなってきました。コーナリングも、曲がるというより泳いでいるように滑らかだ。そしてもちろん、ストレートでは伸びる伸びる! 序盤で差をつけられたプリンセスのエーベルージュに果たして追いつくことが出来るか!」

 このようにジェニファーが迅雷寄りの実況をしているのがつばさの癇に障った。

「片山さんめ、なんだ、既婚者のくせに、お兄さんが好みのタイプだったのか?」

「そうじゃないよ」

 ことりはなにかに引き込まれるようにそう反駁してきた。つばさは思わずピット画面のことりを睨みつけたが、ことりはつばさを見ていない。恐らく別の画面、ジェニファーが実況をしている、このレースの中継映像を見ているのだろう。実際にレースをしているつばさとしては、自分が走っているレースの模様を観戦するほどの余裕はない。目の前の光景から目を切るわけにゆかぬ。

 しかしことりはレースの模様を見て、ブルーブレイブの走りを見て、目を瞠り、胸に迫るような声で云う。

「この人、速い」

「バロン、今、第五ラップをクリアして第六ラップに入りました! さあ、エーベルージュに迫っているぞ!」

 ことりは静かに興奮していたし、ジェニファーに至っては完全に迅雷の方に肩入れしている。この二人の反応に、ステアリングを握るつばさの手には自然と力がこもった。

「ラップタイムは!」

 思わず声を張り上げてしまったつばさに、ことりが果物でも切るように云う。

「第五ラップ、〇・〇二秒差」

 つばさは心臓が一瞬止まりかけるのを感じた。

「嘘だ! 私はこのサーキットを知り尽くしているんだ! たった五周でそんなに差がつまるはずがない!」

 オープニング・ラップでは数秒の差がついていたはずである。ところが五周目では〇・〇二秒の差しかつかなかった。それが信じられないつばさに、このときことりが目を合わせてきた。

「違う。お姉ちゃん、勘違いしてる。第五ラップは、迅雷さんの方がお姉ちゃんより〇・〇二秒速い」

「そ、そんな馬鹿な!」

 このときの衝撃たるや、頭に落雷を受けたも同然であった。運転を誤ってクラッシュしてもおかしくなかった。

「わ、私はベータ版から四年間、数え切れないほど走ってきた。それを、いくらリアルでレース経験があるとはいえ、たった五周しか走っていない人に……?」

 つばさはほとんど恐怖に駆られて歯を食いしばり、目の色を変えて目の前の勝負にのめり込んだ。

 ――負けない。追いつかれてたまるか!

 レースの六周目を、つばさは持てる技倆の限りを尽くし、死に物狂いで走ったのだ。ところがである。七周目に入ったところで、ジェニファーがつばさを崖下に突き落とすようなことを云った。

「素晴らしい! 素晴らしい、走りだ、ライトニング・バロン! ただいまの第六ラップ、ダークネス・プリンセスのラップタイムをバロンがコンマ一秒上回りました!」

「な――!」

 つばさは自分の心が硝子のように割れるのを感じた。

 ――油断はしなかった。死に物狂いで完璧に走ってやった。それでも、あのお兄さんの方がまだ〇・一秒速い?

「し、信じられん……!」

 つばさは操作を誤りそうになったが、どうにか立て直しつつ第一コーナーへ向かう。そのとき、つばさはミラーのなかにブルーブレイブが姿を現すのを見て、弾かれたように目を見開いた。

 ――追いついてきた! 一度は置き去りにしたのに、もう追いついてきた!

「なんだ、この適応力は」

 つばさが愕然としたとき、ことりがほとんど感動しているような顔をして云う。

「凄いね、この人」

「なにが!」

 つばさは噛みつくように叫んでいた。ことりが迅雷を誉めるのが気に入らない。しかしことりは迅雷の走りを見ながら、惚れ惚れとして云う。

「だって迅雷さんって、オンライン・フォーミュラはこれが初めてなんでしょ」

 その言葉がつばさの薄い胸に突き刺さる。そうだ、現実でレースの経験があるとはいえ、相手は百戦錬磨のバーチャルレーサーでもなんでもない。今日が初めてなのだ。

「初めてのサーキットで、初めて乗るマシンがあんなピーキーなバランスのマシンで、練習走行もなしにいきなりこれは凄いよ」

「ことり、おまえは……」

 どっちの味方なんだ。つばさはそうことりの胸を揺さぶってやりたかったけれど、画面の向こうのことりはすっかり迅雷に夢中であった。

「これ、ちゃんと練習フリー走行をしてたら、どうなってたんだろう」

 そこに想到して、つばさは打ちのめされてしまった。そうだ、自分は迅雷が初めてのサーキットと初めてのマシンに戸惑っているうちに貯金をつくっただけなのだ。その貯金は迅雷がこのレースに適応した今、一気に食い尽くされようとしている。

「いったい、どうなってる……?」

 四年間オンライン・フォーミュラをやってきた自分が、今日が初めてのオンライン・フォーミュラという男に追い詰められようとしている。その事実は、つばさにとってあまりにも理不尽であった。しかし、ずっと繋ぎっぱなしだった通信画面のなかで緘黙していた迅雷が、このとき久しぶりに声を発した。

「云ったろう。俺の方がおまえより速いと」

 つばさははっと息を呑んだ。

 ――お兄さんの方が、私より速い?

「そんなことは、ありえない!」

 あってはならない。つばさは後ろから迫る巨人の足音の響きを否定し、エーベルージュでひた走る。

 ジェニファーはマイクを右手に持ち、歌うように実況をする。

「レースは後半戦に突入! 逃げるプリンセス、追うバロン! 果たして勝負の行方はどうなるのか!」

「私が勝つ!」

「いや、俺が勝つ!」

 つばさも迅雷も負ける気などさらさらなく、両者ゴールを目指して一個の火の玉のようになっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る