第一話 バーチャルレーサー(5)

 迅雷はヘルメットを被ると、ふたたび座席ごと筐体のなかへとエントリーしていった。目の前にある一体型のスクリーンには相変わらず青色い背景にオンライン・フォーミュラの英字ロゴが浮かんでいる。

 迅雷が自分のマシン、ブルーブレイブを選択して待っていると、画面の左側に、いきなり二つの通信画面が開いた。上の画面は赤いヘルメットをかぶったつばさ、下の画面はサイモンである。

「お兄さん、準備はいいですか」

「ボーイ、今日は私がボーイのピットクルーを努めよう」

 迅雷はそんな二人に頷きを返すと、つばさの方を見て問うた。

「で、俺はどうすればいい?」

「今、お兄さんが見ている青い画面を初期画面クレイドルと云います。レース中にクラッシュするとこの画面に戻ってきますよ。クラッシュしないといいですね」

 くくく、と嗤うつばさに迅雷は云う。

「いいからさっさと話を先に進めろ」

「はいはい。今回のレースのセッションは私が組みますから、お兄さんはステアリングのタッチパネルで私に同意してくれればいいです。これは私とお兄さんの決闘ですから、二人きりで走りましょう」

「他の参加者はなしか?」

「はい。味気ないですが、お兄さんは今日が初めてですし、そうしましょうよ。選択するサーキットですが、どうしますか? オンライン・フォーミュラにはノーマルサーキットのほか、市街地、オフロードはもちろん、海底コースや月面コース、それに重力を無視したジェットコースターみたいな立体コースもあるんですけど……」

「マジか。そんなのあるのか」

 迅雷は俄然と興味を覚えたが、すぐに冷静になってかぶりを振った。

「いや、そこはノーマルサーキットで頼む。さすがに対応できそうにない」

「了解しましたよ、素人のお兄さん」

 言葉にいちいち棘がある。迅雷がうんざりしていると、つばさは楽しげにコースを選択し始めた。

「じゃあ、お兄さんに確実に勝つために私の走り慣れたコースにしますね。でもせめてもの情けとして、コース情報を教えてあげましょう。順路としては、まず周回基準線コントロール・ラインのあるメインストレートから始まって第一コーナー、ダンロップコーナー、S字、ショートストレートのあとヘアピン、そこを抜けるとバックストレートがあって、ストレートエンドにはヘアピンを除いてこのコースで一番きつい右コーナー、さらに緩やかな左コーナーを経て、その先が最終コーナーです。また一般的なサーキットと違ってメインストレートよりバックストレートの方が長いということは覚えておいて下さい」

「走行距離と周回方向は?」

「一周六・七キロメートル、このコースを時計回りに十五周というセッションにしようと思っていますが、どうですか?」

 迅雷は目を瞠った。

「結構走るな」

 一周六・七キロを十五周ということは、走行距離は合計で一〇〇キロメートルにもなる。

「ていうか、一周六・七キロって……鈴鹿より長いじゃないか」

「鈴鹿って、鈴鹿サーキットのことですか? リアルのことはよく知りませんけど、これはゲームですからね。リアルと違って、立地とか気にしなくていいんです」

 それはまたやり甲斐がありそうなサーキットである。真玖郎がオンライン・フォーミュラに魅了された理由の一つも、そこにあるのだろうか。

 迅雷は悔しいような、歯がゆいような思いを懐きながら続けた。

「このゲーム、マシンの速度はどれくらいになるんだ?」

「ベースとなるシャシーやDPの振り方によって個体差はもちろんありますが、普通に時速三〇〇キロは出ますよ」

「時速、三〇〇……」

 もちろん最初から最後までその速度で走れるわけではない。それを考慮に入れた上で計算をすると、どうか。

「三十分前後のレース、ってことになるか」

「まあ、だいたいそんなところです。ちょっと物足りない感じはしますが、時間も押してますからね。巻いていかないとまずいんですよ。ところで私はたった今、重大な問題に気づきました」

「なんだ?」

 思わず通信画面の方に顔を近づけた迅雷に、ヘルメットから目元だけを覗かせているつばさが、淡々と云う。

練習フリー走行の時間がありません」

「え?」

 迅雷は目を丸くした。

 どんなレースにおいても、本番前に何周かサーキットを走って、コースを頭に叩き込むのが基本である。そしてその情報を元にしてマシンのセッティングを変えたり、タイヤを履き替えたりする。練習走行はやって当然、やらないのはありえない。

 ところがつばさは、その練習走行の時間がないと云う。

「な、なんで?」

「お兄さんのせいですよ。そもそも私はことりと走るつもりで、この部屋の予約を九〇分しか取っていなかったんです。それなのに受付で片山さんに呼び止められて、ド素人のお兄さんにコックピット・ドリルをしてあげたから、持ち時間が削られたんじゃないですか。あと一時間としないうちに次の人がこの部屋に来ます。どうしますか。今日は練習走行だけにして、私との勝負はまた日を改めて――」

「いや、それはない。ここまで来ておまえとの決着をつけずに帰るなんてことはありえない。時間がないならさっさとレースを始めよう」

 つばさの目は実に雄弁であった。まず驚きに見開かれ、それから迅雷を嘲弄する。

「そのピーキーなマシンで、練習走行なしでやるつもりですか」

「この際、仕方ないだろう。ぶっつけで対応するさ。まあゲームなんだから、最悪クラッシュしても死にはしない」

「へえ……」

 つばさの目が格好の獲物を見つけたように光る。

「周回遅れにしてあげるつもりでしたが、三周遅れになりそうですね。負けても云い訳しないで下さいよ」

 つばさが迅雷をそうせせら笑ったとき、ステアリングのタッチパネルにレースの参加を促すボタンが浮かび上がった。

「そのボタンを押したら、いきなりスタンバイです。本気で戦うつもりなら、どうぞ押して下さい」

 つばさの言葉に迅雷は顔つきを改めた。

 これを押せばいよいよオンライン・フォーミュラの世界に行ける。今は薄青い輝きだけを放っているこのスクリーンに、いったいどんな光景が映し出されるのか。

 迅雷は覚悟を示すようにレーシンググローブを嵌めると、その指でボタンに触れた。たちまちスクリーン全体が白くまばゆく輝き、次の瞬間、そこはもうサーキットだった。

「……ゲーム、だよな?」

 思わずそう呟いてしまったのもむべなるかな、コンピューターで作られているはずの観客は生きているようで、路面の色といい質感といい、現実と区別できない。空には太陽まで輝いているではないか。このなにもかもが現実のようなこの光景を、自分は車内のキャノピー越しに眺めている。

 ふふふ、と含みを笑いをしたつばさが、

「どうです」

 と、まるで自分の手柄を誇るかのような口ぶりで迅雷に尋ねてきた。

「正直に云うと、凄い。一瞬、自分がどこかのサーキットにワープしてきたのかと思った」

 目に飛び込んでくる景色は、なにもかもが現実のようだ。ゲームの名を借りた異世界へ来ていると云われても信じたかもしれない。濃やかに描かれたコンピューター・グラフィックスはそれほどに美しい。

 つばさは通信画面のなかで我が意を得たりとばかりに頷いている。

「そうでしょう、そうでしょう。ここは紛れもなく、もう一つの現実なんですよ」

「たしかに、そう云えるかもしれん。だが一つだけ物足りないのは、風を感じないってことかな」

「風ですか?」

 目を丸くしたつばさに、迅雷は画面越しに指を突きつけて云った。

「そう、風だ。だいたいこのゲームはオンライン・フォーミュラって云うけど、フォーミュラカーの定義の一つはドライバーが露出していることなんだぜ。風を感じてこそのフォーミュラさ」

 だからドライバーはヘルメットを被り、スーツに身を包んで猛烈な風から自分の体を守っているのだ。しかしつばさは迅雷の言葉を鼻で嗤った。

「それはお生憎様でしたね。言葉の定義なんて時代とともに変わるものですから。オンライン・フォーミュラにおいては、マシンのコックピットは密閉されています。外観は空力を考慮しなくてはいけないリアルのマシンと違って、デザイン性に重きを置いている点がありますね」

「たしかにそんな感じだな」

 迅雷は自分のブルーブレイブの姿を思い出し、それから自分の左前方八メートルの距離に停車している赤いマシンに視線をあてた。

「それがおまえのマシンか」

「はい。私の血と汗と涙の結晶、エーベルージュです」

 ルージュの名を冠するだけあって、つばさのマシンは赤かった。コーナー重視のチューニングをしているということだ。

「たしかDPを一点集中して振れば振るほど、ボディの色が純色に近づくんだっけ? それだけ赤いってことは、おまえも結構ポイントを注ぎ込んだクチか」

「ええ。オンライン・フォーミュラが正式稼働して三年……しかし私は稼働前のベータ版からプレイしている、最古参のバーチャルレーサーなんですよ」

「ほう」

 片山の云った速いレーサーという触れ込みは、どうやら間違いではないらしい。それにそもそも、マシンをこれだけ赤くするには相応のDPを注ぎ込まねばならないはずで、それが稼げているということは、つばさは端倪すべからざるレーサーなのだ。

「絶対に負けません」

 つばさはそう云いながら迅雷に見えるようにして、どこから取り出したのか黒革のレーシング・グローブを両手に嵌めた。備え付けの借り物である迅雷のグローブと違って、高級品といった感じがした。

 迅雷はもうなにも云い返さなかった。ステアリングに手を置きながら、レーサーの目をして前方に鋭い視線を放っている。

 ――俺は練習走行もしていない。初めて乗るマシン、初めて走るコースで、いきなりレースをしなくちゃいけない。普通に考えたら勝負にもならないけど、でも勝ってやる。

 コックピットから見て、ブルーブレイブの前輪は遠く感じた。フォーミュラカーと同じくらいの位置関係か。エンジンは既にかかっており、ためしにギアをニュートラルにしたままアクセルを踏み込んで空ぶかしをするとエンジンが甲高い声で鳴いた。

 コースの幅は約十メートル、遙か前方に右へと曲がる第一コーナーが見えた。両者のマシンは既にスターティング・グリッドについている。

 ポールポジションはつばさのエーベルージュだ。

「この隊列順位グリッドは現有DP順だったな」

「そうです。決勝レースであれば予選の結果でグリッドが決まりますが、それ以外のレースではDPの多い順で並ぶことになります。私のポイントがいくらかはさておき、これが初めてのオンライン・フォーミュラであるお兄さんのDPは当然ゼロ。仮にこれが複数参加のレースだったら、お兄さんのスタート位置はもっと後ろでしたよ。よかったですね、二番手で」

「そうだな」

 レースにおいて隊列順位は極めて重要だ。普通は二列縦隊でジグザグに配置されており、予選レースでトップのタイムを叩き出した者が決勝レースの先頭ポールポジションを占める。また違反を犯した者はその軽重に応じて隊列順位が後退するペナルティを受ける。それがペナルティになるくらい、スタートの位置は重要なのだ。

「周回遅れにしてあげますよ」

 つばさが嗤ってそう云ったのを見て、迅雷はステアを指で叩くとにやりと笑った。

「じゃあ始めるか」

 迅雷はそう云って、視線を少し上げた。周回基準線コントロールラインの真上に四角いアーチ型をした信号シグナルがかかっている。信号は横に五つ並んでおり、そのどれもがまだ点灯していない。

「シグナルを灯しますね」

 そのタイミングは、レースのホストが自由に決められるのであろう。いよいよレースが始まる。と思ったところで、ピット画面からサイモンが声をかけてきた。

「おっと。ところで二人とも、どうせ走るなら実況画面を開きながらにするといい。このレース、実況レディがついているぞ」

「なんですって!」

 つばさがそう一声叫んで、なにか慌ただしく操作をした。するとホスト権限でゲストのエントリーシートに一定の干渉が出来るらしく、ピット画面の下に三つ目の通信画面が開き、そこに金髪の美女の姿が映し出された。

「イエーイ!」

 弾けるような若々しい女の声が響いたかと思うと、その美女はおおきな乳房を揺すりながら、右手に持ったマイクを口元にあててなにごとか話している。耳を澄ましてみると、こんなことを話していた。

「まもなく始まるこのレース、エーベルージュのドライバーは云わずと知れたダークネス・プリンセス。それに対抗するのはこれが初めてのオンライン・フォーミュラという正真正銘のルーキー、ライトニング・バロン。バロンはどうわけかこんなに青いマシンに乗っていますが、いきなりこれで大丈夫なんでしょうか。スタートが待たれます」

「え、なんだこれ」

 画面が切り替わり、サーキットの映像が映し出された。スターティング・グリッドに二台のマシンがついている。迅雷とつばさのマシンだ。キャノピーがスモーク処理されており、ドライバーの映像が見えないのは、ドライバーの姿を隠すための仕様であろう。

 画面はさらに切り替わり、サーキットの全景を映す。と、サイモンが声をかけてきた。

「ボーイ。センターの一階で多くの人々がお茶をしながらレースの模様を観戦していた光景を憶えているか」

「はい、もちろん」

「ボーイが今見ている映像も、あれの一つだよ。オンライン・フォーミュラは原則オンラインゲーム。したがってそのレースの模様は、クローズド設定にしない限り、インターネットを通じてリアルタイムで世界中に配信される。ユーザーは現在行われているレースを、どれでも自由に観戦できるというわけだ」

 そこからあとは自分が引き取ろうというように、第四の通信画面が開いて、ことりが顔を出した。

「運営が主催する公式レースだと実況と解説がつくんですけど、今回みたいな非公式レースで実況がつくことって稀なんですよ。実況の方が個人的に気になるレースとか、贔屓にしてるレーサーが走るときに、自主的に実況する場合がほとんどです」

「オンラインで実況……なるほど、そういうのもあるのか」

「実況担当者が男性なら実況ファイター、女性なら実況レディと云います」

 つばさがそう云って寄越したのと同時に、実況レディが「ふむ」と唸った。

「ちょっとレースが始まりませんので、運営からの強制介入チャンネルでプリンセスやバロンに繋いでみようと思います。その模様は配信できませんので、一度落ちますね。しばらくお待ち下さい」

 次の瞬間、実況画面が沈黙するのと同時に五つ目の通信画面が開き、件の実況レディが満面の笑顔とともに手を振ってきた。

「やっほー、迅雷君」

「な、なんで俺の名前を?」

 迅雷が思わずそう尋ねてしまったのもむべなるかな、実況レディは日本語を話していたが、金髪碧眼の白人であり、迅雷には見覚えのない女であった。

「あら、わからない?」

 実況レディはそう云うや、手元のカメラを操作したのか、自分の全身像を映し出した。見れば見るほど美女である。背丈は一七〇センチくらいで、年齢は二十代前半、きつく波打った背中まである金髪がまばゆいばかりに輝いている。瞳の色は強烈なサファイアブルーで、目鼻立ちはとにかくよく整っており、朱唇の左側に黒子ほくろがあるのが悩ましい。だが悩ましいのは黒子ばかりではない。肩も腹も剥き出しで、Lカップもありそうな巨大な乳房を覆っているのはアメリカの国旗を模した、下着同然の水着である。腹は引き締まっており、鍛えられて六つに割れた腹筋が見える。腰には白いホットパンツを穿いていて太腿は剥き出しだった。足には膝の近くまである、赤青白のロングブーツを履いている。

 そこまでを映したカメラが、ふたたび美女の顔のみを捉えたとき、迅雷は驚愕とともに気づいた。

「ん、あれ? もしかして、片山さん?」

「ノー!」

 美女は右手のマイクを口元にあててそう叫ぶと、左手で迅雷を指差して云った。

「受付嬢の片山とは仮の姿! 今の私は実況レディのジェニファー!」

「つまり片山さんじゃないですか!」

 迅雷は一声叫んで、ジェニファーを信じられないように見た。

「いや、でも、なんで金髪? 眼鏡もかけてないし」

 迅雷がジェニファーの姿から目が離せないまま嗄れた声でそう云うと、ジェニファーは画面越しに迅雷を見つめて片目を瞑ってみせた。

「普段はかつらをつけて、地味な格好してるだけ。こっちの方が地なのよ」

「マジか……」

 迅雷は現実に距離を感じて呻いた。オンライン・フォーミュラよりも片山の正体の方が衝撃的であったかもしれない。

 そのまま迅雷が虚けていると、つばさが心配そうに話しかけた。

「でも片山さん、なんでまたいきなり私たちのレースの実況を? ストーカーがついたからしばらく実況レディの仕事は休むって、云ってたじゃないですか」

「いいの、いいの。なんとなく迅雷君に運命を感じたって云うか……迅雷君のレースを見たくなっちゃったのよ。これが迅雷君のデビュー戦でしょ。実況しておけば、他の実況ファイターや実況レディに対して縄張りを張ったことになるし」

「実況ファイターたちのあいだでは、一人か二人、特定のバーチャルレーサーを自分のお気に入りとして囲ってしまう風潮があるのだ。このレーサーは自分が唾をつけたから他の者は自分に無断で実況するんじゃない、ということだな」

 と、サイモンがジェニファーの尾について云い添えた。

「それが俺?」

 信じがたそうに呟いた迅雷に、ジェニファーが画面越しの花笑みを向けてくる。

「ふふふふふ。私の期待を裏切らないでね、迅雷君」

 すると迅雷ではなく、つばさが手振りを交えて云う。

「残念ですけど片山さん、このレース、お兄さんの敗北はもう決まっています。練習走行なしのぶっつけ本番ということになりましたからね」

「あら、それは不公平ね」

「これもお兄さんが自分で選んだことですよ」

「時間がなかったから、仕方なかったんです」

 迅雷がそう云うと、ジェニファーは考え込むような顔をしたが、それも少しのことである。

「ま、いいわ。ちなみに迅雷君たちの名前や顔が配信されることはないから安心して。私も実況のときはドライバーネームで呼ぶから。もちろん迅雷君とつばさちゃんの会話も漏れたりしないわよん。じゃあ、そういうことで」

 ジェニファーとの通信画面が閉じ、実況画面に実況レディの姿が現れた。

「さあ、レースはまもなく開始します。画面の前でお待ち下さい」

「こうなると、観客を待たせるわけにはいきません。さっさと始めましょう」

 つばさが手元でなにかの操作をすると、ジェニファーが口笛を吹いた。

「さあ、ホストのプリンセスがシグナル点灯をコールしました。レース開始まであと一分!」

「お兄さん。もう待ったなし、止められませんよ」

「ああ」

 迅雷はそう返事をしながら、ステアリングのタッチパネルを操作してコースの全体図を出し、ルートを頭に叩き込んだ。付け焼き刃もいいところだったが、なにも見ないよりはマシである。

 と、四つ開いている通信画面の一つで、ことりが眉宇を曇らせた。

「お姉ちゃん、迅雷さん。実況なんだけど、観戦者、結構増えてる……」

「だろうな。片山さんは美人だから人気が高い。しかも久々の実況復帰となれば、ネットであっという間に噂が広まる。注目もされるだろう。ところでことり、おまえ、レースが始まったらお兄さんとの通信画面は閉じろよ」

 うん、と頷くことりの返事を尻目に、つばさはサイモンを見たらしかった。

「サイモンさん。あなたとの通信画面もシャットアウトさせてもらいます」

「もちろんだ。レースが始まれば敵同士だからな」

「三十秒前!」

 ジェニファーの声がした。迅雷はコースの全体図を見るのをやめて、ステアリングを握りしめ、シグナルを睨みつけた。つばさももう毒舌を振るったりはしない。二人ともレーサーの顔をして、その瞬間を待っている。

「それじゃあ、迅雷さん」

 ことりとの通信画面が閉じた。開いている通信画面は三つ、つばさと、ピットのサイモン、そしてジェニファーが実況をしている中継映像画面だ。

 その中継画面にジェニファーの映像がカットインで入って来た。

「オンライン・フォーミュラのプライベート・セッション。公式レースではありません、事前告知もありません、でもゲリラ配信させていただきます。実況はわたくし実況レディのジェニファー!」

 ジェニファーは水を得た魚のように活き活きとしていた。きっとこちらが本当の彼女なのだろう。マイクを片手に、よく通る美しい声で喋り続けている。

「今回のレースは一対一のハイスピード・バトル! 既に両者ともスターティング・グリッドについています。ポールポジションにつくのはダークネス・プリンセス、挑むはルーキー、ライトニング・バロン。この二人がいったいどのような走りを見せてくれるのか、さあ、今、シグナルに火が灯る――!」

 ジェニファーの実況通り、横一列にならぶ五つの信号の一番左、暗紅色を呈していたそれが真っ赤に光った。

「五秒前!」

 ジェニファーの声とともに、迅雷はギアを一速に入れた。アクセルを空ぶかしし、エンジンの回転数を上げていく。同時に一秒間隔で、信号が一つずつ、左から右に点灯していく。

「四、三、二、一」

 五つすべての信号が真っ赤に輝いた。そして。

「スタート!」

 五つの赤い光りが一斉に消えた。

 それと同時に迅雷はクラッチを繋いでアクセルを踏み、ほとんど最高のタイミングでスタートを切った。

 ――よし、完璧!

 自らのスタートを自画自賛出来たのはほんの一瞬のことだった。次の瞬間、マシンはロケットエンジンでも積んでいるのかといったように加速し、凄まじいGフォースが迅雷に襲いかかってきた。

「おおおおお!」

 思わず叫んでしまった迅雷の声に、ジェニファーの実況の声が重なる。

「これは素晴らしいスタートを切ったバロン! プリンセスを追い抜いて前に飛び出す、だがこれは――」

 加速がつきすぎていた。ストレート特化型とはこういうことなのか。だがそれよりも迅雷は、初めてのオンライン・フォーミュラの走行感覚に心を奪われていた。

 このとき、迅雷はこのゲームに感動していたのだ。

「これがオンライン・フォーミュラ……!」

 すべてが本物だった。目の前にひろがる光景はもちろん、体にかかるGフォースにしたところで、前庭神経に信号を送ることで擬似的に再現している偽物とは思えない。ゲームの名を借りた異世界で、自分は今、本当に車を走らせている。

 そして見よ、第一コーナーがみるみる迫ってくるではないか。

「やばい!」

 この速度では曲がれない。そう思ってブレーキを踏むと凄まじい衝撃に貫かれ、迅雷は一瞬意識を失うかと思った。同時にマシンが急減速する。

 ――なんだ、この無茶苦茶なバランスは!

 迅雷は愕然としながらステアを右に切ったが、第一コーナーに突入した傍からマシンは左に滑った。タイヤがまったく踏ん張れない。つるつるした氷の上を走っているかのように、車体が大きく左に膨らむ。ついで縁石に乗り上げたときの、あの衝撃が来た。

「おおっと、バロンのブルーブレイブ! あわやコースオフ! そして遅れて入ってきたプリンセスのエーベルージュが、鮮やかなコーナリングで第一コーナーを華麗に突破していく!」

 ジェニファーの実況にあった通り、あわやと云うことはコースオフしないで助かったということだ。

「あ、危なかった……」

 もしコースオフしていれば、ランオフエリアの砂利でタイヤがべとべとになって勝負はついていた。だが、ブルーブレイブは完全に停車しており、迅雷は第一コーナーを駆け抜けていくエーベルージュを為す術もなく見送るしかなかったのだ。

「あはははは! お兄さん、なにやってるんですか!」

 迅雷はぐっと奥歯を噛みしめた。つばさに笑われても仕方がない。実にみっともない話である。だがまだクラッシュはしていない。

「まだまだこれからだよ」

「だといいですけどね」

 迅雷をわらうつばさとの距離はみるみる開いていく。迅雷もまた急ぎそれを追わねばならないが、アクセルを踏むことを一瞬ためらってしまった。

 ――このマシン、覚悟はしていたが、ここまでとは。じゃじゃ馬どころじゃない、じゃじゃ馬クイーンだ!

 迅雷は浅く慎重にアクセルペダルを踏んで、ひとまずマシンを発進させた。そしてつばさを追うべく走り出したのだが、少しアクセルを踏み込んだだけでマシンが急加速する。まるでマシンのすぐ後ろで爆発が起こって、爆風に押されているかのようだった。

 ――加速力は凄い! ロケットみたいだ!

 同時に第一コーナーを曲がりきろうとステアリングを右に切るのだが、またしても車体は左に滑った。慌ててアクセルを抜くと、マシンは縁石ぎりぎりを掠めるようにしてどうにかこうにか第一コーナーを抜けてくれた。

 このときの手応えに、迅雷の背中には一筋の冷たい汗が流れた。

 ――このグリップの頼りなさはどうだ。タイヤが全然踏ん張ってくれない。マシンが嘘みたいに横に流れる。そのくせエンジンはF1以上だ。

 迅雷は現実のレースでF3のエンジンしか知らない。その迅雷にとって、ゲームとはいえF1と同等かそれ以上のエンジンは初体験だった。わけてもこのブルーブレイブの加速力は桁違いで、アクセルペダルをほんの僅かに踏み込んだだけで、信じられないくらい加速する。反面、ブレーキを踏めば急減速である。白か黒か、ゼロか無限か、そういう極端なマシンに乗っていることを、迅雷は今こそ肌身で感じて戦慄した。

「これは、このマシンは……」

「だから云ったじゃないですか」

 通信画面越しにつばさが嘲笑を送ってきた。

「オンライン・フォーミュラというゲームにおいてはですね、青いマシンは駄目なんですよ。青ければ青いほどじゃじゃ馬になる。大袈裟に云えば、人間がロケットエンジンを積んでいるマシンを御しきれるかっていう話です。まして初めてのマシンで初めてのコースを走るなんて、無理、無茶、無謀! こんなの最初からレースになんてなりません」

 そしてつばさがとどめを刺すように云う。

「この勝負は私の勝ちです」

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