第一話 バーチャルレーサー(4)

「遅い! いや、遅いです!」

 そうぷりぷり怒るつばさを宥めて、ことりと三人でエレヴェーターに乗り、二階で降りるとそこにはゲートが設けられていた。ちょうど駅の改札に似ている。見ればエスカレーターの前にも同じものがある。

 戸惑う迅雷に、つばさが傍から云った。

「一階と違って二階はオンライン・フォーミュラをプレイするための筐体、エントリーシートがありますからね。バーチャルレーサーしか出入り出来ないようになってるんですよ。パスはバーチャルライセンスです。それでタッチしてください」

「ああ」

 迅雷は手にしていたバーチャルライセンスを読み取り機に翳してゲートを通過した。

 一階と二階では、同じ建物とは思えない。一階の大部分がレーシングカフェであったのに対し、二階はどこかのホテルのようである。つまり廊下が縦横に伸びており、壁には扉が何枚もあるのだった。そして静かだ。人もほとんど歩いていない。

「こっちですよ」

 つばさが車椅子を操作して進んだ。ハンドルを握っていることりがそれに引っ張られるようにして歩く。迅雷は最後尾につけながら、扉のプレートの数字を見ていた。アラビア数字で『001』や『002』と云った部屋番号が割り振られている。つばさが車椅子を停めたのは、『011』のプレートが嵌った部屋の前だった。

「ことり」

 ことりは点頭すると、腰のポーチからパスケースを取り出してそれを扉の横の読み取り機に翳した。扉の鍵が開く音がした。

「もう解ったと思いますが、バーチャルライセンスは鍵の役割も持っているので、なくさないようにしてくださいね」

「ああ」

 迅雷はつばさにそう返事をしながら、つばさの前に立って扉を開けてやった。扉を押し開け、部屋のなかに入ってつばさたちが通り過ぎるのを待ってから扉を閉める。

 そうして改めて、部屋のなかを見回した。

 二基の巨大な白い筐体が、部屋の左右に、それぞれ縦向きに配置されていた。右側の筐体には『JA021』、左側の巨体には『JA022』の刻印がある。

「これが……」

「エントリーシート。ある意味では、オンライン・フォーミュラそのものですよ」

 そう云ってつばさはJA021の筐体に向かった。ことりは車椅子から離れて、自分たちの手回り品をロッカーに置いている。

「お兄さん、こっちに来て下さい。とっとと周回遅れにしてお兄さんにオンライン・フォーミュラのなんたるかを叩き込んであげたいのは山々ですが、初心者ですからね。面倒ですが、仕方ありません。これからコックピット・ドリルをしてあげます」

「ああ、頼む。助かるよ」

 迅雷はつばさに近づきながら、初めて見るエントリーシートをつくづくと眺めた。

 エントリーシートは全長二〇〇センチ、全高と全幅が一五〇センチと云ったところで、白い流線型をしており、車というより弾丸に見える。弾丸の尻の部分からは座席が外に飛び出しており、この飛び出した座席を含めれば全長は倍の四〇〇センチにもなるか。外殻の素材は強化樹脂かなにかであろう、ためしに触ってみるとひんやりとしていた。次に迅雷は、飛び出している座席のステアリングや黒い革張りのシートを隈無く見つめた。

 そこへつばさが解説を添える。

「この座席、前後に動くんですよ。ゲームをプレイするとき、座席に座ったドライバーは座席ごと筐体のなかに入っていくんです。ウイーン、って」

「……ちょっと楽しそうだな」

「はい。あの瞬間はいつもわくわくします」

 と、そこへことりがやってきた。彼女は人見知りするのか、迅雷を見ながらつばさに体を寄せて話しかけた。

「あの、お姉ちゃん。ヘルメット、なんだけど」

「ああ……」

 つばさはそう云いながら、奥の壁を指差した。

「あそこにレンタル用のヘルメットがあります。私とことりは自前のを持っていますが、お兄さんは持ってないでしょうから、好きなのを選んで下さい」

「前庭神経に信号を送るっていう、例のあれか」

「はい。専用ヘルメットを被ってプレイしないと、オンライン・フォーミュラの楽しみは半減しますからね。あとヘルメットと一緒にレーシンググローブも貸出用のものが置いてありますけど、どうします?」

「急なことだったから今日はグローブの用意がない。借りるとしよう」

 迅雷はそう云って壁に造り付けてある棚のところまで行った。赤、青、黄、緑のヘルメットがあり、それぞれ大きさが違うようだ。

 迅雷はいくつか試してみて、青いヘルメットを抱えて戻ってきた。グローブはひとまず尻のポケットに突っ込んでいる。

 ところでつばさたちのヘルメットは、それらしいものの入っている袋が車椅子のハンドルに引っかけてあった。

「このヘルメットって、いくらぐらいするんだ?」

 本格的にオンライン・フォーミュラをやるならヘルメットも自前で用意した方がいい。そう思っての問いだったが、つばさは唇を薄く伸ばして迅雷をわらった。

「五十万円くらいですかね」

「げっ!」

 愕然とした迅雷に、ことりが苦笑いしながら云い添える。

「耳のところの装置が高いんだよね」

「うちはお金持ちですから余裕ですが、お兄さんには買えないでしょう?」

「いや、買おうと思えば買えるが……」

 迅雷にはF3のレースで稼いだ賞金があるのだ。しかし五十万円は躊躇う額である。

「持っててくれ」

 迅雷はことりにヘルメットを渡すと、コックピットの踏板を踏み、縁を跨いで座席に入るやゆっくり腰を下ろした。

「ふうん」

 シートに座ると、ほとんど地べたに座っているのと変わらない高さだ。迅雷より、車椅子に座るつばさの目線の方が高いくらいである。シート自体は、硬すぎず軟らかすぎず、座り心地はなかなかよい。ペダルはアクセルとブレーキの二枚のみだ。内装は本格的で、余計なものはほとんどなかった。

「シンプルなコックピットでしょう。ステアリングを握ってみて下さい。このステアが、コックピットの中枢と云ってもいいです。ほとんどすべての操作をこのステアリングだけで行うんですよ」

「ああ、他にレバーとかないもんな」

 つばさにそう返事をしながら、迅雷はステアリングを両手で握った。

 レーシング仕様ステアリングは市販車のそれと違って円形をしていない。リングの上下は直線をしている。そして表面や、指の届く裏側に無数のスイッチやダイアルやレバーがあった。たとえば市販のMT車ではクラッチペダルやシフトレバーが、AT車にはセレクトレバーがあるのだが、レーシングマシンにはそれすらない。基本的にATで、ギアチェンジもステアリングから行うのだ。そしてそれはどうやら、このオンライン・フォーミュラでも同じらしい。

「クラッチレバーはこれか。リアルの方じゃ発進のときだけレバー操作でクラッチを繋がなくちゃいけないんだが、ゲームの方はどうだ?」

「クラッチを使うかどうかは設定変更で選べますよ。あれはちょっと難しいですからね」

「ふうん」

 そのように迅雷がステアリングを手慣れた様子で触っていると、つばさが面白くなさそうに云った。

「なんだか慣れていますね」

「基本的にはリアルと同じだからな」

 違うのは、ステアリングの中央にタッチパネルと思しき液晶画面があること、それから計器類インジケーターの類が一切見当たらないことだ。

「インジケーターは?」

「座席が筐体のなかに入ると、視界いっぱいを覆う高精細液晶ディスプレイがあります。計器類はそこにAR表示されるんですよ」

「なるほど、ゲームだな」

 迅雷はそう云うと、試しにステアリングを左に切ってみた。重くはなかったが、ステアは一二〇度ほどのところで動かなくなった。

「つばさ、これってタイヤがフルロックするのにどれくらいステアを切ればいい?」

「それはマシンごとに異なりますよ。調整が利くんです。ただステアリングは物理的に一回転しません。ロック・トゥ・ロックまで最大で二四〇度、これが仕様です」

「妥当なところだ」

 迅雷は笑ってステアリングから手を離し、ぱんと音を立てて両手を合わせた。

「よし、シート合わせをしよう。オンライン・フォーミュラじゃ、認識の上において、Gフォースが現実とまったく同じようにかかるんだろう?」

「それはフォーミュラ・クラスの話です。私たちはミドル・クラスですから、通常の五分の一しかかかりませんよ。とはいえ、シートと体のあいだに隙間があったらマシンの挙動を体で感じるのが遅くなりますからね。そうなるとコンマ一秒か二秒、タイムが落ちます」

 そしてそれは高次元の戦いになればなるほど勝敗を分かつ致命的なものとなるのだ。

 ところでつばさは、迅雷がミドル・クラスだと思っているらしい。だがそこのところをいちいち説明するのも面倒で、迅雷は口を緘し、真剣な顔をしてシート合わせにかかった。さらにはシートベルトもある。座席に身頃がついているジャケットを着込むような、大型のシートベルトだ。それを着けたり外したりをして、着脱の方法を覚えていく。そんな迅雷の姿を眺めているつばさが、迅雷の作業に一段落がついたところを見澄まして云った。

「見ていて思いましたが、やっぱり基本は理解しているんですね」

「まあな。解らないのは、このコックピットがそもそもどうやって動くのかってことだ」

 今のところ、迅雷は死んでいる機械をいじっただけである。エントリーシートとして、これはいったいどうやったら起動するのか。

「じゃあエントリーシートに火を入れましょうか。その前に、ことり」

 以心伝心、ことりが迅雷にヘルメットを差し出してきた。かぶれということなのだろう。

「サンキュ」

 迅雷はそう礼を述べ、青いフルフェイスのヘルメットをかぶって顎紐を締めた。それを見澄まして、つばさが云う。

「コックピットのそこにスロットがあるでしょう」

「どこだよ?」

 そこと云われても判らぬ迅雷である。つばさが指を差して教えようとしたが、車椅子の身では手が届かない。そんなつばさの苦慮に、妹のことりがすぐに気づいた。

「私がやるよ。イグニッション・スロットだよね」

「ああ、頼む」

 ことりは踏板に足をかけると、迅雷の上に覆い被さるようにしてコックピットのある一箇所を指差した。そこにカードを挿入できそうな細い隙間がある。

「これをイグニッション・スロットと云います。迅雷さん、ここにバーチャルライセンスを挿入してください。それでいわゆる、エンジンをかけた状態になります。バーチャルライセンスはマシンを動かすためのキーにもなるんですよ」

「ほう」

 迅雷はほのかに伝わってくることりの体温にちょっと気を散らされながらも、云われた通りにした。するとエントリーシートに火が入り、ステアリング中央の液晶画面に映像が浮かび上がった。

 ことりがその液晶画面を指差しながら云う。

「これがタッチパネルになっています。シートのエントリーとイジェクト、各種情報の確認、参加するレースの選択、使うマシンの選択、レースのルール設定やホストからの要請に関する返答などは、すべてここでします。オンライン・フォーミュラ用のレーシンググローブは指先にフリック入力可能な素材が使われてますから、グローブをしたままでも使えますよ。あ、今、シートとヘルメットの同期が成功しました」

 画面上にそれらしいサインが出たのを見ながら、迅雷は思わずことりに問うた。

「ルール設定? レースのルールをこちらで決められるのか?」

「はい。レースのルールを決めるのはレースの主催者ホストです。公式レースの主催者はもちろん運営側ですが、これから行われるような非公式プライベートレースの主催者は参加するドライバーの一人が務めることになっているんですよ。今回の場合はお姉ちゃんですね。迅雷さんが主催者を務めることも出来ますけど、初心者ですし、その辺りはお姉ちゃんに任せた方がいいでしょう?」

「そうだな、任せる」

 迅雷はことりにそう返事をしながらつばさを見た。つばさが後を引き取って云う。

「今日のところは、お兄さんは私からの要求に承認のボタンを押してくれるだけでいいですよ」

「ああ、その方が手っ取り早くていい」

結構よろしい

 微笑んだつばさの尾について、ことりがまた口を切った。

「ちなみにレースの主催者が決められることは色々あるんですけど、主なものはサーキットの選択、走行距離、フリーで参戦者を募る場合のDP条件の設定なんかですね。ただレース時間とシートの回転率との兼ね合いから、走行距離に関しては運営から制限がかかっています。迅雷さんも本格的にオンライン・フォーミュラを始めるなら、そのうち覚えていくといいですよ」

「おう、ありがとう」

 迅雷がそう礼を述べると、ことりは恥ずかしそうに顔をあからめ、踏板から飛び降りて胸をなで下ろした。

 そんなことりにつばさが微笑みを向ける。

「よくやったぞ、ことり。初対面の人と話せたな」

「えへへ」

 と、ことりは笑って胸を張った。

 そのことりがふたたび車椅子の後ろに回り、車椅子を後ろに引っ張った。筐体から距離を取ると、つばさが云った。

「さあ、それではお兄さん。エントリーしてみましょうか」

「了解」

 迅雷は気負った様子もなく、ステアリングの液晶画面を操作してエントリーボタンを押した。情緒もなにもないその行為に、つばさが「ああっ」と不満そうな声をあげたのも一瞬のこと、すぐに警告音が鳴り響き、合成音声がシートのエントリーを告げる。

「エントリーします。エントリーします。ご注意下さい――」

 駆動は滑らかだった。シートに座っている迅雷は振動一つ感じない。コックピット全体が、筐体の内部へと進んでいく。トンネルに入っていくような感覚に、迅雷はちょっとわくわくしてしまった。

 コックピットの前進が止まった。

 内部は明るかった。天井部分に黄色い間接照明が点いているからだ。また卵の殻を内側から見たようなかたちの一体型スクリーンが淡い青色の光りを放って、コックピットの内部を照らしているからでもある。

「こいつがゲーム画面、だろうな……」

 レースのときは、この画面にサーキットの光景が描かれるのであろう。今は中央にオンライン・フォーミュラと書かれた英語のロゴが浮かんでいるだけである。

「お兄さん」

 突然、左上に窓が開いてつばさの顔が現れた。ヘルメットにスピーカーが内蔵されているのか、声は思ったより近いところからした。

「うおっ!」

 突然のことに驚きの声をあげた迅雷を、つばさがわらう。

「なにを驚いているんですか。ピットから通信してるだけですよ」

「ピット?」

 迅雷は目を白黒させたが、画面をよく見ればつばさの後ろにことりがおり、さらにその後ろにはエントリーシートの白い筐体が見える。

「なるほど、つまりこの部屋にはブースがあって、そこにエントリーしたドライバーと通信するための装置があるわけか」

「そういうことです。チームを組んでいれば外から色々とアドバイスを貰えますよ。私にはことりがいますが、お兄さんは一人ですね」

「あとから先生が来てくれるさ。しかし先生、トイレ長いな……」

 サイモンは未だこの部屋に姿を見せない。あるいは迅雷たちがどこの部屋にいるのか判らず、迷っているのだろうか。

 そのとき、こほん、とつばさが自分にわざとらしい咳をした。

「まあとにかく、このようにドライバーの左側には通信用の窓が開いて、レース中であるなしを問わず、ピットのクルーや他のドライバーと対面通信が可能です」

「レース中に、他のドライバーと?」

「はい」

 つばさから肯定の返事を聞き、迅雷は目を丸くした。レースの最中、他のドライバーと話をするなど現実のレースではありえない。しかし、これはゲームなのだ。

「そういう仕様なんですよ。それから今度は右上を見て下さい」

 迅雷はつばさに云われた通りにしたが、そこにはなにも映っていない。

「これは重要なことなのできちんと聞いて下さいね。レース中、右上の位置には、状況に応じた旗のアイコンが点灯します。レーサーだというのでしたら、旗の意味はご存知ですよね?」

「ああ、フラッグのことだろ。コースになんらかのトラブルが生じた際に揚げられる、追い越し禁止のイエローフラッグ。コースが正常化したことを示すグリーンフラッグ。レースの中止を意味するレッドフラッグ。周回遅れなんかのときに、後方の車に進路を譲るよう指示されるブルーフラッグ。遅い車がいることを示すホワイトフラッグ。そしてゴールしたときに受けるチェッカーフラッグだ。……それがアイコンでドライバーに掲示されるのか」

「はい」

 つばさが一つ首肯うなずいた。

 掲示される旗の意味や種類はレースによって若干の違いが見られるが、迅雷が今挙げたものはほとんどのレースで共通している。また旗には静止掲示と振動掲示があり、後者の方がより緊急性が高い。オンライン・フォーミュラでもそうなのだろう。

「こいつは、あとでマニュアルを確認しておかないといけないな」

「そうですね。またフラッグ・ウインドウの上にはサーキットの全体図と自車および他車の現在位置がマーカーで表示され、正面上方にはラップタイムが右から左に流れます」

 それを聞いて迅雷は黒々とした眉を軽くひそめた。

「ちょっと目障りだな」

「そうですか?」

「ああ。いかにもレースのゲーム画面にありそうなもんだが……レースのときは、俺が今見ているこの青い画面にサーキットの光景が映し出されるんだろう?」

「はい。現実の光景となんら変わりなく」

 つばさの声には隠しきれない感動が込められていたが、迅雷はそれを躱して続けた。

「レース中にウインドウだのタイムだのがいちいち表示されたら気が散るし事故に繋がる」

「まあ表示はオンオフ出来ますから、お好みでどうぞ。私も各車のラップタイム情報なんかはいつもオフにしていますしね。通信は映像のみオフにして、音声のみにすることも可能です。ただし私とのレースにおいては、私とは常に対面で喋ってもらいますよ」

「なぜ?」

「その方が愉しいからに決まってるじゃないですか。周回遅れにされたお兄さんの悔しそうな顔を是非見たいですからね。ふふふふふっ」

 つばさが本当に愉しそうに笑うので、迅雷は怒る気にもなれなかった。ことりの苦笑いが通信画面から見切れている。

 やがて声と表情を真面目なものに戻したつばさが、画面越しに迅雷を見つめて云う。

「それじゃあ、これが最後のドリルです。マシンの選択について」

「おう。さっきことりに聞いたけど、この画面でやるんだろ?」

 迅雷はステアリングのタッチパネルを手探りで操作し、見事にマシンの選択画面を引き当てて見せた。

 目の前の青いスクリーンに、八台のマシンの映像が浮かび上がる。どれも現実離れした、SF映画に出て来そうな車だ。共通しているのは、タイヤが四つあること、コックピットが露出していないことの二つであろうか。

「今、お兄さんが見ているのは公式マシンですね。運営が用意したそこそこ無難なマシンです。でもお兄さんはあのサイモンという人が用意したマシンで走るんですよね? でしたら、次のページに九台目のマシンが追加されているはずですよ」

 今、画面に表示されているのは一ページ目というわけだ。迅雷はステアリングのタッチパネルからページ表示を切り替えた。目に飛び込んできたのは鮮やかなブルー、まさしく青そのものから作りだしたような、流麗なフォルムの、美しいマシンだ。英語でブルーブレイブと云う名前がついていることからして、間違いない。

「これがブルーブレイブ、綺麗なマシンだ」

 ――先生も、結構センスがあるじゃないか。

 迅雷が心にそう付け加えると、向こうの画面からも迅雷のマシンを確認できるのか、つばさが唇に指をあてて云った。

「青、か。しかし青い。青すぎる……」

「こんなに青いマシン、私、初めて見たよ。これだけ青いと、完全にストレート特化型だよね」

 ことりのその言葉に、迅雷はため息をつきたくなった。

「やれやれ、また知らない単語が出てきたぞ。なんだその、ストレート特化型って?」

「DP――ドライバーズ・ポイントを使った、ゲーム特有のチューニングです」

 と、言下に答えて語り始めたのはつばさである。

「オンライン・フォーミュラのマシンには、それぞれ得意分野があるんですよ。ストレートに強いとか、コーナーに強いとか。で、それはボディの色でだいたい判別できます。青系統はストレート、赤系統はコーナー、黄系統はバイタリティ、緑系統はトルク、それ以外はオールラウンダー。この色を決めるのがDPを使ったチューニングです」

「つまり稼いだポイントでマシンを強化できるってわけか」

「はい。使いすぎたらスターティング・グリッドに影響するので考えて使わないといけないのですが、ともかくOFにはストレート、コーナー、トルク、バイタリティの四大ステータスがあり、どこにどれだけポイントを振るかはデザイナーが任意で決められます」

 そこで息をついたつばさに代わって、ことりがカメラを覗き込みながら話し始めた。

「このときのチューニングによって、ボディの色が変わってくるんですよ。バランスのいいチューニングにすると、だいたい白っぽくなります。これが『バランス型』ですね。逆にどこかの要素に一点集中してポイントを振るとマシンは『特化型』になり、特化した分だけボディの色が純色に近づくんですよ。少し振っただけだと薄い色なんですけど、集中して振るほど色が濃くなっていって、ストレートなら青、コーナーなら赤って具合に……」

「俺のマシン、物凄く青いんだけど」

 迅雷のその言葉に、姉妹は揃って黙り込み、顔を見合わせた。それからつばさが顔を前に戻して気の毒そうに云う。

「お兄さん。これだけ青いってことはですね、あのサイモンという人、ちょっと尋常でない量のポイントをストレートに全振りしたんじゃないかと思うんですよ。ということはこのマシン、ストレートでは圧倒的に速いはずですが、しかし……」

「青いマシンって乗りにくいんだよね。ピーキーすぎてバランスが悪いから」

「うむ。下手な奴ほど青に乗ってクラッシュする。白か赤を選ぶのがオンライン・フォーミュラのセオリーだ」

 そう云ったつばさが、画面越しに迅雷を見つめてにたーっと笑った。

「お兄さん。そんなマシンで本当に大丈夫ですか?」

 さすがの迅雷も返答に詰まった。ストレートで伸びるのは良いのだが、今の話を聞く限り、これは極めて扱いづらいじゃじゃ馬である可能性が高い。しかし。

「はっはっは! 大丈夫だ、ボーイならば問題はない!」

 突然のその声に、通信画面のなかでつばさとことりが弾かれたように振り返った。どうやらサイモンがやってきたらしい。

 つばさが顔を前に戻して云う。

「お兄さんの先生が来ましたよ。一度、外に出て来て下さい」

「了解だ」

 迅雷はステアリングの液晶画面にあるイジェクト・ボタンに触れた。警告音と合成音声とともに、コックピットがゆっくりと後ろへ動き出す。座席が筐体から排出される。

 照明の光りが差してきたとき、迅雷を待ち受けていたのは腕組みしていたサイモンであった。つばさとことりは少し離れたところにいる。

 座席が停止し、うるさい警告音が鳴りむや、ヘルメットを脱いだ迅雷は、それを膝の上に抱きながら口を切っていた。

「先生。先生にもらったマシンのことですが」

「うむ、どうやらすべて説明を受けたようだな。どうだ、あのマシンは青かったろう。あれこそは私の血と汗と涙の結晶、ブルーブレイブだ!」

「綺麗な青色ですよね」

 迅雷はそう云うとサイモンを見上げた。尋ねたいことは色々あったが、サイモンは胸の高さに握り拳を掲げて熱く語っている。

「たしかにストレート特化型は扱い難いマシンだ。だがボーイほどの技倆があれば必ずや乗りこなせるに違いない。私はそう確信して、持てるDPのすべてをストレートに注ぎ込み、そのマシンを完成させた!」

 迅雷は目を丸くした。

「ポイントを、全部?」

「全部だ!」

 そう大喝を落とすようにして云ったサイモンを、迅雷は信じられぬように見た。まだオンライン・フォーミュラに触ったばかりの迅雷としては、DPの一ポイントにどれほどの重みがあるのか、わからない。しかしサイモンの豪気さだけは伝わってきた。

 さらにこのとき、傍からつばさが唖然として嘴を入れてきた。

「全部って……正気ですか。DP一ポイントを稼ぐのがどれだけ大変か。それに参加可能なレースの選択は今までの累計DPで決まりますが、レース開始時のスターティング・グリッドは現有DP順になります。DPゼロなら、あなたこれから最下位発進ですよ」

「そんなことは問題ではない。せっかくボーイがオンライン・フォーミュラを始めようというのだ。これは私からの餞別だ。それにボーイには寄り道をしている時間はない。ボーイはF1レーサーになる男だからな。いきなり最速のマシンをくれてやった。あとはボーイの腕次第だ」

 この言葉は迅雷の胸を打った。なんという信頼、なんという友情、なんという男気。迅雷がサイモンを先生と仰ぐのは、ただ英語を教えてもらっているからではない。

 と、つばさが理解できないというように呻く。

「しかし、どうせすべてのDPを注ぎ込むならバランス良く振って白いマシンにすればよかったのに……」

 そんなつばさを鼻でわらって、サイモンはチッチッと右手の人差し指を振った。

「ガール、それは常識というものだ。だがボーイは常識を打ち破る非常識な男。なにも問題はない。そうだろう、ボーイ?」

「もちろんです」

 迅雷はサイモンの意気に応えてそう断言していた。ここで臆病風に吹かれるような男は、男ではない。

「それでこそボーイだ」

 サイモンは莞爾と笑う。

 そしてそんな男二人を、つばさはうんざりしたように、ことりは仕方のなさそうに微笑んで、それぞれ見ているのだった。

 やがてつばさは前髪を掻き上げると云った。

「ま、いいですよ。本当にそんなピーキーなマシンで私に勝てると思っているのなら、好きにすればいいんです。レースの結果はすぐに出ますからね」

 そこで言葉を切ったつばさが、車椅子を操作して迅雷に近づいてきたかと思うと、暗く淀んだ恨みがましい微笑を浮かべる。

「初心者ということで色々教えてあげましたが、お兄さんが私に喧嘩を売ったことは忘れていません。きっちり周回遅れにしてあげますからね」

「やれるものならやってみろ」

 迅雷はそう啖呵を切って不敵に笑った。実際のところブルーブレイブでどれほど走れるのかはやってみないと判らないのだが、云うだけならただである。

「ふん」

 つばさは面白くもなさそうに電動車椅子のスティックを操作し、その場で反転して、迅雷の使っている筐体とは反対の、『JA022』番のエントリーシートに体を向けた。

 車椅子が移動するかと思ったそのとき、つばさはなにか気になることでもあったのか、サイモンを訝しそうに見た。

「しかしあなたはいったい何者ですか。ストレートに全振りしたところで、ちっとやそっとのポイントではあんなに青くならない。あれだけ青いマシンをデザインするには、相当量のDPが必要なはず……」

「私かね? 私はボーイのイングリッシュ・ティーチャーだよ」 

 サイモンはそう云って呵々とわらい、ついにつばさの質問に答えようとはしなかった。

「まあいいです。それじゃあ、エントリーしますからちょっと待ってて下さい」

 つばさはそう云うとJA022のエントリーシートのところまで車椅子を寄せた。そこへことりがするすると寄っていき、姉に手を仮した。座席は非常に低い位置にあるが、車椅子の身であるから、乗り込むのは一苦労であるらしい。

 迅雷は見ていられなくて、ヘルメットをサイモンに投げるや素早くシートベルトを外して座席から飛び出し、つばさたちに近づいていった。

「手伝おう」

 するとつばさが目に角を立てて迅雷を睨んできた。

「余計なことはしなくていいです」

「おまえじゃない。ことりに云ってるんだ」

 迅雷がそう返すと、つばさはちょっと鼻白んだようだった。ことりはびっくりしたように姉を手伝う手を止め、迅雷を仰ぎ見てくる。

 迅雷はにやりと笑うと、つばさの華奢で骨張った肩を掴んで引き寄せ、次の瞬間にその体を軽々と抱き上げていた。

「うわっ、すごい!」

 ことりが歓声をあげる。つばさは突然のことにほとんど思考停止しているかのようだ。つばさをいわゆるお姫様抱っこにした迅雷は、つばさの顔を覗き込んで尋ねた。

「軽いな、おまえ。体重何キロ?」

「なっ……!」

 目の醒めたような顔をしたつばさが、たちまち顔を真っ赧にする。

「は、離せ!」

「すぐそうしてやるから、ちょっと待ってろ」

 迅雷はそう云いながらコックピットを回り込んだ。そうしないと、体の向きとシートの向きが合わなかったのだ。やがてシートの上につばさを優しく下ろしてやった迅雷は、つばさを見下ろしてわらった。

「痛くなかったか?」

「あ……う……」

 つばさは赧然となって口も利けない様子だった。言動がいちいち剣呑なこの娘にも可愛いところがある。迅雷はそう思って気分良く笑いながら、つばさの傍から離れた。

「それじゃあレースの準備をしてくれよ」

 そう云って迅雷は自分のエントリーシートに足を向ける。背後でことりが、なにか感激したように甲高い声ではしゃいでいた。

「さすが男の人だね、力あるね。ねえ、お姉ちゃん」

「うるさい、黙れことり」

 つばさは胸を押さえながら瞑目して、なにか必死に心を落ち着けようとしているかのようだった。

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