第一話 バーチャルレーサー(3)
「こんにちは、片山さん」
ハンドルを握っている小柄な少女がそう明るく挨拶をした。一方、車椅子に座っている方は迅雷を不躾なくらいにじっと見ている。
迅雷が見つめ返すと、車椅子の少女は居住まいを正した。背筋がしゃんと伸びると、少女からはたちまち高嶺の花ような気品が湧き出してきた。
本当なら、片山に紹介されるのを待つべきだったのかもしれない。しかしこのときの迅雷は自ら口を切っていた。
「……君は?」
すると車椅子の少女が、いかにも気位の高そうな声で答えた。
「私は二条つばさ。こっちは妹のことりだ」
「ど、どうも」
人見知りをするのか、ことりは目を伏せたまま迅雷に向かって頭を下げた。迅雷が相槌を打ってつばさに視線を戻すと、そこを捉えてつばさが云った。
「今度はそっちの番だ。名乗れ」
「疾風迅雷」
迅雷が胸を張ってそう高らかに名乗りをあげると、つばさは眉をひそめて小首を傾げた。
「私は名前を
「だから、そういう名前なんだって。姓が疾風で名前が迅雷」
揺るぎない声でそう云われてもつばさはしばらく迅雷を胡乱げに見ていたが、迅雷の瞳の光りまでもが揺るがぬのを見て、ようやく信じる気になったらしい。
「……かなり変わってるな」
「ほっとけ」
迅雷はそう云ってから、改めて姉妹を見た。
つばさは艶やかな黒髪を背中まで伸ばした美少女だ。車椅子に座っているから背の高さははっきりしないが、恐らく一六〇センチもないだろう。柳眉の下の目は切れ長で、瞳は黒く、唇はやや薄い。それがとにかくよく整っている。肌は透けるような白皙をしており、骨細で痩せていた。乳房のふくらみもさほどではない。白魚のような手はいかにも冷たそうだ。そんな美少女が、白いワンピースの上にピンクのカーディガンを羽織っており、白い靴を履いて車椅子に座っている。
車椅子は、銀色の骨組みをしたよくある車椅子ではなかった。電動のしっかりし過ぎている造りで、高級な革張りのソファに車輪がついているようにも見える。
そんな車椅子のハンドルを握っていることりはと云えば、腰まである黒髪を首の後ろで結んで背中に垂らした美少女だ。背丈はせいぜい一五五センチ、姉妹だけあってつばさとは顔立ちがよく似ている。服装は白いシャツの上に若草色のカーディガンを羽織っており、ピンクの長ズボン、白いスニーカーという装いだった。
そんな二人の姉妹に、椅子から立ち上がって腕組みをしたサイモンが胸を張って云う。
「私はサイモン・マンセルだ」
日本語だった。ちょっと驚いたように目を丸くする二人に、迅雷が傍から補足をする。
「この人は俺の英語の先生。日本語も上手い。本業はこのオンライン・フォーミュラの運営に関わっているらしいが、詳しいことは俺もよく知らない」
「なに、ちょっと出入りをしているだけの者だよ」
そう云って呵々と笑うサイモンを、どう捉えたものか迷っている様子のつばさたちに、このとき片山が優しく声をかけた。
「えー、ちなみに迅雷君は十七歳の高二。つばさちゃんは十四歳、ことりちゃんは十三歳で二人とも中学生です」
「歳上か」
つばさが迅雷を見てそう呟き、一人でなにかの決定を下したのか、一つ頷いた。
「わかった。ならば年長者に対する当然の礼儀として、これからは丁寧語で接することにしよう。いや、しましょう――お兄さん」
つばさは唇を薄く伸ばして
それを見て迅雷は思う。
「なんか偉そうだな」
「すみません。うちのお姉ちゃん、こういう性格なんです」
ことりが苦笑いしながら取りなすように云うと、つばさが首を巡らしてことりを肩越しに睨みつけた。片山がカウンターに頬杖をつきながら、笑いを含んだ声で云う。
「お金持ちのお嬢様だからねえ。お姫様育ちなのよん」
なるほど、いかにもらしい。しかしことりはともかく、つばさは車椅子の身でレースが出来るのだろうか。迅雷はそう思いながら、つばさの足元に視線をあてた。車椅子の
――君は本当にバーチャルレーサーなのか?
口には出せなかったその問いに応えるようにして、つばさは右脚を前へ蹴り出してみせた。迅雷は目を剥いた。
「動いた!」
「当たり前じゃないですか。立ち上がることは出来なくとも、動かすことは出来るんです。そうでなくてはペダルワークもままならない」
「そうか……」
ペダルが踏めて立ち上がることが出来ないというのも訝しかったが、そういう人もいるのだろう。迅雷はそう思うことにすると視線を上げた。
そのとき、つばさがこほんと咳払いをして片山を見た。
「それで片山さん、私たちになんの用ですか。といっても、まあだいたい察しはつきますが……」
つばさはそう云いながら視線を横にずらして迅雷にあてた。それが答えだと云わんばかりの目だ。ふふっ、と嬉しそうに片山が笑う。
「話が早くて助かるわ。迅雷君は今日が初めてのオンライン・フォーミュラなんだけどね、シートの予約をしてなかったの。だから一緒に走ってあげてほしいのよ」
「お断りします」
けんもほろろであった。片山がたちまち悲しそうな顔をする。
「えええっ、どうして? シートの予約は取ってあるんでしょう?」
「はい、ことりと走るつもりで。でもだからって、どうして私が今日会ったばかりのよく知らないお兄さんに付き合ってあげなくちゃいけないんですか。厭ですよ。だいたい初心者なら初心者らしく、初心者向けのレースに参加すればいいんです。私はベテランです。私と走りたいなら、勝ちを重ねてそれなりのDPを貯めてからですよ」
「そうだけど、ちょっとくらい……」
そのままつばさと片山が睨み合いに入ったのを見て、迅雷が傍から云った。
「いいですよ、片山さん」
「えっ、そう?」
「はい、俺がこの子たちにシートを譲ってもらう義理はないですからね。断られたら引き下がるしかないでしょう。食い下がったら迷惑です」
「あらら」
どこか拍子抜けした様子の片山が、カウンターに乳房を乗せるようにして、迅雷を物足りなさそうな目で見つめてくる。
「本当にいいの? バーチャルレーサーとしては駆け出しの君がつばさちゃんくらい速い子とセッションを組める可能性もそうそうないわよ。DP――ドライバーズ・ポイントの壁があるから」
「そんなのすぐに貯まりますよ」
迅雷が強気にそう云い切ると、つばさが
「ずいぶん自信があるんですね、お兄さん。云っておきますけど、オンライン・フォーミュラはそんなに甘いものじゃありませんよ」
「ご忠告どうも。だがこいつが現実とまったく同じ走行感覚を与えてくれるゲームだっていう触れ込みが本当なら、俺は速いさ」
自信たっぷりにそう断言する迅雷の隣で、サイモンもまた腕組みしたまま頷いている。
「まったく、その通り。ボーイは大きな才能の持ち主だ。このボーイがオンライン・フォーミュラを続けていけば、いずれレッド・ファイターを超える存在となるだろう」
「レッド・ファイター!」
つばさは一声叫ぶと、サイモンを信じられないように見た。
「それはまた大きく出たものですね。よりによってレッド・ファイターとは」
つばさの言葉には嘲弄が滲んでおり、ことりもまた困ったように眉根を寄せていた。ただ迅雷だけがその初めて聞く名前に目を白黒させている。
「レッド・ファイターって?」
迅雷がそう問うと、つばさはさも馬鹿にしたように云った。
「オンライン・フォーミュラの最高峰、フォーミュラ・クラスの三年連続総合チャンピオンですよ。その正体は誰も知りません。オンライン・フォーミュラは原則ドライバーネームでの参加で、素顔や本名は公開されませんからね。性別が男性であるということ以外、すべてが謎です。でも彼は間違いなく、世界最速のバーチャルレーサーですよ」
「へえ、オンライン・フォーミュラ世界のレジェンドってわけか」
迅雷は素直に感心して眉を開いた。
レッド・ファイター。
どこの誰だか知らないが、いずれは挑んでみたい相手である。迅雷がそう思っていると、つばさが迅雷に尖った視線をあててきた。
「云っておきますけど、お兄さんがレッド・ファイターに挑戦しようなんて十年早いですからね」
その決めつけたような言葉の奥に、迅雷は頑固なものを感じた。
「尊敬しているのか?」
「とても」
「そうか。だがそいつがどんなに速くても、挑戦するまでに十年かかるなんてことはないだろう。ゲームの世界のチャンピオンなんて、俺なら一年で抜いてやる」
「な――!」
迅雷の言葉は、つばさの耳には暴言に聞こえたのかもしれなかった。彼女は車椅子の肘掛けの頭を両手で鷲掴みにし、はち切れそうな怒りを
「本当に自信家なんですね。オンライン・フォーミュラをやったこともない、初心者のくせに」
「それだ。初心者初心者って云うけど、現実の方でレース経験はある。俺がおまえくらいの年齢には、とっくにカートに乗っていた」
「カート?」
そう鸚鵡返しに尋ねてきたつばさの迅雷を見る目は瞠若として、いっそ異世界の人間を見るかのようである。
「お兄さん、カートって……」
「知らないのか」
迅雷はつばさの目つきや口ぶりから、彼女がそれをまったく知らないのだということを素早く見抜くことが出来た。無知を
そこへことりが苦笑いしながら云った。
「私、カートって云われても遊園地にあるゴーカートしか思い浮かばないよ」
「黙れ、ことり。余計なことは云うな」
つばさはそう妹に釘を刺すと、迅雷を悔しそうに睨みつけてきた。
「詳しいことは知りませんが、私もレーサーの端くれですから、そういう名前の小さい車があることは聞いています」
そこで言葉を切ったつばさは、車椅子の背もたれに体を預け、少し余裕を取り戻したようである。
「でもこれでお兄さんがそんなに自信たっぷりな理由がわかりました。現実の方でレース経験があるから、オンライン・フォーミュラでも速いと思っているんですね」
「ああ、そうだ。初心者だけど、俺は絶対に速い」
「私よりも?」
「おまえよりもだ」
その大断言に、つばさは右掌で自分の膝を打った。
「上等! その喧嘩、買いました!」
「お、お姉ちゃん?」
突然の姉の暴発に、ことりは驚愕を通り越して恐怖さえ覚えたようだった。しかしつばさはそんな妹を一顧だにせず、車椅子から身を乗り出さんばかりにして迅雷を睨みつけ、右手の人差し指を勢いよく迅雷に突きつけて云う。
「リアルレーサーだかなんだか知りませんが、オンライン・フォーミュラを完全に上から目線で見下ろすその暴言、その態度、私は心底頭に来ました! いいですよ、ことりと走るつもりで予約したシートの一つ、お兄さんに譲ってあげましょう! 勝負です!」
「ようし、いいだろう!」
挑発したつもりはなかったが、戦いとあっては胸が熱くなってきた。
「その勝負、受けて立つ!」
「お姉ちゃん、そういうのやめようよ……」
ことりの声は懇願の響きさえ帯びていたが、つばさは勢いよくかぶりを振ると、迅雷を悔しそうに睨みつけた。
「黙れ、ことり。これはバーチャルレーサーとリアルレーサーの
「おう、よくわかったな」
迅雷は、遠慮を捨ててそうぶった切った。尋常であればオブラートに包んでも良かったのだが、迅雷の方でも闘争心に火が着いていて、今さら言葉が止められない。
「悪いんだけど子供のころからずっとレースをやってきた俺に云わせれば、バーチャル・レーシングゲームなんて遊びにしか思えないんだよ。違うって云うなら、おまえがその走りで俺に証明してみせろ」
「この……!」
このときのつばさの顔と云ったら、表情が強張って罅割れでも起こしそうなほどだった。車椅子でなかったら、癇癪を起こして地団駄を踏んでいたかもしれない。
「お兄さん、周回遅れにしてあげますよ」
「やれるものなら、やってみろ」
ここに至って、車椅子のハンドルを握っていることりは、もはや戦いが避けられないことを悟ってか、ふっと気が遠くなったかのように後ろへよろめいた。
そんな迅雷たちを後ろから見ていたサイモンが、片山に顔を寄せて嬉しそうに云う。
「な、ボーイはアグレッシブ・ファイヤーだろ?」
「そうね」
一つ頷いた片山は、頬杖をついて迅雷の後ろ姿を惚れ惚れと眺めた。
「強気な人って好きよ。でも口だけの男は嫌い。ちゃんと結果も伴うんなら、とてもかっこいいんだけど」
「ボーイならきっと大丈夫だ。今日は私のとっておきもくれてやることだしな」
「えっ?」
と、目を丸くした片山を尻目に、サイモンは一歩前に出ると胸の前で腕組みをした。そして。
「はっはっは!」
突然の呵々大笑に、睨み合っていた迅雷もつばさも拍子抜けした様子で、高らかに
「ガール、どうやら私は君に感謝しなくてはならないようだ。だが敢えて云おう、今日のレース、ガールに勝ち目はない! なぜならばボーイには、私がデザインしたニューマシンを与えるからだ!」
サイモンはそう云って、どこからか取り出した一枚のカードを高々と掲げて見せた。
「それは……」
「私のバーチャルライセンスだ」
「でもニューマシンって……そうだよ、そういえば、オンライン・フォーミュラで俺はどんなマシンに乗るのか聞いてなかった」
「それを今から説明しよう!」
サイモンは大きな声でそう云うと、得々と語り始めた。
「オンライン・フォーミュラでは百種類以上あるシャシーのなかから気に入ったものを一つ選び、それに名前をつけて自分だけのマシンとするのだ! そしてそのマシンはドライバーの手で成長させることが出来る!」
「マシンを、成長させる……?」
そう鸚鵡返しに繰り返した迅雷に、今度は傍からつばさが云う。
「DP……レースに勝って獲得したドライバーズ・ポイントを振るんですよ。それによってマシンの性能を高めることが出来るんです。こうしてデザインしたマシンのデータは、今その人が手にしているカード、つまりバーチャルライセンスに収められています」
つばさの言葉に大いに
「そうなのだ! 今からボーイのバーチャルライセンスにマシンのデータを移そう。ジェニファー、頼む。マシンの名前はブルーブレイブだ!」
そう云って、サイモンはジェニファーこと片山に自分のバーチャルライセンスを渡した。迅雷もまた財布からライセンスを取り出して片山に渡す。
「データの移行は簡単よ。すぐに終わるわ」
そう云って片山は受付の奥に消え、ものの二分で出てくるとサイモンに二枚のバーチャルライセンスを渡した。
「ミスター・サイモン、あなたから迅雷君に渡して」
「はっはっは!」
そう快闊に笑ったサイモンが、迅雷の前にやってきて、嬉しそうにバーチャルライセンスを差し出してくる。
「ボーイ、今日という日を記念して、このスペシャル・マシンをボーイに与えよう」
「ありがとうございます」
迅雷はそう云って自分のバーチャルライセンスを受け取った。だがリアルでずっとレースをしてきた迅雷は、子供のように素直には喜ばない。レーサーは誰でも、自分の乗るマシンがどういうマシンかは絶対に気にする生き物なのだ。
「ちなみに先生、このマシン、どういうマシンなんです? 出来は本当に大丈夫なんですか?」
「はっはっは! もちろんだ! なんといっても、私の設計したマシンだからな!」
輝くばかりの笑顔でそう大断言したサイモンが、つばさをどこか憐れむような目で見下ろした。
「というわけだ、ガール。ボーイはただでさえ天才! 加えて今のボーイには、私のデザインしたニューマシンがある! 今のボーイは鬼に金棒、アーサー王にエクスカリバー、つまりガールに勝ち目はない!」
「レースはやってみないと判りませんよ」
皮肉な笑みを浮かべてそう云ったつばさは、笑みをそのままに迅雷を振り仰いだ。
「さて、それじゃあ行きましょうか、お兄さん。私の予約した部屋は二階の十一番ルームです。場所はわからないでしょうから、一緒に行ってあげますよ」
「ああ。ありがとう、つばさ」
するとつばさは柳眉をきつくひそめた。
「気易く名前で呼ばないでほしいですね」
「別にいいだろ。二条さんと呼んだらおまえとことりのどっちを呼んだか判らないじゃないか」
「
「ライトニング・バロン」
「バロン……」
つばさはその名前を反芻すると、目色を変えて微笑んだ。
「
つばさが電動車椅子のスティックを操作すると、車椅子の小さな前輪が向きを決め、大きな後輪が動き始める。車椅子のハンドルを握っていたことりが、車椅子を押すというよりは車椅子に引っ張られるようにして歩き始めながら、慌てて迅雷を振り返った。
「つ、ついてきて下さい」
ことりはそう云って前を向くと、車椅子に従って人混みに紛れていった。どうやら二人はエレヴェーターのところまで行くらしい。
迅雷がバーチャルライセンスを手にそのあとを追いかけようとしたとき、サイモンが満面の笑みを浮かべて右手の親指を立ててきた。
「グッドラック、ボーイ」
迅雷ははいと返事をしかけて、しかし目を軽く見開いた。
「先生は来ないんですか?」
「あとで顔を出すが、その前に私はちょっとトイレだ」
その尾について片山がカウンターの向こうから気楽そうに声をかけてくる。
「がんばってね。コックピット・ドリルは、つばさちゃんかことりちゃんに頼みなさい。それくらいはやってくれるでしょ」
「わかりました」
迅雷が頷くと、片山は自分で自分の両肘を抱えて、なにか考え込むような顔をした。答えはすぐに出たらしい。
「よし、決めた」
片山はそう一人呟いて立ち上がると、迅雷に向かって片目を瞑った。
「このレースにちょっと興味が出て来ちゃったから、着替えてくるわ」
その言葉の意味がわからず、瞠然とする迅雷をよそに、サイモンは目と口を丸くした。
「ほう、ジェニファー。久しぶりに本業に戻るのか。これは楽しみだ」
「ミスター・サイモン、別にあなたのためじゃないわよ」
サイモンにはそう冷たく釘を刺した片山が、迅雷には華やかな笑顔を向けてくる。
「ふふっ、それじゃあ迅雷君、またあとでね。バーイ」
片山はそう云うや同僚の受付嬢と二言三言話し、受付台を離れて大きなお尻を振りながらバックヤードへ消えていった。
あとには謎だけが残り、迅雷がそれをサイモンに尋ねようとしたところで、癇を立てたらしいつばさの声がここまで聞こえてきた。
「お兄さん、早く、早く!」
「わかった、今行く」
片山がなにをするつもりなのか、それはあとで判ることである。
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