第六話 羽ばたく者たち 第二幕 ハート・セットオン・ファイア(1)

  第六話 羽ばたく者たち 第二幕 ハート・セットオン・ファイア


 明けて水曜日、時刻は昼の十一時半を回ったところである。

 迅雷たち四人は秋葉原のレーシングセンターからバーチャルサーキットにログインし、TSR決勝を直前にしたフリー走行のまっただなかであった。スケジュールは昨日の予選のときと同じで、フリー走行は十一時十五分から十二時まで、四十五分間に亘って行われる。合計十二チーム、総勢三十六名のバーチャルレーサーが入れ替わり立ち替わり、仮想の鈴鹿サーキットで最終調整をしているのだ。

 ことりもまた走っていた。それを迅雷がピットから監督している。彼女はスプーンカーブを回ってバックストレートに入っていくところだ。この先に例の一三〇Rがある。

 そのタイミングで迅雷が云った。

「おまえもOFを走って長いんだから、フォーミュラカーはダウンフォースで曲がるってことを体で理解してるだろう」

「はい」

「たとえば第一コーナーをノーブレーキで回れるのも、ダウンフォースが効いてるからだ。つまりスピードを落とせば当然回れるし、スピードを上げてもダウンフォースで曲がれてしまうのがフォーミュラカーってやつだ。だからこの先の一三〇Rも、上手くやれば全開でいける」

「でも……」

 と、ことりが気弱そうに云ったのは、単純に怖いからだ。オンライン・フォーミュラはゲームだが、ここまで肌感覚がリアルだと現実と変わらない。迅雷だってレースに夢中になっているとき、これがゲームだということを忘れていることがある。

 それに一三〇Rはそもそも難しいコーナーで、全開で行くには独特のコツを掴む必要があった。かつての鈴鹿育ちのレーサーたちは、ホームゆえにそのコツを掴んでおり、一三〇Rにおいてだけは世界のF1ドライバーを凌駕したらしい。例外はシューマッハのような天才だけで、彼はアウェーのはずの鈴鹿サーキットを完璧に掴んでいたと云う。

「どうも、ラインが上手く掴めなくて……迅雷さんなんかは全開で行ってて、私も走行ログを見てそのラインをトレースしているつもりなんですけど……」

「まあ、マシンスペックも違うし、一概に参考にはできへんわ」

 と、迅雷の隣でつばさの相手をしていた翔子が、そう嘴を入れてきた。

 うん、と相槌を打ちかけた迅雷に、ひらめきがあったのはこのときだ。

「いっそクラッシュしてみるか」

「え?」

 通信画面のなかでことりは目を丸くしたが、自分のアイディアに浮き立った迅雷は、ことりと平行してフリー走行をしているつばさにも聞かせながら云う。

「フリー走行中はクラッシュしても無条件で復帰できるんだろう? だったらことり、つばさ、クラッシュしてもコースオフしても構わない、おまえら一度全開で一三〇Rに突っ込んでこい」

「ええっ、そんなことしたら……」

 と、ことりは感情的な声で云ったが、迅雷はすぐさまやり込めにかかった。

「なにか問題でも?」

「……ないです」

 そう、ない。フリー走行とは練習走行、練習走行中は走りながらのセッティング変更だろうがクラッシュしてマシンが大破してからの即時復帰だろうが、なんでもありと云うのがオンライン・フォーミュラだった。

「一度クラッシュしておけば、限界を知ることができる。限界を知っておけば、次からはどこまで攻めていいのかわかるはずだ。そうすると次は失敗しない。これはリアルじゃ絶対できない、ゲームならではの利点だ」

 こんな簡単なことに今まで気づかなかった迅雷は、まだリアルに囚われていた自分を自嘲しながら苦笑して云った。

「俺もあとからやってみる。おまえらもやってこい」

「う……」

 と、ことりが唸る。厭なのだろうが、反駁するべき点が見つからないのでなにも云えないといったところだろう。そんなことりに、つばさがふっと笑って云った。

「ことり。実際、お兄さんの提案は正解だ。やってみる価値はあるさ」

「う、うん。そうだね……」

 ことりはちょっと驚いたらしいが、迅雷もまた驚いた。

 つばさはもしかしたらやる気がないのかもしれないと思っていたが、こういうところでは迅雷の側に立ってきちんとことりを説得してくれる。

「やってみるよ」

 つばさの言葉が嬉しかったのだろうか、前向きになったらしいことりは、バックストレートのあと、一三〇Rに突っ込んで迅雷の期待通り見事なクラッシュをしてくれた。


        ◇


 十二時四十五分、迅雷たちはフリー走行もそのあとの休憩時間も終えて本番前最後のミーティングに臨んでいた。

 ピットブースの椅子に翔子が脚を組んで座り、その前に迅雷とつばさとことりが集まっている。

 翔子が迅雷たち三人を見て話し始めた。

「さて、昨日のうちに第七ブロックを始め、気になるブロックのレースは全部見た。それ以外のブロックもハイライトで確認した。で、昨日も云うたけど、ナイト・ファルコン、ほんまに速かったな」

 そう、昨日はレースのあとでいつもの喫茶店に行き、つばさのタブレットを壁際に立てかけて第七ブロックのレースを始めから終わりまで観戦したのだが、真玖郎はやはり速かった。真玖郎だけでなく、めぐるや千早も大したもので、バトンタッチも完璧だったし、とにかくチーム・ストームヴィーナスは手強い相手である。

「鈴鹿をどう走るかという意味で、さっちゃんやりーちゃんには色々参考になったところもあったやろ。これで向こうのセットアップリストも見せてもらえたら大助かりなんやけどな……」

「そんなの無理に決まってる」

 つばさが冷淡に指摘すると、翔子は肩をすくめて「そらそうや」とだけ云った。

 それから彼女は気を取り直したように真面目な顔をする。

「今さらやけどおさらいしとこうか。今日はTSRの決勝や。昨日は一ブロックにつき十チームが走ったけど、今日は十二チーム。走る相手はみんな予選を勝ち上がってきた人たちってこと。周回数も予選が一人五周の合計十五周だったのに対し、決勝は一人十周の合計三十周になる」

「そして実況はジェニファーさんだな」

 迅雷がそう云うと、翔子は迅雷をちょっと意地悪そうに見た。

「昨日は男の人が実況やったから、いまいち迅雷君がはりきってないように見えたわ」

「そんなことはない。ごぼう抜きしてやっただろ?」

 迅雷が笑うと、翔子も笑う。しかしつばさは特にこれといって表情がなかったし、ことりはことりで別のことが気がかりのようだ。

 そんなことりを見咎めて翔子が云う。

「りーちゃん、なに考えてんの?」

「え……っと、その、レース本番になったら、猿飛さんから連絡が来るかなって」

「ああ、めぐるちゃんね。なに、やっぱり気がかりなん? 迅雷君があの子のことライバルと思えって云うたでしょ?」

「はい」

「ウチもその意見には賛成や。りーちゃんは、一回くらい戦うということをしてみた方がええ。もう決まったことやし、覚悟決めなさい」

 そこで翔子は、全員の目を醒まさせるように大きな音を立てて両手を合わせた。

 迅雷もことりも、そしてつばさも、はっとなったような顔をする。

「みんな、ええ? 最後のフリー走行も終わった。マシンのセッティングも完了した。もうやることはない。あとは勝負や。まあでも二日目やし、さっちゃんとりーちゃんもだいぶ慣れてきたやろ。みんな揃って一三〇Rで豪快にクラッシュもしたしな」

 翔子がそう云って呵々と笑うのを尻目に、ことりは迅雷を恨めしげに見た。

「あれは迅雷さんが……」

「ふっふ」

 例の一三〇Rでことり、つばさ、迅雷が立て続けにクラッシュした件についてはちょっと話題になり、実況のジェニファーにも取り上げられたものだ。さらには迅雷たちの意図を理解したのか、それとも単なるミスか、他のチームからも一三〇Rでクラッシュする者が続いたので、これは面白かった。

 そうしたことを思い出しながら、迅雷はことりに笑って云う。

「でも、やってよかっただろう?」

「はい」

 おかげでことりやつばさの一三〇Rのタイムはいくらか削ることができた。一秒や二秒の差が決定的となるモータースポーツでは、コンマ数秒でも削れれば上出来である。

「つばさも……」

 迅雷がつばさに目をやると、ことりや翔子の視線もつばさに向いた。つばさは軽く肩をすくめると、澄まし顔をして云う。

「私も、ちゃんと学習しましたよ」

「そうか。ならいい」

 そう云いながらも、迅雷は微妙な手応えのなさを感じ、後悔していた。

 自分は判断を誤ったのではないか。つばさがなにを考え、このレースにどう取り組むつもりか、しっかり気持ちを確かめておくべきではなかったか。だがそうした方がいいと思いつつも、余計悪いことになるのではないかと思って、つい躊躇ってしまった。

 それを今になって後悔しても、もう遅い。

 もうログインして、十分後には一番手のことりがスターティンググリッドについていなければならない。あれこれ話し合う時間はもう終わった。

「よし、ほんならいよいよ本番や」

 そう云った翔子は、椅子からすっくりと立ち上がると迅雷たちを見回して朗々と云う。

「気合い入れていくで!」

「おう」

「はい」

 と、迅雷が元気な声で、ことりが蚊の鳴くような声で返事をする。つばさは返事もせず、ただ頷きを返すと電動車椅子のスティックを操作しようとした。

 しかし翔子が制止の手を挙げながら云う。

「はい、ちょい待ち! さっちゃんもりーちゃんも、なんでおっきい声で返事せえへんの?」

「え……」

 と、スティック操作の手を止めたつばさが翔子を困ったように見るが、翔子はまずつばさを、そして次に気圧されたようなことりを見て憤然と云った。

「あのな、スポーツは声をしっかり出せへんようでは勝たれへん。さっちゃんに至っては返事すらせえへん始末や。どういうこっちゃ」

「だって……」

「だっても明後日もあらへん! 病は気からって云うやろ? 体と心は繋がってんの! 体は心で心は体! どのスポーツでもみんな大きい声出してやってんのは、なんのためやと思ってんねん。仲間内で大きい声も出せんで、勝てるもんも勝てるかい。わかった、りーちゃん?」

「は、はい!」

 このときばかりは、めぐるより翔子の方が怖かったのであろう、ことりは彼女にしては大きな声で返事をしたが、翔子は首を横に振った。

「まだ小さいな。そしてさっちゃんもきちんと声出して。ウチが納得するまで繰り返すからね。時間かけるの厭やったら一発で決めてね。迅雷君もいい?」

「お、おう」

 翔子の云うことはもっともだと思ったので、迅雷は特に反論もせず彼女が取るだろう音頭に備えた。果たして翔子は力こぶを作るような姿勢を取って云う。

「ほんなら行くで」

 ぎろりと翔子が三人を睨みつけると、つばさとことりも腹を括ったようである。

 そして翔子は拳を天に向かって突き上げながら叫んだ。

「チーム・ソアリング、ファイト、オー!」

「オー!」

 と、迅雷は翔子に倣ってやはり右拳で天を突いたが、ちょっと間抜けに思えて声が小さくなってしまった。すぐさま翔子が迅雷を一睨みする。

「はい、迅雷君だめ。やり直し。さっちゃんとりーちゃんも声が小さい」

「あうう」

 ことりが顔を赧らめながら、右腕を下ろしてやり直しに備えた。つばさはもう、なるようになれといった感じの表情だ。

「ほんならもっかいや、行くで。チーム・ソアリング、ファイト、オー!」

「オー!」

「もっと!」

「オー!」

「もっとや!」

「オー!」

 三人の声が三度室内に響き渡ると、とうとうつばさが笑い出した。そう、彼女はなんだかこれが楽しくなってきたのか、堪えきれずにちょっと笑っていた。迅雷はといえば、これはもう羞恥心などなくして精一杯声を張り上げている。ことりも一所懸命にやっていて、声はこれ以上ないくらいなのに、翔子はまだ足りないらしい。

「まだまだまだまだ、魂の綱引きをするつもりでやるんや! 行くで! それでは皆さんご一緒に。エイエイ、オー!」

「エイエイ、オー!」

 ――掛け声、変わってんじゃねえか。

 迅雷はそう思いつつも、翔子に付き合ってそうがむしゃらに叫んでいた。

「よっしゃ!」

 やっと翔子が満足し、いよいよ本番に臨むことになった。

 大きな声を出したことりは、レース前からふらふらになりながら右側のエントリーシートに乗り込んでいく。

 左側のエントリーシートにはつばさが向かい、迅雷は彼女が乗り込むのを手伝ってやった。初めて手を仮してやったときは厭がったつばさだが、今は迅雷の手を借りるのがどことなく嬉しいようだ。

 迅雷はつばさをシートに座らせると、彼女がシートベルトを締めているあいだに車椅子のハンドルに提げてあった布袋からつばさのヘルメットを出し、それを彼女に渡す用意をした。

 ヘルメットを受け取ったつばさは、迅雷を見上げて云う。

「お兄さん」

「うん?」

「鈴鹿って楽しいですよね」

「だろう?」

 迅雷はちょっと驚いたが、同じ楽しみを共有できたあの喜びに心を押されて笑った。それに釣られて微笑みかけたつばさは、しかしすぐにその表情を陰らせてしまう。

「これが本当になんのわだかまりもなく、サーキットへ向かっていけるレースならどんなによかったでしょう」

「……なんだよ」

 まるでこれから起こることについて、あらかじめ云い訳しておくような口ぶりであった。そして迅雷は、ことりのおかげでつばさの心境にはある程度の見当がついている。

「……そんなに俺のヨーロッパ行きが厭か?」

「厭ですよ。本当は一秒だって離れたくないくらいなのに、ヨーロッパなんて……一切合切納得してません」

 つばさは臆した色もなく、迅雷を視線で切りつけながらそう云い切ってのけた。

 迅雷は、一秒だって離れたくないと云う言葉の破壊力に痺れてしまって、咄嗟にはなにも云えない。

 ――おまえ、そんなに俺が好きか。

 と、口に出して問う勇気が、すぐには奮い起こせなかった。

 レースにおいては勇猛果敢な疾風迅雷が、女のことになるとこうも後手に回るのか。迅雷は自分で自分に愕然とし、蹴飛ばしてやりたくなりなんとか気の利いた言葉の一つも絞り出そうとしていたのだが、そのとき時間切れとばかりに翔子の朗々たる声がした。

「はい、ほんならエントリーして。もう時間ないで」

 するとつばさも素っ気なく云う。

「お兄さん、離れて下さい。シート動きますから、危ないですよ」

「……ああ」

 結局、また機会を逃してしまった。最後のチャンスは、水の底へ消えていく魚影のように遠ざかっていった。

 迅雷が仕方なく後ろに下がると、合成音声による警告が鳴り響くなか、つばさを乗せたエントリーシートが筐体のなかへ吸い込まれていく。

 迅雷はそれをどうしようもできなかった。


        ◇


 エントリーしたことりは目の前のスクリーンが映し出す青い初期画面クレイドルを見ながら深呼吸をしていた。

 ――まだどきどきしてる。

 翔子があんな風に声を出させたので、体がぽっと熱を持ったようであった。だが声を出すことに意味はあったのだろう、あれだけ緊張していたのが、少しはほぐれてきた感じがする。

「がんばらなくちゃ」

 ことりはそう独りごちると、おもむろにヘルメットを被り、顎紐を締め、ピンクのレーシンググローブを嵌めた。

 左上に通信用のウインドウが開いて、翔子が顔を出す。

「りーちゃん、準備はいい?」

「はい、いつでも大丈夫です」

「ほんなら待っててな。あと配信されてる中継映像も出しとくわ。ジェニファーさん、もう喋ってるよ」

 云うが早いか翔子との通信画面の下にもう一つのウインドウがひらき、仮想の鈴鹿サーキットを見下ろす映像が飛び込んできた。

 同時にジェニファーのきらきらしい声がする。

「さあ、今日はいよいよTSRの決勝です。レースの概要は先ほど説明した通り、一人十周、合計三十周のリレー形式。使用サーキットは鈴鹿、ポールポジションはチーム・ストームヴィーナスの先鋒を務めるラブモンキー。おっと早くもラブモンキーのマシンがピットから姿を現わしました。コースをぐるりと一周してグリッドに着く模様です」

「あ……」

 ことりの目は中継画面に釘付けになった。

 そのマシンは、昨日の時点で既にビデオを見ているから知っている。ピンク色をした、ちょっと可愛いデザインのマシンだ。

 カメラがそのマシンを大写しで捉えると、ジェニファーがそれに寄り添って云う。

「ラブモンキーが使うマシンの名前はティントレット。色は見ての通りのピンク色で、バランス寄りの赤といったところでしょうか。そのティントレットがピットロードから出て第一コーナーをゆっくり回っていきます」

 ゆっくりと云っても時速一〇〇キロ以上は出ている。そんなティントレットが軽快にS字を通り抜けていくさまを、映像は今、真上から映している。

「りーちゃんも行こう。ログインするよ。三番グリッドやで?」

「は、はい」

 バーチャルサーキットへログインしたとき、マシンがポップアップする場所はグリッド上にすることもできるし、ピットにすることも出来る。選べるのだ。

 だが今日のような公式レースのときは運営からの要請でマシンはピットから出て、本番前にコースをぐるりと一周し、各グリッドに着くことが求められていた。

 いわゆるフォーメーションラップ、別名パレードラップである。

「……行きます」

 ことりのその言葉を待っていたかのように、ピットブースから操作がなされ、ことりはチーム・ソアリングのピットにマシンごと湧出ポップしていた。視点は低く、クルマのなかでステアリングを握っている状況だ。

 エンジンは既にかかっており、クラッチ操作をしない設定にしていることりはギアを一速に入れるとゆるりと発進した。それを本物の人間に酷似したNPCのエンジニアやメカニックたちが見送ってくれる。

「さあ、次に出てきたのはチーム・ソアリングの一番手、リトルバードのノーブルクレーンです。昨日はレースの序盤で順位を落としてしまったリトルバード、今日のレースでは雪辱なるか!」

 ――あう。

 昨夜、ジェニファーから『実況という立場上、贔屓もできないけどがんばってね』と云う励ましのメールをもらったときは嬉しかったが、本番ではやはり煽ってくるのだ。わかっていたことだが、それでも注目されたりいじられたりするのは苦手なことりである。

 そのときジェニファーの実況が他のドライバーに移ったので、ことりはほっとしながら徐々に加速し、ピットロードから出てコースに合流、第一と第二コーナーをゆるりと周り、S字に向けて本格的にアクセルを踏んでいった。

 そうして他のマシンが次々にピットから出てきては、鈴鹿を一周し、各グリッドに着いていく。無論ただ走るのではなく、蛇行したり急加速および急減速をしてタイヤの温度を少しでも上げようとしていた。

 ことりもまた最終コーナーを回り、鈴鹿の周回基準線コントロールライン兼フィニッシュラインを通り抜けると減速しながら蛇行運転に切り替え、やがてスタートライン近くの三番グリッドにノーブルクレーンを着けた。

 正面にめぐるのティントレットがあり、右斜め前に二番グリッドのマシンがある。ことりはそのマシンをちょっと気にしたように見た。

「二番グリッドにつけてる人は……」

「チーム・明日に向かって突撃団のワッショイさんやね。なかなかおもろいドライバーネームやわ」

 マシンの総数は十二で、グリッドはポールポジションからラブモンキー、ワッショイ、リトルバード、以下四番手という順である。

 ことりは顔を前に戻すとスタートラインの方を眺め、益体もないと解っていながら云った。

「スタートラインとフィニッシュラインが同一だったら、迅雷さんが有利なのにな」

「有利になるから、別々になってるんじゃないか」

 と、迅雷が笑いを含んだ声で云う。

 鈴鹿に限らず、多くのサーキットではスタートラインは第一コーナー寄り、周回数の基準となるコントロールラインおよびフィニッシュラインは最終コーナー寄りにあって、別々であった。これはストレートに強いマシンが、最後にマシンパワーでひっくり返してしまうのを回避するための措置だ。

「最終コーナーを一番にターンしてきた奴が最初にチェッカーを受ける。それは正しい」

 迅雷のその言葉にことりが黙って相槌を打ったとき、翔子が話しかけてきた。

「りーちゃん、コール来たで。チーム・ストームヴィーナスからや」

「はい」

「こっちとそっちのマルチで繋ぐけど、最初はウチが対応するわ。まあすぐにりーちゃんに代わってもらうことになると思うけど、大丈夫やね?」

「オッケーです」

 覚悟はしていたので、ことりは穏やかに返事をした。

 そうして画面の左上、ピットとの通信画面、ジェニファーが実況をしている中継映像の画面の下に第三の画面が現れ、見たこともない美少女が顔を出した。

 てっきりめぐるが顔を出すものと思っていたことりは、拍子抜けするやら肩すかしを食らうやらである。

「誰だ?」

 ピットから迅雷が開口一番そう訊ねたようだが、ことりこそその答えを聞きたかった。

 果たしてその美少女は、今にも張り裂けそうな怒りを秘めた口ぶりで云う。

「こんにちは、チーム・ソアリングの皆さん。私はチーム・ストームヴィーナスのリーダー、ホー・ホケキョです」

「ああ!」

 と、翔子が膝を打ったような声をあげた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る