第六話 羽ばたく者たち 第二幕 ハート・セットオン・ファイア(2)
「あんたが! へえ、美人さんやな」
翔子がそう手放しで褒めた通り、ホケキョはみどりの黒髪を長く伸ばした美少女で、前髪は眉のところで真一文字に切り揃えられている。椅子に座ってヘッドセットをつけているから背格好まではわかりにくいが、
と、そこでことりは小首を傾げた。
「あれ? めぐるさんじゃ、ないんですか?」
「それです。今日のレースでめぐるがチーム・ソアリングの方と話したいと云うものだから、どういうことかと問い
「ああ、いえ、私たちは別に気にしてないです」
か細い声でそう答えたことりの尾について、翔子もまた相槌を打って云う。
「挨拶みたいなもんやろ。ええやないの」
「そう……ところで挨拶と云えば、まだそちらの顔と名前が一致してないわね」
「ああ、これは失礼しました」
翔子は関西訛りの丁寧語でそう云うと、まず自分が名乗り、次にことりを紹介し、最後に迅雷をカメラの前に出した。
「俺は疾風迅雷、またの名をライトニング・バロンだ」
するとホケキョは異様に鋭い目つきになり、やっと憎い仇敵に会ったような顔をして、カメラ越しに迅雷をとくと見たようである。
「……あなたが、例の。ふうん、なるほど、気に入らないわ」
「なんでだよ」
初手からそんなことを云われて、迅雷は傷つくよりも腹を立てたようである。ところがこのとき、翔子が強引に迅雷をカメラの外へ追いやった。
「おまえまで、なんだよ」
「ええから、ええから」
「ちっ。ていうか、やっぱりホケキョさんって女なんだなあ……あれはどういう意味だったんだ?」
と、そんな迅雷のぼやきが遠ざかる。翔子は迅雷からカメラの方へ目を戻して云った。
「あともう一人、ダークネス・プリンセスっちゅうのがおるんやけど、なんかレース前で集中したいっていうから、繋げへんよ」
「構いません。真剣であればあるほど、神経質になるのは当然です。それで、小さな可愛いことりさん」
「は、はい」
そんな風に云われてことりはちょっとびっくりした。だがホケキョは至って真剣な面持ちで云う。
「あなた、うちのめぐる……ラブモンキーとお話ししながら走るということですが、本当にそれでいいの? 私が云うのもなんだけど、あの子はとっても口が悪いわよ?」
「は、はい。でも、そういう約束ですから」
「そう……でも、問題がもう一つ。こうして通信していると、お互いのピットワークが筒抜けになってしまうわ。ならいっそのこと、お互いのピットとエントリーシート、全部繋いでグループ通信でやってしまわない? それで私たちがお互い有利不利になるわけでなし、かといって他のチームに対して有利になるわけでなし、問題はないと思うけど」
ことりは軽く驚いたが、それ以上に驚いたのが迅雷であった。
「いいのか」
ふたたびカメラの前に顔を出したらしい迅雷がホケキョに云う。
「ということは、俺が真玖郎と話しながらの勝負もできるわけだな」
「そうなりますね。ただ真玖郎ちゃんとはサウンドオンリーにしてもらいます。姿は見せられません」
「なんで?」
「どうしてもです」
そう拒絶を含んだ声で冷たく云ったホケキョに、迅雷は食い下がろうとしたようだったけれど、そんな迅雷をまた横に押しのけて翔子が云う。
「ウチとしては構わへんよ。ただしレース中、お互いのピットから相手ドライバーに無駄に話しかけて集中削ぐのはなしな?」
「それはもちろん」
ホケキョの言葉を聞いて、翔子は一つ頷くと続けた。
「ほんなら迅雷君もええやろ。りーちゃんは?」
「私は問題ないです」
「ほうか。ならあとはさっちゃんやな。ちょっと待っててな」
翔子は別ラインでつばさに繋ぐと状況を手早く説明し、返答を迫った。
「……別に構わない」
鷹揚と云うよりは投げやりな言葉にことりはちょっと眉宇を曇らせたが、時間もない。
翔子も思うところはあるかもしれないが、通信相手をホケキョに切り返して朗らかに云う。
「チーム全員の了承は取れた。じゃ、そういう塩梅で行こうか」
「ええ」
ホケキョはそう云うと、通信画面のなかでことりの方を向いた。
「それではことりさん、めぐると繋ぎますよ?」
「はい、どうぞ」
ことりがそう云った、二秒後であった。ホケキョとの通信画面が切り替わり、ピンク色のヘルメットをかぶっためぐるが姿を現わす。
「がおー!」
開口一番そう云われてことりは面食らってしまい、軽い混乱状態に陥りながらか細い声で云う。
「が、がお」
「あはははは!」
画面の向こうでめぐるはそう大笑いをしており、ことりはなにがなんだかわからないまま、ただただ恥ずかしくなってしまった。
めぐるはひとしきり笑うと、ヘルメットのバイザーを上げてことりを狼の目で見てくる。対することりは、羊のようだ。
「もうすぐレース始まるけど――」
と、めぐるは肩越しにちょっと後ろを振り返って、ポールポジションからスターティンググリッドに並ぶ十一台のマシンを見たようである。ことりからすれば、自分の正面にめぐるのティントレットがある。
背後では他のドライバーたちがスタートを待ちきれないというようにギアを繋がないままアクセルを踏み込んで、それぞれのマシンにエキゾーストノートの雄叫びを上げさせていた。
中継画面ではジェニファーがグリッド順に参戦チームやドライバーたちの紹介をしている。もうあと、三分もしないうちに
そうした状況を背景にして、めぐるが云う。
「ことりちゃん、今日はよろしくちゃん」
「は、はい。よろしくお願いします」
ことりはそう云って、コックピット内のカメラに向かって軽く頭を下げた。それを見ためぐるは浮き立つようだった。
「よろしくお願いします、だって。かーわーいーいー!」
「えっ……」
どうしてこんな反応が返ってくるのか、ことりにはわからない。めぐるは純粋に喜んでいるのだろうか、それともひょっとしたら、自分を小馬鹿にしているのか。前者なら構わないが後者だとすると自分はいったいどうすればいいのだろう。
レース前だというのにことりがそんな考えに落ち込みかけたとき、別の通信画面から冷ややかな声がした。
「めぐる」
ホケキョだ。めぐるの表情がヘルメット越しにも引きつるのが、ことりにもはっきりと見て取れた。
めぐるの視線が少しずれる。ホケキョの映る、ピットブースとの画面を見ているのだろう。そこでホケキョが云った。
「いい、乱暴な振る舞いは駄目よ? そしてレースはエレガントに」
「へい。へーい、わかってます」
めぐるはそう云うとヘルメットのバイザーを下ろし、ステアリングを握ったようである。
ことりはまだなにか話した方がいいかと思ったが、そのとき中継画面からジェニファーが朗々たる声で云う。
「さあ、いよいよTSR決勝、スタートシグナルが灯るときがやって参りました!」
――あっ、始まる。
そう思うと、めぐるにかき乱されていた心の水面が自然と落ち着いてきた。
「りーちゃん、惑わされてへんな?」
「大丈夫です」
と、そこへ突然、新たな通信画面が開いて、つばさが顔を出した。二番手だからかまだヘルメットを被っておらず、美しい素顔を晒している。
「翔子ちゃん。ことりは意外と、切り替えは早いタイプだ。正面切ってのやり合いは苦手だし、躊躇いがちだが、終わったことについてぐずぐずと尾を引くことはない」
「ふうん、なるほどな。さっちゃんとは反対なんや」
「うん?」
つばさが小首を傾げると、翔子は慌ててかぶりを振った。
「いや、なんでもない。今のは失言や、忘れて。それより本当に始まるわ。スタートの瞬間は、静かにしてた方がええやろ」
翔子の言葉に黙って頷いたつばさは、「私はもうちょっと集中してる」と云って、また向こうから通信を切ってしまった。通信画面が一つ少なくなる。
そうして最後に迅雷が云った。
「スタートの瞬間は一人だ。わかってるな?」
「はい」
「よし、がんばれ」
それを最後に迅雷も完全に口を噤んだ。もうこれ以上の助言はないし、ことりにすべて任せたということなのだろう。レースは、一度スタートを切ったら最後まで自分の力で走りきるしかないのだ。ことりはそれを理解して、スタートの瞬間に備えて全神経を研ぎ澄ませる。ジェニファーがなにか云っているようだが聞こえない。
――レースが始まったら競争だけど、スタートの瞬間は一人。他のドライバーは関係ない。きちんと集中していればいいスタートが切れるって、迅雷さんも云ってた。
そう、ことりは他のドライバーとの競争になると遅れを取ってしまうのであって、一人で走るのであれば本来の才能を十二分に発揮できる。実際、タイムアタックではとあるサーキットでレコードホルダーになったこともあった。もっともレコードホルダーになると記録が破られるまで名前がずっと残るため、それを気にしたことりはそれ以来タイムアタックを避けているのではあるが。
それはともかく、スタートである。スタートラインの上に横一列に並ぶ五つの信号が表示された。
「シグナルが出ました! スタート五秒前!」
ジェニファーがそう云った瞬間、一番左の信号が赤く輝いた。そこから右に向かって、一つ、また一つと赤い光りが増えていく。
そして五つの信号すべてが真っ赤に輝き――それが一斉に消えた瞬間だ。
「今、レース、スタートです!」
そのときをまさに待っていた十二人のドライバーが、それぞれ一斉にスタートを切った。トルクの強弱も含めて、出足の速いマシンもあれば遅いマシンもある。それが目の前のマシンを躱そうと蛇行しながら、第一コーナーに向かって一斉に動いていく。
「いいスタートや」
翔子が噛みしめるように云った通り、ことりはいいスタートを切っていた。昨日のように緊張のあまり出足が遅れて、他のマシンに抜かれるということもなく、グリッド通り三番手で第一コーナーを回り、第二コーナーを回る。
「先頭はストームヴィーナスのラブモンキー、ティントレットが先陣を切ってS字に入っていきます! 二番グリッドのワッショイ、三番グリッドのリトルバードがそれに続き、その後ろはちょっと縺れているか!」
コーナーを回る一瞬、もっともインに寄るクリッピングポイント付近で複数のクルマは一塊になる。それがコーナーを回って立ち上がると左右に広がってばらけた。
そうしたもつれ合いのなかから、先頭の三台だけは抜け出してS字に突入していく。
◇
「……ここまではなかなか、いい感じじゃないか」
二周目を終えたところで、迅雷はそう呟いた。
タイムが格別いいわけではないが、ことりは抜きも抜かれもせず、三位を維持したまま第三ラップに入っている。昨日の立ち上がりに比べれば上々の出だしであった。
「可もなく不可もなくってところやね」
ドライバーの集中を削がないよう、翔子はワイヤレス・ヘッドセットのマイクをオフにして迅雷の会話にそう応じた。
「ああ。にしても、ラブモンキーが意外に大人しいな。もっとことりに絡んでくるのかと思ったが……」
めぐる以下先頭の三台はほとんど一塊になって走っており、順位が違うといってもコンマ数秒の差である。これだけ近くで走っているのだし、向こうからわざわざ通信を確立した状態で走ろうと提案してきたのだし、もっと精神的にことりを揺さぶるつもりかと思いきや、レースが始まるとめぐるはことりにあまり話しかけてはこなかった。
「まあ、まだ序盤やし、さっきホケキョに釘を刺されてたしな」
「
というのも、めぐるはしばしば、コーナーでクルマを振り回すのだ。峠でクルマを走らせている男たちのような、ワイルドな走りぶりである。それが迅雷には解せない。
「昨日ビデオを見たときから思ってたけど、なんでこいつはこんなにクルマを振り回すんだろう。技術がないわけじゃないと思うんだよ。凄く速くコーナーを回ることもあるし。でもときどき思い出したようにタイヤを滑らせて、ドリフトに近い走りをする……」
「きっとそれが楽しいんやろ。ドリフトなんかしたら、きちっとしたグリップ走行に比べてタイム落ちるけど、楽しく走ってるとリズムに乗れるやん。メリハリがあるっちゅうか、多少お尻振っても気持ちよく走らせる方が結果的に全体のタイムは上がるんちゃうかな。実際、S字なんかは見事なグリップ走行ですごく速く駆け抜けられてるし」
「そうかもしれんが、S字であの走りができるなら、すべてのコーナーで
「でもめぐるちゃん、そういう精密機械みたいな走り方したらストレスで逆に遅くなりそうやない?」
翔子のその言葉に迅雷は黙り込んだ。さもあらん、と思ったのだ。
そんな迅雷の肩の辺りを叩きながら、翔子は呵々と笑って云う。
「みんなやる以上は勝つために走ってるに決まってるけど、チームカラーは色々やからな。勝利至上主義の体育会系なチームもあれば、基本楽しくをモットーにしてるチームもある。チーム・ストームヴィーナスは勝利寄りやけど楽しさも忘れてへん感じかな。迅雷君かて昨日、二人に鈴鹿を走れる機会なんてそうないから楽しんでこいって云うてたやん?」
「それは……」
迅雷がああ云った理由の一つには、二人の緊張を解く意味もあったのだ。しかしきっと向こうのチームでもめぐるに気持ちよく走らせることで良い効果が生まれることを狙っていたりするのだろう。
「……まあ、ゲームには勝負と遊戯の二つの面があるからな。楽しみながら勝負できればそれが一番いい。翔子の云ってるのとは少し違うだろうけど、俺も緊張感を楽しむことがあるしな」
迅雷は笑って、それからすぐにまた真面目な顔に戻り、レースを注視した。
ことりは三位のまま、一三〇Rに突入していく。
めぐるは遊びを持たせた走りをしているが、ポールポジションの有利と、他のドライバーにもミスがあるのとで、結果的にまだ首位だ。四位以下では順位変動も起こっているが、三位以上ではまだその気配がない。めぐるは一三〇Rに恐れ気もなく飛び込んでいって、ドリフトで失ったタイムを取り戻している。
「ラブモンキー、一三〇Rを豪快に駆け抜けていく! ほとんど全開ではないでしょうか!」
ジェニファーの実況に、めぐるが独り言のように応じた。
「今日で二日目だし、さすがにコツを掴んだよ」
ことりとめぐるの双方向通信だけでなく、ピットも含めたマルチ通信をしているので、めぐるの声も迅雷たちは聞くことができた。
やるもんじゃないか、と迅雷はめぐるに話しかけたかったが、相手の集中を削ぐことになるかもしれないと思ってやめておいた。
中継映像ではジェニファーが歌うように語っている。
「第三ラップもそろそろ終わろうとしています。先頭は依然としてラブモンキーのティントレット。それを僅かの差で二位のワッショイと三位のリトルバードが追いかけていく! 一三〇Rの先はジグザグのシケイン、ブレーキのタイミングが運命を分ける勝負所の一つだ!」
ジェニファーの云った通り、この先のシケインは右左と続くジグザグの連続コーナーで、減速しなければ攻略できない。世界一の高速左コーナーとも云われる一三〇Rを突破してきたとき、全開で駆け抜けることが出来ていれば二五〇キロくらいは出ているはずだが、次のシケインでは一転して一〇〇キロ以下まで落とさねばならないのだ。
そこへめぐるのティントレット以下、三台のマシンがほとんど同時に突入していき――。
「あっ!」
と、声をあげたのはジェニファーだが、この映像を見ていた多くの観客たちが同じように声をあげたりどよめいたりしただろう。
翔子が伊達眼鏡のブリッジを中指で持ち上げながら云う。
「ワッショイ、ミスったな」
「一瞬でした! ほんの一瞬で、二番手のワッショイが、ずるっと後ろへ下がってしまった! ブレーキのタイミングを間違えたんでしょうか!」
ジェニファーがそう実況してくれた通り、シケインを通り抜ける際に魔の瞬間があり、その一瞬でワッショイがずるりと後退してしまったのだ。シケインを抜けたときには、ワッショイは先頭を走る二台と後方から迫る四番手の中間に落ち込んでしまっていた。
まだレースは序盤である。一位から最下位まで、そこまで大きなタイム差がついているわけではない。一つのミスが命取りになって、簡単に順位が入れ替わる。
ことりとしては、思いがけずして転がり込んできた二位であったろう。
「結果的には、リトルバードがワッショイをオーバーテイクして順位を二位にあげ、最終コーナーをターン! レースは第四ラップへ入ります!」
ジェニファーの声がそう響き渡り、TSR一番手のレースは中盤戦に入った。
◇
第四ラップに入っても、ことりはまだ信じられなかった。
「えっ、嘘……」
順位が二位に上がってしまったのだ。ワッショイが勝手に失速したわけだが、ここでなんだか悪い気がしてしまうのが、ことりの性格であった。
ピットから翔子が笑いながら云う。
「りーちゃんのオーバーテイクなんて、珍しいもん見たな」
「わ、私が抜いたわけじゃないですよ。向こうが勝手に……」
「ああ、だめだめ。そんなことじゃ全然あかん。抜いた云うても大して差ぁついてへんのやし、なによりりーちゃんにはこのあと、目の前を走ってるもう一人を抜いてもらわなあかんのやから」
「うっ……」
と、呻いたときにはメインストレートを使い切ってしまい、第一コーナーが迫ってくる。ここは勝負所だが、ことりはベストなライン取りをするめぐるに道を譲りつつ、次善のラインを選び取っていく。
ノーブレーキで曲がることについては、さすがにもう慣れた。第一コーナーをダウンフォースに頼って高速ターンし、続く第二コーナーではしっかりブレーキを踏んで減速した上でアプローチする。
そこを越えると上り傾斜がつき、右から左から襲いかかってくるS字を切り抜けると、次は左の高速ロングコーナーだ。上り傾斜はどんどんきつくなって、標高はいよいよ東コースの
ことりがそれに耐えていると、久しぶりにめぐるが声をかけてきた。
「二人きりになっちゃったねえ、ことりちゃん」
「……ワッショイさん、まだすぐ後ろにいますよ」
ことりにはワッショイのマシンの悔しげなエキゾーストノートが聞こえるようである。いつ後ろから刺されてもおかしくない。しかし、めぐるには関係ないようだ。
「……ぼちぼちデグナーだけど、仕掛けてきたり、しないの?」
「こ、ここは勝負所じゃないですし」
「別にデグナーでも抜こうと思えば抜けるでしょ。ま、仕掛けてきたらそのときがことりちゃんの最後だけどね」
「ええっ?」
ことりがそう怯むと、迅雷がすかさず助け船を出してくれた。
「ことり、ただのはったりだ。いちいち真に受けるな」
「はったり……」
そう口のなかで小さく呟いたことりは、めぐるについて、こうして通信しながら走ることになったからには精神的な揺さぶりをかけてくるだろうから覚悟しておくようにと翔子から云われていたことを思い出し、気を強く持ちながらデグナーカーブを抜けた。
立体交差橋の下を走り抜け、緩めの右コーナーを過ぎれば、その先はヘアピンだ。減速すべきところで、しかしめぐるは加速する。加速しながら、またことりに話しかけてきた。
「はったりでもなんでも好きに解釈すればいいけどさ、ただ一つ云えることは、何人たりとも私の前は走らせんよってこと!」
そしてめぐるのティントレットが、オーバースピード気味の乱暴なライン取りでヘアピンを回っていく。
「おらあっ!」
そのあとに続いたことりは気魄の点でめぐるに負けてしまい、再加速のタイミングが少し遅れて、あんな乱暴なコーナリングをしためぐるにいささか引き離されてしまった。
中継映像ではジェニファーが今のめぐるのコーナリングについて口笛を吹いている。
「ラブモンキーは荒っぽいコーナリングです! それでも要所要所を締めているからトップを走り続けていられるんでしょうか。コース前半のS字は実に軽快に走ってタイムを落としません! なんというか、むらっ気のある走りに感じられます!」
ジェニファーがそう云った傍から、めぐるは続く二〇〇Rと二五〇Rの右コーナーで、サーキットではなかなか見られない走りを見せた。
ジェニファーが目を剥いて叫ぶ。
「ドリフト!」
そう、めぐるはドリフトをしたのだ。これまでもマシンのお尻を振り回したり、軽いドリフトを見せることはあったが、ここまで露骨にドリフトしたのはこれが初めてだった。
――ドリフト走行は、グリップ走行に比べて遅くなるのに。
それにタイヤも無駄に消耗するし、いいことはない。
ことりはそう思ったが、しかし。
「おらっしゃあ!」
と、通信画面のなかで快哉をあげるめぐるは、実に楽しそうであった。
だがもちろんその分だけ、ヘアピンで開いたことりとの差が縮まって元に戻る。続くスプーンカーブでは、それまでの危なっかしいコーナリングが嘘のように的確に攻略して、スプーンの出口からの立ち上がりも素晴らしく、続くバックストレートへ向かって豪快に加速していく。
「この人……読めない……」
二番手としてめぐるの走りをすぐ後ろで見ていたことりは、着いていくので精一杯だ。
「ことり」
と、バックストレートに入ったところで迅雷が話しかけてきた。
「はい、なんでしょう」
「おまえ、舐められているぞ。目の前でドリフトなんかされて、おまえは仕掛けてこないと、高をくくっているに決まっている」
「う……」
たしかにその通りなのだろう。これが迅雷であれば、舐められたことに激怒するか、あるいは怒るまでもなくドリフトをした瞬間にでも追い抜いていたに違いない。
だがことりは、そうした怒りとは無縁であった。誰しも喜怒哀楽があり逆鱗があって然るべきだが、逆鱗がどこにあるかは人それぞれで、ことりの場合、自分への侮りはまったく怒りを刺激しない。
「悔しかったら抜いてみろ」
迅雷はそう云うけれど、それで火がつくのはレーサー魂を持っている人間だけではないか。ことりには実際のところ、それがないのだ。
――男の人は上下関係とか意識するって云うし、舐められるのは厭なのかもしれないけど、私は別に、そんなことで喧嘩みたいになるのは……。
と、そうした自分の心の傾きを見て取りながら、ことりはしみじみと思う。
――レーサーに、向いてないのかなあ。
ドライビングのセンスはあるけどそれだけだ。根本的に競争意識がなく、闘争心が
――ライバル。迅雷さんは、猿飛さんをライバルと思えって云ったけど。
ライバルというものへの答えを見出せないまま、ことりは走り続け、第四ラップと第五ラップが空しく過ぎた。
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