第六話 羽ばたく者たち 第二幕 ハート・セットオン・ファイア(3)

 あるとき、迅雷がため息とともに云った。

「……駄目か」

「なに云うてんの、まだ半分やで。それに今のままでもタイム差はそんなについてへんし、順位も二位や。このままさっちゃんにバトン渡せればなんとでもなるって」

「それはそうだが、俺が云いたいのは……いや、いい」

 迅雷はそのように話を打ち切ったが、ことりにはわかる。つまり迅雷は、結局ことりが最後まで期待した走りをしてくれないことが歯がゆいのだろう。

 ――でも、しょうがないじゃないですか。

 ことりが自分で自分にそう云い訳をしたときだった。

「りーちゃん、今のところ大ミスはない。タイムもコースレコードには遠く及ばんけど、ラブモンキーと比較した場合、相対的にはええ感じや。このままでも勝負にはなる。前を抜けへんなら後ろからくるのに気をつけて、抜かれんようにしよう。いっぺん抜かれてしまうと、抜き返すのも大変やからな。二位でええよ」

「えっ……」

 二位でもいい。

 その言葉は、ことりが自分で思っていた以上に、自分の心をざっくり切りつけていった。二位でもいいなんて、本当は翔子も云いたくないだろうに、自分の走りが不甲斐ないばかりにそう云わせてしまったのだ。

 そして、そんなピットとのやりとりは、めぐるの方にも聞こえている。

「そうそう、ことりちゃんは二位でいいよ。私を見ながらついてきな」

「うっ……」

 そう云われると、翔子や迅雷への申し訳なさがこみ上げてきて、なんとかめぐるを抜いてやろうと思う。しかしいざとなると仕掛けられず、ただいたずらに時間と空間が消費されていく。

 やはり、あとはつばさと迅雷に任せて、自分はミスをしないことだけ気をつけて、二位でバトンを渡せるように努めた方がいいのだ。

 ことりはそう思いながら、必死にノーブルクレーンを駆り、この難しいサーキットを攻略していった。

 そしてめぐるとことりが相次いでコントロールラインを駆け抜け、レースは第七ラップに入る。二人のタイム差は一秒もついていない。後続のワッショイだってことりに二秒と離されていない。

 ことりは今や後ろを気にして走っていた。皆、プロのドライバーというわけではないから、小さなミスは多くある。鈴鹿を完璧に走れているドライバーはほとんどいない。一方で二日目ということもあり、慣れてきたのか大きなミスはないから、一つの間違いで順位を落とすことになるだろう。

 ――私の仕事は、二番でお姉ちゃんに確実にバトンを渡すことなんだ。

 ことりはもうそのように割り切って走っていた。監督役の翔子も、レースプランをその方向に切り替えたようだ。

「ええよ、ええよ。ええ感じや、りーちゃん。とにもかくにも、食らいつけてはいけてるで。大きなミスさえしなければ、大きく順位を落とすこともないやろう」

「はい」

 返事をしているあいだも、ことりは懸命にステアリングを操ってどうにかS字をリズムよく走っていく。

 通信画面のなかで、翔子の目が横に動いた。

「さっちゃん、そろそろええかな」

 集中したいということでしばらく黙っていたつばさに、翔子はそう水を向けた。ことりもちょっと姉のことが気になり、翔子に向かって云う。

「あの、翔子ちゃん。お姉ちゃんと繋いでもらえますか。バトンタッチのときのタイミングをはかるのに、通信してた方がいいと思いますので」

 ことりのレース・セッションはまだ三周以上残っているが、時間にすれば数分後のことであるし、そろそろつばさともお互いの呼吸を知っておいた方がいい。

 そう思ってのことりの提案に、翔子も頷いた。

「オーケ、ちょっと待っててな」

 云った傍から、自陣のピット、中継、めぐる、ストームヴィーナスのピットに続く五つ目の通信画面が開いて、つばさが姿を現わした。ことりは姉の姿を一目見て目を剥き、あわやステアリングの操作を誤りそうになった。必死に前を見て走りながら、その一方でちらちらと通信画面の姉を見る。

 つばさは、まだヘルメットを被っていなかったのだ。

「……お姉ちゃん?」

「さっちゃん、ヘルメットつけて。もうマシンはスタンバイしてるんやで?」

 そのとき折良く、中継映像がメインストレートとは逆方向に伸びる二番手のための予備ストレートを映し、それにジェニファーの実況が添えられた。

「ところで今日はTSR、通常のコースレイアウトに変更が加えられ、御覧のようにメインストレートとは逆方向にリレーのための走路が増設されております。そこには各チームの二番手のマシンが、ゴースト状態で各グリッドについて一番手のドライバーからバトンを受け取る瞬間を待っています。第一走者の最終ラップとなる第十ラップを、彼ら彼女らは精神を研ぎ澄ましながら待っていることでしょう!」

 そんな十二台のマシンの一つに、つばさのエーベルージュもある。既にバーチャルサーキットにログインしているのに、ヘルメットをつけていない。ヘルメットをつけていなければ仮想Gフォースを感じられずに視覚と聴覚でのみクルマを操ることになる。それではまともには走れないだろう。

 だが、つばさは翔子の言葉をまるで無視して、ヘルメットを着用しようとしない。

 ここに至って、ことりは姉の異変に気づいた。クルマを走らせながら忙しなくちらちら見ているだけの小さな画面越しにも、その表情の色に気づいたのだ。

 ――お姉ちゃん、緊張してる? ううん、違う。これは、なにか思い詰めてる。

 これはことりだからこそ一目で見抜くことが出来たのだ。伊達に十三年も妹をやっているわけではない。

「さっちゃん! 聞いてる?」

 さすがに翔子が声を荒らげた。ことりはデグナーカーブへのアプローチを誤りそうになりながらも、どうにかしっかり走って、同時に珍しく大声をあげた。

「翔子ちゃん、待って下さい。私に話をさせてください!」

 すると翔子はことりをも睨んできたが、そんな翔子の肩に迅雷が手を置いた。迅雷はなにか思うところがあるらしく、

「ことりに任せてみよう」

 そう低い声で翔子を宥めるのだった。

 めぐるは少しばかり目を丸くしてことりを見ているのだが、なにかチーム内で異変があったのを察したのか、口を挟んでこようとはしない。

 ことりはレースに神経を残しながらも、先ほどから口を緘しているつばさに向かって微笑みかけた。ヘルメットをかぶっているので微笑みは見えないだろうが、気配だけでも伝わればと思ってのことだった。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 つばさはなにも答えようとしない。だが、ことりは実のところ察しがついていた。他ならぬつばさ自身が、先日不穏なことを口にしていたのだ。それを迅雷にも相談していたから、迅雷もまた覚悟しているようだった。

 ことりは固唾を呑むと、平坦な口調でこう尋ねた。

「もしかして、走らないって云い出すつもり?」

 するとそれまで目を伏せていたつばさが、ぴくりと眉を動かし、そしておもむろに顔を上げた。その目はことりではなく、別の画面を見ているようだ。恐らく迅雷だろう。

 果たせるかな、つばさはことりではなく迅雷に向かって口を切った。

「お兄さん」

「ああ」

「私、私は……」

 そこまで云っておいて、つばさはなおも躊躇しているようである。そこへ迅雷の稲妻が落ちた。

「云いたいことがあるならはっきり云え!」

 するとつばさは目を大きく見開き、堰き止めていたものを溢れさせるように云った。

「私は走りませんよ! お兄さんがヨーロッパに行かないって約束してくれるまで!」

「くうっ……!」

 迅雷はそんな噛みしめるような声をあげて、片手で目を覆ってしまった。

 ことりも両手が空いていれば同じようにしていただろう。つばさが迅雷のヨーロッパ行きの話を聞いたとき以来、なにか暗い考えに囚われてしまったのは気づいていたけれど、よもやここでそんなカードを切ってくるとは思わなかった。いや、思いたくなかった。

「お姉ちゃん!」

 たまらずことりが叫ぶと、つばさは怯んだようにことりを見てくる。

 ことりはステアリングの操作を誤らぬよう気をつけながら、抑揚のない口調で尋ねた。

「それは、脅迫してるの? 迅雷さんのヨーロッパ行を取り消させるために、迅雷さんがナイト・ファルコンと戦うのを邪魔する気?」

「そうだ……悪いか。レースはもう始まっている。今さらドライバーの変更は利かない。私が走らなければチーム・ソアリングのレースはそれで終わりだ。だから――」

「馬鹿っ!」

 ことりは全身でそう叫んでいた。つばさのみならず、翔子も迅雷もめぐるもホケキョもみんな目を丸くしている。ことり自身、自分がこんな大きな声を出せるのだと驚いたくらいだが、あとからあとから溢れてくるものは、止められないし止まらない。

「どうしてそんなこと考えついちゃったの。ヨーロッパに行かせたくないからって、そんな嫌われるようなことしてどうするの。ちょっと考えればわかるでしょう! 全力で走った結果クラッシュしたとかならまだしも、そんなかたちでこのレースを駄目にしたら終わっちゃうよ、なにもかも!」

 そうした嵐のような言葉の数々を受けて、つばさは唖然としていた。今までことりが姉に向かってこのような口を利いたことはなかったのだ。ことり自身にしたところで、こんな風に怒ったことはなかった。

「だいたい、ヨーロッパに行くとってもたかだか一年のことでしょう。そのたった一年も待てないの? そんなに自信ない? お姉ちゃんの気持ちってその程度だったの?」

 と、この辺りで、ことりのあまりの剣幕に思考停止に陥っていたらしいつばさは、やっと歯車が噛み合い始めたらしい。

「ことり、おまえ……」

 唖然としていたつばさは、みるみるうちに気色ばんで、ことりを尖った言葉で刺してきた。

「おまえに私の、なにが解るんだっ!」

「わかるよ! 私だって迅雷さんのこと好きだもん!」

「えっ」

 と、迅雷が窮したような声をあげたが、ことりとつばさは、今さらそんなことには構わない。

 つばさはカメラの方に身を乗り出し、身振り手振りを交えて云う。

「だ、だったら……おまえはいいのか。お兄さんが、好きな人が外国へ行ってしまってもいいのか!」

「いいよ! それで迅雷さんの夢が叶うんならいいに決まってるよ!」

 するとつばさは少し臆した色を見せて目を逸らした。

「……それはおまえが自由だからだ。行こうと思えばどこへだって行けるからだ。私とは違うんだ」

「違わない。お姉ちゃんだって自由なはずだよ。もしたった一年が待てないって云うなら、ゴールデンウィークにでも夏休みにでも、ヨーロッパまで会いに行けばいいじゃない。自分の足で」

 自分の足で。

 ことりはそこに、自然と強い祈りのような気持ちを込めていた。

 つばさが弾かれたような動きでことりを見つめ返してくる。

「こ、ことり……」

 それきり言葉はなく、それどころか時間さえ止まってしまいそうになった。だが、そこへ翔子が取りなすように云う。

「あの、レース中やで?」

 もちろん、ことりは目の前のレースを、両手でしかと握りしめているステアリングのことを忘れてはいない。

 つばさと云い合いをしているあいだも、ノーブルクレーンは軽快に鈴鹿の各所を攻略していた。不思議なことに、先ほどまでより速く走れているような感じさえあった。

 ことりはすぐ前を走るティントレットの後ろ姿を見ながら、つばさに向かって云う。

「お姉ちゃん、とにかく私は走るから。ちゃんとバトンを受け取ってよね」

「……厭だ。お兄さんが、ヨーロッパには行かないと云ってくれるまで」

「そんなこと云っても、お姉ちゃんはきっとちゃんと走ってくれるって信じてる。だってお姉ちゃんは、バーチャルレーサーだもん。お父さんが遺してくれたこのオンライン・フォーミュラを、誰よりも愛している一人なんだから、きっとアクセルを踏むよ」

「踏まない」

「私が踏ませる。そのために、一位でバトンを渡してみせる」

 それには誰もが驚いた。ことり自身にしたところで、自分の口からこんな勇気に溢れた言葉が出てくるとは思ってもみなかった。

 思わぬ話が繰り広げられたことで会話に入ることも出来ないでいためぐるが、剣呑な目をして口を開いたのはこのときだ。

「……なんか大変みたいだけど、ことりちゃんよ。それって、私を抜くってことかい?」

「抜きますよ」

 ことりはつばさの映る通信画面から、めぐるの映る通信画面に視線を移してそう当たり前のように云っていた。

「めぐるさんを抜いて、一位でバトンを渡して、お姉ちゃんにちゃんと走ってもらうので」

「おいおいおい、マジで云ってんの?」

「誰かが間違えたら軌道修正してあげるのがチームですから!」

 ことりはめぐるの尖った視線をものともせずにそう云ってのけると、逆に挑みかかるような目をしてティントレットを追いかけ始めた。

 そう、今までずっとめぐるの後ろを走ってきたけれど、それはただ着いていっていただけだ。それが今初めて、追いかけているという感覚に切り替わった。

 レースは既に第七ラップの最終コーナーを回ったところだ。

「さあ、先頭のラブモンキーからメインストレートに帰ってきます! コントロールラインを駆け抜けて、大詰めの第八ラップへ! TSRはリレー形式、合計三十周、一人十周のセッションですから、第一走者にとってはあと三周です!」

 と、そこでホケキョが云った。

「めぐる、次の第一コーナーは気をつけなさい」

「へいへーい」

 めぐるは本気とも冗談ともつかぬ声でそう返事をすると、ことりを睨んでまたぞろ脅しをかけてきた。

「なあ、ことりちゃん。本気で私の前を走れるなんて思ってないよな?」

 ことりはそれに返事をしない。いちいち取り合っても埒が明かぬ。ここは抜いて、結果で証明するだけだ。

 ちっ、とめぐるが舌打ちをして、第一コーナーに向かって加速する。

「何人たりとも、私の前は走らせねえ!」

 そして、ティントレットとノーブルクレーンがお互いベストなコース取りをしようと接触するほどに近づいて第一コーナーをターンした。


        ◇


 このような展開を前にして、レーシングルームのピットブースでは翔子がマイクをオフにすると、感心したようなため息をつきながら椅子の背もたれに体を預けていた。

「まさかりーちゃんがあんなことを云うとはな」

 一方、迅雷はまだ信じられないでいた。なにをしても湿気しけった火薬のように火の点かなかったことりが、今初めて、闘志を見せている。

「……本当か? 本当にことりは、その気になったのか?」

 するとそんな迅雷に顔を振り向けた翔子がにやりと笑う。

「迅雷君、逆鱗って、知ってる?」

「馬鹿にするなよ。人が怒ったときに云う、逆鱗に触れるってやつだろ?」

「そう。中国の故事かなんかで、龍には一枚だけ逆さに生えてる鱗があって、それに触ったらどんな優しい龍でもめっちゃ怒るから触ったらあかんっちゅうことから、人を怒らせるトリガーみたいな意味で使われるよね。思うにさっちゃんは、りーちゃんの逆鱗に触れてしまったんや」

 そう云って、翔子はつばさの映る画面に目をやった。つばさはまだヘルメットをかぶっておらず、ただ恐れるような目をしてことりを見守っている。

 それを翔子と一緒に見ながら、迅雷は云う。

「つまり、ことりが怒った?」

「そ。迅雷君ってさ、人から馬鹿にされたり見下されたりしたら、この野郎って思うタイプやろ。男の人はそれが普通やわ。男の人間関係は上下関係とイコールって云うし、競争の世界で生きてるもんな。でもりーちゃんはそういうことでは全然怒らへんのよ。競争意識とかまったくなくて、競い合って喧嘩になるくらいなら自分が引いて他の人を先に行かせてあげようとする子や。せやけど……」

 翔子はジェニファーが実況をする中継画面に目を注ぎ、ことりとめぐるが競り合いを始めているレース模様を見て、嬉しそうに笑った。

「あんな優しい子にもあるもんやな、怒りのスイッチっちゅうもんが」

「……逆鱗、か」

 迅雷は迅雷は低声こごえでそう呟くと、つばさに視線を転じた。

 つばさのあのどうしようもない提案が、ことりを怒らせてしまったらしい。だがその怒りさえ、迅雷にはとても優しいもののように感じた。

 迅雷はつばさとのマイクをオンにすると、静かに切り出した。

「聞いているか、つばさ」

「……お兄さん」

 そう云うつばさの声がひどく弱々しかったので、迅雷が思わず言葉に詰まると、つばさが嗄れた声で云った。

「ことりがあんな風に怒るところ、私は初めて見ました」

「……そうか。でもその怒りは、おまえを打ちのめしたり、叩きのめしたりするようなものじゃなかっただろう」

 うぐ、とつばさが喉の奥で唸る。

 それを見て、迅雷はこれ以上の言葉が不要であることを感じた。

「ことりの走りを見ていろ。俺からはそれだけだ」

 それから迅雷は翔子に視線をあてた。

「翔子はいいのか?」

「ん、云いたいことは全部りーちゃんが云ってくれた。ウチらから云うことはない」

「そうか。じゃ、そういうことだ」

 迅雷はつばさとのマイクをオフにすると、そこからは翔子と二人してことりの勝負を見守りにかかった。もちろん翔子はピットから適宜必要な指示を出したり情報を与えたりするのだが、迅雷の方は完全に見守る構えであった。

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