第六話 羽ばたく者たち 第二幕 ハート・セットオン・ファイア(4)


        ◇


「第九ラップもいよいよ大詰め、今、ラブモンキーが先頭を走って最終コーナーをターン! リトルバードが僅かに遅れてそれに続く! このあとは第十ラップ、リレー形式のTSRは全三十周、第一走者にとってはこれが最終ラップです!」

 そんなジェニファーの実況を聞きながら、ことりはどうにも攻めあぐねていた。

 ――隙が、ない!

 ことりがああいう宣言をしたせいだろうか、あのあとすぐホケキョがチームオーダーとして、これまでのような自由な走りを許さぬ指令をめぐるに出した。それはマルチ通信でお互いのピットワークが筒抜けになっているので、ことりにも聞こえていた。

 奔放不羈ほんぽうふきのめぐるがそれに素直に従うかという点でことりは疑問があったのだが、どうやらホケキョにはリーダーの威があったらしく、実際のところあれからめぐるの走りはあきらかに変わっていた。それまではむらっ気のある走りで、S字を素晴らしい速度で駆け抜けたかと思えば、コーナーでクルマをやけに振り回したりと、良く云えば自由、悪く云えば不安定な走りであった。それがここ二周は全体として引き締まった走り方をしている。

 ――警戒してるんだ、この人も。

 そしてこの順位変動が起こりにくい鈴鹿で堅実無比な走りをされると、どうしても相手を抜き去るチャンスが見えないのだった。

 ――迅雷さんならブルーブレイブのマシンパワーとそれを扱う技倆でとっくに一位を走ってたと思うけど。

 実際、先頭を走っているめぐるのラップタイムですら、F1ドライバーやフォーミュラクラスのバーチャルレーサーが叩き出した鈴鹿のコースレコードには遠く及ばぬのが現実であった。その領域に到達しているレーサーなど、そういるものではない。それはことりもめぐるも同じことだ。

 ――私は迅雷さんじゃないんだから、そんなこと考えても仕方ない。今ある手札でなんとかしないと!

 そのとき、めぐるとことりが相次いでコントロールラインを駆け抜けていった。

「さあ、第一走者のファイナルラップです! このままラブモンキーがジャッジメント・ホイールに一番手でバトンを渡すのか、それとも番狂わせが起きるのか! リトルバードはラブモンキーの真後ろにつけている!」

 と、しばらく黙っていためぐるが笑いを含んだ声で云う。

「へへん。どうしたの、ことりちゃん。私を抜くんでしょ?」

「……抜きますよ」

 ことりはそう云って、鈴鹿では順位変動が起こりやすい勝負所の一つ、第一コーナーを目指して加速した。だが。

「ラブモンキーが第一コーナーをターン! 綺麗なコーナリングです。終盤に来てミスが少なくなって、タイトな走りに変わってきました!」

 ジェニファーの実況通り、今度も先に最短経路クリティカルを走ったのはめぐるであった。

「はい、残念」

 そう云って笑っためぐるは、第二コーナーの先のS字も軽快に突破していく。S字を制す者は鈴鹿を制すと云うけれど、結局ファイナルラップまで彼女はここを制していた。

 そのS字でめぐるのティントレットに追いすがることりは、エキゾーストノートをBGMにして思考し続けている。

 ――私は迅雷さんじゃない。クルマもストレート特化型じゃない。相手がミスか油断をしてくれないと、私じゃ勝てない。なら、どこでなら油断してくれるの?

 このような思考に心が焼かれそうになっていると、S字を抜けたところでめぐるが話しかけてきた。

「あと危ないところは最終コーナー手前のシケインか。でもデグナーでもマッチャンでもスプーンでも一三〇Rでも油断なんかしない! 私が一番だ! ことりちゃんはあとから追いかけてきなよ!」

 そうして、めぐるは左の高速ロングコーナーを悠々と走っていく。この先はデグナーカーブだが、めぐるは油断しないと云っていた。そう、順位変動に繋がるような大ミスを、この最終ラップで気力充実しているめぐるに期待するのは都合が良すぎる。

 ――どうすれば。

 そうこうしているうちにデグナーカーブも抜けてしまった。その先は立体交差橋だ。

「さあ、先頭を走る二人は橋の下をくぐって西コースへ! ここからサーキットは左回りです!」

 この先は短いストレートがあり、緩めの右コーナーを抜ければヘアピンである。

 ――ヘアピン?

 このとき、ことりの脳裏に閃くものがあった。昨日、予選前のフリー走行の一周目、迅雷がこんなことを云っていたのだ。

 ――ヘアピンでは普通は勝負しない。が、そういう油断をついて仕掛けてくる奴がたまにいる。昔、ある日本人ドライバーがそれをやって話題にもなった。気をつけることだ。

「……ヘアピン」

 ことりは誰にも聞かれないよう、口のなかだけでそう呟いた。めぐる以下、ことりも、そのあとに続く者たちも凄まじい速度でサーキットを走破していき、考えている時間はもうない。

 ――一か八か。

 ことりはそう腹を括ると、ヘアピン手前の右コーナーでわざと失速した。ミスに見せかけたのだ。

「おっと、リトルバード、なにか操作を誤ったか。すぐに立て直しましたが、前をゆくラブモンキーとのタイム差がコンマ数秒開いてしまいました! これは痛い!」

 そんなジェニファーの声に続いて、めぐるが笑いながら云う。

「そっちに先にミスが出ちゃったね。ま、こんなもんだよ、ことりちゃんはさ!」

 そしてめぐるは、ヘアピンに向かって加速していく。ヘアピンを回るにしては、少し危険な速度だ。それを見て、ことりは下唇を噛んで興奮をどうにか抑えこんだ。

 ――引っかかっちゃった?

 もちろん、今の失速は撒き餌なのだ。

 めぐるはもともと遊びのある走りをするタイプで、良くも悪くも自分が楽しく走るレーサーであった。それが先ほどのことりのオーバーテイク宣言以来、手堅い走りに切り替えてここまで走ってきたのだ。

 ストレスがたまっているのではないか。

 ことりはなんとなくそう思い、ヘアピンで仕掛けてくるはずがないという先入観のあるところへ、さらに自分のミスを加えることで、油断してくれないかしらんと願いながらわざとミスをしてコンマ数秒のタイムを捨てたのだ。

 その甲斐はあった。

 今、先をゆくめぐるが過剰な速度でヘアピンに突っ込んでいく。

「ひゃっほう!」

 そう嬉しそうに叫ぶめぐるは、開放的でさえあった。ヘアピンで仕掛けられるなんてありえないし、多少タイムをロスしてもことりのミスの分で帳消しにできると思ったのであろう。なにより楽しみたかった。それが命取りだ。

「ゴー!」

 ことりが自分で自分に号令を下したとき、いきなり加速したノーブルクレーンがヘアピンに突っ込んでいく。

「ん?」とめぐる。

「リトルバードが仕掛けた!」

 ジェニファーが仰天して叫ぶ。

 そしてヘアピンをターンしようということりのノーブルクレーンを、キャノピー越しに捉えたらしいめぐるが、状況を把握して叫んだ。

「嘘お! ヘアピンで仕掛けてくるなんて、そんな馬鹿な――」

 外側へ膨らんでいためぐるのティントレットも、慌てて減速してターンしようとした。

 めぐるが速いかことりが速いか、微妙なところだ。

「どっちのノーズが先だ――!」

 ジェニファーは判断を迷っているようだったが、めぐるはここぞとばかりに叫んでくる。

「ふざけんな、絶対こっちの方が先にノーズ入ってるから! 引けよ!」

 コーナリングではターンが同時になった場合、先にマシンの鼻先ノーズがコーナーの出口を向いた方に優先権があるものだ。それがルールではなくともマナーであり、それを見極めるのが一流のレーサーであり、ノーズの入るのが遅れたと思ったら素直に引き下がるのがクリーンファイトである。

 だが実際のところ、めぐるとことりのどちらのノーズが先に入っているのかは、微妙なところだと思った。ほとんど同時に見える。めぐるの方が速いと云えばそうかもしれないし、ことりの方が速いと云えばやはりそうかもしれない。

「引けってばあ!」

 めぐるの声は懇願の響きを帯びてさえいた。

「下手をすればぶつかるぞ!」

 と、ジェニファーも叫ぶ。

 ――そうだけど、ここで引いたらもうチャンスがない。本当に負けちゃう!

 こういう状況になったとき、ことりはいつも自分が一歩引いて相手を先に行かせてきた。それがことりという女の子の性格なのだ。

 だが今度ばかりは引けない。世界で一番大切な姉の運命がかかっている。

 叫んで自分を奮い立たせたいところだが、ことりはそれよりもっとおまじないのような言葉を探していた。自分で自分に勇気の魔法をかけたかった。

 ――なにか、なんでもいい。世界で一番、勇気の溢れてくる言葉!

「迅雷さん、愛してる!」

「はっ?」

 すべての明暗が分かれたその一瞬、ことりが勇気を奮い起こすために真面目に叫んだそれは、めぐるにとっては背中への不意打ちであったのかもしれない。

 ノーブルクレーンが加速し、ティントレットがガクンと失速する。

「しま――っ」

 めぐるは慌ててマシンを立て直したがもう遅い。ことりのノーブルクレーンが先にヘアピンを脱出し、ティントレットの半秒ほど先を行っていた。

「なんとなんとなんと! リトルバードが、まさかのヘアピンでオーバーテイキング! 一位に躍り出ました!」

 おおっ、と翔子などは叫んでいる。この模様を中継で見ていた多くの人々も唸ったかもしれない。ただ当のことりは浮かれてはいられなかった。まだつばさにトップでバトンを渡すための足がかりを得ただけで、残り半周、今から死に物狂いだ。

 一方、ストームヴィーナスのピット画面ではホケキョが雷を落としていた。

「お馬鹿! あれほど油断するなと――」

 そう、めぐるがヘアピンで遊びさえしなければ、ことりがわざと犯したミスに釣られさえしなければ、ここまでのタイトな走りでストレスが溜まってさえいなければ、あそこでのオーバーテイキングはなかったに違いない。

「このレース始まって初めて、ラブモンキーは順位後退! いえ、第七ブロックの予選のあいだも常にトップを走り続けてきたチーム・ストームヴィーナスが、初めて二位に後退しました!」

 そんなジェニファーの語りを聞くまでもなく、めぐるははや目色を変えていた。ことりにまんまとしてやられたことが、彼女にこれまでにない闘争の炎を与えていたのだ。

「まだだ、こっからもういっぺん抜いてやる!」

 そして追う者と追われる者の猛攻が始まる。

 二〇〇Rと二五〇Rの右コーナーを抜けたことりは、続くスプーンカーブに向かって備えた。頭のなかには迅雷の再三に亘る教えが反響を繰り返している。もちろんそれを実践できるかどうかはまた別の話だが、ことりには焦りはない。

 ――大丈夫。めぐるさんは遊びのある走りをしてきたからタイヤはそんなに残ってないはず。あとは私がミスさえしなければ、競り負けたりしない!

 ことりはインの縁石にタイヤを引っかけてスプーンに突入、立ち上がり外側の縁石を目安にしてターンを行い、スプーン出口のコーナーに対してアプローチを開始する。

 ――突入、ターンして、続く西ストレートに備えて高速で脱出する。

 そんなことりのコーナリングを目の当たりにしためぐるが、歯がみしながら叫ぶ。

「くそっ、最短経路クリティカル取られた!」

「リトルバード、ここに来てスプーンを見事な速度で脱出しました。この十周で今のが一番速かったかもしれません!」

 そんなジェニファーの賞賛も右から左で、ことりはこの長いバックストレートを駆け抜けているあいだに心を落ち着けていた。この先は問題の一三〇Rだ。

 と、ここでめぐるが声をかけてきた。

「おい、ことりちゃん。そんなスピードで大丈夫か? 怖いだろ?」

「怖くないです! だってゲームだし!」

「クラッシュするぞ!」

「一回しました!」

 既にことりは迅雷の命令で、フリー走行中に一三〇Rでクラッシュしている。だからか、もうあまり怖くない。目の前の光景と加速感覚があまりに現実的だから、ゲームとわかっていてもどうしても身が竦んでしまうのがオンライン・フォーミュラだが、一度クラッシュした身にはもう怖いものなどなにもなかった。

 そして一三〇Rである。

「リトルバード、一三〇Rを全開で駆け抜けていく! ここに来て初めてコツを掴んだか! だがラブモンキーも負けてはいない! 残す勝負所はシケインだけだ!」

「……くそっ、くそおっ!」

 めぐるの心底悔しげな叫びが聞こえてくる。それが自分への敵意さえ孕んでいるように聞こえてきて、平生のことりであれば臆していたかもしれないが、今のことりは揺るがない。

 一方、ジェニファーの視線は予備ストレートに移ったようだ。

「そしてそろそろ、予備ストレートに待機している二番手のマシンが走り出さないと間に合わないころですが……」

「さあ、お姉ちゃん! バトンを渡すよ!」

 そう叫ぶことりを、つばさはカメラ越しに信じられないように見つめていた。

「ことり、本当に、おまえは……」

 つばさはまだヘルメットもかぶっていない。このままことりが最後のシケインにおけるブレーキング勝負も間違わずに一位で最終コーナーを回ったとき、それを黙って見送るつもりであろうか。

 ことりのこの走りを、すべて台無しにして?

「……くそ」

 つばさがそんな風に呻くのが、ことりにも聞こえた。姉の胸でいかなる葛藤が起こっているのか、それはわからない。わからないまま、ただ信じて、ことりは最後のシケインに臨む。そのブレーキング勝負も、間違わない。

 ここに至ってなお動き出さないつばさを、ジェニファーも訝ったらしい。

「ダークネス・プリンセスはどうした? ジャッジメント・ホイールは既にゆるりと動き出したぞ!」

 ジャッジメント・ホイールこと氷車千早は当然、めぐるからバトンを受け取ろうとしている。一方、つばさはまだ動かない。

 ことりは祈りを込めて叫んだ。

「お姉ちゃん!」

「くそおおおっ!」

 つばさは乱暴にヘルメットをかぶると、顎紐も締めないままステアリングを握りしめてギアを一速に入れた。千早に遅れてつばさのマシンが発進する。

「ダークネス・プリンセス、やっと動き出しました! ギリギリのところだ!」

 そしてシケインで減速したことりやめぐると、予備ストレートから加速してきたつばさや千早が、それぞれのパートナーと交錯する。

 バトンを受け取る側はゴースト状態、まさしく幽霊のように、それぞれのパートナーのマシンに取り憑いて走る。

「憑依オッケーや!」

 翔子がそう叫び、ことりは自分のノーブルクレーンにつばさのエーベルージュが重なって走っているのを感覚しながら最終コーナーを回り、コントロールラインに向かってひた走った。

 そこへつばさが声をかけてくる。

「加速しながらコントロールラインを目指せ、私が合わせる」

「うん!」

 TSRでは、バトンを受け取る側がフライングさえしなければ一発退場にはならない。むしろことりは、気持ち先行した方がよいのだ。

 そんなことりの真横につけて食い下がってくるマシンがある。めぐるだ。彼女はストレートの残りが少なくなってくるのに及んで、コックピットのなかでじたばたしているらしかった。

「やだやだやだ! 一番! 一番がいいんだ!」

 そう駄々をこねるめぐるとの通信画面から、千早の叫びが聞こえてきた。

「めぐる、私に呼吸を合わせろ!」

 そう、つばさはことりに合わせられているのに、千早はめぐるに合わせられていない。これにはジェニファーも意外そうであった。

「ラブモンキーとジャッジメント・ホイールはかつてバトンタッチのタイム差ゼロを二連続で成し遂げた奇跡のコンビですが、今日はどうしたことだ、合っていないぞ! ラブモンキーが先行し過ぎているのがはっきり判ります!」

「めぐる!」

 ふたたび叫んだ千早に対し、めぐるはカメラではなくキャノピー越しにことりを睨みながら云う。

「バトンとか関係ないし! こいつを抜いてやるんだ!」

「これはチーム戦だぞ!」

 たとえめぐるがことりに遅れを取ったところで、後を託された千早や真玖郎が取り戻せばよい。だがめぐるの頭からは、そんなことは飛んでいるようだった。彼女はもうことりに勝つことしか考えていない。

 ――レーサーなんですね、めぐるさん。でも、もうストレートは残ってないです。

 そしてあくまでもことりと張り合おうとするめぐるを見て、千早は匙を投げたようである。

「この愚か者め」

 その言葉が少しだけ嬉しそうだったのは、ことりの気のせいであろうか。

 そして。

「リトルバードがコントロールラインを越えた! 第一ターンの首位はチーム・ソアリング! わずかに遅れてストームヴィーナスのラブモンキー! そして第一走者はゴーストになり、第二走者が第十一ラップに突入していきます!」

 ことりは自分のマシンがゴースト状態になっているのを感じてアクセルを抜いた。もうあと数秒で、コース上から消失するはずである。

 彼我のマシンが消え去る刹那、またしてもめぐるの悔しそうな叫びが聞こえた。

「くそ!」

 こうして自分たちのセッションが終わってみると、ことりはなんだかめぐるに悪いことをしたような気がして謝りたくなったが、それをしたらめぐるにどう思われるかは想像がついたので黙っておいた。

「りーちゃん、お疲れ。素晴らしかったわ、最高や!」

「ど、どうも……」

 翔子の言葉にことりが面映ゆそうに返事をしたとき、ジェニファーが云う。

「さて第一走者はリトルバードがひとまずの勝利を占めましたが、TSRで重要なのはバトンタッチの誤差です! 結論から云いますと、ダークネス・プリンセスはリトルバードに〇・二七秒遅れてコントロールラインを駆け抜けましたので、最終的なタイムに〇・五四秒のマイナス修正がかかります。一方でジャッジメント・ホイールはラブモンキーに遅れることまさかの〇・六六秒、つまり最終タイムにマイナス一・三二秒の借金を背負うことになりました。そして二番手と最終走者のバトンタッチがどうなるかでまだ変わってきますが、現時点でチーム・ストームヴィーナスはチーム・ソアリングに対し、〇・七八秒の差をつけて勝たなくてはなりません! これは少し苦しくなったか!」

 そしてジェニファーは、そこから三位以下のバトンタッチのタイム差についても早口で触れていく。

「ことり」

 迅雷の声にことりははっとして居住まいを正した。思い出したのだ。ヘアピンで、自分がなにを口走ってしまったのか。

 ――迅雷さん、愛してる!

 たちまちことりは耳まで真っになったのだが、ヘルメットをしていて助かった。

 そんなことりの様子に気づいていないのか、それとも気づいていて今はレースを見据えているのか、迅雷はヘッドセットのマイクに向かって云う。

「お疲れさん。そしてシート交代だ」

 当然、次はことりの使っていたエントリーシートから迅雷がログインするのだ。ことりは一つ頷いて気持ちを切り替えると中継画面の方に目をやった。

「あの、お姉ちゃんは――」

「見ての通り、走り出したさ。ここからはあいつの勝負だ。黙って見守ってやろう」

 迅雷はそう云うとヘッドセットをむしり取るように外し、カメラの前から姿を消した。それを見て、ことりは急いでシートの排出にかかった。


        ◇


 TSR本戦、第十一ラップ。ここから走者は中継ぎに切り替わる。そのレース模様を見ながらジェニファーが云った。

「チーム・ソアリングを先頭に、すべてのチームが第二走者にバトンを渡し終えました。フライングはありません。タイムの差はあれ、十二チームすべてが中盤戦へと突入します。ここまで来るとさすがに上位と下位では大きな差が生じていますが、まだ周回遅れが出るほどではありません。そして先頭集団は非常に僅差で走っております。ただしバトン受け渡しの際に生じたタイムラグがもたらす借金があり、チーム・ソアリングのそれは〇・五四秒、チーム。ストームヴィーナスのそれは一・三二秒、差し引きしてソアリングはストームヴィーナスに対し、〇・七八秒の貯金を得たことになります!」

 ジェニファーがそこまでを語り終えたとき、つばさはデグナーカーブを抜けて立体交差橋の下をくぐり抜けたところであったが、こう思った。

 ――コンマ一秒を削るのが大変なモータースポーツで、〇・七八秒の貯金をもらった。非常に有利だ。

 と、そのとき左上の通信画面の一つで千早が云った。

「やれやれ、非常に不利になったな」

 そうだろう。この貯金ないし借金は、まだ第二走者と最終走者のバトンタッチでいかようにもひっくり返るとはいえ、追う側の心理としては苦しいはずだ。

 だが、つばさの僻目ひがめでなければ、千早は焦慮に駆られていなければ、忌々しげな様子もない。彼女はステアリングを軽快に捌きながら楽々と云う。

「だがまあ、仲間がミスしたときは仲間が取り戻す。それがチームというものだよ。君も色々あったようだが、戦う準備は万端か?」

 つばさはぎりりと奥歯を噛みしめた。実のところまだ心は千々に乱れている。しかし、それでもつばさは走り出していた。自分の魂のかたちが、あの状態でレースを投げることを許さなかった。

「……ことりが、妹があれだけの走りをしたのだ。宣言通り、苦手なオーバーテイクまでして。だから、ここで私が負けるわけにはいかん」

結構よろしい。そうでなくては、張り合いがないというもの」

 そう云って千早がくつくつと笑ったところで、一連のバトンタッチとそれに伴うペナルティ・タイムの話をしていたジェニファーが、先頭集団に目を向けた。

「さあ、今トップでヘアピンを回ったのはダークネス・プリンセス。マシンは赤いエーベルージュ! それを僅差で追うのがジャッジメント・ホイール。マシンは紫のラスィリューザーです!」

 ラスィリューザー、というのが千早のマシンの名前だった。色は青よりの紫だから、ことりのノーブルクレーンと同じくストレートとコーナーの二点特化タイプ。ただし完全に均等にポイントを振っているわけではなく、ストレートの方に偏っている。

 中継映像の画面が映すラスィリューザーを瞥見したつばさは、次に自分のコックピットの左上に展開している通信画面を上から順に見た。自陣ピット、中継映像、千早、さらにはストームヴィーナスのピットである。もうすぐこれに迅雷との通信画面も加わるだろう。

「……ちょっと通信画面が多すぎるな」

 それに今さらではあるのだが、やはり交戦中の相手チームとマルチ通信をしてピットワークも筒抜けというのは問題ではないだろうか。

「氷車千早、おまえはこのまま私と通信しながら走っていいのか?」

 やはり通信を切った方がいいのではないか、という気持ちを言外に匂わせての問いだったが、しかし千早は笑いを含んだ声で云った。

「もちろんだよ、プリンセス。我々の勝負はまだ始まったばかりだ。楽しもうじゃないか」

「楽しむ?」

「そうだ。楽しんで走り、そして私が最後には勝つ」

「抜かせ、私は負けない」

 ことりが一位でバトンを繋いでくれたのに、姉の自分が二位に転落してしまってはあまりに情けない。

 つばさは本能的に千早の挑戦に応じ、それによって通信を切るという選択肢もなくなり、そして駄々をこねていたのが嘘のように千早に勝つつもりになった。

 千早がヘルメットの下でにやっと笑ったようだった。

「我が名はジャッジメント・ホイール、日本語で云うと審判の車輪。愛車の名前はラスィリューザー。それでは……推して参る!」


▼第六話第二幕あとがき

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

第六話第二幕はこれで終わりです。

次の第三幕は短いので、七月中にアップするか、第四幕と一緒に八月にアップするかといった予定で作業を進めております。

どうにせよ、頑張りますのでお待ちいただけたら幸いです。

それではまた次回。

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