第六話 羽ばたく者たち 第一幕 立ちはだかるは嵐(2)

 鈴鹿サーキット。

 三重県鈴鹿市にある、云わずと知れた日本を代表するサーキットで、F1の日本グランプリも基本的にはここで行われる。ハイスピードセクションとテクニカルセクションのバランスがよく、世界でも指折りの名サーキットと評価を受けており、その特徴の第一は八の字をしていることだ。

「ことり、つばさ。おまえら、過去のイベントレースで鈴鹿を走ったことは?」

「ないです」

「ありません」

 順にことり、つばさの返答である。その尾について翔子も云った。

「海外やと鈴鹿はイベントレースでよう使われるらしいけど、日本は地元のせいか、逆に鈴鹿が舞台になることは少ないんや。OFが正式稼働して三年、ウチも鈴鹿を走ったことはない」

「……マジか」

 となると、少し厄介なことになりそうだ。

 映像のなかではサーキットを映す角度が変わり、今度は横から見たものになっている。起伏に富んだ、アップダウンの激しいサーキットであることがよくわかる。

 そこへジェニファーの解説が入った。

「御覧下さい、TSR仕様ということで、メインストレートの反対側にバトンタッチのための予備ストレートが増設されている以外は、本物の鈴鹿サーキットとほぼ同一レイアウトです。わたくしが『ほぼ』と云ったのは、リアルの鈴鹿とは一つだけ違う点があることを意味しています」

「うん?」

 そう小首を傾げた迅雷の隣で、翔子がジェニファーに先んじて云った。

「ああ、そうそう。OFの鈴鹿は一三〇Rがほんまもんの一三〇Rやねん」

「なに?」

 目を丸くした迅雷に、今度は中継からジェニファーが云う。

「リアルの鈴鹿サーキットは大昔、二〇〇三年に改修工事をしているのですが、OFにおける鈴鹿はバックストレートの出口が改修前の仕様になっています。この点については、のちほど詳しくお伝えしましょう。それよりそろそろフリー走行の時間です」

 ――一三〇Rが、本物の一三〇Rだと?

 それは予想しえなかったことで、迅雷は一瞬立ち尽くしてしまった。

 一方、ことりはそんなことより鈴鹿サーキットの構造自体が気がかりなようで、エントリーシートとの通信画面のなかで顔を曇らせている。

「前に鈴鹿のレースを観戦したときに、もっとちゃんとレイアウトを覚えておけばよかった……これ八の字ってことは、左回りと右回りが複合してるんですよね」

「あ、ああ……」

 自分が驚いていてはことりも不安がるだろうと思い、迅雷は気を取り直すと微笑んだ。

「でも俺がこのあいだ走った飛行機雲サーキットよりはぶっ飛んでないから安心しろ。それにここはリアルで何度か走っているからアドバイスも出来る」

 迅雷はことりにそう云うと、次につばさとの通信画面を見た。つばさの方は落ち着き払ったものである。

「……OFの公式レースにおいて、直近で鈴鹿が使われたのはフォーミュラクラスのみが参戦できるOFのワールドグランプリでしたね。お兄さんのライバルであるナイト・ファルコンは走っているはずですが、ほとんどのドライバーにとっては未知のサーキット。つまり条件は同じですから、必要以上に恐れることはないでしょう」

 つばさの冷静な態度に迅雷は笑みを見せ、相槌を打つとことりに目を戻した。

「聞いたか、ことり。そういうことだから、どんと行こうぜ」

「は、はい」

「それにこのサーキットは、ドライバーとしてはなかなか攻略しがいのあるサーキットだ。スペシャルサーキットって、公式主催のイベントレースじゃないと走れないんだろ? せっかくの機会だから楽しむことだな。俺もちょっと楽しみだ」

 ――この時代に生まれて、本物の一三〇Rを体験できるとは思わなかった。

 浮き立つ迅雷の腰のあたりを、翔子が軽く叩いてきた。

「迅雷君、いつまでも突っ立っとらんと座りなさい。りーちゃんはログインして。フリー走行の時間は四十五分しかない。チームでセッティング情報を共有できるとはいえ、このあいだに三人が入れ替わり立ち替わり走らないかんから忙しいよ?」

「は、はい」

 ことりがログインするのを画面越しに見ながら、迅雷は翔子の隣の席に座った。中継画面はふたたびジェニファーを映している。

「フリー走行は予選の本番と同じく十ブロックに分かれて行われます。各チームの一番手はグリッドではなくピットのなかにポップアップ、ピットロードを出てコースに入って下さい。なお時間の関係上、一チームにつき二人までが同時にフリー走行をすることが許可されています! ガンガン走って、このサーキットをものにしちゃって下さい!」

「じゃあ私もログインしますか」

 つばさが微笑んでそう云ったのだが、それを翔子が制す。

「待って、さっちゃん。とりあえず最初の一周だけはりーちゃんが一人で走って。で、迅雷君は鈴鹿のことよう知ってるはずやからナビゲートしてあげて。さっちゃんはそれを聞いてること。りーちゃんが一周してきたらさっちゃんもログインしよう」

 チームリーダーである翔子の指示に、誰もいちいち反駁したりはしない。

 こういう次第で各人が手続きを進めていく。それを見守りながら迅雷はことりとつばさの二人に語った。

「鈴鹿は一周約五・八キロメートル。見ての通り八の字型をしているわけだが、リアルだと東西にまたがっているんだ。八の字の前半が東コースで、後半が西コース。バーチャルでも太陽があるから一応は東西南北が設定されているはずだし、そう呼ぶことにしよう」

「了解です」

 ことりがバイザー越しにも緊張した面持ちで点頭した。つばさの方に目をやれば、彼女は迅雷の視線を受けてやはり頷いた。よし、と思って迅雷は云う。

「鈴鹿は道幅が狭くて抜くのが難しく、全体として順位変動オーバーテイクが起こりにくいサーキットだ。だから相手をいかに追い抜くかより、自分がベストなラップタイムを出せるかどうかが重要になってくる。名サーキットの呼び声も高いが、それはドライバーの腕前を試されるサーキットという意味であり、抜きつ抜かれつのバトルはそんなに見られないわけだ。そういう意味じゃことり、おまえ向きのサーキットかもしれないな」

「え?」

 目を丸くしたことりに、迅雷は笑いを含んだ声で云った。

「競り合いになる場面が少なければ、精神的には楽だろう?」

「せやな。りーちゃんにとっては都合がええやろ」

 翔子の茶々に相槌を打った迅雷は、気を取り直して続けた。

「ま、そうは云っても勝負所オーバーテイクポイントはある。一つはメインストレートの終わりの第一コーナー、もう一つは最終コーナー手前のシケインだ。それ以外の場所でもミスをすればやられるわけだから、決して油断していいわけじゃないぞ」

 そこまで話した迅雷は、時計を気にして云った。

「そろそろ時間だ。とりあえず二人ともコースレイアウトを見ておけ。あとは走りながら行こう」

「はい」

 と、姉妹が揃って返事をし、やがて時計の針は十一時四十五分を回った。総合実況のジェニファーが名残惜しげに云う。

「さあ、フリー走行開始です! ここからはわたくしが実況を務めるこの総合実況チャンネルのほか、各ブロックごとの中継チャンネルもスタート。目当てのチームやドライバーがいる場合はそちらのチャンネルに合わせて御覧下さい」

 迅雷としては、ジェニファーが実況をしてくれているこの総合中継の方がよいので、チャンネルはそのままにしておいた。

 ヘルメットを被ったことりがステアリングを握って云う。

「じゃあ、行きます」

 そうして、ピット内にポップアップしていたことりのマシンがゆっくりとピットロードに出て行った。それを総合実況画面でも捉えている。

「さて、わたくしは第一ブロックの方から見ていきましょうか。第一ブロックのポールポジションはチーム・ソアリング。今、その一番手であるリトルバードのマシンがピットロードに姿を現わしたところです。マシンは青と赤に均等にポイントを振った結果、薄青と薄紅の二色が配された特殊カラーリングのノーブルクレーンです!」

 ノーブルクレーン、と云うのがことりのマシンの名前であった。オンライン・フォーミュラでは、チューニングの傾向によってマシンのカラーリングが変わることは周知の事実だが、チューニングのためのDPを二点特化など特殊な振り方をすることでマシンの色が特殊仕様になる。ことりのノーブルクレーンの場合は、薄紅色の地に薄青色のラインが走っていた。エンジンを強化しつつ、コーナリングの安定性も取りにいった欲張りなチューニングである。もちろん、一歩間違えば器用貧乏に陥るので、良いことばかりではない。

「へえ」

 と、ことりはピットロードの出口に向かってとろとろ走りながら、左右を物珍しげにきょろきょろと見回していた。

 鈴鹿サーキットは八の字の前半が右回りで、ピットロードへの入り口は最終コーナーの内側にあった。つまりピットロードはメインストレートの右側に平行している。そのピットロードとメインストレートとのあいだには、お互いを隔てるピットウォールが巡らされていた。背の低い壁で、上半分はフェンスになっている。

 また各チームのピットはピットビルと呼ばれる建物の一階部分にあり、OFの鈴鹿はそのピットビルを忠実に再現していた。一方でメインストレートの左手側にはグランドスタンドがあり、CGによる観客を活き活きと描き出している。背景としては、近くの遊園地の観覧車などがあった。

 ことりはそれらを見て新鮮な驚きに打たれているようだ。

 そんなことりに迅雷は云う。

「ことり、左手のピットウォールがそろそろ途切れるだろう」

「あ、はい」

 云った傍からピットウォールがなくなり、ことりのマシンはいつでもメインストレートへ合流できるところまできた。だがまだ合流してはいけないのだ。

「壁がなくなっても白線があるのが見えるよな」

「はい」

「その白線を跨いでメインストレートに入るとペナルティを喰らう。しばらくはそのまままっすぐ走って、白線がなくなったところでコースに合流するんだ。ほとんど第一コーナーの手前だよ」

「事故防止ですね」

「そういうこと。本番でピットワークをする機会があるかどうかは判らんが、ピットウォールがなくなったあたりから加速を始めて、他のマシンの様子を見つつ、ストレートエンドでコースに合流だ。つばさも解ったか?」

「はい、ちゃんと聞いてますよ」

「よし」

 と、迅雷は一つ頷いた。ことりはみるみる加速していき、左手の白線が途切れるところまでやってきた。

「さあ、第一コーナーだ。ここからがフリー走行の本番だぞ」

 迅雷がそう云ったところで、ジェニファーもまた云う。

「さあ、今リトルバードのノーブルクレーンがコースに入ってきました。そのあとを追うようにして、他のチームのマシンもピットロードから出てきます。続いて第二ブロックの方を見てみましょうか」

 ジェニファーは総合実況だから、第一ブロックばかりを見ているわけにはゆかない。全十ブロックを、平等に実況する義務がある。

 ジェニファーの実況がよそのブロックへ移ったので、迅雷は彼女のことをいったん頭から閉め出すとことりに集中した。

「さっきもちょっと話したが、第一コーナーは鈴鹿最大の勝負所の一つだ。今回はピットから出てきたけど、本来は下り傾斜のついているメインストレートから突っ込んできて、ノーブレーキで右の第一コーナーを攻略することになる」

 するとことりはちょっと青ざめた。

「ブレーキ踏まないんですか?」

「そうだ。自信がないなら踏んでもいいが、そのとき勝負してる相手ドライバーが上手だったらまずやられるぞ。だから出来れば踏まずに第一コーナーをターンし、すぐ先にある第二コーナーへのアプローチに向けて要減速ブレーキ、そして第二コーナーも回れ。すると……」

 迅雷の言葉に合わせて、ことりのノーブルクレーンが第二コーナーを回る。ことりが軽く目を瞠った。

「あ、なんか上り傾斜がついてきましたね」

「そう、鈴鹿はこっから上りだ。しかも二つのS字が連続している。つまり四つのコーナーが、左、右、左、右と連続して襲いかかってくる」

「うええっ」

 そんな声をあげたことりに、今度は翔子が云う。

「りーちゃん、昔から『S字を制する者が鈴鹿を制す』云うてな。この二つのS字を正確かつ高速に走れへんと、このサーキットではタイム落とすねん」

 そこで言葉を切った翔子が、発破を掛けようと云うのか、ちょっと意地悪な顔をしてことりに云う。

「気合い入れて走らへんと、しばくよ?」

「そ、そんなっ……!」

 ヘルメット越しにも悲愴な顔をしたことりに、今度は迅雷が優しく云った。

「自分のなかでアクセルワークのリズムを作るんだ。今までだって色んなS字を攻略してきただろう? いつも通りにやればいけるさ……さあ!」

 話しているあいだもマシンは止まっていない。S字カーブに突入し、ことりは本能的な動きでステアリングを切り、リズミカルにアクセルワークを行った。

「左、右、左――」

 ――おお、やっぱり上手いな。

 迅雷は心でことりを褒めていた。ことりは他のドライバーとの競り合いになると途端に弱さを露呈するのだが、フリー走行のようにバトルの発生しない状況だと実に上手く走る。

 ――センスだけなら抜群なんだよな。ああ、もったいない。

 そしてことりが最後の右コーナーにアプローチしたときだった。

「あ、あれっ? この右コーナー、逆バンクついてませんか?」

「それは錯覚だ。実際には傾斜カントがついてないだけでフラットだ」

 サーキットのコーナーは遠心力を軽減する目的で、内側を中心にすり鉢状の傾斜がついているのが普通だ。ただこの連続するS字の最後の右コーナーにだけは、敢えて傾斜がつけられていない。それがドライバーの目には、外側を中心とした傾斜がついているような、いわゆる逆バンクに見えてしまう。

「へえ」

 と、感心したような声をあげることりは、その右コーナーも難なく突破していった。

「あ、観覧車」

 と、ことりが楽しげに云ったように、S字の立ち上がりでは背景の観覧車が綺麗に見える。そこへ迅雷が穏やかな声で云った。

「S字からの立ち上がりはもっと速くだ。そこまでやって初めてS字を制したと云える」

「は、はい」

 そしていよいよ、上り傾斜がきつくなってくる。

 ギアを落として対応していることりに迅雷が云う。

「ここからは左の高速ロングコーナーだ。ダンロップコーナーでもあるから、つまり東コースでもっとも標高の高いところになる。ちなみにここはリアルで走ると横Gが超きついんだけど……」

「たしかにちょっときついかも。でも私は仮想Gフォースを一五パーセントにカットして走ってますから平気です」

 そう云うことりから、別のカメラの映像に視線を移せば、左の高速ロングコーナーを素晴らしい速度で走っていくノーブルクレーンの姿が見えた。あれを仮想Gフォース一〇〇パーセントで走っている迅雷がやると、錯覚とはいえ脳が凄まじい負荷を感じて大変なのだ。

 翔子が迅雷の二の腕を片手で軽く叩いた。

「迅雷君はここ頑張ろうね」

「……ああ」

 そのころ、ことりはもうダンロップコーナーの頂点ピークを過ぎたところだった。

「下りになるぞ。荷重が前に移るから気をつけろ。油断しているとリアが滑ってしまうからな」

「はい」

 ことりはそう返事をし、続く右コーナーに向かって駆け下っていく。その右コーナーはデグナーと呼ばれていた。

「次、デグナーカーブ。右、右、と二つの右コーナーが続く。一つ目の右コーナー、デグナー・ワンへはオーバースピード気味に進入してタイムを稼ぎたいところだが、それが簡単なようでいて実は意外と難しい。コースオフと紙一重だからここは安全に行こう」

 するとことりはあからさまに安堵したようだった。

 迅雷としてはことりにやらせてみたい気持ちもあったが、練習時間が限られている以上、大ミスに繋がるような危険なチャレンジは避けて通るのも一つの戦術である。

 ――それに予選から鈴鹿を完璧に走れる奴がごろごろいるとは思えないしな。

 迅雷は胸裡にそう付け加えると続けて云った。

「そして二つ目のデグナー・ツーはほとんど直角に曲がるからきちんと減速しろよ」

「はい」

 云われた通りにしてデグナーカーブを抜けたことりが、その先の直線に入ったところで、ちょっと嬉しそうに云った。

「迅雷さん、橋です」

「ああ、八の字の中心だな」

 鈴鹿は立体交差橋を持つ八の字型のサーキットだ。バックストレートが下の道に架かる橋になっており、デグナー・ツーを回るとすぐにその橋が見え、ことりは今、橋の下を駆け抜けたところだった。コースは東から西へ移る。道はまた上り傾斜がついてきており、緩やかな右コーナーを突破した先がヘアピンである。

「ヘアピンだ。ここからコースは左回りになるぞ」

「はい」

 そう返事をしたことりが、ゆったりとヘアピンを回りながら云う。

「私、ヘアピンは好きです。ここだけはみんなゆっくりしてて、仕掛けられることもないから……」

「そうやって油断してると、ヘアピンで仕掛けられたりするんだぞ?」

「えっ」

 絶句したことりに、迅雷は笑って云う。

「ヘアピンでは普通は勝負しない。が、そういう油断をついて仕掛けてくる奴がたまにいる。昔、ある日本人ドライバーがそれをやって話題にもなった。気をつけることだ」

「えええっ」

 ことりは不満そうだったが、これ以上の無駄話をしている時間はない。

「次は下りの緩やかな右コーナーだ。複合コーナーで、入り口が二〇〇R、出口が二五〇Rになっている……確認しておくが、Rの意味はわかるよな?」

「もちろんわかりますよ。半径ラディウスですよね」

「そう。だからたとえば二〇〇Rのコーナーなら、半径二〇〇メートルの円の円周を走っているのに等しい……そしてこの複合を乗り越えた先がスプーンカーブだ」

 スプーンカーブはコースの折り返しとなる場所で、現実の鈴鹿サーキットでは西端に位置する。左コーナーだが、Rの付き方が違う五つの複合コーナーとなっており、それが全体として匙のようなかたちをしているため、スプーンカーブと呼ばれる。だが迅雷の個人的な意見としては、スプーンと云うよりしゃもじの形に似ていると思う。ともかくそういう、大回りの左コーナーだ。

「コースレイアウトに添えられているRの数字を見ればわかることだが、ここは五つの複合コーナーになっている」

 それを聞いたことりが目を剥いた。

「複合……それも五つ! ということは、ライン取りはどうすれば――」

 Rの付き方が違えば、ベストなライン取りも変わってくる。しかもコーナーの出口に差し掛かると急な下り傾斜がつき始めるのだ。

「迅雷さん」

「落ち着け、ことり。まだフリー走行だ。ラインはいいから、コースを知る意味でも一度無難にぐるっと回ってみろよ」

「は、はい……」

「それに五つの複合と云っても、実際のところ一つの大きな左コーナーって感じで、正解のラインも一つしかない。そのラインを辿れるかどうかはドライバーの腕次第、そして本番の、他のマシンとの兼ね合いを含めた状況次第だ」

 付け加えるなら、仮想Gフォースを一五パーセントにカットして走っていることりやつばさでは、完璧なライン取りは恐らく出来ない。仮想Gフォースをカットしている分、タイヤが伝えてくる情報を真の意味で感覚することができないから、精妙なアクセルワークとブレーキングを求めるのは不可能なのだ。

 だがそれならそれで走りようはあると思いつつ、迅雷は明るい口調で云った。

「ま、ライン取りよりまず意識してほしいのは、スプーンは入るのが簡単で出るのが難しいコーナーってことだよ」

「出るのが難しい……? 出口が急な下り坂になってるからですか?」

 ことりは今まさにスプーンの出口の下り傾斜を通り過ぎたところだった。そしてその先は一転して上り傾斜がついており、長いストレートに続いていた。

「それもあるが、スプーンのあとが問題なんだよ。見ての通り、この先はバックストレートだ。だからいかに加速のついた状態でスプーンを脱出できるかどうかが重要になってくる。ストレートに入ってから加速するのと、加速した状態でストレートに入るのとでは大違いだからな。出るのが難しいっていうのは、そういうこと」

 ただコーナーを回るだけなら誰でも出来る。しかし加速をつけてコーナーを脱出しようとすると、途端に難易度が跳ね上がる。そういうものだ。

「な、なるほど。ということは、逆算して考えないと駄目ですね」

「そうだ!」

 ことりの頭の良さに迅雷は思わず大きな声でがえんじていた。

「本番ではタイヤの状態、他のマシンの位置など、状況と戦術が絡んでくるが、出口でいかにスピードに乗れているかってことを常に逆算してラインを考えるんだ。それがスプーンの纏め方だ」

「む、難しいですよ……」

 ことりは眉宇を曇らせてそう音を上げたが、迅雷は甘やかさなかった。

「難しくてもやるしかない。ただどうしてもスプーンが駄目なら、別のところで頑張って駄目だったところのタイムを取り戻すという手もある。そういう意味じゃ、鈴鹿はチャンスがいっぱいあるサーキットだ。たとえばS字がそうだし、この先もそうだ」

「……この先?」

 ことりはそう呟いたが、迅雷はなにも云わなかった。それは程なく知れることだからだ。

 そしてバックストレートである。西ストレートとも呼ばれるこの局面を見て、翔子がうきうきと云った。

「さあて、問題のところに来たね」

「ああ」

 翔子に相槌を打った迅雷は、通信画面のなかのことりを見据えて云う。

「さあ、ことり。鈴鹿最長、一二〇〇メートルのバックストレートだ。さっき橋の下をくぐったが、今度はその橋を渡ることになる。上り傾斜がついているな」

「はい。あと、なんかストレートって云うわりに、微妙に左に曲がってるような……」

「ああ、実際微妙に曲がってるから。左の方へ吸い込まれていくような感覚があるだろう。で、この先に立体交差橋があり、そこを渡ると一三〇Rと呼ばれる左コーナーが待ち構えている」

 そこで迅雷が翔子を見ると、翔子は一つ頷いて云った。

「Rはさっきりーちゃんが云ったように半径ってことや。てことは、Rについてる数字が小さくなればなるほど、コーナーはきつくなっていく。この場合、一三〇ってのが絶妙やねん」

「一三〇……」

 小さく呟いたことりは、少し怖じ気づいたようである。そんなことりと、そしてここまで黙って様子を窺っているつばさに語って聞かせるように翔子は云った。

「実際走ってみればわかることやけど、改修前の一三〇Rは世界一の高速左コーナーって呼ばれててな、ストレートで加速がたっぷりついたところへ一三〇Rのコーナーがあるってのが度胸試しにもなってすごく絶妙やったんやけど、絶妙すぎてみんな無茶しまくるせいでさすがに危なすぎるやろうってことになって、リアルの方じゃ二〇〇三年に改修されたわ。一三〇Rやのうて、八五Rと三四〇Rの複合コーナーになった。慣習として一三〇Rって呼ばれ続けてるけどな」

 そう語る翔子のあとを引き取って、迅雷がまた云う。

「S字はいかに速く駆け抜けられるか、スプーンはいかに速く脱出できるか、これは全部自分との戦いだ。そして一三〇Rも、やっぱり自分との戦いなんだ。勇気を持って速く駆け抜けろ。ここでのターンに失敗するとタイムにかなり響くし、逆に見事なターンを決めれば、他でのミスを取り戻すことができる」

「せや。上手くいけばタイムを稼げるし、S字やスプーンカーブでミスったときに挽回できるところやで」

 そうこうしているうちにノーブルクレーンはエキゾーストノートの唸りも高らかに、今、西側の頂上ピークにあたる部分を駆け抜け、立体交差橋を素晴らしい速度で渡っていく。だがそれを操ることりはちょっと及び腰だ。

「なんか、話を聞いてたらちょっと怖くなってきたんですけど」

 実際、今のことりは小藪の陰に隠れようとする小動物のような気配を漂わせ始めている。そこへ猿臂えんぴを伸ばして引きずり出そうというように、迅雷は力強く云った。

「臆せず突っ込め。ここは入り口が狭く見えるが、出口はがばっと広い。速度オーバー気味に突っ込んだところで、そう簡単にはクラッシュしない」

「OFのマシンはF1以上、速ければ速いほどダウンフォースもバリバリに効いてくるから、凄いスピードで曲がれるはずやで? 上手くすればタイム稼げるんやから、どーんと行こうや」

 そんな二人の煽りに、しかしことりは乗らなかった。冷静な視点で、迅雷や翔子の言葉の別の角度を覗き込んでくる。

「……でも、だからみんな突っ込んで、それで事故が起こって危ないってことになったから、二〇〇三年に改修されたんですよね?」

「……うん」

 そう云われると否定のしようもなく、迅雷は一つ頷いて黙ってしまった。沈黙が彼我のあいだを埋め、エキゾーストノートの音だけがする。

 と、ここで別のブロックに向いていたジェニファーの目が第一ブロックに戻り、立体交差橋を渡って一三〇Rに飛び込もうとしていることりに注目した。

「おっと、リトルバードが一三〇Rに向かう模様! 度胸試しの高速コーナー、F1の世界では世界最速の左コーナーとも云われています! さあ、フリー走行の一発目、リトルバードが先陣を切って突っ込む!」

 と、そんなジェニファーの勢いを借りて迅雷も云った。

「ほら、ジェニファーさんもああ云ってるぞ。行け、ことり!」

「りーちゃん、ゴー!」

「わああん!」

 そういう次第で、ことりは半ばやけっぱちに一三〇Rへ飛び込んでいったのだが、やはり臆したのか、迅雷が期待したほどのものを見せてはくれなかった。

 ただ一三〇Rの先には右、左と曲がるシケイン――つまり減速させることを目的とした連続コーナーがあるので、初見のことりにとって加速していなかったのはよかったかもしれない。

「ことり、そのシケインはブレーキングが難しいところだ。下手を打つと後ろから来たのに追い抜かれたりする」

「はい、わかります。ブレーキのタイミングを間違えたら追い抜かれちゃいますもんね」

「そう。第一コーナーと並ぶ、鈴鹿最大の勝負所だ。ジグザグになってるけどアウトから斜めに突っ込んで、ロスを減らしていけよ」

「はい!」

 一三〇Rを抜けて落ち着きを取り戻したらしいことりが、ここは上手くブレーキを踏んで華麗に乗り切った。初めてとは思えない鮮やかな手並みだ。

 ――ことりに足りないのはやっぱり勇気と闘争心か。

 だが、そうは思えど、こればかりは迅雷にはどうしようもない。誰かが、あるいはなにかが、ことりの心に火を着けてくれねばどうにもならぬ。

「迅雷君、最終コーナーやで」

「ああ」

 翔子にそう云われた迅雷は、最後のアドバイスをするべく声を起こした。

「そして最終コーナー、メインストレートに戻る右コーナーだ。内側にはピットインするためのピットロードがあり、今回はTSR用にメインストレートとは逆方向の走路が増設されているな」

「はい。コーナー自体は難しくないですけど、凄い下り坂……」

「そうだ。坂を駆け下ってメインストレートに突っ込み、第一コーナーで勝負、第二コーナーにアプローチするために減速。この一連の流れは覚えておけよ。というわけで、一周終わり」

 迅雷がそう云ったとき、折しもことりのノーブルクレーンが周回基準線コントロールラインを駆け抜けてフリー走行の二周目に突入したところであった。

「……では、私も行きましょうか」

 ことりのフリー走行を見守っていたつばさがそう云って沈黙を破ると、ピットから赤いマシンがゆっくりと姿を現わした。ここからはつばさのエーベルージュもフリー走行に加わることになる。

 サーキットでは全体として約二十台のマシンが走っていた。どのチームも時間を無駄にしたくないはずだし、一チームにつき二人までが同時にフリー走行をしてもよいということだから、当然こうなるに決まっていた。

「気を引き締めてかかれ」

 フリー走行へ向かうつばさにそう声をかけた迅雷は、それからも姉妹にあれこれとアドバイスをし続けた。一方で、つばさやことりがあれこれ翔子に情報と注文を上げてくる。それに応じて翔子がセッティングをリアルタイムで調整し、目まぐるしいほどの勢いでマシンとコースとドライバーの三角形トライアングルからなる最適な状態を探っていく。

 そんな高温のやりとりをしているうちに二十分が過ぎ、翔子がキーボードを叩く手を止めて迅雷に云った。

「迅雷君もそろそろりーちゃんと交代して。あんたのマシンも調整せないかん」

「ああ、わかってる。しかし三人で走るのにフリー走行が四十五分とは、ちょっと短いような、慌ただしいような感じがするな」

「まあね。でも運営は全部承知の上でわざと意地悪してん。ハードル上げてんのよ。対策なんてさせてあげませんよ、ぶっつけで対応して下さいね、って。ま、その代わりオンライン・フォーミュラではフリー走行中にセッティングの変更ができるけど。タイヤ以外」

 そこで楽しそうに笑った翔子は、迅雷を憧れるような目で見てくる。

「でも迅雷君には有利やろ。あんた適応力高いし、鈴鹿もリアルで経験済みやし」

「かもな。もっとも相手チームには社会人もいるだろうし、クルマが趣味なら一般利用できる日に鈴鹿で走った経験のある人もいるはずだ。だから俺だけが有利ってわけじゃない」

 迅雷はそう云うと、ヘッドセットを外して椅子から立ち上がった。

「だがそれでも、俺が一番速く走ってやるさ」

 迅雷はそう云って笑うと、棚のヘルメットを取ってことりの入っている筐体に向かった。


 フリー走行が終わり、休憩時間を迎えると、四人はピットブースのコンソール前に集まり、女たちは半円を描くようにして座っていた。迅雷だけは立っており、画面に表示された鈴鹿サーキットのコースレイアウトを指差しながら語る。

「さて、おさらいだ。鈴鹿は八の字型のサーキットで、コース長約五・八キロメートル、道幅は全体として狭く、順位変動の起こりやすいサーキットではない。その分、ドライバーの腕前が試される局面が多い。相手ドライバーとの勝負より、自分がいかにラップタイムを落とさないかの方が勝敗に関わってくる。S字をいかに速く駆け抜けるか、デグナーにどれだけ速く進入できるか、スプーンをいかに速く脱出して西ストレートに繋げるか、そして一三〇R……ほかにも難所がいっぱいあったな」

 そこで言葉を切った迅雷は、笑いを含んだ声で姉妹にこう尋ねた。

「それで、実際に走ってみてどうだった?」

「すごく難しいです。テクニカルサーキットって云うのがよくわかりました」

「正直四十五分のフリー走行では全然足りませんね。三日間くらいかけて何度も走り込みたいくらいですよ」

 順にことり、つばさの言葉である。迅雷は二人に頷き返し、楽しげに云った。

「でも、走り甲斐があっただろう? 抜きつ抜かれつの派手なオーバーテイクが見られるサーキットじゃないけど、ドライバーとしては走っていて楽しいサーキットなんだよ。だから人気も高い」

「それは、まあ、たしかに……」

 そう云って微笑みかけたつばさは、しかしその笑みを消すように慌てて片手で口元を覆った。迅雷はそれが気になったが、ことりのことも考えて話を続けた。

「鈴鹿の難易度は高い。初めて走るおまえたちがいきなり全部完璧にやれるなんて思ってないし、他のチームのドライバーだって完璧に走れる奴はそういないだろう。お互い、ミスはいっぱいあると思う。でもその上でみんな自分の最速を目指して走ってくるはずだ。おまえたちも自分たちのできる最速を目指して走れ」

 そこで姉妹は揃って頷いた。ことりは感情が前に出ていて、つばさは冷静な感じがする。どちらがより好ましいのか判断のつかぬまま、迅雷は続けた。

「さて、いくら順位変動が起こりにくいサーキットと云っても、勝負所オーバーテイクポイントがないわけじゃない。まあミスれば追い抜かれるわけだから、すべてが勝負所なんだが、特に順位変動が起こりやすいのは二箇所。メインストレートエンドの第一コーナーと、最終コーナー手前のシケインだ。第一コーナーで相手を追い抜くときは、青系統のクルマでマシンパワーに物を云わせたり、その手前のメインストレートでスリップを利用したりして十分な加速がついていなければならない。一方、シケインは減速するところだから、ブレーキ勝負だな。ここで相手より先にブレーキを踏んでしまって、まんまとしてやられるってことが往々にしてある。あとシケインの常として事故が多いから気をつけろ」

 迅雷がそう纏めたところで、今度は翔子がことりを見ながら云う。

「ところでりーちゃん、スプーンではだいぶ苦戦してたようやね」

 するとことりが伏し目になった。

「はい。あそこは、ちょっと難しくて。いくら主なオーバーテイクポイントが二箇所と云っても、実際は他のところでもどこでも、スプーンでも競り合いはあるでしょうし、逆算してコーナーを纏めるというのはわかりましたけど、本番ではどうなるか……」

 迅雷はそれに相槌を打って考え、云った。

「それならベストよりベターってことにするか」

「デグナー・ワンでスピード落として安全に入れって云うたように?」

「そういうことだ」

 翔子の言葉に笑って頷きを返した迅雷は、そのままことりに眼差しを据えた。

「ことり。スプーンのラインはさっき教えた通りだが、安全に行くならRを実際より大きめにとって、ギアを一枚落としていくといい。タイムはロスすることになるが、大ミスをするよりはマシなはずだし、ミスったときにトルクがある方がマシンを早く立て直せる」

「な、なるほど……」

「あとはくどいようだが、スプーンは脱出を第一に考えてコーナリング全体を組み立てることだ。本番では他のクルマも絡んでくるし、目の前でラインを取られたらどうしようもない。タイヤの状態だって周回を重ねるごとに変わってくる。そうした状況で、いかに速くスプーンから脱出できるかどうか……ドライバーの技倆が問われるところだぞ」

 ことりはそれを真剣な面持ちで聞いていた。

 つばさも話を聞いていないなどということはなかったが、ことりに比べると少し熱意が感じられないような気がする。それが迅雷には少し気にかかったが、そのときことりがふと思い出したように云った。

「でもスプーンからの脱出という意味では、迅雷さんの青いマシンって有利ですよね。単純にマシンパワーがあるんですから、コーナーからの脱出、絶対速いじゃないですか」

「ん? まあな。でもスプーンの攻略自体は赤いマシンの方が有利じゃないかな」

 そこで言葉を切った迅雷は、オンライン・フォーミュラの知識を掘り起こしながら続けた。

「赤いマシンはタイヤの耐久力、グリップ力、ブレーキ性能なんかにプラス補正がかかるんだろう?」

 四大ステータスのうち、コーナーにポイントを振るとマシンは赤くなるが、ではコーナリングにプラス補正がかかるとはどういうことかと云えば、こういうことなのだ。

 迅雷に確認の意味で問われたつばさは、ゆっくりと首肯うなずいた。

「それに足回りの故障率の低下がありますね。黄色はマシン全体のトラブル発生率を低下させてくれますが、赤は同じ恩恵がタイヤにのみかかります。つまり火膨れブリスターとかの、タイヤに問題が起きる可能性を低下させてくれるんですよ。あと、タイヤが温まってグリップ性能を完全に発揮してくれるまでの時間も短くなります」

「ううむ」

 聞いているうちに迅雷はちょっと羨ましくなってきた。聞けば聞くほど有利な点ばかりに思えてくるのだ。

「青はエンジンしか強化されないのに、赤は色々特典があるんだな……」

 すると迅雷と同じく青いマシンのオーナーである翔子が面白くもなさそうに云う。

「ふん、青の方がええわ。クルマはエンジンが強ければそれでいいんや。他の部分はドライバーの腕前で補えるけど、エンジンだけはどうにもならんからな。迅雷君かて、今日まで圧倒的な成績を残せてるんは、ブルーブレイブに乗ってるからやで。あれがただのまっさらな白いマシンやったら、さすがの迅雷君でも今日のような立場はない」

「……そうだな」

 迅雷は今翔子が云ったことを、自分もつばさに話したことがあったと、ブルーブレイブに出会ったときの気持ちを思い出してちょっと笑った。

 ストレートエンドの第一コーナーで抜くとき、それは迅雷の腕前があってこそだが、同時にブルーブレイブのマシンパワーがあってこそでもあった。両方、必要なのだ。

「サイモン先生に感謝しないとな」

 迅雷がそう呟くと、翔子が小首を傾げた。

「サイモンって、迅雷君の英語の先生って人か。迅雷君にブルーブレイブを授けたっちゅう……」

「おう、つばさから聞いたのか?」

「まあね」

 翔子は短く頷いたものの、あまり興味がなさそうである。

 サイモンとはメールのやりとりこそしていたが、恋矢と勝負をしたあの日を最後に迅雷も会っていない。

 ――そういえば結局まだサイモン先生のドライバーネームも聞けてないんだよな。

 サイモンもバーチャルレーサーだと云うなら一度勝負してみたいものだが、つばさとの出会いに始まってから色々なことがあってそんな機会はまったくなかった。今にしたところで、サイモンとの勝負などより目の前のTSRに備えねばならぬ。

 迅雷は頭を切り換えると、つばさとことりの顔を順に見て云う。

「話を戻そうか。と云っても、もうレース前に話せることは全部話しちまったな。あとはまあ、なんだ。せっかくの機会だから、半分は楽しめ」

「半分ですか?」

 不思議そうに尋ねてきたことりの目を真正面から見返して、迅雷は不敵に笑う。

「もう半分は、もちろん勝ちにいけ」

 すると口元を引きつらせたことりの顔に、迅雷はおもむろに顔を近づけた。

「自信はあるか?」

「わ、わかりません」

 つまりないのだろう、と迅雷は思う。ないものをあるとは云えず、かといって正直にないと答えれば闘志を疑われるので、わからないと答えたわけだ。

「ことり」

「はい」

「嘘でもいいから、自信あるって云おうぜ。そうでないと、勝てる勝負も勝てなくなっちまうんだ。勝負事って、そういうもんだよ」

「あう……」

 困ったようなことりの額を指で軽く押した迅雷は、次にことりの頭を撫でるとつばさを見た。

「つばさはどうだ?」

「とりあえず予選は通過できるように頑張りますよ。予選はね」

 つばさの方は、なにやら大胆不敵でさえあった。

 そして休憩時間が終わり、TSRの予選が始まった。十ブロックに分割された予選は、並列して存在する仮想世界の鈴鹿サーキットで同時スタートが切られる。そしてワイルドカードに選ばれた二チームを除けば、決勝へいけるのは各ブロックのトップチームだけなのだ。この負けられぬ勝負で、しかしチーム・ソアリングは思わぬ苦戦を強いられた。

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