第三話 プリンスとの勝負(5)

 するとことりは内心の迷いを示すかのように、首を縦にも横にも振らずに云う。

「最近のお姉ちゃんを見ていて、迅雷さんになら話してもいいのかなって思うようになりました」

 ――なら聞かせてもらおうか。

 迅雷はそう思ったけれど、結局かぶりを振って前を向いた。

「いや、やめておく。明日はプリンスとの勝負だ。レースに集中したい」

「そ、そうですよね。明日はお姉ちゃんの運命がかかってる大事なレースなのに……」

 ことりは残念そうにもほっとしたようにも見える様子でそう云うと、顔を前に戻して肩で息をして、薄い胸に手をあて、また迅雷を振り仰いだ。真剣な目をしている。

「あの、迅雷さん。明日、本当に勝ちますよね? 迅雷さんが負けたらお姉ちゃん、弓箭寺さんとお付き合いしなきゃいけないんですけど!」

「勝つさ」

 いつもの強気に任せてそう云ったけれど、その瞬間、自分の言葉が途方もなく重たい荷物として背中にのしかかってきて、迅雷は慄然とした。レースはなにが起こるかわからない。たとえばこちらがどれだけ気をつけていても、スタート直後のもつれた状態から無理に抜け出そうとした車に巻き込まれてクラッシュするということも珍しくはない。そしてもしも負けたら、そのとき代償を支払うのは自分ではなくつばさなのだ。だが、迅雷の勝負に他人がコインを賭けるようなレースは、なにもこれが初めてではない。

「迅雷さん?」

 沈黙が長引いたせいか、ことりがちょっと不安そうな顔をしてそう声をかけてきた。

 ――どうやら男を試されている。

 迅雷はそう思った。ここで慌てふためいて弱気になるようなら、それはもう戦士とは云えない。かといって虚勢を張るのも、本当の強さと云えるのか。

 答えを求めるようにして、迅雷はことりを瞥見した。自分よりずっと背の低い、小柄で痩せぎすで骨細の、鶴のような少女だ。しかも歳下である。こんな少女に男の自分が寄りかかるのは悪いと思いつつ、結局、迅雷は正直であることにした。

「聞いてほしいんだけど」

「はい」

 ことりが威儀を正すのを見て、迅雷は話し始めた。

「……人の運命を背負って走るのは慣れてる。俺はワークスのドライバーだからな」

「わーくす?」

 目を丸くしたことりに、迅雷はちょっと笑った。

「リアルのレースのこと、どのくらい知ってる?」

「えっと、迅雷さんと知り合ってから、お姉ちゃんとちょこちょこ調べてますけど、正直あんまり……でもマカオで優勝したのが凄いってことはわかりました!」

「そうか。ワークスってのは、会社と契約してるドライバーってことだ。モータースポーツってのはとにかく金がかかる。子供向けのレーシングカートですら一台二十万は下らない。それがフォーミュラカーになったらどうなるか。今まで大勢の夢と希望と名誉と情熱と、そして資金を背負って走ってきたんだ。俺が負けたとき、代償を払うのは俺だけじゃない。チームメイトもスポンサーも巻き添えなんだ。それは取りも直さず、みんなの人生を背負って走るということなのさ。だからそういう意味じゃ、明日のレースも一緒だ」

 だがそれでも、一人の女の子の純情を懸けて走るのは初めてだ。勝つ、勝つ、勝つといくら闘志の炎に薪をくべても、そこのところに想いを致すと叫びたくなる。

「参ったな……」

 どうやら自分は明日のレースに重圧を感じているらしい。

 一方、ことりはそんな迅雷を見て目を瞠った。

「もしかして迅雷さん、緊張してるんですか?」

 その言葉を待っていた。迅雷は本能的にそう思ってにやりとわらう。

「緊張しないレースなんてないよ。いつだってスタートの瞬間は手に汗を握っているさ」

 その緊張感をどう楽しみ、どきついて跳ね回る心臓をどう乗りこなすかが勝負に臨む際の重要な心構えでもある。そういう意味で、ことりの質問は良かった。素直に緊張していますと云うことで、逆に緊張がほぐれる。

 だから迅雷はもうそれで十分だったのだが、ことりの方はそうではないらしい。

「あの、ごめんなさい」

「どうして謝るんだ?」

「だって私、もしかしたら余計なこと云ったかなって。だからごめんなさい」

 迅雷は相好を崩していた。許すも許さないもない。だがことりは思い詰めた顔をすると迅雷に向き直り、一歩迫ってきた。

「迅雷さん、ちょっといいですか?」

「えっと、なにがだ?」

 そう切り出されても話が見えず、迅雷は少しばかり身構えただけだった。その迅雷へ向かって、突然ことりが踏み込んだ。

「えいっ」

 まるで小動物が飛び込んでくるように、ことりは迅雷の胸のなかへと身を投げ、その腰に手を回して抱きしめてきた。それきり時間が止まったようになる。迅雷としては、あまりにも予想外の出来事であった。

 そのうちにことりが沈黙を破って、云い訳するように話し始めた。

「えっと、昔、お稽古事の一つでピアノをやっていたんですけど、発表会のときに私すごく緊張してしまって、そうしたらお母さんが抱きしめてくれたのを思い出して……」

「ああ、なるほど」

 つまり、ことりなりに迅雷を元気づけてくれようとしたわけだ。そういうことならと思って、迅雷は思い切ってことりの背中に手を回した。

「えっ?」

 目を丸くし、身を強張らせたことりの耳元に口を寄せて、迅雷は云う。

「それならしばらくこのままでいてくれよ」

「あっ、はい……」

 ことりはそれきり声を発せず、身動きもしない。見れば迅雷の胸のあたりに頭をつけて、顔を真っ赧にしながらじっとしている。迅雷は冷たい風のなかで抱いている、人肌の温もりと柔らかさに陶然となった。

「こうやって女の子を抱き寄せるのは初めてだが、落ち着くな」

「そ、そうですか」

 ことりの声は熱を持っていて、今にも口から心臓が飛び出してきそうな気配があった。だが迅雷は知らんぷりだ。ことりを抱いていると本当に安心する。女の肉体にこんな力があったとは知らなかった。

「いつもぎりぎりのところで走ってきたが、重圧をはねのけるには、こういう方法もあるんだな。新発見だ」

 ことりは、それにはなんとも答えなかった。それが迅雷には少し不満である。返事がほしかったし、もっと深い繋がりが欲しかった。そう思って迅雷がことりを見ると、ことりは茹だった蛸のようになっている。迅雷はそんなことりの目に目を合わせた。

「なあ、ことり」

「はい」

 ことりは目を潤ませ、頬を紅潮させて次の言葉に備えていた。そんなことりに迅雷はこう云う。

「そろそろつばさのところに帰るか。あんまり待たせても可哀想だし」

「……そ、そうですね」

 ことりは安心したとも拍子抜けしたとも取れる淡い笑みを浮かべて頷いた。

 つばさのところに戻ると、「遅いです」と軽く詰られたのは云うまでもない。


        ◇


 そうして迎えた翌日の日曜日、迅雷は秋葉原のレーシングセンター一階、カフェ・パドック手前のロビーで恋矢と八日ぶりの再会を果たしていた。

 迅雷の側にはもちろんつばさとことりの姉妹がいる。そして恋矢の側にもまた、一人の青年の姿があった。

「紹介しよう。オンライン・フォーミュラにおいてしばしば僕のパートナーを務めてくれている、従兄の鉄砲塚弾彦てっぽうづか・たまひこだ」

「こんちは。僕の従弟が迷惑かけてるみたいだね」

 そう気さくな挨拶を寄越した弾彦は、眼鏡をかけた長身でひょろ長い印象のある男だった。黒髪に黒い瞳の東洋人で、背が高いわりに色白の細身をしており、また恋矢と血のつながりがあるだけあって顔立ちはよく整っている。それがダークグリーンのダウンジャケットにジーンズ、スニーカーという格好であった。

「彼は都内の高校に通う二年生、十七歳だ」

「へえ、同い年じゃないか」

 迅雷がそう云うと、弾彦もちょっと笑顔を見せた。恋矢の紹介はまだ続いている。

「とても頭がよく、オンライン・フォーミュラに関する知識や人脈が豊富で、僕もなかなか頼りにしている。見ての通り、色白の虚弱体質で運動神経はないが……」

「余計なお世話だよ。おまえだって体育の成績そんなによくないだろ」

 弾彦は恋矢を軽く小突くと、つばさとことりに軽く頭を下げた。つばさたちもそれに応えて会釈を返す。どちらも少し引いた態度だったから、迅雷はこう思って尋ねた。

「初対面か?」

「いえ、何度かプリンスと一緒にいるところを見たことがあります。でもこうして話をするのは今日が初めてですね」

「名前も今日知りました」

「そうか……じゃあDNも知らないんだな」

 迅雷は姉妹の返答にそう相槌を打つと、弾彦に微笑みかけた。

「あんたもバーチャルレーサーなんだろ?」

「一応ね。でも僕は正直、あんまり運転の上手い方じゃないんだ。だから恋矢や君のようには行かないよ、ライトニング・バロン」

 そうDNをはっきり云われて、迅雷は彼が恋矢の相棒であり、今日の敵であることを思い出した。

「同い年と聞いて思わず親しげに声をかけちまったが、俺たちは敵同士だったな」

「残念ながら」

 そう云って肩をすくめる弾彦を、恋矢が軽く睨んだ。

「ふん。僕の味方だと云うなら、徹底的に味方してくれればいいものを……!」

「ははは」

 弾彦は、恋矢が放つ恨みの感情もどこ吹く風といった様子だ。だが迅雷はそんな二人のやりとりに首を傾げた。

「なにかあったのか?」

「いや、なに。恋矢のやつ、レース当日に募る予定のフリー参戦者のなかに自分の友達を混ぜて、そいつらに君の妨害を頼もうとしたんだ」

 これには迅雷も呆気にとられた。完全に予想外の罠だったからだ。見れば恋矢は迅雷から顔を背けて舌打ちしている。そんな恋矢の頭に弾彦が手を乗せて続けた。

「だが安心してほしい。さすがにそれは水際で僕が阻止した。君のためと云うより、恋矢のためにね」

 そこで言葉を切った弾彦が恋矢の顔を覗き込んで云う。

「友達がいなくなったら寂しいもんね、恋矢」

「ふん。このくらいの依頼をしたところで友情が破綻するとは思えないが、年長者であるあなたに敬意を表して、その策は撤回してやったのだ」

 恋矢はそう云って咳払いをすると、改めて迅雷を睨みつけてきた。

「疾風迅雷……いや、ライトニング・バロン。この一週間、貴様を観戦登録して、貴様の走りは充分に研究させてもらった。今日のレースは僕が勝つ」

「そうかい。ところで俺もおまえを観戦登録したんだが、一度も通知がなかったな。クローズド環境で走っていたのか?」

「ふっ、当たり前だろう。敵の手の内を知り、こちらの手の内は明かさないのが兵法の基本だからな。はははははっ!」

 そう高笑いする恋矢の隣で、弾彦がため息をつきつき云う。

「恋矢、君って本当に小細工が好きだよね」

「小細工ではない、策だ、策!」

 手振りを交えて大仰にそう断ずる恋矢から目を切り、弾彦は迅雷に笑いかけてくる。

「ねえ君、知ってる? こいつ、スリップに入った後続車に急ブレーキを踏んだことがあるんだよ」

「ああ、つばさから聞いた」

 そう答える迅雷の前で、恋矢は不遜に腕組みをした。

「あれはちょっと脅かしてやっただけだ。追突はさせていない」

 そう放言する恋矢を、迅雷は呆れたように見る。

「そのスリップの一件といい、イエローフラッグを無視した件といい……今日だってどうせスターティング・グリッドを自分に有利なようにするんだろう? そんな卑怯な奴に俺は負けんぞ」

「はん! 勝つのは僕だ」

「まあ実際、研究はちゃんとしたからね」

 弾彦が恋矢の尾についてそう云うので、迅雷たちの視線は彼に集まった。弾彦は威儀を正すと続けた。

「そう、僕と恋矢の二人で君を研究した。そして出した結論はこうだ。ライトニング・バロン、君は速い。恋矢より速い。圧倒的にずば抜けて速い。先日、君がポイントで格上のレーサーたちにゲストとして招待されたレースも観戦させてもらったが、最下位発進から他のマシンを次々ごぼう抜きしてトップでチェッカーを受けたときは度肝を抜かれた。正直、別格だなって思ったよ。スターティング・グリッドを操作したくらいじゃ勝てないな、って」

 弾彦の素直な賛辞につばさとことりはまるで自分が褒められているかのように微笑んだ。もちろん、迅雷とて悪い気はしない。だが研究した結果が白旗では、研究した意味がないではないか。

「でも、なにか対策を立ててきたんだろう?」

 たとえば、迅雷のマシンが不得手とするテクニカルサーキットを選ぶなど、だ。果たせるかな、弾彦は眼鏡のブリッジを中指で持ち上げると笑った。

「ああ。それで僕はまずレースの条件を確認したんだが、恋矢がホストを務める代わりに、ノーマルサーキットを選ぶこと、そして道幅の狭いサーキットは避けること、以上の二点が条件に盛り込まれていたね。逆に云うと、それ以外はなんでもありなわけだ」

 それ以外はなんでもあり。

 その言葉の響きになにか不吉なものを聞き取って、迅雷は軽く身構えた。車椅子に端座しているつばさと、車椅子のハンドルを握っていることりもまた眉宇を曇らせている。そして弾彦に代わって、恋矢が迅雷に指を突きつけながら云うのだ。

「ライトニング・バロン。今日の勝負は電撃戦とさせてもらう」

「なっ!」

 つばさが、まるで首でも絞められたような声をあげた。彼女はたちまち気色ばむと車椅子から身を乗り出して云う。

「おい、待て、プリンス! それは卑怯!」

「なにがだい? 君が僕につけた条件は、追い抜き可能なノーマルサーキットで走れということだけだったよ? ノーマルルールで走れとは云ってない」

 恋矢はつばさが相手だからか、優しげな口調で微笑みさえ浮かべている。だがそれはつばさから見れば、慇懃無礼にしか映らないのであろう。ことりもまた恋矢を残念そうに見つめていた。

 ただ一人、状況が見えないのは迅雷だ。

「電撃戦?」

 つばさがそんな単語を口走っていた記憶はあった。だがそれがなにを意味するのか、迅雷には判らない。電撃戦と聞いて迅雷が真っ先に思い浮かぶのは、第二次世界大戦において、ナチスがパリを陥落させたときのあの電撃戦である。だがオンライン・フォーミュラにおける電撃戦がそれであるはずがない。

 そんな迅雷の様子を見て、弾彦が額に片手をあてながら苦笑した。

「予想はしていたがやはり知らないか……君はオンライン・フォーミュラを始めたばかりで、僕らが観戦した限り、ずっとオーソドックスなオンロードのレースしかしていなかったもんね」

 迅雷は雲行きが怪しくなってきたのを感じて、傍らのつばさを見下ろして尋ねた。

「おい、つばさ。電撃戦ってなんだ?」

 すると恋矢を親の仇のように睨みつけていたつばさは、諦めたように項垂れて云った。

「……お兄さん。オンライン・フォーミュラとはゲームです」

「ああ、当たり前だ」

「オンライン・フォーミュラはゲームでありながら、ゲームとは思えない、現実を完璧に再現した走向感覚を提供してくれます。が、その一方で、きわめてゲーム的な走りを楽しむことも出来るんですよ。その一つがタイムアタックにおけるゴーストとの勝負であり、そして電撃戦なんです」

 つばさはそこで言葉を切ると、迅雷を見上げて辛そうに微笑んだ。

「ま、百聞は一見に如かず。これ以上はエントリーシートに入ってからにしましょう。ことり、時間は?」

「もうすぐ十二時半……そろそろ、予約してある部屋に入れるよ」

 姉妹がそのように話を纏め始めたので、迅雷はひとまず好奇心に手綱をかけた。センターの二階へ移動してエントリーシートに入るまでの我慢だ。

 ことりに相槌を打ったつばさは、恋矢に視線をあてた。

「プリンス。最後に確認しておくが、よもや約束を忘れてはいないだろうな?」

「もちろんだ。だが約束はお互い様だぞ。僕が勝ったら――」

「いくらつまらない小細工をしたって、おまえがお兄さんに勝てる可能性はないさ」

 つばさは恋矢をそうせせら笑ったけれど、実際のところ、レースに絶対はない。それでもここで気後れするような迅雷ではなかった。

「俺が勝つさ」

 迅雷が燃える炎のように云うと、恋矢は不遜な礼儀知らずを見る目で迅雷を見てくる。

「つくづく気に食わない奴だ」

「それはお互い様だろう」

 このようにして迅雷と恋矢の闘志の炎が燃え上がり、大きくなって、互いの炎に接しようという、そのときだ。

「はっはっは! やっているな、ボーイたち」

「サイモン先生!」

 迅雷は振り返りながらそう叫んでいた。今回はつばさたちを慮ってか日本語で話しかけてきたけれど、この声、この口ぶりは紛れもなくサイモンである。いつの間にかサイモンが腕組みをして、指呼の距離に立っていたのだ。

「あ、こんにちは」「どうも」とつばさたちが挨拶をするなか、恋矢は目を丸くして弾彦に囁いた。

「誰だ? あのクイーンのフレディ・マーキュリーにそっくりな男は?」

「僕が知るもんか」

 そう切って捨てた弾彦がサイモンに視線を放つ。

「おじさん、誰ですか?」

「よくぞ聞いてくれた。私はサイモン・マンセル。このボーイの英語の師であり、OFの運営サイドの人間であり、そして一バーチャルレーサーとしてこのセンターに出入りしている者だよ。今日のレースについても、ボーイから話は一通り聞いている」

 するとつばさが迅雷に視線をあてる。

「話したんですか?」

「そりゃあまったく無関係ってわけでもないし、一応、メールでこっちの状況は伝えておいたさ。ただこうして会うのも話すのも、あの日以来だけどな」

「はっはっは!」

 サイモンはにこにこしながら迅雷たちに近づいてくると両手をひろげた。

「今日のレースは二人のボーイが一人のガールを巡って争うという。こんなレースを見逃す手はないからな」

 そこで言葉を切ったサイモンが迅雷に眼差しを据える。

「ボーイ、このレース、必ず勝て。ボーイがガールを愛していることを証明しろ」

「いや、愛って……」

 真顔で愛と云われて、迅雷は面映ゆくなった。そういえばサイモンには最低限の状況しか伝えていない。だからサイモンは、迅雷とつばさの恋愛関係が偽りであることを知らないのだ。

 だがそのあたりの事情を恋矢の前で説明するわけにもゆかず、迅雷がまごついていると、突然恋矢が食いついてきた。

「なんだ貴様、つばさ嬢を愛しているのではないのか!」

「いや、お兄さんはもちろん私を愛している。ねえ、お兄さん?」

「えっ? あ、うん。まあ、そうだな」

 この頼りない返答に、恋矢がますますいきり立つ。

「なんだ、そのいい加減な答えは! まさか遊びなのか! 遊びでつばさ嬢を弄んでいるのか!」

 恋矢が迅雷に詰め寄ってくる。迅雷もさすがにむっとして、恋矢の胸を手で押した。

「暑苦しい、離れろ!」

「なにをする、この野蛮人め!」

 軽く手で押しただけなのに、恋矢はまるで自分が殴られたかのように振る舞った。迅雷もだんだん、胸のなかで怒りの焔が高くなってくる。

「あわわ……」

 一触即発の空気を敏感に感じ取ったらしいことりが、色をなくして後ろへ下がった。彼女はつばさの車椅子のハンドルを持っているので、自然とつばさも後退することになる。

 そして迅雷と恋矢がいよいよ激突しようというときだ。

「そこまでだ!」

 サイモンの一喝によって、迅雷も恋矢も毒気を抜かれたように目を丸くした。そんな二人を見下ろして、サイモンは広く逞しい胸の前で腕組みをする。

「二人とも血の気が多いのは男らしくて大変結構だが、暴力はいかん。バーチャルレーサーなら、決着はレースでつけるべきだ。そうだろう?」

「先生のおっしゃる通りです」

 迅雷は素直にそう引き下がると、怒りを呑み下して恋矢を見た。

「決着はレースでつけようぜ」

「貴様に云われるまでもない」

 そう云うと二人は張り合うようにしてエレヴェーターに向かった。まるでもうレースが始まっていて、エレヴェーターに向かうまでの短い距離すら競っているかのように。

 そしてそんな迅雷たちを、サイモンが腕組みして見送りながら云う。

「ではボーイ、私はカフェ・パドックから見守っているぞ。云うまでもないがこのレースはネットを通じて全世界にリアルタイム配信だ。実況にはジェニファーがつくから、結構な数の視聴者が予想される。無様なレースをしようものなら、世界中に大恥を晒すことになるな。はっはっは!」

 笑顔でそう重圧をかけてくるサイモンだったけれど、それよりなにより迅雷は片山のことで胸がいっぱいになってしまった。

「……そういえば、片山さんが実況につくんだったな」

「私とお兄さんが走ったとき以来ですね」

 つばさの言葉に上の空で相槌を打った迅雷は、これでまた負けられぬ理由が一つ出来たと胸を熱くし、サイモンに笑いかけた。

「いいところを見せましょう」

「うむ、その意気だ、ボーイ。そちらのボーイも健闘を祈るぞ」

 サイモンの言葉に恋矢はなんとも応じない。

 エレヴェーターに乗って二階で降りると、迅雷たちと恋矢たちは二手に分かれた。今日はそれぞれ別々の部屋を使うのだ。気心知れた仲間たちなら同室でもよいが、敵同士の場合、ピットとのやりとりが筒抜けになる同室は避けるのが原則である。

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