第二話 ライバルの影を追って(2)
「お待たせしました」
気楽そうな女給の声がした。見れば女給が珈琲やソーダやパフェやチーズケーキといった注文の品を運んできたところである。
「おお、やっときたか」
サイモンが待ちきれないとばかりに両手を擦り合わせ始めた。
まもなく注文の品々が卓子に並べられ、女給が伝票を置いて下がると、迅雷は珈琲にミルクを、つばさはミルクだけでなく砂糖も入れた。ことりはストローの紙袋の口を切っている。サイモンはふくふくとして銀の匙を手に取りながらつばさに視線をあてた。
「ところでガール。一つ質問なのだが、ガールにボーイフレンドはいるのかね?」
「いませんよ。どうしてそんなこと訊くんです?」
つばさの口吻は少し尖っていた。女性が興味のない男に云い寄られたときのあの隔絶した態度であったが、サイモンは子供がなにかを自慢するように笑って云う。
「いや、なに、ちょっとした深謀遠慮だよ。ボーイはまだオンライン・フォーミュラの入り口に立ったばかり。しかし私はいつもボーイの傍にいられるわけではないから、誰かボーイにレクチャーしてやる人間が必要だ。そこでガール、君が適任だと思ったのだが、もしも君に特定の恋人がいるならそれが困難になる。恋人が嫉妬するだろうからな。しかしこれでその心配のないことがはっきりした。よかったな、ボーイ。はっはっは!」
「なるほど……」
愁眉を開いたつばさは顎に手をあて、
一方、迅雷はスプーンで珈琲を掻き混ぜながら、つばさを見て不思議そうに云う。
「そうか、彼氏いないのか。美人なのにな」
するとつばさが珈琲を飲む前から、なにか噎せたように咳をした。
「美人だって」
ことりが嬉しそうな囁き声で囃し立てると、つばさは顔を真っ赧にして、困ったように目を伏せた。だが見れば見るほど美形である。涼しげな目元といい、鼻といい唇といい、整いすぎていて怖いくらいだ。
翻ってことりは実に人間的な美少女だった。つばさの妹だけあって顔のかたちは似ているのだが、こちらは表情がいつも和んでいて温かみがある。完璧すぎて冷たい感じがするつばさの美貌と較べて、いつまでも安心して見つめていられる類の可愛らしさだった。
「ま、俺はどっちかっていうと、ことりの方が可愛い感じがするけどな」
「えっ?」
目を丸くし、ついで顔を赧らめたことりの隣で、伏せていた目を勢いよくあげたつばさが迅雷を睨んでくる。
「へえ……お兄さんは私よりことりの方が好みですか。もしかして私の目の前で妹を口説いてるんですか」
「いや、おまえは美形過ぎてちょっと近寄りがたい感じがするなってだけで、別に他意はない」
「そうですか、私は近寄りがたいですか」
なにやら場の空気が急速に冷え込んでいくような気がして、迅雷はさすがに自分の倉卒さに気づいて片手で口元を覆った。
「ふん」
やがてつばさは珈琲を一口飲むと、カップを乱暴な手つきで皿に置き、迅雷をきっと睨んできた。
「ちなみに私、これでも結構もてるんですよ。小学生のころから今に至るまで、男子に告白されたことは数えきれません。男子のいない女学園に進んだ理由の一つは、それが煩わしかったからなんです」
「へえ」
軋んでいた会話の歯車が滑らかに回り始めた。そのことに安堵をしながら、迅雷も珈琲のカップを片手に云う。
「それなら、告白してきた誰かと付き合おうとは思わなかったのか?」
「まったく思いませんでしたね」
そう切って捨てたつばさのあとを引き継ぐかたちで、ことりが話し始めた。
「このオンライン・フォーミュラの秋葉原センターでも、お姉ちゃんに声をかけてくる男の人はいたんですよ。でもお姉ちゃん、全部断っちゃって。彼氏がいるって嘘まで吐いて……」
「なんでそんな嘘を?」
迅雷が目を丸くして問うと、つばさが唇を尖らせた。
「告白を断るのに一番手っ取り早いのがそれだからですよ。相手がいるって云えば、大抵の人は引き下がってくれますからね」
「全然引き下がらない、困った人もいるけどね」
ことりが苦笑いをしてそうぼやくと、つばさが頭の痛そうに片手で顔を覆った。
「プリンスか……」
「
迅雷が鸚鵡返しに尋ねると、つばさは苦々しげに唇を噛んだ。
「そういう
――おまえだって自称プリンセスじゃないか。
迅雷はそう思ったが、もしかしたら迅雷のライトニング・バロンと同じく他人につけてもらった名前かもしれないし、藪蛇になるのを恐れてそこは触れずにこう云った。
「妙に刺々しいな」
これは口ではなんのかんの云いつつも本当は気になっているのではないか。そう邪推して、迅雷は問うてみた。
「そいつと付き合おうとは?」
「考えたこともありません」
そう即答したつばさは、固い信念を守ろうとするかのように腕組みをする。
「あいつは、顔は綺麗なんですが性根が悪い。レースで小細工ばっかりするんです」
「小細工って?」
迅雷はなんでもないことと思って訊ねたが、つばさは目を閉じてなにか怒りの大波を乗り越えたようだった。そこから語調が自然と荒れてくる。
「あいつは以前、後続車にスリップに入られたとき、急ブレーキを踏んだことがあります」
それには迅雷も絶句した。ゲームだからまだいいものの、もし現実のレースでそんなことをすれば大問題だ。事故に繋がり、命に関わる。
「勝つためならなにをしてもいいと思っているんです。レース後に問い糺したら、ゲームなんだから誰も怪我はしないし、別にいいじゃないかと悪びれもしない。あれで私のあいつに対する印象は地に落ちました」
つばさはそう憤然と云ってのけたが、ことりはあまりの云い種にプリンスを少し気の毒がったらしい。
「あ、でも、普段はとても紳士的な人ですよ。レースになるとちょっとずるいっていうか、勝つために手段を選ばないところがあるだけで……」
とりなすようにそう云ったことりを一瞥したつばさは、「ふん」と鼻を鳴らして珈琲に口をつけ、しかしまだ腹が癒えぬとばかりに話し出した。
「しかしそれよりなにより私が気に入らないのは、あいつが私より遅いということです。私はオンライン・フォーミュラにおいて、自分より速い相手でないと厭なんです。遅い相手とか、なんの魅力もありませんよ」
「そこまで云うのか」
迅雷が呆れるべきか感心するべきか迷っていると、つばさは黒い瞳に迅雷を映して、水の迫るように話し出した。
「あのですね、お兄さん。オンライン・フォーミュラで速ければそれ以外の条件が最悪でも構わない――なんてことはありませんが、私は私より速い相手でないと尊敬できそうにないんです。私は未だかつて彼氏というものがいたことはありませんが、もし交際するなら断じて速い人ですよ!」
このとき迅雷はつばさから迸ってくる情熱のようなものを感じた。つばさ自身、自分がそんな情熱を発しているつもりはないのかもしれない。しかしつばさの迅雷を見る目にはただならぬ色があり、しかもすっかり黙り込んで迅雷をじっと見つめているのだ。意図して黙っているのではなく、意図せず見入っているらしいのが、情熱が本物であることの証明だった。
それで心中、動揺したのは迅雷である。
――え、なんだこれ。なんでここで黙るんだ。
こういう場合どうすればいいのか。女心については子供同然の疾風迅雷であるから、判断に迷って声をかけることもできなかった。そのときだ。
突然、サイモンが銀の匙でパフェを切り崩しながらむうと深刻そうに唸った。それを聞いた迅雷は、逃げ道に飛び込むような勢いでサイモンに話しかけた。
「先生、どうかしたんですか?」
「いや、大したことではない。どうせガールの奢りなら、ここはホットケーキも頼むべきではなかったかと思っていただけだ」
それを聞いたつばさは小さく噴き出すと、サイモンに笑いを含んだ声で尋ねた。
「よろしかったら今からでも注文しますか、ホットケーキ」
するとサイモンは一瞬嬉しそうに相好を崩したが、すぐに残念そうな顔をしてかぶりを振った。
「ありがとう、ガール。だがそれは次の機会にしてもらおう。若い君たちと違って、この歳になると血糖値が気になるものでね」
「ああ……」
どこか皮肉の陰のある微笑を泛べたつばさは、相槌を打つと迅雷に目を戻した。
「ちなみにお兄さんはどうなんですか。彼女とか、いるんですか」
「いない」
「いないな。私の知る限りボーイはずっと一人だ」
即答した迅雷の尾についてサイモンがそう云うと、迅雷はただちに口吻を尖らせて反駁した。
「いや、俺だって今までに仲良くなった女の一人や二人くらいいましたよ。ただ俺が『F1レーサーになる』って云うと、大抵は『えー』とか『きゃー』とか云ったり、興味なさそうに『がんばってね』とか云うだけで、なんとなく……」
迅雷がそんな自分のこれまでを振り返ってため息をつきたくなっていると、つばさが傷口に塩でも塗り込むように云う。
「ということは、お兄さん、今までに特定の女性とお付き合いしたことはないんですね」
「ないよ」
迅雷がそう白状をすると、なにがそんなに嬉しいのか、つばさは唇を薄く伸ばしてにんまりと笑った。
「それはそれは……私より三つも歳上のくせに、恋愛経験なしですか。ずいぶん寂しい青春を送っていらしたんですねえ」
「ほっといてくれ。レース、レース、レース。それが俺の青春だったのさ」
迅雷は口を閉ざすついでに珈琲を飲んだ。
ふふふ、とつばさはまだ笑っており、それをことりに咎められている。
――女、か。
このとき迅雷の胸を焦がすのは、実のところつばさでもことりでもなく、ここにはいないジェニファー・ハミルトンだった。今は結婚して片山を名乗っているあの女性だ。既婚者でさえなければ、と運命を
「いつかお兄さんにも春が来るといいですね」
「抜かせ」
迅雷がそう切って捨てたそのとき、つばさが色を正してこう切り出した。
「ところで、隼真玖郎でしたっけ」
その名前を聞いた途端、迅雷は自分の血が奔騰するのを感じた。
そんな迅雷を見据えて、つばさが云う。
「お兄さんはそのライバルだと云う人を追いかけてオンライン・フォーミュラの世界に飛び込んできたと云ってましたよね」
「ああ」
「その辺りの事情について、なにがどうなっているのか、解るように話してもらえると嬉しいです」
「そうだな……」
迅雷は考える時間を作るように珈琲を一口飲むと、カップを手にしたまま切り出した。
「一から十まで話していたら珈琲が冷めちまうから要点だけ掻い摘んで話そう。真玖郎は俺のライバル、ガキのころからレースをやってきて、勝ったり負けたりの関係だ。だがあの野郎、一身上の都合とやらでレースを辞めやがった。俺はあいつのことを、永遠のライバルだと思っていたのにだ!」
迅雷は憤然としてカップを皿に戻すと、もとより彼女たちに怒りをぶつけるつもりなどなかったが、つばさとことりを順に睨んだ。
「あれから二年近くの時が過ぎた今、俺はサイモン先生に真玖郎がバーチャルレーサーになってるって話を聞いた。で、あいつと戦うためにここに来たってわけだ。以上、説明終わり。理解してくれたか?」
「まあ、大筋は……」
一つ
「でもそのライバルさんと戦うとして、普通、真っ先にその人に連絡して問い糾したりするものじゃないんですか?」
「それが出来るならやってるけど、あいつ、最後に会ったときにもう二度と俺には会わない、名古屋に引っ越す、アドレスも変えるって云ってたんだ。俺も腹が立ってあれきり連絡を取ろうとしなかったから、もう手遅れだよ」
一応、真玖郎の電話番号やメールアドレスは今も迅雷の携帯デバイスのなかに残っているのだが、今さら連絡を取ろうとしても繋がるまい。しかしまだ希望はある。
「ただサイモン先生は真玖郎の連絡先を知っているそうだ。一年前、名古屋センターでばったり会ったらしい」
迅雷がそう云ってサイモンに視線をあてると、サイモンがこれは堂々と云う。
「その通りだが、本人の同意を得ないままボーイにアドレスを教えることは出来ない」
「と、云うわけだ。頑固だろう?」
迅雷が吐き捨てるように云うと、つばさはふむと頷いて続けた。
「でも渡りをつけることは出来るでしょう。サイモンさんからライバルさんに連絡を取ってもらって、お兄さんがバーチャルレーサーになったから勝負したいと云っている、と伝えてもらえばいいじゃないですか」
「俺もそれを考えていた」
バーチャルライセンスを発給してもらったあと、つばさと勝負をする流れになり、今はこうしてつばさたちと話をして、真玖郎に連絡を取ることはここまで後回しにされていた。しかしいよいよそのときである。迅雷はサイモンを見据えると云った。
「そういうわけで先生、一つお願いしますよ。俺と真玖郎のあいだに立って下さい」
サイモンの性格を考えれば二つ返事で請け負ってくれるだろうと思われた。ところがサイモンはパフェを食べる手を止めて迅雷をじっと見つめてきた。
「うむ。実はボーイがそう云い出すだろうと思って、既に隼真玖郎に連絡を取ったのだよ。ほら、さっきのレースが始まる前、トイレに行ったついでにだ」
そういえば迅雷がつばさたちからコックピット・ドリルを受けているあいだ、トイレに行くと云っていたサイモンはずいぶん長いこと姿を見せなかった。
あのときか、と理解して迅雷は息を呑んだ。
「真玖郎と、話していたんですか」
「そうだ。ボーイのデビュー戦を見てほしくてな、彼が君を追いかけてきたぞと伝えたんだよ。そうしたら……」
「そうしたら?」
「普段ボーイのことを気にして私にボーイの現状をあれこれ尋ねてくるくせに、いざボーイがバーチャルレーサーになったぞと告げたら、隼真玖郎は私の話を遮るようにしてこう云ったのだ。迅雷は自分にとって過去の人間、もう関係ないから今さら自分と結びつけるようなことはしないでほしい、彼がバーチャルレーサーになるのは彼の自由だが、彼のドライバーネームもデビュー戦も知りたくない――そう捲し立てられて、私は言葉を失った」
だが迅雷こそ言葉を失っていた。真玖郎が自分から逃げるという発想がなかったのだ。なぜ、どうして、真玖郎は自分をそこまで拒むのか。たしかにサイモンは真玖郎が迅雷に会いたがっていないと云っていたが、それはオンライン・フォーミュラにおけるレースでもそうなのか。だとしたら、自分は永遠に手の届かぬものを追いかけることになる。
「なんでだよ……」
迅雷がやっとそれだけ云うと、サイモンは迅雷を気の毒そうに見て云う。
「ボーイ。これは賭けてもいいが、隼真玖郎のなかでボーイは過去の人間になどなってはいない。むしろ気になって気になって仕方がないはずだ。だがだからこそ、却ってその相手から逃げてしまう。そういう心理状態に陥ることがあるのだよ」
「なぜですか? 俺にはさっぱりわからない」
「それはまあ、複雑な関係というやつだな」
サイモンがそのように言葉を濁すので、迅雷はいよいよ心の迷路に迷い込んだ気分だった。そこへことりが恐る恐る尋ねてくる。
「あの、それで電話はどうなったんですか?」
「うむ。私は隼真玖郎に尋ねた。ボーイから逃げるつもりなのか、だとしたらバーチャルレーサーであることもやめるのか、と。それに隼真玖郎はしばらく沈黙したあとでこう答えた。オンライン・フォーミュラはやめない。これからも走り続ける。そして今日始めたルーキーには追いつけないところまで行く、と」
その言葉に迅雷は心臓を一撃されてしまった。なぜならばそれは事実上の宣戦布告、ライバルからの挑戦状であったからだ。嬉しくて、全身が粒立って笑ってしまう。
「本当に、あいつがそう云ったんですね?」
「そうだ。近づけさせません、とね。そしてそのあとで私にこう云ったよ。今までありがとうございました。でもあなたとのお付き合いを続けていると後ろを振り返ってしまいそうですから、これきりにさせていただきます、と。で、着信拒否を宣言された」
思いがけぬ告白に迅雷もつばさたちも目を丸くする。サイモンは肩をすくめて、パフェに銀の匙を突き立てた。
「彼……というかまあ彼だが、そのプライベート・アドレスを教えることは出来ないし、私ももう連絡を取ることは不可能になった。そういうわけでボーイ、私はもう君たち二人のあいだに立つことは出来ないのだ。すまんな」
「謝ることなんてなにもないですよ」
今の話で思いがけず真玖郎の現状と出会えて、その言葉を伝え聞いて、迅雷は胸に火が灯るのが自分で判った。その火はみるみる大きくなり、炎となって燃え上がっていく。
「上等じゃないですか」
迅雷はくつくつ笑いながら体を揺すった。無意味に走り回りたくなってくる。
「近づけさせない? 追いつけないところまで行く? だったらすぐに追いついてやるだけだ。バーチャルレーサーであり続ければ、いつかはその背中が見えてくるだろう」
もはやライバルしか見えなくなった迅雷を大きな炎のように見て、サイモンが感嘆の吐息とともに云う。
「おお、アグレッシヴ・ファイヤー……!」
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