第二話 ライバルの影を追って(3)

 そうしてしばらく沈黙が座を占めたが、つばさがこほんとわざとらしい咳払いをしたことで迅雷は我に返った。

 そんな迅雷をつばさが瞳でなじってくる。

「それでお兄さん、具体的にどうするつもりですか?」

「……わからん。俺はオンライン・フォーミュラの初心者だからな。具体的にと云われても、どこからどう手をつけていいやら」

「なるほど……じゃあ私が道標になってあげましょう」

 つばさは珈琲を一口啜ると、カップを手にしたまま得意顔をしてサイモンに視線をあてた。

「サイモンさん、その人がバーチャルレーサーであると云うのなら、彼のDNはなんです?」

 つばさのその問いに迅雷は目の醒めるような思いがした。DN、つまりドライバーネーム。それさえ判れば、真玖郎の今のアドレスなど関係ないのではないか?

 果たしてサイモンは、パフェを食べる手を止めるとにやりと笑って云う。

「そうだな。プライベート・アドレスを教えることは出来ないが、公表されているDNを教える分には特に問題ないだろう」

 迅雷は息をするのさえ惜しみながら尋ねた。

「先生、やつの名前は?」

「ナイト・ファルコン」

 その明瞭な答えは、しかし電撃となってつばさたちを打ち据えたようだった。

「ナイト・ファルコン! 本当ですか!」

 つばさのその激越な反応に目を白黒させたのは迅雷である。

「なんだ? もしかして知ってるのか?」

「有名ですよ。フォーミュラ・クラスのレーサーで、とにかく速いんです。ファルコンが本格的にオンライン・フォーミュラを始めたのは一年と少し前でしたっけ、めきめきと頭角を現してきて、今年のワールド・グランプリでは総合三位として表彰台に立っている」

「総合、三位……」

 バーチャルとはいえ、F1と変わらぬ、あるいはそれ以上の世界で総合三位なのだ。それがどれだけすごいことかは迅雷にもわかる。マカオで優勝して真玖郎より遥か先を行っていたつもりが、逆に置き去りにされているのではないかと思って迅雷は愕然とした。

 そんな迅雷に、このときサイモンが傍から励ますように云った。

「そんな顔をするな、ボーイ。オンライン・フォーミュラの世界には、F1のトップレーサーたちはまだほとんど入ってきていない。それにフォーミュラ・クラスのレーサーだからといって、常に一〇〇パーセントの仮想Gフォースで走っているわけでもないのだぞ」

「そうなんですか?」

「うむ。仮想Gフォース一〇〇パーセント……時速三〇〇キロの世界でそれに耐えられる屈強な肉体の持ち主などそうはいないからな。レギュレーションでも仮想Gフォースをどうするかは任意と規定されている。彼のレッド・ファイターですら、七〇パーセントにカットして走っているという噂だ。必ずしもゲームがリアルを凌駕しているわけではないということだな」

 するとそれにはつばさが面白くもなさそうに容喙してくる。

「仮想Gフォースについては、カットしなければいいというものじゃないんですよ。慣れです、慣れ。何パーセントであれ、同じ条件のGフォースで走り続けることによってタイムは上がっていきますから」

「でも理論上は一〇〇パーセントで走った方が、マシンとの一体感が一番高まるって云うけどね。周回距離にもよるんだろうけど、仮想Gフォースがたとえば一〇〇と五〇じゃ同じ人でもラップタイムが〇・五秒も違ってくるって云う話、聞いたことあるよ」

 ことりがそのように付け加えると、つばさがことりを軽く睨んだ。ことりが慌てて目を伏せたところで、つばさが迅雷に目を戻す。

「それにお兄さんのようにリアルレーサーでありながらバーチャルレーサーになる人も出てきました。この先、もっと増えますよ。いつかはF1レーサーだってオンライン・フォーミュラを無視できなくなる。だから、オンライン・フォーミュラはこれからなんです」

 つばさはまるで自分の夢を語っているかのようだった。だから迅雷も真剣な目をして頷いた。それを見てつばさがわらう。

「……話を元に戻しましょうか。お兄さんのライバルですけど、とりあえずDNが判明したと云うことは、本人に連絡を取れるかもしれません」

「本当か!」

 顔を輝かした迅雷に首肯を返し、つばさは身振り手振りを交えながら語る。

「オンライン・フォーミュラの公式サイトに全バーチャルレーサーのリストがアップされているんです。DNとDPと登録日は原則として公開されており、性別、年齢、国籍、職業、クラス、フリーコメントなどは公開と非公開を任意で決められます。なのでDNが判らなかったらお手上げでしたが、今回はラッキーでした」

 つばさはそこでちょっと咳き込んだ。喋りすぎたのだろう、珈琲のカップに手を伸ばす。逸る迅雷は構わずに早口で訊ねた。

「で、どうやって連絡を取るんだ?」

 するとカップで唇の塞がっているつばさに代わって、ことりが云う。

「えっとですね、バーチャルライセンスが発行されると、ネットワーク上にバーチャルレーサーとしてのマイページを持てるんですよ。相手のDNが判っていれば、そこでメッセージのやりとりが出来ます。ただし相手がメッセージを拒否していなければの話ですが」

 と、そこで話し手がまたつばさに戻った。

「一種のSNSですね。ま、百聞は一見に如かず。さっそくやってみましょう、ことり」

「うん」

 以心伝心、ことりは椅子から立ち上がり、車椅子の後ろにある荷台の鞄から一枚のタブレットを取り出してつばさに手渡した。爪が綺麗に整えられた白魚の指を、つばさがタブレットの画面に走らせる。その旁々、彼女は迅雷に説明してくれた。

「オンライン・フォーミュラの公式サイトにアクセスして、そこからナイト・ファルコンを検索してみましょう。いえ、ついでだからランキングを見ますか」

 つばさはそう云いながらなにかの操作をして、そのタブレットを迅雷に見えるように差し出してきた。

「先月の獲得ポイント、国籍日本、クラスは関係なしという条件でランキング検索をかけました。見て下さい」

 差し出されたタブレットに、迅雷が鋭い視線をあてる。そこにはバーチャルレーサーの名前がリストアップされていていた。DNと累計DPとライセンスの発行日は全員表示されているが、年齢、性別、その他のプロフィールは、公開されていたり非公開だったりとまちまちである。そして一番上にある名前は――。

「ナイト・ファルコン……こいつが、真玖郎」

「日本人では毎月のように獲得ポイント一位。今、飛ぶ鳥を落とす勢いなんです。二位の人も結構稼いでいる方なんですが、だいぶ数字が離れているでしょう」

「ああ」

 迅雷はそう返事をして、二位以下の名前を上から順に読み上げていった。

「ヤスヒロ、ジャッジメント・ホイール、おにぎりしぐれ、リエ……いや、英語読みならリーか? その次の奴は、これ英語じゃなくてドイツ語っぽいな」

 迅雷はそこまで云うと、唸りながらタブレットから目を上げた。

「これ、全部ドライバーネームなのか?」

「はい。DNに使えるのは英数字だけですからね。日本人は日本語をローマ字読みで使う人も多いです。ヤスヒロさんやおにぎりしぐれさんは、その典型ですよね」

「ふむ」

 それから迅雷はふたたびナイト・ファルコンに目を戻した。そこを見澄ましてつばさが云う。

「ファルコンの名前をタッチしてみてください」

 迅雷は云われた通りにした。するとページが移って、どうやらナイト・ファルコンのマイページに飛んだようである。だがそれはほとんど白紙のページだった。

 つばさがタブレットを返してことりと一緒に覗き込む。声をあげたのはことりだった。

「あ、なんにも公開してない」

「強制開示のDNと累計DPとライセンスの発行日を除くと、国籍以外はすべて非公開設定、活動報告もフリーコメントもなにもなし、か。メールアドレスやその他のSNSについても一切言及なし。ついでに云うと、メッセージの受け取りも拒否してます」

 つばさがタブレットから目を上げて云うと、迅雷は一瞬呆気にとられてから渋い表情を作る。

「つまり、連絡は取れない?」

「そういうことですね。残念でした」

 あっさりそう云われて迅雷は絶句したが、はいそうですかと引き下がれるものではない。

「なんとかならないのか?」

「そう云われても、向こうが窓口を閉じている以上はどうにも……」

 そこでことりがつばさからタブレットを受け取り、なにか画面を操作し始めた。それを尻目につばさが云う。

「ただDNが判明したのならそれを目標に走ることも出来ると思うんですけど。つまりナイト・ファルコンの出るレースにお兄さんがどうにかして参加すればいい」

「それじゃあ意味がない」

 迅雷は燃え滾る心をどうにか押さえ込むと、つばさに迫力のある眼差しを据えた。

「なんで俺があいつと連絡を取りたいかって云うとだな、あいつが俺を俺と認識してくれないと駄目なんだ。俺はあいつのライバルで、あいつは俺のライバルなんだから、お互い『こいつにだけは!』って気持ちがないと、俺の望んだ勝負にはならない」

 そうした迅雷の熱気にあてられて、つばさは目を伏せたのだが、それがどうにも羨ましがっているようである。

「お兄さんは本気でナイト・ファルコンに……隼真玖郎に参っちゃってるんですね」

「馬鹿を云え。俺はただもう一度あいつと走って、今の俺の力を見せてやりたいだけさ」

 迅雷はそう云い張った。つばさの云い方ではそれ以外の感情も含んでいるように聞こえて、少し面白くない。つばさは軽く肩をすくめると、また珈琲を一口飲んでから云う。

「ナイト・ファルコンは、お兄さんのDNは知らなくとも、お兄さんが今日デビューしたことは知ってるんですよね。だったら今日の私たちのレースを見ていてくれれば、バロンがお兄さんだって気づいたかもしれません。あのレース、ジェニファーさんが久しぶりに実況したことで注目されてましたから」

「それについてはあまり宛に出来ないな。先生から聞いたあいつの云い方だと意図的に情報をシャットアウトしてる可能性が高い」

「そうですか。それならいっそお兄さんが本名を開示してしまうっていうのはどうですか? ライトニング・バロンは疾風迅雷だ、って宣言してしまうんです」

「オンラインで本名開示か……」

 SNSを始め、本名や顔写真などをオンライン上に載せている者はごまんといるが、かといって自分がそれをやるのは少しためらわれた。だが眉宇を曇らせている迅雷にサイモンが傍から云う。

「それは案外いい手かもしれんぞ、ボーイ。今年のマカオでチャンピオンになったボーイが本名を明かせばそれは間違いなくニュースになる。厭でも本人の耳に入るだろう」

 なるほど、と迅雷の心がそちらへ傾きかけたそのとき、タブレットを触っていたことりがそろそろと声をあげた。

「あの、ナイト・ファルコンなんですけど、実は思うところあって調べていたら、やっぱりいくつかのサーキットのタイムアタックでレコードホルダーになっています」

「タイムアタック?」

 鸚鵡返しに呟いた迅雷に、ことりは頷きを返して云う。

「はい。つまり一人でサーキットを走ってタイムを競うものです。それで本人が動画を公開しているか、もしくはレコードホルダーになっている場合、ゴーストにならチャレンジ出来ます」

「ゴースト?」

 どこかで聞いたことのある単語だ。首を傾げた迅雷に、珈琲を飲んでいたつばさがカップを唇から離して云う。

「ゴーストとはマシンが半透明になって他のマシンやレースに干渉できなくなる状態のことですよ。チェッカーを受けたあとのウイニングランがそうなるって話したじゃないですか」

「ああ、あれか」

 あのときはレース直後の燃え尽きたような状態になっていたから、すぐには思い出せなかった。二度三度と頷いている迅雷に今度はことりが云う。

「えっとですね、タイムアタックでは各サーキットのレコードホルダーのマシンをゴーストとして呼び出すことが出来るんです。そしてそのゴーストは過去の走りを忠実に再現する。このとき、そのマシンと一緒に走ることもできるということです」

「つまり真玖郎の……ナイト・ファルコンの過去の亡霊ゴーストとなら勝負できるってことか」

 理解してそう呟いた迅雷は、しかし憮然としてかぶりを振った。

「駄目だな。悪いけどそれじゃあまったくわくわくしない。生きている真玖郎と戦わなくちゃ」

「わ、私もそうだと思いますけど、その……」

 迅雷が目に見えて不機嫌になったのを見て萎縮したのか、ことりの声は尻すぼみに小さくなってしまった。そんな妹に助け船を出すようにしてつばさが云う。

「もしナイト・ファルコンのゴーストに勝って、そのコースのタイムアタックにおけるレコードを更新すれば、向こうがライトニング・バロンに注目するかもしれませんよ?」

「む……」

 その指摘に迅雷は心を掴まれた。たしかに自分の記録が別の誰かに更新されたと知ったら、迅雷だったら穏やかではいられないだろう。いったいどんな奴が自分より速いタイムを叩き出したのかと思うに違いない。

 同じことを思ったのか、つばさは目を輝かしてことりを見た。

「ことり。ナイト・ファルコンがレコードを持ってるサーキットは全部でいくつある?」

「えっと、十一」

「なかなか多いな。さすがお兄さんのライバルだ。ではお兄さん、その十一のレコードが悉く塗り替えられたら? しかもそれが全部同一の人物によるものだったら? それは厭でも自分に対する挑戦だと思いますよね。そして向こうはもうお兄さんが乗り込んできていることを知っているわけですから……」

「ライトニング・バロンが俺だと気づくな。そして俺からあいつへの挑戦状にもなる」

 迅雷はそう云って思わず手を握りしめていた。

 自分の先を行く、近づけさせないと云っていた真玖郎に、一つ迫ることが出来る!

「つばさ、ことり、ありがとう! ひとまずそれでやってみようと思う!」

 迅雷がそう云って笑うと、ことりは見るからにほっとした様子でメロンソーダのストローを咥えた。

 そしてつばさは得意顔になり、迅雷を指差して云う。

「それじゃあお兄さん、乗りかかった船です。さっきサイモンさんが云った通り、明日からは私たちがオンライン・フォーミュラにおけるお兄さんのガイドになってあげますよ」

「それって、つまり?」

「明日からは時間のある限り私たちと一緒に遊ぼうということです。いいですね?」

 迅雷にとっては願ってもないことである。右も左も判らぬこのオンライン・フォーミュラの世界で、ベテランに教えてもらえるのだ。

「ああ、本当にありがとう」

 迅雷はそう云って、座ったまま深々と頭を下げた。

 そのあと迅雷とつばさとことりの三人はそれぞれの携帯デバイスを取り出し、お互いの連絡先を交換し始めた。迅雷はつばさに自分の端末を預けて入力を任せたのだが、そのときのつばさの手つきは素晴らしく鮮やかで活き活きとしていた。

 パフェを平らげ、チーズケーキに取りかかっていたサイモンがふと首を傾げる。

「おや、私は蚊帳の外かね?」

「ああ、私はお兄さん以外の男の人にアドレスを教えたくありません」

「あはは……ごめんなさい」

 ことりは姉の無礼な言葉をすぐに謝ったが、その謝罪はことり自身の拒否も含んでいるらしかった。サイモンはしょんぼりとチーズケーキを切り分けて食べる。

「これでよし」

 つばさがそう云って迅雷のアドレスにテストメールを送信したとき、さっきの女給がやってきて、サイモンが時間差をつけて持ってくるように云った熱い珈琲を運んできた。

 女給が去っていくのを待って、つばさが迅雷に話しかけてきた。

「ところでお兄さん、マシンのマッチングは見直さないんですか」

「マッチング?」

 目を丸くした迅雷に、つばさは深く頷きかけた。

「云い換えれば、これからもあのブルーブレイブでオンライン・フォーミュラを戦っていくのかと訊いているんです」

「そりゃあもちろんだよ。せっかく先生が心血注いで作ってくれたマシンなんだから、当然これでいくさ」

「ふっ、さすがボーイだ」

 サイモンは満面の笑みを浮かべていたけれど、つばさとことりは軽く目を見合わせ、つばさの方が迅雷に話しかけてきた。

「別にブルーブレイブを捨てろとまでは云いませんが、予備のマシンは用意した方がいいと思いますよ。バランス型の白か、コーナリング重視の赤を。私は赤いマシンに乗っていますが、それは赤いマシンが乗りやすいからです」

「コーナーで安定してくれると、すごくいいよね」

 と、ことりが楽しそうに付け加えた。つばさが相槌を打ってまた迅雷を見る。

「テクニカルなコースを走るときは、さすがにブルーブレイブだと辛いと思うんですが」

「ふむ」

 迅雷は即答を避ける意味でまた珈琲を飲んだ。つばさとことりも、それぞれの飲み物に手をつけている。テーブルの上を沈黙が占めているあいだに、迅雷は今の言葉をよくよく反芻してみた。つばさの云うことはもっともだ。マシンを複数持っておき、コースに合わせて選択するのが一番賢い。しかしどうにも、心が云うことを聞かなかった。

 迅雷はカップを唇から離すや、決然と云った。

「いや、やっぱり俺はブルーブレイブ一筋で行く」

 つばさがちょっと目を瞠る。

「サイモンさんのためですか?」

「それもあるが、一番の理由はブルーブレイブがストレート特化型だからだ。レース中にも云ったけど、コーナーはドライバーの腕で補えるが、ストレートはエンジンで決まる。だったらマシンに要求するのはストレートの強さだ。他の選択はありえない」

「はっはっは! ボーイらしい、実にシンプルで男らしい選択だ」

 サイモンが珈琲カップを片手に、嬉しそうに迅雷の肩を叩いてきた。悪い気はしなかったが面映ゆくもあり、迅雷はサイモンににこりと笑いかけてから、また目を前に戻した。

 そこを捉えて、ことりが感心したように云う。

「迅雷さんって、勇気あるんですね。ストレート特化型って、癖が強くてあまり乗りたがる人はいないんですけど……」

「いわゆる『じゃじゃ馬』というやつだからな」

 ことりのあとを引き取ってそう云ったつばさが、冷笑を泛べながら小首を傾げた。その拍子に癖のない艶やかな黒髪がざらりと動いて、そのうちの一房は控えめな胸の膨らみの上にかかる。つばさはその髪を直して云った。

「そういう愚直さって、笑っちゃうけど嫌いじゃないですよ」

「どうも」

 迅雷はそう答えて、珈琲の残りを飲み干してしまった。ことりもメロンソーダのストローを吸う。もう氷しか残っておらず、ストローは濁った水音を立てた。

 もうみんなそれぞれの飲み物を片付けてしまっており、そろそろお開きにするべきだろうと迅雷が思っていると、サイモンがこう切り出した。

「さて、ボーイ。腹も膨れたことだし、私はそろそろ失礼させてもらうよ。色々と野暮用があるのでね」

「あ、はい」

 迅雷が椅子から立ちあがって通り道を空けると、サイモンはそこを通って通路に立ち、迅雷を熱い男の瞳で見据えてきた。

「こう見えて私も色々と忙しい。いつもボーイの傍にいてやれるわけではないが、バーチャルレーサーとしての道を歩み始めたボーイをいつも見守っているぞ」

「はい、今日は本当にありがとうございました」

 迅雷はそう云って深々と頭を下げた。おもえば真玖郎ともう一度戦う機会を与えてくれたことも、オンライン・フォーミュラという新しい世界を見せてくれたことも、すべてサイモンの優しい心意気があってこそだ。

「本当に最高の優勝祝いでしたよ」

「ふっ、駆け上がってこい、ボーイ。仮想世界のサーキットで隼真玖郎も、そしてこの私もボーイを待っているぞ」

 サイモンはそう云ってわらうと肩で風を切って歩き出し、この静かな喫茶店を出て行った。ありがとうございました、という女給の声が響く。

 通路に立ち尽くしてサイモンを見送っていた迅雷は、その女の声で我に返ると、元の椅子に座り直しながら苦笑した。

「そういえば先生、結局パフェとケーキと珈琲の代金、払っていかなかったな」

「私の奢りという話でしたからね」

 つばさはそう云うと、テーブルの片隅に伏せてあった伝票を手にとって見た。一方、ことりは可愛く小首を傾げながら、サイモンの出て行った店の扉を見ている。

「ところであの人もバーチャルレーサーなんですよね。あんな青いマシンを仕上げてくるくらいのポイントを持ってるんだから、たぶん上位ランカーだと思うんですけど、迅雷さん、DNは知ってますか?」

「いや、そういえば聞いてない。まあわざわざメールで確認することじゃないし、今度会ったときにでも聞けばいいだろう。憶えていたら」

 それより自分たちはこれからどうするべきか。迅雷がそちらへ気を移しながら腕時計を見ていると、つばさがちょっと首を伸ばして尋ねてきた。

「今、何時ですか?」

「三時半を過ぎたところだ。このあとどうする?」

「よければ、お兄さんにこの秋葉原センターのなかを軽く案内してさしあげようと思っていたのですけど」

 その気遣いに迅雷は嬉しくなって微笑んだ。自分でも見て回るつもりだったが、既にこのセンターのことを知り尽くしているであろうつばさたちの案内があれば大助かりだ。

「それならよろしく頼む。でもおまえたちの方はいいのか?」

 十二月ともなれば日が暮れるのも早い。少女二人のことだし、つばさは車椅子であるからあまり遅くならない方がいいのではないか。迅雷がそう気を回して尋ねると、それにはことりが答えた。

「えっと、門限はもちろんあるんですけど、ちゃんと連絡すれば少し遅れても見逃してもらえますし、暗くなるころには家のお手伝いさんがいつも来てくれますから」

「お手伝いさん?」

 迅雷はそう繰り返してから、そういえばこの二人はお嬢様だったと心づいた。相槌を打ったつばさがことりのあとを引き取って云う。

「通いの家政婦さんがいるんです。その方がいつも車で私たちを送迎してくれますし、遅い時間まで走っているときは傍についていてくれるので、多少の門限破りも許してもらえるんですよ。私たちももう中学生ですしね」

「なるほどね」

 監視付きならば夜に出歩くのも許してもらえるというわけだ。迅雷は得心がいったが、同時にまた新しい疑問をも覚えた。

「しかし送り迎えなら、普通は母親がやるもんだけどな」

「御母様は車の運転ができないんです。元々あまり外へ出ない人だったのですが、御父様が亡くなってからは人前へ出ることもすっかりなくなってしまって」

「なのでお母さんはいつも家にいるんですよ」

「そうなのか……」

 迅雷はそう呟いたが、一つ気になることがある。彼女たちの母親は普段なにをしている人なのだろうか。と、そんな疑問を迅雷の表情から読み取ったのか、つばさが問わず語りに答えてくれた。

「御母様は御爺様から受け継いだ遺産で暮らしておられます。私たちもよくは知らないのですが、土地や株をたくさん持っているみたいですよ」

「マジで?」

「はい。ちなみに御父様は婿養子です。そういう家なんですよ」

 ――貴族って現代にもいたのか。

 迅雷はただただ驚き、将来レースの資金繰りに困ったら、姉妹の母親にスポンサーになってくれないか頼みに行こうとまで考えていた。悲しい話だが、儲からないという理由でスポンサーがF1から撤退するのはよくあることなのだ。だから今どきのレーサーはこういう人との出会いや繋がりを大切にして、レースに集中できる環境を整えることも仕事の一つだとは自動車会社の人からもよく云われていることである。

 迅雷は姉妹の母親のことを心の片隅に書き留めておくと、もう一度時計を見た。三時三十五分である。いずれにせよ、時間を無駄にはしたくない。

「よし、行くか」

 迅雷がそう云って立ち上がると、つばさもまた微笑んで「はい」と頷くのだった。

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