第三話 プリンスとの勝負(9)

 レースはすっかり荒れ模様になってきており、いたるところで順位を上げようと仕掛けるマシンが現れていた。なかには外にはみ出しかけてサンダーラインに触れ、マシンのライフゲージを減らしてしまったマシンもある。

 そんななかで恋矢は首位を維持し、迅雷もまた六位を維持して走っていた。第六ラップにおける迅雷は七つのコーナーは堅実無比に突破し、メインストレートに帰ってきてからまた目の前の相手を抜きにかかったが、そのとき五位を走るマシンが右に左に牽制するような車線変更を繰り返した。

「……ちっ」

 その舌打ちは、つばさの口から漏れたものだ。迅雷もまた苛立たしいのに違いないが、彼は感情を露わにすることなく穏やかに独りごちた。

「あんまり後ろを気にしてほしくないんだがな……」

「気にしちゃいますよ」

 ことりがそう返すと、迅雷は目元をちょっと和ませて続けた。

「こいつが俺に蓋をすることばかり考えると、その隙に前を走ってる四人が逃げちまうこともありうるんだ。まあこうやってケツを振られても、道幅があるから上手く相手の裏をかければ、さっきみたいにストレートで抜いてやれるんだが……」

 だが、今回はその機会が巡ってきそうにない。今度ばかりは迅雷も目の前の相手を抜けないまま、七〇〇メートルの直線を使い切ろうとしている。

「どうします?」

 つばさが問うと、迅雷はなんでもないように云った。

「ストレートで抜けないなら勝負できるコーナーで抜くしかないだろ」

 そうこうしているうちに、いよいよストレートエンドだ。このストレートにおいては、ジェニファーは迅雷に注目していた。

「三周連続でストレートで順位をあげてきたバロンですが、今回は相手の方が一枚上手だったか!」

 そして第一コーナーが迫ってきたとき、相手が蛇行をやめた。後ろの迅雷ではなく、目の前のコーナーに意識を切り替えたのだろう。

 だが迅雷が待っていたのはここだったのだ。それは二周目の再現だった。オープニング・ラップ最後の直線で二台をごぼう抜きにし、二周目に入った直後の第一コーナーで三台目を抜いたときと同じように、第一コーナーで仕掛けたのだ。

「危な――」

 危ない、あんな危険な賭けが二回も成功するものですか――と、叫びかけたつばさは、しかし途中で口を噤んだ。

 気づいたのだ。迅雷と自分とでは、見えている世界が違うことに。つばさにとっては無謀な仕掛けに見えるそれは、迅雷にとっては十分な勝算のある挑戦だったのである。

 そして。

「バロンが第一コーナーでまた抜いた! まるで第二ラップに突入した直後の追い抜きを再現したかのような走りだ!」

 ジェニファーがそう絶賛した通り、第七ラップの第一コーナーを抜けたとき、五位に躍り出ていたのは迅雷だった。

 つばさは声もなく、膝の上で両手を握りしめていた。ことりははしゃいだ声をあげて喜んでいるが、つばさの方は湧き上がってくる想いを静かに噛みしめている。だがそれも十数秒で限界だった。狂おしいほどの賞賛と尊敬の念が波のように押し寄せてきてどうしようもない。

「ふ、ふふふ。ふふふふふ」

 迅雷の走りに気を好くしたつばさの喉の奥から、そんな笑い声が溢れてきた。中継画面ではジェニファーが美しい声を張り上げて景気よく実況をしている。迅雷は完璧な走りをしてみせていた。そして心の底から嬉しげに笑うつばさを、ことりが目を丸くして見ているのだ。

「嬉しそうだね」

 ことりの言葉には含むものがあったが、つばさは気づいた様子もなく素直に頷いた。

「まあな」

 それからつばさは「お兄さん、ちょっと失礼」と云って、コックピットとの通信の映像と音声のうち、音声だけをオフにすると、熱に浮かされたような目でことりを見た。

「ことり、私は今日、改めて思った。速いレーサーならいくらでもいるが、この人はなんというか……圧倒的に、速いな」

「うん。本当にずば抜けてるよ」

「そうだろうとも」

 つばさはそう頷きを返すと、コンソールを操作して中継映像の実況コメントを拾い始めた。それを見たことりが目を丸くする。

「お姉ちゃん、レース中だよ?」

 ナビゲートの仕事を措いてなにをしているのか。咎めるようなことりの言葉に、つばさは軽く肩をすくめた。

「片山さんの実況もいいが、このレースを観ている人がお兄さんについてどんなコメントをしているのか、ちょっと気になるんだ」

「もうっ」

 だが実のところことりも興味をそそられたのか、つばさの顔に顔を寄せて、一緒に実況のコメントを読んだ。匿名のコメントには、次のようなものがあった。

 ――やっぱブルーブレイブは直線強いわ! こんなに青いマシン、ほかにないもん!

 ――トップスピードもそうだけど、そこに到達するまでの加速力が段違いなんだよな。このメインストレート、何メートルだっけ?

 ――たしか七〇〇くらい。

 ――ああ、それだと他のマシンは最高速度に到達するまでに直線を使い切っちゃうからなあ……ブルーブレイブは最高速度に達してから直線を使えるんだよな。この違い。メインストレートに帰って来るたびに一台また一台と抜かれてくな。

 こうした観衆のコメントを読んでいて、つばさは歯がゆい思いをしていた。この輪のなかに入っていって、叱ってやりたかった。

「……マシンの性能ばっかり。誉めるところは、そこじゃないだろ」

 この憤懣やるかたないつぶやきに、ことりが目を丸くして姉に視線をあてる。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 つばさは気持ちのやり場を見つけたとばかり、ことりに向かって吐露を始めた。

「ブルーブレイブは直線で速い。それはそうだ。だが並のドライバーならメインストレートに帰ってくるまでの七つのコーナーで振り落とされてる。メインストレートで抜けるのは、それまでのコーナーを完璧にクリアしてタイムを落とさないからなのだ。それにストレートエンド、第一コーナーでの攻防にエンジンは関係ない」

 だから誉めるべきところはマシンの性能ではなく迅雷の技倆! そう云ってやりたかったけれど、自分は迅雷のサポートである。こうしてコメントを見ているだけでも怠慢なのに、このうえ論陣を張っている暇はない。しかしこの悔しさはなんなのだ? その疑問を覚えた瞬間、つばさは不意に自分の心を見失った。そのときだ。

「お姉ちゃん、なんか可愛いね」

「な、なに?」

 思いがけぬ妹の言葉に瞳を抜かれたようになり、つばさはうろたえながらことりを見た。頬を桜色に染めたことりは、姉を見て微笑んでいる。

「迅雷さんが凄いって、もっと色んな人に知ってほしいんでしょ。正しく評価されないと悔しいんでしょ」

 そこで言葉を切ったことりは、まるで自分の幸せをこそ見つけたように目を細めた。

「好きになっちゃったんだね、迅雷さんのこと」

「な――!」

 つばさは目と口を丸くして凝然としてしまった。普段、あまり表情の動かない自分の顔が、こんなに動くものかと自分で驚いたほどだ。心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなってくる。

「ななな、なにを……違う、そうじゃない、そうじゃないぞ、ことり。それはおまえの勘違いだ」

「そう?」

「そうだとも。なんで私が、今さら恋なんぞしよう」

 否定を続けているうちに、つばさは自分で自分を車椅子に縛り付けているような感覚を起こして、心中密かに自分を嗤った。だがどうしようもない。それは事実であったからだ。

「車椅子の女なんて、お兄さんにとっても重いだろう。だから私は誰も好きにならない。好きになったりしない……」

 すると、ことりの目が急に潤んだ。つばさはそれに気づいたが、気づかなかったふりをして迅雷との音声通信を再度オンにしようとした。その手をことりが捉えて止める。

「そんなこと云わないで」

「ことり」

「誰も好きにならないなんて、云わないでよ……」

 その言葉につばさはなにも返事をすることができない。姉妹は互いの目を覗き込んだまま、時間の止まったように息を凝らしていた。

 そんな姉妹の静謐を、ジェニファーの溌剌とした声が刺し貫いてくる。

「バロン、またしてもオーバーテイキング! 順位をまた一つあげました!」

 つばさとことりははっとして中継画面の方を見た。気がつけばレースは進んでおり、順位変動も起きている。自分たちは迅雷のサポートなのだから、いつまでも迅雷を一人で戦わせておくわけにはいかない。

 ことりはそっと手を引っ込めると、ほんのり笑って云う。

「ねえ、お姉ちゃん。そんな風だと、他の女の子に先を越されちゃうよ?」

「えっ?」

 呆気にとられた様子のつばさに、ことりはふと笑みを消して云った。

「迅雷さんはかっこいいもんね」

 そう他人事のように述べることりの目のなかに本気の色を見て、つばさは愕然と悟った。

「ことり、おまえ……」

 だがうろたえる時間もない。ことりが迅雷との音声通信をオンにしてしまったのだ。

「迅雷さん、ことりです」

「おう、つばさはどうした? なんで音声をオフにしてたんだ?」

「べ、別になんでもありません」

 つばさはそう云って、ふたたび中継画面に視線を放った。そこでは熱く激しい戦いが繰り広げられている。


        ◇


 人工の青い空の下、バーチャルサーキットで十二台のマシンが凌ぎを削り、そのレースの模様をジェニファーが声を振り絞って実況している。

「さあ、レースは中盤、第十三ラップ! トップを走るのは一貫してプリンス、そして二番手につけるのはライトニング・バロン! 最後尾からスタートしたバロンですが、あれよあれよと云う間に順位を上げ、先頭を走るプリンスに迫る――!」

 そう、あれから迅雷は超絶の走りで順位を六位から二位に上げ、十三周目の第一コーナーを抜けた時点で、もう恋矢のすぐ後ろにつけていた。

「捉えたぞ、プリンス!」

 と、そのときつばさがピットから声をかけてきた。

「お兄さん。プリンスの奴がコールしてきています」

「通信? このタイミングでか?」

「どうします?」

「うーん、とりあえずサウンドオンリーで繋いでくれ」

「了解」

 つばさはいちいち反駁などせず、云われた通りにした。中継画面の下に第三の窓が開き、サウンドオンリーの英語表記とともに恋矢の第一声が飛んでくる。

「なんなんだ貴様は! なぜそんなに速い!」

 顔を見たくなかったから音声のみで繋いでもらったのだが、迅雷には恋矢の顔が真っになっているのが目に浮かぶようだった。迅雷は笑いを含んだ声で答えてやる。

「なんでそんなに速いかって? それが実力というやつだよ」

「く……!」

 恋矢のそれは、歯ぎしりしそうなうめき声である。

「さあ、プリンス。あとはおまえだけだ。おまえを抜けば、俺は自由だ!」

 ステアを握る迅雷には鬼気迫るものがあった。ゲーム上のこととはいえ、F1を凌ぐ性能を持つオンライン・フォーミュラのマシンにとって、一周三〇〇〇メートル未満のサーキットは窮屈だ。しかも七つのコーナー、短いメインストレートと、ブルーブレイブにとっては手足を封じられたような条件で走らねばならなかった。極めつけは、目の前に遅いマシンがいて、しかも自分を妨害してくるのである。

 邪魔なマシンを全部抜き去って、自由に、思い切り、伸び伸びと走りたい!

 自由に指尖ゆびさきをかけた迅雷は、ほとんど渇望するような顔をしながら、恋矢のすぐ後ろについてU字のヘアピンになっている第三コーナーを抜け、サーキット中央部へ向かう第四コーナーを回った。

「さっさと抜かれて、俺を自由に走らせろ!」

 迅雷は獲物を追い詰める狼の如くである。一方、恋矢はそれに追われる羊のようだ。

「なぜだ。ここはストレート特化型の貴様のマシンには不利なコース。しかもグリッドは最下位だったはずだ……!」

 迅雷のマシンはアスファルトの路面を、クルージングでもするかのような動きでコーナーを回って恋矢のマシンにぴったりついてくる。

「これが速いということなのか? つばさ嬢が惚れるほど? いや、そんなことを認めてなるものか!」

 第五第六コーナーを抜けた恋矢が、迅雷が、最終第七コーナーへと向かう。この間、迅雷は恋矢を何度となく追い立てていた。仕掛けようとして仕掛けない。こうすることで重圧をかけ、相手のミスを誘い、その隙をつけないかと考えていたのである。無論、相手をスピードで完全に圧倒しているからこそ出来ることだった。

「――なんて奴だ!」

 恋矢はそう叫び、追い詰められながら最終コーナーを回る。直線に入ると、恋矢はここぞとばかりに蛇行運転を始めた。それを見て迅雷はつまらなそうに云う。

「……おまえもか」

 今まで抜いてきたマシンは、ストレートで躱されないためにこのように大袈裟な牽制ををしていた。そのたびに迅雷は上手く裏をかいてストレートで抜き去るか、もしくは次の第一コーナーで追い抜いてきたのだ。

 だから今度の場合も、同じように相手を抜ける。そうして首位に立てると思っていた。だが今までと一つだけ違うのは、相手のドライバーと音声通信をしていることだった。

 窮鼠、猫を噛む。

 断崖へと追い詰められた恋矢は、このとき呪詛混じりの声で云った。

「ライトニング・バロン、僕は断言するぞ! 貴様が僕を抜こうとするなら、僕は貴様に体当たりしてやる!」

「なに!」

 その宣言にはさしもの迅雷も驚愕した。仕掛けようとしていた気持ちも吹き飛んでしまう。

 ――こいつ本気か? いや、ただのはったりだろう。だってそんなのありえない。

 迅雷はそう自分の物差しで恋矢の正気を測ろうとしたのだが、今の恋矢は迅雷の物差しでは測れないところにいた。

「そうだ……今まで貴様に追い抜かれてきた雑魚どもは、上手く道を塞いだり、あるいはサンダーラインに引っかけてやろうなんて浅い考えで、自分は安全なままでいようなんていう中途半端なブロックをしていたから、貴様を止められなかったんだ。僕は違うぞ。ぶつけてでも止める! フィジカル・ブロックだ!」

 こいつ本気だ。そう思って、迅雷は絶句した。いったい、恋矢と音声通信していたことは幸運だったのか不幸だったのか。喋りながら走っていなければ、恋矢はこんなことを云い出さなかったのかもしれない。しかしどのみち体当たりを敢行する気であったなら、こうして警告をされたのは危険を認識するという意味で幸運である。

 迅雷が対処に困っていると、つばさが目を剥いて叫んだ。

「プリンス、貴様本気で云っているのか。オープニング・ラップでぶつかった二台を見ただろう! 接触すれば貴様だってただではすまんぞ!」

「どうかな。見たところバロンのマシンは純色の青だ。ストレート以外にポイントは振っていまい。翻って僕のマシンはバランスよく均等にポイントを振っている。足回りの頑丈さでもパワーでも耐久力でも僕のマシンの方が上。ならばぶつかる勢いにもよるだろうけど、上手くあててやれば、案外吹き飛ぶのはそちらのマシンだけかもしれないぞ?」

「それは――」

 咄嗟に反駁しようとしていたつばさは、しかし言葉を続けられなかった。それはオンライン・フォーミュラに通暁つうぎょうしている彼女が、そうなる可能性もありうると認めたということに他ならない。

 つばさは無言のまま、怯えたような目をして迅雷を見てきた。ことりも同様である。二人とも迅雷に託そうとしているのだが、迅雷とて動顛どうてんしていた。

 ――ぶつけてでも止めるだと?

 三歳から始まったレース人生において、そんなことをするレーサーと戦ったことは一度もない。当たり前だ。現実で車を運転しているのだ。重大事故は命に関わる。接触は絶対に駄目なのだ。

「プリンス、おまえ、それは卑怯……!」

「はん! レースは勝てばいいのだ!」

 その宣言に迅雷は為す術もなく、ストレートを使い切り、次の第一コーナーでも仕掛けられないでいた。天衣無縫の走りを見せていたライトニング・バロンが、「ぶつけてでも止める」のたった一言で鎖に繋がれてしまったかのようである。

「十四周目に入ります。バロンは仕掛けられません。トップは依然としてプリンス」

 ジェニファーの実況を聞いて、迅雷は自分に憤り、また卑劣な宣言をした恋矢には怒りを覚えていた。このままいつまでもまごついてはいられない。

「つばさ、映像を出せ」

 その迫力のある声に、つばさは逆らう気もないらしく、恋矢との通信をサウンドオンリーから映像付きに切り換えた。恋矢は迅雷が攻めてこないのを見て、少し安心しているようだった。その恋矢を、迅雷はぎらぎら光る目で睨みつける。

「おい、プリンス。おまえ、わかってるのか。時速何百キロとかの世界で車がぶつかったら、人が死ぬこともあるんだぞ……!」

 その言葉に、恋矢はまるで妄言を聞いたとばかりに嘲弄の笑みを浮かべた。白いヘルメットを被っていても、それが判る。

「なにを云っているのだね、ライトニング・バロン。少し入れ込みすぎではないかね。これはゲームだ。クラッシュしても人は死なない。だから煽ろうが幅寄せしようが多少ぶつかろうがどうってことはないのさ。むしろ闘志の表れだよ」

「ふざけたことを云ってるんじゃない!」

 迅雷がこれほど真剣に怒っているのに、恋矢は暖簾に腕押しとばかりににやにや笑っている。それを見て迅雷は目の眩むような怒りを覚えた。頭に血が上るとか、文句をつけるとか、もうそういう次元ではない。ぶっ殺すぞ、と思っていた。

 ぶつけてでも相手を止める。一見して勝利に貪欲な闘志溢れる戦い方に思えるだろうが、モータースポーツにおいてはとんでもない暴挙だ。

 ゲームだから許されるのか?

 いや、違う。

「これはゲームだが、ゲームをプレイしている俺たちはリアルなんだよ! ゲームだからってそういうことを平気でやるってことはな、根性ががってるってことなんだ! 俺はおまえのような奴には絶対負けんぞ!」

「ふん、付き合ってられるか」

 恋矢がそう云った次の瞬間、通信画面が向こうから切断された。

「おい、待て!」

 だがこの怒りの声も届かない。いよいよ、憤激の焔が高々と燃え上がった。心が炎に呑み込まれていく。自分が一匹の龍になったような気持ちで、後ろから相手を一口で噛み殺してやりたいとさえ思った。

 そんな迅雷の走りに危ういものを感じたのか、つばさが声をかけてきた。

「ちょ、ちょっとお兄さん、落ち着いて!」

「落ち着け? これが落ち着いていられるか! おまえだってオンライン・フォーミュラが好きなんだろ! 野郎はこのゲームそのものに喧嘩を売っているぞ!」

 雷を落とされたつばさが画面のなかでひっと目を瞑るのが見えたが、迅雷はもうつばさを見てはいない。先を行くヴァイスセイバーの後ろ姿を憎々しげに睨んでいる。こうしてあの車の後塵を拝しているのも気に入らない。言葉一つで仕掛けることが出来なくなってしまった自分にも腹が立つ。

「お兄さん!」

 つばさがもう一度、今度は大きな声で叫んでくるので、迅雷も少しばかり冷静になって云った。

「……つばさ、俺と初めて会ったときのことを憶えているか」

「もちろん、忘れるわけがないじゃないですか」

「あのとき、俺はオンライン・フォーミュラを舐めていた。所詮ゲームじゃないかと侮っていた。だがそんな俺をおまえは負かした。マカオで優勝した疾風迅雷に、中学生の女の子が勝ったんだ。このゲーム凄いなって思ったよ。あのときおまえが俺の天狗の鼻をへし折ってくれたように、俺もこいつには勝たなくてはいけない!」

「お兄さん……」

 通信画面のなかでつばさは目をちょっと潤ませていた。迅雷はそれに気づいたが、そんな彼女の心持ちを斟酌しんしゃくしている場合ではない。

 ――ぶつけてでも止めるだと?

 またしても怒りがむらむらと湧き起こってくる。

「――謝れ、この野郎!」

 この怒りが追い風となってマシンを駆り立ててくれればどんなによいだろう。だが現実には、ブルーブレイブでのコーナリングは極めて精密なドライビングを要求される。まさに冷静と情熱のあいだに立って、たった一つしかない捷路しょうろを駆け抜けてゆかねばならなかった。


        ◇


 ピットのお喋りでドライバーの集中を乱すわけにはゆかないから、つばさはヘッドセットのマイクをオフにし、音声通信をコックピットからの一方通行にすると、恋矢を追ってひた走る迅雷のブルーブレイブを見つめながら嬉しそうに微笑んだ。

「……お兄さん、いつの間にかオンライン・フォーミュラのことを本気で好きになってくれていたんだな」

 そう呟いたつばさの傍らでことりがくすりと笑う。

「そうじゃなきゃこんなに毎日毎日乗ってないよ。ああ、でも迅雷さんリアルレーサーでもあるから、春になったら色々忙しくなって私たちとは遊ぶ時間、減っちゃうのかな」

「なんとしてでも時間を作ってもらうさ。三日に一度は会わなくては」

 つばさは大真面目に云った。その方法についてことりと検討したかったが、今はレース中である。これ以上、余計なお喋りをしている暇はない。第十四周目も終わろうとしている。

 レースが十五周目に入ったとき、実況のジェニファーがううんと唸った。

「先頭を走るのは依然としてプリンス、そのあとをライトニング・バロンが追っています。プリンス、このまま逃げ切るのか。それともバロンが打開するか。一方、後続も諦めてはいません。激しいバトルの末、サンダーラインに引っかかってゲージを減らしながら大きく後退してしまったマシンもあります。どのマシンが勝ち名乗りをあげるのか。緊迫の第十五ラップ!」

 そんなジェニファーの煽りを聞きながら、つばさは突破口を見出せないでいる迅雷の走りを見て表情を曇らせていた。

「しかし、このままだとまずいな」

「うん、まずいよね」

 と、後を引き取ったことりは、はっきりと非難の眼差しをした。

「さっき弓箭寺さんが自分で云ってたけど、これはフィジカル・ブロックだよ。でもそんなの認められない。ぶつけてでも止めるなんて……」

「……あいつは昔からそういうところがあった。スリップで急ブレーキを踏んだ一件だって、追突すれすれだったんだ。だが、平気でやった」

「オンライン・フォーミュラではクラッシュしても人は死なないからね」

 ことりは父の事故のことを思い出したのか、少ししょんぼりと云った。つばさは卓子の下でことりの手に手を重ねると、中継画面に映るヴァイスセイバーを憎々しげに睨みつける。

「プリンスに限らず、相手を妨害するために危険なブロックをする奴が、バーチャルレーサーにはしばしばいる。もちろんマナー違反だし、悪質な場合は運営から警告が行ったりDPの没収、ライセンスの停止もあり得る。が、それでもやる奴は後を絶たない。ゲームのことだから、怪我をしたり命を落としたりすることはないからだ。そしてそれに対応するのもバーチャルレーサーの技術の一つだが、恐らく、お兄さんにはその技術がない」

「リアルでレースをしてきた人だもんね」

 ああ、とつばさは頷いて、迅雷の駆るブルーブレイブをもどかしげに見つめた。

「ゲームと違い、現実のレースで接触事故が起こればお互いの命に関わる。だからぶつけてでも相手を止めようなんてクレイジーな奴はまずいない。恐らくお兄さんにとって初めての経験だろうな、フィジカル・ブロックをしてくるレーサーを相手にするのは」

 そんな話をしているあいだにも、十五周目が終わろうとしている。

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