第三話 プリンスとの勝負(7)

「あはは……バイタリティにポイントを振ってる黄系統のマシンなら、電撃戦での耐久力も上がるんですけどね」

「予想はしていましたが、お兄さんのマシンは純色の青なので黄色にまったくポイントを振っていません。耐久力ゼロです、ゼロ。いわゆる紙装甲ペーパーアーマーってやつですよ」

「まあどのみち黄色や緑はオフロード向けのチューニングだから、オンロードではあまり見ないけど」

 ことりの付け足すような言葉を聞いて、迅雷はむうと唸った。

「バイタリティか」

 その呟きをどう思ったのか、つばさが問わず語りに語る。

「復習になりますけど、オンライン・フォーミュラはストレート、コーナー、バイタリティ、トルクのいずれかにDPを振ることでマシンの性能をチューニングすることが可能です。このときポイントの配分によってマシンの色が変わることも以前教えた通りです。さて、ではOFにおけるバイタリティとはなにかと云うと、とにかく『長く走り続ける』継走能力のことです。バイタリティにDPを振るとマシンは黄色くなりますが、黄系統のマシンはまず燃費がよく、冷却効率も向上するので故障しにくい。そして電撃戦などマシンのライフゲージが表示されるレースでは、もっとも高い耐久力を有します」

「つまりタフなマシンってことか」

「はい。ですから仮に真っ黄色なマシンがあったとしたら、サンダーラインなんか怖くないんですけど、お兄さんのマシンは真っ青ですから、最大十秒しかもたないわけですよ。今回はフリー走行中なのですぐにリスタートできますけど、本番でマシンが爆散したらリタイア扱いでもう復帰できません。ゲームオーバーです」

「そりゃそうだろうな」

 迅雷は笑ってそう云うと、腕組みしていたのがステアリングに手を伸ばし、ステアリング中央の液晶画面からリスタートを選択する。

 瞬時に画面が切り替わり、マシンはスターティング・グリッドに戻されていた。ゴースト状態にあり、アクセルを踏んだ瞬間、ゴースト状態も解除されるらしい。

「おっと、ブルーブレイブがようやく復帰。さっきの接触はマシンの耐久力を確認したんでしょうかね」

 ジェニファーの言葉に首肯うなずきを返しつつ、迅雷は通信画面のつばさとことりを見つめて云う。

「情報は取れた。耐久力は最低。でもストレートでの伸びは最高。俺はこのマシンで勝負する。今さら深刻になるようなことじゃない。だいたい、サンダーラインに触らなけりゃ、耐久力なんて関係ないんだからな」

「お兄さん……」

 つばさは驚いたように、あるいは頼もしそうに迅雷を見ると微笑んだ。迅雷はそんなつばさに向かって親指を立てる。

「話は終わりだ。これ以上は時間が惜しい。フリー走行に戻る」

「はい!」

 そう返事をしたつばさの傍で、ことりが元気よく云う。

「迅雷さん。もうサンダーラインに接触しちゃだめですよ」

「わかってるよ」

 迅雷はそう云って笑うと、ふたたびバーチャル・サーキットへと飛び込んでいった。


 ここはFSWショートサーキットをモデルにしているだけあってテクニカルなコースであり、走り甲斐があった。迅雷はピットのつばさとやりとりしつつ、リアルタイムでセッティングを変えていく。このゲームはフリー走行中に限り、走りながらのセッティング変更ができるのだ。ただしタイヤの交換だけはフリー走行中でもピットに入る必要がある。

「順調ですね」

 ことりがのどかに云う。迅雷の報告に合わせてつばさがセッティングを変え、マシンはみるみるコースに最適化していき、それに伴って迅雷のタイムも上がっていた。

 迅雷は迅雷で、コースを見極めて情報を拾い集めていたが、第六コーナーに差し掛かったとき、縮尺こそ違えど、かつてこのコースを走った思い出にふと気を取られた。

「……思い出すなあ、このブラインドコーナー」

「なんです?」と、つばさ。

「いや、ちょっと苦い思い出があるだけさ。それよりフリー走行はまだ終わってない。気づいたことは全部報告するから、しっかり覚えてくれよ」

 そしてもちろん、マシンのセッティングだけ変えればいいというものではない。ギアの選択、ステアリングの角度、ブレーキの強さとタイミング、新鮮な空気エアが必要な箇所とそうでない箇所の見極めなどは、ドライバーである迅雷の仕事だ。

 最終コーナーを回ってメインストレートに帰ってきた迅雷は、下り勾配になっているこのストレートを駆け下るための最適なギアを探っていた。

 そうしてフリー走行も終盤に差し掛かってきたときである。つばさが突然、こんなことを云った。

「あの、お兄さん。フリー走行中ですが、プリンスからコールがありました」

「この忙しいのにか?」

 フリー走行は遊びではない。情報を拾い集める貴重な機会である。他のドライバーとお喋りをしながらのんびり走っているような場合ではないのだが、今日のレースは恋矢に勝つことが目標なのだ。もちろん一位を目指すが、最低でも恋矢より順位を一つ上回れば勝ちである。

 ――敵を知るという意味で、ある意味じゃこれも情報収集か。

「繋いでくれ」

 つばさはちょっと驚いたようだが、反論はしてこなかった。

「音声のみですか? それとも映像も出しますか?」

 別に恋矢の顔を見たいわけではなかったが、話をするなら顔を見ながらの方がよい。

「映像つきで頼む」

 次の瞬間、画面の左上に新しい窓が開いて、白いフルフェイス・ヘルメットを被っている恋矢がいきなり迅雷を笑い飛ばした。

「はははははっ。ライトニング・バロン、さっきは笑わせてもらったぞ。いきなりサンダーラインに突っ込んだかと思うとそのまま爆散とはな! 耐久力を探るためにやったのだろうが、そのマシン、青すぎて紙装甲のようだ」

 迅雷はやはりサウンドオンリーで繋げばよかったと後悔しながら云う。

「その辺の話はつばさから聞いたよ。なにがおかしい?」

「同情しているのだよ。今日のレース、貴様の負けは決まった」

「なに?」

 意味がわからず眉をひそめる迅雷に、恋矢が滔々と語る。

「貴様のマシンはあまりにも耐久力が低すぎる。それではどうしてもゲージを気にしてしまって、コーナーをぎりぎりまで攻めたりコース幅をいっぱいに使った大胆な走りが出来なくなるはずだ。そんな走りで僕に勝てるわけがない」

「お兄さん、聞いちゃいけない。心理的優位を取ろうというプリンスの作戦ですよ」

 つばさが真剣そのものといった顔でそう警告を寄越したのだが、迅雷にしてみれば今のは子供が虚勢を張っているという感じである。

「心配するな、つばさ。こんなもので俺の優位を取れるかよ」

 迅雷は微笑んでさえみせると、迅雷は恋矢を眼光鋭く睨みつけた。

「あのなあ、プリンス。おまえは俺からホストの座を奪い取って、ストレートの短いサーキットを選び、スターティング・グリッドの操作もして、不意打ちみたいに電撃戦も仕掛けてきてと色々やってくれるが、そんなもので勝った気になるんじゃない」

 ――ゲージを気にして、大胆な走りが出来なくなる? 事故を起こせば死ぬかもしれない現実で走ってきたこの俺が?

 オンライン・フォーミュラは素晴らしいゲームだ。バーチャル・リアリティとはよく云ったもので、ここはゲームという名の異世界に等しい。それでも一つ現実と決定的な違いがあるとすれば、それは事故を起こしたときに支払う代償の差だった。

「サンダーラインなんかで俺をどうにかできると思わないことだ。俺に勝ちたかったらスピードで凌駕するしかないんだよ。今日のレースでそれを教えてやる」

 迅雷がそう云い放った瞬間、通信画面のなかで恋矢がはっきりと怯むのが見えた。

「き、貴様……!」

 そのとき、フリー走行中とはいえ、恋矢はレースのなかでレースを忘れたのだろう。恋矢の白いマシンがコーナーで曲がりきれずにサンダーラインに突っ込んだ。

「ああっ、プリンス、サンダーラインに接触!」

「ちいっ!」

 ジェニファーが実況し、恋矢が車を立て直そうとしたところで、恋矢との通信画面がいきなり切れた。見れば、別の通信画面のなかでつばさが得意げな顔をしている。

「切りました」

「ご苦労」

 迅雷は笑って頷くと、ふたたびマシンの速度を上げた。中継画面では、ジェニファーが改めて今日のレースの概要についてを語っている。

「フィニッシュまでの周回数は三〇周。既に上限いっぱいの十四人のレーサーが参加を表明してフリー走行をしています。さあ、彼らがどんな走りを見せてくれるのか。レースは午後二時にスタート予定です」

 ……。

 午後一時三十分、フリー走行を終えた迅雷は、ヘルメットとグローブを座席に残してエントリーシートから降りてきた。汗を流している迅雷に、ことりが如才なくタオルとスポーツドリンクを差し出してくれる。

「ありがとう」

 タオルで大雑把に汗を拭った迅雷は、スポーツドリンクを飲みながら、エントリーシートの奥にあるピットブースへと足を運んだ。

 そこではつばさがコンソールに向かって手を動かしている。マシンの最終調整をしているのであり、これはつばさの仕事だった。

 ことりとともにつばさの背後からコンソールを覗き込んでいた迅雷は、そのゲーム的な画面を新鮮な目で眺め、またつばさのキーボードタッチの速さに目を瞠った。

「手際いいな」

 そう声をかけると、つばさは振り向かずにくすりと笑った。

「フリー走行中は走りながらセッティングの変更ができますけど、本番になったらピットインしないといけなくなりますからね。やれることはやっておかないと」

 それに相槌を打った迅雷が思い出したように云う。

「毎度のことだが、走りながらセッティングを変更していくと、マシンがどんどん最適化していくのが肌で感じられてすごく気持ちいいよ。これでタイヤの換装も出来たら完璧なんだがな……」

「走行中にいきなりタイヤが切り替わるのは、さすがに無理がありますからね。フリー走行中でも本番と同じく出来ないようになっています。それでそのタイヤですが、どうしましょう? セッティングの基本方針は、コーナーが多くてストレートが短いコースですから、なるべくトルク寄りにして足回りをがちがちに固める、ってことですが……」

 そこでつばさが手を止め、迅雷を振り仰いでくる。迅雷は迷わずに云った。

「今回ばかりは小口径ホイールを選択しよう。少しでも旋回性を高めた方がいい」

「でしょうね。ちなみにタイヤも耐久性が高いけどグリップが弱いのとか、低いけどグリップが強いのとかあるんですけど……」

「それは悩ましいな。グリップの弱さはある程度技術で補える自信があるんだけど……」

 そこで迅雷が言葉を濁したのは、サンダーラインの存在があるからだった。電撃戦では相手をサンダーラインに引っかけようとする動きがあり、荒れたレースが予想されるため、いざというときに踏ん張れないのではまずい。

「二七〇〇メートルを三〇周だから八一キロか……」

 迅雷はスポーツドリンクで唇をしめらせると、つばさとことりを見下ろして云う。

「知ってるか? F1だと一回のレースにおける総走行距離は三〇五キロメートルが基準だ。だからそれに比べれば八一キロなんてどうってことないな」

「それになにかあればピットインしてニュータイヤに履き替えてもいいわけですしね」

 と、ことりが明るく云う。

「タイムロスになりますがね」

 と、つばさが付け加えた。そう、現実のレースにおいてもピットインは時間との戦いであり、オンライン・フォーミュラもそれを踏襲している。

「……ふむ。一応、確認しておくが、ライフゲージの回復手段は?」

「一切、ありません」

 つばさのその鮮やかな返答で迅雷も踏ん切りがついた。

「よし、じゃあグリップ重視でいこう。タイヤを使いすぎたら履き替えればいいだけだが、ライフゲージが減ったら取り返せないからな」

「了解」

 迅雷の言葉に相槌を打ったつばさは、顔を前に戻すとコンソールからタイヤの交換にかかる。ところで迅雷はこの二週間、ずっとレースをしてばかりでピットからつばさやことりをサポートすることがほとんどなかった。セッティングの画面をじっくり見るのもこれが初めてである。

「なんか、おまえセッティングやタイヤの交換なんてゲーム的でとても簡単とか云ってたが、こうしてゲーム画面を見てみると結構難しそうなんだが」

「ふふっ、お兄さんには難しいですか。でもいいんですよ、それならそれで、わからないままでいてください。私が調整したマシンに乗ってお兄さんが走る。うん、その方がいい。これこそチームというものです」

 そう語るつばさは楽しげで、鼻唄さえ歌い出しそうである。迅雷は思わずことりと目を見合わせ、二人はなにかが通じ合っているように笑いあった。

 そこへつばさが世間話でもするように云う。

「しかしこんなにコーナーの多いサーキット・レイアウトでしたら、私のエーベルージュを貸してあげてもよかったんですけどねえ」

「冗談を云え。俺はブルーブレイブで走ると云っただろう」

「ですよねえ。それにもうブルーブレイブでエントリーしてしまいましたから、今さらマシンの変更は出来ません。お兄さん、本当にお願いしますよ?」

「わかったから、おまえもきちんと自分の仕事をしろ」

「了解です」

 つばさはそう答えて頷くと、コンソールのパネルを叩き始めた。指がかろやかに回る。もはや口元に笑みなどなく、つばさの黒い瞳は炎が宿っているかのようだ。

 邪魔をしない方がいいと思って、迅雷は備え付けの椅子に腰を下ろしてスポーツドリンクをちびちびと飲みながら黙っていた。ことりはつばさの傍にいたけれど、どうも手持ち無沙汰にしているらしい。ことりが迅雷の方を見たとき、迅雷はことりに手招きをした。ことりはよく訓練された犬のように迅雷のところまで小走りにやってきた。

「ここに座ってろよ。やること、ないんだろう?」

 迅雷は自分の隣の椅子の座面を叩いた。ことりは「はい」と頷いて云われた通りにする。そのまましばらく黙っていると、ことりの方がおずおずと切り出してきた。

「あの、迅雷さん」

「うん?」

 迅雷が顔を振り向けると、ことりもまた迅雷の目をじっと覗き込んでいた。

「ふと思い出したんですけど、さっきフリー走行中にブラインドコーナーがなんとかって云ってましたよね?」

「ああ。リアルのFSWショートサーキットの方で、事故の思い出があってな」

 えっ、と一声あげて絶句したことりの顔を見て、迅雷は呵々と笑った。

「俺はワークスのドライバーだが、もちろん最初から会社と契約してたわけじゃない。契約のためにはそれに見合う実績を出し、のみならずテストを受けなくちゃならなかった。で、高一の夏休みに、俺は自動車会社のやってたテストを受けに行ったんだ。二泊三日の日程で、座学があり、研修があり、そして最終日にはレースがあった」

「勝ったんですか?」

 ことりはそう結論に飛びついてきたのだが、迅雷は肯定も否定もしなかった。

「まあそう結論を急ぐなよ。その最終日のレース、舞台となったのはFSWショートサーキットだった」

 ことりが目を丸くする。迅雷はそこへねじ込むように云う。

「FSWショートサーキットは新人の登竜門だって云っただろう。さんざん走り込んだ、って。あれはこういうことだったのさ。で、FSWショートサーキットには十八通りのレイアウトがあるんだが、今日のレイアウトだと最終コーナーの手前……第六コーナーだ。あそこがブラインドになってる」

「ブラインドって、つまりコーナーの出口が見えないってことですか?」

「そう、見えないんだ。だからたとえば周回遅れがブラインドコーナーの出口でスピンして停車していて、そこにトップを走る俺がやってきたとしたら?」

 ことりは引きつった顔をして息を呑んだ。と、そのときつばさが手を止めて迅雷たちを振り返る。

「お兄さん」

「うん、終わったのか?」

「ええ。それよりも、それは本当に起こったことなんですか?」

「ああ」

 迅雷は一つ首肯うなずくと椅子からすっくりと立ち上がり、ことりに手を仮して彼女を引っ張り起こすと、彼女と手を繋いだままつばさのところまで行った。

「コースレイアウトを出してくれ」

 つばさが云われた通りにすると、ピットブースのディスプレイに今日走るコースの全体図が映し出された。

「繰り返しになるが、このサーキットはコースのレイアウトを選べる。第一コーナーのAセクションと最終コーナーのCセクションでは大回りするか小回りするかで分岐、中盤のBセクションはサーキットの中央部分を通るか通らないかで分岐。またアップダウンも激しく、最終コーナーからメインストレート、第一コーナーにかけては下り坂になっている」

「あそこはみんなスピード出てましたもんね」

 そう云うつばさに相槌を打ち、迅雷はコース中央のBセクションを指差した。

「さて、下り坂があるってことは、上り坂もあるってことだ。この第四コーナーで左折して緩やかな右カーブを描く第五コーナーを経て、さらに左に折れる第六コーナーにかけて……ここが上り坂になっているのに、フリー走行を見ていて気づいたか」

「もちろん」

 素早く頷いたつばさは、顎に指をあてる。

「とはいえ、ピットからの映像ではブラインドになっているとまでは気づきませんでしたが、云われてみれば上り坂を下から見たとき、向こう側って見えないですよね」

「そう。坂道を上っているときに、坂のてっぺんに車みたいな背の低いものがあるかどうかなんて見えない。坂を上り切って気づいた瞬間にはもう手遅れだ。タイミングも最悪で、俺が上ってくる直前にスピンしやがったもんだから、警告のイエローフラッグも間に合わなかった。で、ドカンだ。人生で初めての接触事故だったよ。だが幸い、どちらも怪我はしなかった」

 つばさとことりが揃ってほっとした顔をする。

「よかったじゃないですか」

「よくはない。なぜなら、その時点で俺は自動車会社と契約していたわけじゃない。テスト生として、会社の車を貸してもらっていたんだ。だから……」

 迅雷はあのときのことを思い出してその精悍な顔を憂鬱に陰らせた。

「教官方から、事前にしつこいくらい云われていたんだ。接触は絶対に駄目だって。人が死ぬこともあるし、車を壊したら君らに弁償してもらうことになる。全損なら五百万の請求が行くぞ、だから絶対ぶつけるな、って」

「請求? 車の修理費を、お兄さんが支払うことになったんですか?」

「そうだよ」

 迅雷は半分自嘲し、片手で前髪を掻き上げた。

「契約してないドライバーが借り物のマシンを壊したら、当然そうなる。事故が起きたあと、レースをいったん止めてピットに戻り、俺だけじゃなく俺の親父も呼ばれて、マシンを検めてその場で見積もりが出た。二百万くらいですね、ってその場ではっきり云われたよ」

「二百万……」

 いったい素封家の娘である二条姉妹にとって、二百万という額面はどれほどの重みを持っていただろう。だが迅雷のような一般家庭の者にとって、その負債は途轍もなく重かった。

 あのときの衝撃を思い出して迅雷がわなないていると、繋いだままのことりの手に力が籠もり、傍からことりがそうっと訊ねてきた。

「あの、それで、どうなったんですか?」

「続けるか棄権するか選べと云われて、俺は答えられなかったが、親父は続けろと云った。それですぐに代わりのマシンが用意されて、レースは再開されることになった」

「失格ではないんですか」

 つばさがそう驚いたのもむべなるかな、普通はマシンが大破したらレースはそこで終わりである。しかしあのレースは違ったのだ。

「あれは試験だったからな。レースは止まってたし、本人が望むなら最後まで走らせてくれたのさ。だが正直、あのときばかりは動揺したよ。新しい車に乗せられたときは体がふるえた。一回のクラッシュで二百万だぞ? もしまたマシンをぶつけてしまったら、って」

「ああ……」

 つばさはなにもかも悟った顔をして、迅雷に同情的な視線をあてた。

「それで駄目になってしまったんですね」

 そう云ってから、つばさはすぐに自分で自分の言葉の矛盾に気づいたらしかった。

「あれ? でもお兄さん、結局その自動車会社との契約を勝ち取ったんですよね」

「ああ、そうさ」

 迅雷は誇らしげにそう肯んじると、わらいながら続けた。

「あのとき俺はがちがちになってたんだが、そのとき俺の担当教官が声をかけてくれたんだ。『おい、迅雷。びびるなよ。ここでびびって自分の走りを見失うようなら、おまえは一生F1レーサーにはなれないぞ』って。ガツンと響いたよ。俺が本物かどうか、今レースの神様に試されているんだって思った。だから完璧な走りをしてやったんだ。そういう昔話だよ」

 迅雷はそのように昔話を結ぶと、つばさを見下ろして尋ねた。

「セッティングは完璧か?」

「もちろんです」

 胸を張ってそう請け合ったつばさに「よし」と云って笑みを返した迅雷は、そのときことりとずっと手を繋ぎっぱなしであったことに気づいてそっと手を離した。ことりはなんだか名残惜しげに指で迅雷の手を撫でていくと、何食わぬ顔をしてつばさの隣に腰を下ろした。

 迅雷はちょっとどぎまぎしたが、気持ちを落ち着けてふたたびコンソールの画面に目を戻した。

「……さて、おさらいだ。このサーキット、本物のFSWショートサーキットの三倍くらいの長さになってて、周回距離はおよそ二七〇〇メートル。縮尺が変わってるせいで道幅もだいぶ広くなってるな。見ての通り、カーブが多くストレートが短いレイアウトだから全体的な速度はそれほど上がらないだろうが、それなりに走れる奴なら、一周あたりのラップタイムは五〇秒が目安だ」

「お兄さんのフリー走行のタイム、最終的に四〇秒を切りそうだったんですけど」

「切れなかったのが自分でも悔しい。やっぱりブルーブレイブはじゃじゃ馬なのかな? ま、それはともかく五〇秒を切れたら普通に速いってことだよ」

「はい」

 そう頷いたつばさの横で、ことりが表情を強張らせている。

「五〇秒……」

 察するに、ことりは二七〇〇メートルを五〇秒で走る自信がないのであろう。そんなことりを姉として慰めようというのか、つばさが聞こえよがしに付け加えた。

「まあレースだと妨害がありますし、前を走るマシンが遅くて壁になってしまったりすることもありますから、フリー走行のようにはいかないと思いますけどね」

「それはそうだ」

 そう相槌を打った迅雷に、今度はつばさが云う。

「私はそれより、メインストレートが短いことの方が気になります。だって約七〇〇メートルですよ?」

 たった七〇〇メートルの直線では、ブルーブレイブのエンジンの強さを活かしきれるわけがない。しかしストレートはストレート、そう思った迅雷は笑って云った。

「エンジンが強いということは、最高速度が高いだけじゃなく、そこに到達するための加速力もあるってことだ。ブルーブレイブなら、ここはタイムを稼げるよ」

「ならいいんですけど」

 そう云ったつばさが迅雷を振り仰ぎ、試すような視線をあててくる。

「……ところで、プリンスは本当に色々とやってくれましたが、どうです、お兄さん。本当のところ、このレースは勝てますか?」

「任せろよ。俺は疾風迅雷だぜ? たしかに逆境からのスタートだけど、レースなんて逆風が吹いてるくらいの方がちょうどいいのさ」

 そう云ってどんと胸を叩く迅雷に、つばさはにこりと笑って云う。

「ふふっ、いい科白せりふですね。じゃあお願いしますよ、お兄さん。負けたら一生呪いますからね」

 そんなつばさに、もし自分たちが本当の恋人同士であったのならキスの一つくらいしていたのかもしれないと、迅雷はなんとなく思った。

 時刻は午後二時になんなんとしている。

 いよいよ、つばさの純情を懸けた勝負が始まる。

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