第五話 飛べない鳥(1)

  第五話 飛べない鳥


 明けて日曜日の午前十一時前、迅雷とつばさとことりの三人は、秋葉原レーシングセンターの一階ロビーで翔子と対面していた。

「さっちゃん、りーちゃん、久しぶり!」

「昨日会ったばかりじゃないですか」

 と、ことりが云うと、翔子はそんなことりの肩に腕を回して笑う。

「こうやってリアルで会うのが久しぶりっちゅうこと」

「確かに、一年以上ぶりか」

 ちょっと遠い目をして云ったつばさにも笑いかけ、ひとしきりのスキンシップをしたあとで、翔子は初めて迅雷を見上げてきた。

 今日の翔子は銀のダウンジャケットに膝丈のスカート、ブーツ、鞄が一つと云う装いである。昨日通信画面越しに見たときより髪型が整って見えた。化粧はしているのかしていないのか、迅雷にはよくわからない。

 ともあれ、翔子は迅雷の前で微笑んだのだが、それが少し緊張した微笑みだった。

「こんにちは、目の前で見ると大きいね。身長いくつ?」

「一八〇」

 迅雷はそう答えながら、今の翔子の声が上擦っていることをどう解釈すべきか迷っていた。嫌われているとは思いたくないけれど、昨日さんざん話をしてレースもしたのに、今さら緊張している理由がわからない。

「どうかした?」

「えっ?」

「いや、なんか、昨日あれだけきっぷのいいところを見せてくれたのに、今はがちがちになってないか?」

「えっ、いや、そんなことないよ。ウチは普通や!」

 あはははは、と翔子は赧くなった顔を手で扇いでいたかと思うと、不意に気取ったポーズを取った。

「それで、ウチはどう?」

「ん? ああ、目の前で見ると――」

 迅雷は本能的に翔子の顔と胸元に視線を行き来させ、思わず言葉に詰まる。が、翔子は沈黙を許してくれない。

「なに?」

「三割り増しで可愛く見えるな」

 お世辞ではない。エントリーシートのスクリーンは風景を濃密に描き出してくれるが、それでも通信画面越しに話しているより、こうして面と向かってみた方が、翔子の魅力を二倍にも三倍にも感じた。

 たちまち目を輝かせ、嬉しそうにわらった翔子が、その豊頬を両手でパシンと挟み込むようにして叩いた。

 傍ではつばさが迅雷を面白くもなさそうに見つめている。

「お兄さん、私たちにはそんなこと云ったことないくせに……」

「いや、おまえたちとはほとんど毎日会ってるからさ」

「まあね! ウチの方が新鮮やもんね! 知ってる、さっちゃん? あんまり毎日毎日うてばかりやと飽きるんよ。遠距離とは云わずとも、適度に距離を取って会わない日を作った方が上手くいく場合もあるって、ウチの従姉の姉ちゃんが云うとったわ」

「つまりその従姉のお姉さんは、遠距離は駄目だと云っていたわけだね」

 つばさがそう切り返すと、翔子は笑みを消して小首を傾げる。

「いや、そこまではっきりとは云うてへんかった」

 そこでつばさと翔子は睨み合いに入ったが、それもほんの数秒のことだった。すぐに翔子が気を取り直したように辺りを見回して云う。

「そういえば実況レディのジェニファーは? 都合つかへんかったの?」

「所用があって、昼過ぎから来てくれるってさ。だから今日のレースは実況してもらえないぞ」

「ふうん。ウチらのデートにだけ着いてくるっちゅうことか。まあええわ。ほんならそろそろ時間やし、レーシングルームに行こうか」

 翔子がそう云って笑いながら迅雷の肩を叩いてくる。迅雷は一つ頷いて、つばさたちとも目を合わせ、四人でエレヴェーターへと向かった。


 迅雷と翔子は同じレーシングルームの左右にあるエントリーシートから、それぞれバーチャルサーキットへとログインしていった。

 ピットからのサポート要員としては、つばさが迅雷につき、ことりが翔子につく。

 翔子曰く、「ウチが思うに、昨日迅雷君にまんまとしてやられた理由の一つはピットに誰もおらんかったせいやと思うねん。せやからさっちゃんからりーちゃんのどっちか、ウチについて」とのことだ。そのしなを作った願いに、友人であるつばさやことりが断り切れるはずもない。

 レースは公平を期すため、迅雷と翔子のどちらかが主催者ホストを務めるというのでなく、検索画面からフリー参戦者を募集しているレースを探して二人で同一のレースに参加しようと云うことになった。

 ヘルメットにレーシンググローブと云う完全武装姿の迅雷は、通信画面のなかの翔子に向かって念押しをする。

「今度こそはノーマルサーキットだぞ?」

「迅雷君が一番力を発揮できる戦場やね。でも特殊サーキットは嫌い?」

「いや、嫌いじゃない。むしろ楽しい。昨日の飛行機雲サーキットも楽しかった。だが今日はシートがかかってるからな。勝率をあげていきたい。それに昨日はおまえに有利なサーキットだったんだから、今日は俺に有利なサーキットでいいだろう?」

 その正直な告白に翔子がしろい歯を見せて呵々と笑う。

「よっしゃ、ほんならどのレースに参加するかはウチが決めるで」

「ああ、その辺は任せるよ」

 ちまちまとしたマッチング作業は元より苦手だから、迅雷は翔子に下駄を預けることにした。そうして翔子が見繕ってきたのは、どうやら英国人がホストを努めるレースであった。

「これでええやろ。青のウチらにぴったりや」

 翔子がピックアップしたそのレースはストレートが長くて平均速度の上がる、いわゆる高速サーキットであった。コースレイアウトを一目見て、迅雷もごちそうを前にしたときのように不敵に笑う。

「いいな。だが俺たちの両方が参加できるレースか?」

「ウチと迅雷君の累計ポイント、だいぶ差があるもんね。でも平気や、このレースのホスト、外人さんみたいやけど、ポイントの上下限の設定してへん」

 それを聞いて迅雷は笑ってしまった。

「適当な奴だ。だが渡りに舟だな」

「うん。ほんなら枠が埋まる前に参戦手続きしよう。ついでにホストの人にも一言メッセージ送っとこかな」

 それに迅雷は相槌を打つと、つばさに参戦手続きを丸投げしてレースがセッティングされるのを待っていた。やがて翔子がレースのホストに英語でボイスメッセージを送る。それが日本訛りこそあるものの、文法的には間違いのないしっかりした英語であったので、メッセージを送るといってもテキストで送ると思っていた迅雷は目を丸くした。

「翔子、おまえ、英語できるのか?」

 迅雷はそれを相槌を打ちながら聞いており、つばさと話しながら参戦手続きを進めていたが、やがて翔子がレースのホストに英語でボイスメッセージを送るのを聞いて目を丸くした。

「うん、出来るよ。なんでか云うとな、ウチ、将来やってみたいことがあるねん。そのためには英語が出来んと話にならんから、勉強したんよ。親に頼んで、駅前留学なんかもさせてもらってな」

「へえ」

 それには迅雷も感心してしまった。人生においてやりたいことがはっきりするのは、結婚相手に巡り会うようなものである。つまりは運命のなせるわざ――と、いつぞやワークスチームの部長が云っていたのを思い出したのだ。

「将来のこと、ちゃんと考えてるんだな」

「いや、そんな御大層なもんちゃうで? 前から考えてたことが一つあるだけで……でも正直自分でもちょっと無理のある夢やと思うから、駄目なら駄目で別の目標に切り替えていこ、とか考えててん。適当やろ?」

「いや、その柔軟性は少し羨ましいよ。俺なんか将来F1ドライバーになることしか考えてないからな。もしなれなかったら……どうなるんだろう?」

 F1以外にもプロのドライバーが求められる環境は色々あるが、正直なところF1に行けなかったら自分がどうなるのか、まったく見当もつかない。駄目なら切り替えて、自分がなれるものになろうということが出来そうにない。なりたいものにしか、なりたくない。迅雷は、そういう類の人間なのだ。

 翔子がふふふと笑って続ける。

「もし夢が叶わなくても、どうせなら国際的な仕事がしたいな。日本と外国を行ったり来たりするようなアクティブなやつが。そういう意味でも実況レディのジェニファーに会ってちょっと話を聞きたいんやけど。あの人アメリカ人やのに、なんで日本に来てるんやろうな、とか」

 ――そういえば、なんでだろう。

 考えてみれば迅雷はジェニファーの背景を知らない。だがどこの国に生まれた人でも、自分の祖国を離れて外国で暮らしていく選択をする以上は、なにかしら理由があるはずだった。

 ――気になるな。

 迅雷がそちらに心を引っ張られたときだった。

「迅雷君」

「うん?」

 迅雷が心を引き戻されて見てみると、通信画面のなかで翔子は見たこともないほど真面目な顔をしている。

「ウチの夢の話やけど、レースが終わったら、ちょっと聞いてほしいねん」

「レースが終わったら?」

「うん、長い話になるし、レース前にするようなことでもないからな」

 翔子がそのように言葉を濁すので、迅雷もそれ以上の追究はしなかった。実際、レースまでそんなに時間がない。迅雷は参戦手続きを進めてくれているつばさたちに尋ねた。

「そういえば、つばさやことりは英語できたっけ?」

 そう尋ねた傍から、以前ジェニファーがつばさたちはあまり英語が得意ではないと云っていたのを思い出す。果たしてつばさは通信画面のなかで親指を立てて云った。

「このあいだの英語のテスト、八十五点でした」

「でも実際の英会話は無理かも……」

 と、ことりが付け加える。それに翔子が腕組みをしながら相槌を打った。

「まあペーパーテストはともかくとして、なにかしら強い動機がないと日本人が英語喋るのは難しいやろなあ。東大行った人ですら、自分は英語できるって自信満々でアメリカに留学したら、向こうの英語は聞き取れへんし、こっちの英語は話すのが遅くて苛々されて、話を途中で遮られたりしてプライドはガタガタ、適応するのに半年かかったって話、聞いたことあるわ」

「ああ。俺もF1ドライバーになるって具体的に考えてなかったら、英語なんて絶対やらなかったろうな。でも英語ができると可能性が広がるぞ。人類が何十億人といるなかで、日本語の話者は二億人もいないわけだからな。極端な話、日本語しかできないと、人類の九〇パーセント以上とコミュニケーションを取れないことになる」

 それは人生にとって大損ではないだろうか。だからつばさやことりにも英語を話せるようになってほしい、なんなら自分が教えたって構わない、迅雷はそう思って口を開いた。

「なあ、つばさ、ことり。おまえたちも将来――」

 と、そんな迅雷の言葉を、つばさの冷え切った声が遮った。

「お兄さん」

「うん?」

「そういう話、私はいいです」

 すると翔子側のピットの通信画面で、ことりがはっとしたように勢いよく顔を振り向けた。つばさのいる方向を見ているのだろう。

「……そうだな。レースには関係なかったな」

 迅雷は自分を納得させるように頷いたが、カメラ越しにも微妙に目を逸らしているつばさの様子、そしてそんなつばさを気遣わしげに見ていることりの様子が気になった。

 だがこのとき、翔子が気を取り直したように云う。

「ぼちぼちフリー走行始まるし、サーキットにログインしよか」

「……ああ」

 迅雷は後ろ髪を引かれる思いだったけれど、これからTSRのシートを懸けた最勝負だ。気持ちを切り替えねばならぬ。


        ◇


 結論から云うと、レースは迅雷の勝利で幕を閉じた。今度こそはフリー走行もきちんと出来たし、ノーマルサーキットの尋常なレースで、迅雷は翔子にも他のレーサーたちにも圧勝してTSRのシートを勝ち取ったのだった。

 迅雷はホストを務めた男性と簡単なメッセージを交わしたあと、フレンドリストに登録をしてシートを排出した。

 座席が筐体から出てくると、先にシートを降りていた翔子がつばさ、ことりとともに待っていた。

「お疲れさん」

 翔子がそう云って迅雷に手を差し伸べてくる。迅雷はその手を借りて引っ張り起こされ、勢い余ってちょっとよろめいたのを翔子に支えられて立った。

 翔子がにっと笑う。

「完敗や。さすがは疾風迅雷、さすがはライトニング・バロン、尋常なレースじゃ全然叶わんな。ちゅうわけで、シートは譲ったる。がんばりなさい」

 そう云って、翔子が両手で迅雷の両肩に勢いよく両手を置いた。迅雷は一瞬、本当にシートを譲ってもらってもいいのか、もう一度確認しそうになった。だが今、翔子が望んでいる言葉はそれではないはずだ。

「ありがとう」

「ん、よし」

 翔子が満足そうに笑った、そのときだった。

「話は終わったようね」

 突然の、しかし聞き覚えのある声に迅雷が驚いて顔を振り向けると、いつの間にやってきていたのか、部屋の入り口の傍に栗色の髪をした眼鏡の女性が立っていた。

「片山さん!」

「ハーイ。遅くなったけど来たわよ。つばさちゃん、今日は誘ってくれてありがとう」

 つばさが軽く会釈を返す。

 一方、迅雷はまだ驚いていた。

「い、いつから?」

「レースの終盤。つばさちゃんやことりちゃんとは軽く挨拶したんだけど、気づかなかった?」

 レースに集中していたから、もちろん気づかなかった。そんな片山を見て、翔子も苦笑いだ。

「シートから降りてきたらいきなり人が増えてたからびっくりしたわ。あんたが実況レディのジェニファーなんやって? 普段はえらい地味な格好しとるんやね」

「実況レディも大変なのよ」

 そう云ってから、翔子と片山は改めてお互いに自己紹介をし、連絡先を交換した。と、そこで翔子が思い出したように迅雷にするすると近づいてくる。

「そういえば迅雷君にウチのプライベートアドレス渡すの忘れてたわ。受け取って、ウチのプライベートアドレス」

「二回も云わなくていいだろ……」

 翔子は『プライベートアドレス』の部分を妙に強調しており、迅雷はちょっと及び腰になりながらも携帯デバイスを出して翔子とアドレスを交換した。

「よっしゃ」

 翔子は迅雷のアドレスを収めた自分の携帯デバイスを顔の高さで眺めて輝くような笑みを浮かべている。それを端で見ていたつばさが「ああ……」とため息をついていた。ことりはくすくす笑って、迅雷と翔子が使っていたヘルメットを棚に戻したり、ピットブースのコンソールをスタンバイ状態に戻したりしている。

 迅雷はつばさから受け取ったスポーツドリンクをちびちびやっていた。

「迅雷君、レース終わったあと汗凄いんやな。フォーミュラクラスってそんなにきついん?」

「ああ。仮想とはいえ、体は本物のGフォースを感じてるも同然なわけだからな。現実のレーシングカーと違って冷房利いてるだけマシなんだけど。ところでこのあとどうする?」

 迅雷が翔子にそう尋ねたのは、そもそもデートをしようと云い出したのが翔子だったからだ。だから迅雷は具体的にどこでなにをするのか、なにも考えてきていない。

 果たして翔子は顎に指をあてて唸った。

「うーん、やっぱりなにはなくともお昼ご飯やろ。まだなんも食べてへんからお腹ぺこぺこや」

 それには迅雷だけでなく、つばさやことりも相槌を打った。

「で、どこで食べようかってことなんやけど……」

 大阪の女である翔子はもちろん、秋葉原の飲食店など知る由もない。だが迅雷とて秋葉原に通うようになったのはごく最近のことなのだ。つばさやことりも中学生だし、あまり外食はするまい。

「検索しようか?」

 迅雷が携帯デバイスを胸の高さに持ち上げたときだった。

「私がどこか適当なお店に案内してあげるわよ」

 片山がそう云うので、全員それに乗っかることにした。


 レーシングセンターを出たところで、先頭に立っている片山が迅雷たちを振り返って尋ねてきた。

「ちなみになにかリクエストある? これが食べたいとか、逆にこれは無理だとか」

「汁物は厭やな。せっかくいい服着てきたのに、おつゆがはねたら台無しや」

「辛いのは苦手です」

「ゲテモノ系じゃなければなんでも」

 順番に翔子、ことり、迅雷の言葉である。一つずつ相槌を打っていた片山は、最後につばさに視線をあてた。

「私は特にないですよ。ただ私でも問題なく入れる店でないと……」

「わかってるわ。任せなさい」

 明るくそう云った片山は、冬晴れの空を仰ぎ見て軽く胸を張った。

「ま、無難なところでパスタにしましょうか」

 こういう次第で連れて来られたパスタの店は、とある雑居ビルの一階に入っていた。夫婦が二人でやっている店らしく、あまり客は入っていないがそのぶん静かで、なによりパスタが美味かった。

 食事のあと、迅雷たちは追加で注文した珈琲を飲みながら世間話をしていた。席次は迅雷が通路側として、右隣に翔子、向かいにつばさ、右斜め前にことりで、ジェニファーは車椅子であるつばさのためにどかした椅子を通路において、迅雷の左斜め前に座を占めていた。本来四人掛けの席を五人で使っているのだ。

 四方山よもやま話に一段落がついたところで、翔子が片山を見ながら口を切った。

「ねえジェニファーさん……片山さんって呼んだ方がいい?」

「この伊達眼鏡をかけているときは、片山と呼んでほしいわね。で、なに?」

「うん。一つ質問があるんやけど、片山さんってなんで日本に来たの?」

 藪から棒の話で、訊かれた片山はもちろん、迅雷たちも思わず目を瞠ってしまう。

「いや、片山さんってアメリカ出身やん? どういう事情があって日本までやってきたのかな、って」

「あ、それは私も聞きたいって思ってました。オンライン・フォーミュラってアメリカにもあるのに、どうして日本でやってるんだろう、って」

 ことりが翔子の尾についてそう云う。迅雷としても興味のある話題だ。

 迅雷たち四人の視線を受け、片山は唇を薄くのばして笑う。

「ことりちゃんの云う通り、アメリカにもオンライン・フォーミュラはあるけど、稼働は日本が一番早かったからよ。たった八ヶ月の違いだったけど、私は待てなかったの」

「ということは、元々モータースポーツが好きだったわけですね?」

「そう」

 迅雷の言葉に首肯うなずいた片山は、そこで居住まいを正すとこほんと咳払いした。

「オンライン・フォーミュラの根幹をなす仮想Gフォースのシステムはアメリカで生まれたわ。軍事用の、戦闘機のシミュレーターとしてね。でもそれをバーチャルレーシングゲームに結びつけたのは日本が最初だったわ。日本人って、モータースポーツ好きよね。F1グランプリが開催されるとき、もっとも熱狂する国の一つが日本だと云われているわ。だからこの国でオンライン・フォーミュラが生まれたのは必然だったのかもね」

 へえ、と迅雷たちは素直に感心したのだが、やがてことりが小首を傾げて云う。

「でもアメリカじゃオンライン・フォーミュラが生まれなかったってことは、もしかしてアメリカではF1って人気ないんですか?」

 ことりの問いに、片山は苦笑した。

「そんなことないわよ。F1のアメリカGPもほぼ毎年開催されているし。ただ合衆国ステイツではF1以外にもナスカーやインディカーって云う、F1とは違った独自の規格のモータースポーツがあって、人気が分散している感じかしらね。ちなみに私は全部好きだったわ。私の人生でたった一人の恋人であるカタヤマもナスカーのドライバーだったのよ。もう死んじゃったけど」

 突然のその告白に全員絶句した。迅雷など、頭に落雷のあったかのようである。

「え、ええっ!」

 少し遅れて、迅雷はそんな驚きの声をあげた。そんな迅雷に視線をあてながら片山は、珈琲カップを片手に微笑んで云う。

「昔のことよ」

「え、いや、待って下さい。片山さんって、片山って日本人の男性と結婚してるから片山なんですよね。それで最初の恋人がカタヤマってことは……?」

 混乱してそう捲し立てたのは迅雷だが、つばさたちも表情を見る限り似たり寄ったりである。そんななか、片山だけが遠い目をして云った。

「カタヤマは日本人じゃなくて日系アメリカ人よ。日本語はその人から習ったの。車好きの割りにとってもシャイな人でね、あんまり無謀な運転はしない人だったんだけど、なにをどう間違ったのか深夜のハイウェイで星になったわ」

 そして片山は静かに珈琲を一口飲むと、迅雷を見て英語で付け足した。

「私たち、まだ最後までしてなかったのよ? 彼は私を知らないまま死んだの。もったいないことしたと思うでしょう」

 迅雷はイエスともノーとも云えない。伊達眼鏡の奥にある片山の目が寂しげに光っていたからだ。片山は何事もなかったかのように日本語に戻して続けた。

「それで私、リアルの車やモータースポーツがちょっと怖くなっちゃってね。そんな私にとって、オンライン・フォーミュラ稼働の話は運命のように感じたわ。それにカタヤマのルーツである日本も見てみたかったし、今の自分を変えようと思って、飛行機に乗ったわ」

 そこでなにを思ったのか、片山が苦笑いをする。

「ま、こっちに来たら来たで、外国人ってだけで身構えられるし、ネットで変な騒がれ方してストーカーみたいなのがついたりして、参っちゃったけど」

 あはは、と片山は笑っているが、本当は笑い事ではなかったのであろう。

 そこへつばさが、茫然としながらも云う。

「じゃあ、あの、片山さんの旦那さんって……」

「実際には存在しないわね。誰とも結婚してないし国籍もアメリカのまま。でも便利よ、左手の薬指に指輪つけて結婚してますって云うだけでうるさい男の大半を追い払えるんだから」

 はあー、と翔子が大きなため息をついた。

「さっちゃんと同じ手、使ってたわけか。男除けに架空の恋人をでっちあげると云う……」

「私の場合はそれに加えて、片山を名乗ることで彼が守ってくれているような気がして、悪くなかったんだけどね」

 片山はそう云いながら珈琲カップを卓子に置き、右手で左手薬指に嵌っている指輪をそっと撫でた。

 それを見たことりが飛びつくように云う。

「あっ、わかっちゃいました。それ、カタヤマさんからのプレゼントですね?」

「正解。さすがことりちゃんは明敏ね」

 そう云ってわらう片山の横顔を見て、迅雷は一つの苦悩を通り抜け、新たな壁に直面していた。

 ――片山さんは独身だったんだ! でも、相手は死人か。

 ある意味では、生きている人間より死んでいる人間の方が手強い。結婚していたわけではないが、ああして指輪を大事にしている以上は、未亡人のような心境でいるのかもしれない。

 参ったな、と思いつつ迅雷が珈琲に口をつけていると、翔子が片山に向かってやにわに頭を下げた。

「あの、なんかごめんなさい」

「あら、どうして謝るの?」

「いや、軽い気持ちで尋ねたんやけど、なんか重い話させてしまって……」

「気にしなくていいし、私も気にしてないわ。だってもう、昔の話だもの。今は他に気になる人もいるし」

 そう云って片山が迅雷をじっと見てくるので、珈琲を飲みかけていた迅雷は思わず噎せてしまった。今の言葉と視線にどんな意味があるのか、考えると嬉しいような恐ろしいような、不思議な気持ちを感じて腕が震えてくる。

 思い切って問い糾すべきかどうか、迅雷が踏み迷っていると、つばさの方が先に身を乗り出した。

「片山さん、その気になる人って――」

「まあ、それはともかくとして」

 片山は強引につばさの話を遮ると、視線を迅雷から翔子に移して云った。

「翔子ちゃん、もしかしてアメリカに興味あるの?」

「アメリカって云うか、海外全般です。移住するかどうかはともかくとして、将来、日本と外国を股にかけるような女になりたい思て……」

「ああ、なるほど。つまり海外で働く人のケースモデルの一つとして私の話を聞きたかったわけか」

 得心がいったのか、片山は一人納得してうんうんと頷いている。それから彼女は笑って続けた。

「ちなみに海外で働くと云って、どんな仕事がしたいの? 無難なところでは貿易会社……日本で云うところの総合商社に務めれば海外出張も多いって聞くわね。スポーツや芸術の分野で才能があれば渡米してアメリカを拠点にする人もいるし。あとは旅行会社? 通訳? はたまたジャーナリスト?」

 そう矢継ぎ早に問われて、翔子はちょっと困ったようにも恥じらうようにも目を伏せて、次に迅雷を一瞥したあと、片山に視線を戻した。

「それは、その……実は一つだけ、ずっと前からやってみたいなって思ってたことがあって、でも今までは決心がつかへんかったんです。というのも、難しい夢やから。でも……」

 そこで翔子が迅雷を見てきた。その視線を受けて、迅雷はレース前にもこの話になったことを思い出して云う。

「そういえば、レースのあとで俺に聞いてほしいって云ってたよな。おまえの夢の話を」

「うん」

 翔子がそう首肯うなずいたとき、それが彼女のなかでなにかのスイッチとなったようである。翔子は居住まいを正すと真面目な顔をして切り出した。

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