第五話 飛べない鳥(3)

 そのあと迅雷たち五人は冬の街を漫ろ歩いた。特に目的があったわけではないが、いつしか秋葉原の辺りを離れて、右手に小さな公園が現れたので、そこに立ち寄ることにした。

 公園にはちょっとした湖があり、つばさは転落防止用の柵の前に車椅子をとめると、陽ざかりの日を浴びてきらきらと輝く湖面に視線を放った。

 そんなつばさの隣にことりがつき、迅雷たち三人は後ろから眺めている。ここまで来るあいだ、会話らしい会話はほとんどなく、五人もいるのに黙々と歩いてきて実に気まずかった。

 翔子がため息とともに云う。

「なにがあかんかったんやろうか」

「おまえは悪くない。あれはつばさの問題だろう」

 久しぶりの会話に迅雷はちょっとほっとしながらそう切って捨てていた。翔子が頭を掻き掻き、ばつの悪そうな顔をして迅雷の耳元に顔を寄せてくる。

「どこへも行かれへんて、まさか空間的なことちゃうやろ?」

「ああ」

 と首肯うなずいた迅雷の尾について、片山が腕組みしながら云った。

「どこへも行けないって云うのは、未来のことでしょうね」

「未来?」

 そう呟いた翔子を見下ろして、片山は悲しげに微笑む。

「つばさちゃんはね、自分はなんにもなれないって云ってるのよ。あれはどう考えても、そういうことでしょ」

 そこで言葉を切った片山が、つばさに顔を振り向けて叫ぶ。

「ねえ、つばさちゃん!」

 つばさが肩越しにゆっくりと片山を振り返った。ことりはその隣で、びっくりしたような顔をしてやはり片山を見ている。

 片山はつばさに一歩近づくと、笑いを含んだ声で云う。

「迅雷君はF1ドライバーに、翔子ちゃんはF1チームのオーナーになりたい。そこで質問です。つばさちゃん、将来の夢は?」

 するとつばさは微笑んで、しかしなにも答えられない。だがその沈黙こそが答えだ。しかし片山はそこで歩みを止めなかった。

「つばさちゃんってば!」

 片山がさらに一歩踏み込むと、つばさはつと前を向いて、湖からの風に面を吹かれながら云った。

「私にはなにもないです」

 そう云ってつばさは自分の殻に籠もろうとしたようだが、このときことりが裏切った。

「お姉ちゃんはオンライン・フォーミュラのエンジニアになりたいって、昔云ってました!」

「ことり」

 つばさがことりを睨みつける。ことりはちょっと怖じ気づいたような顔をしたが、次の瞬間にはまなじりを決していた。

「だって、このままじゃよくないもん」

「なにがどうよくないんだ?」

 口調こそ穏やかだったが、つばさの心は荒れてきているようだった。表情や目つきでそれが判る。しかしことりは気圧されたりはしなかった。

 ことりは今こそ、その小さな体に精一杯の勇気を集めて、姉に向かって宣言した。

「お姉ちゃん、私、迅雷さんたちにあのこと云うよ」

「あのこと?」

 迅雷はそう呟いて小首を傾げたが、ことりはつばさと睨み合っている。険悪な感じはないが、端から見ても緊張感はあった。

 先に目を逸らしたのはつばさだった。

「そうやって私をいじめるつもりなのか」

 そんな言葉にことりは悲しそうな顔をしたが、彼女はすぐに顔つきを改めると車椅子の傍を離れて迅雷たちの方へ歩いてきた。

「止めないんなら、本当に云っちゃうからね」

「好きにするがいいさ」

 その言葉を最後に、つばさは湖に頑固な眼差しを据えると、動かなくなった。ことりはそんなつばさを後ろ髪引かれるように見たが、やがて顔を前に戻すと迅雷たちの前までやってきて寂しげに笑った。

「あのことって、なんだ?」

 話しづらそうにしているので迅雷がそう水を向けてみると、ことりはか細い声で云う。

「お姉ちゃんの、脚のことです」

 それには迅雷も身構えてしまった。だが考えてみれば、今のこの状況とつばさの状態を見て、原因を遡っていけば、そこに行き着くのが道理ではないか。

 話し始めたことりを、迅雷は爆弾処理をしている人のように思いながら見ている。

「迅雷さんには話したと思うんですけど、お父さんが事故に遭った車にお姉ちゃんも乗っていたんです。それでお姉ちゃんも重傷を負って、幸い命にこそ別状がありませんでしたけど、両脚を傷めてしまって……」

 と、そんな話に翔子がちょっと仰のいた。

「ええっ、ちょっと待って。交通事故って云う話は聞いてたけど、ウチはてっきり車に撥ねられたもんやと……それ、りーちゃんたちの御父おとんは大丈夫やったん?」

「その事故で亡くなりました」

 すると翔子は顔を背けて「うわ、聞きたない」とぼやいたが、今さら逃げられずにことりに目を戻すと眉宇を曇らせて問う。

「りーちゃん、そんな話、してしまってええの?」

「いいんです。というより、私、このことずっと誰かに話したかったし、お姉ちゃんも好きにしろって云いましたし、なにより迅雷さんには知っておいてほしいんです」

「俺に?」

 そう云った迅雷に頷きを返すと、ことりは胸に手を当てて続ける。

「それでお姉ちゃん、車椅子に乗ることになったんですけど……」

「それっていつの話? 私たちが友達になった今年の夏には、つばさちゃんはもう車椅子だったわよね?」

 と、横から尋ねたのは片山だ。

「去年の暮れです」

「てことは、丸一年か……」

 片山がつばさの方を気にしたように見たが、つばさはこちらに背を向け、湖に視線を投げている。どんな表情をしているのか、ここからでは窺い知れない。

「ウチは去年の暮れに、さっちゃんが事故ったって話、りーちゃんからのメールで聞いたわ。心配しとったけどすぐにさっちゃんが元気な顔を見せてくれて安心したな。まあとりあえず命があったんやから大ラッキーや、って」

 だがその事故でつばさたちの父親は命を落としている。それを翔子は今日まで知らなかったらしい。片山も知らないのであろう。知っていたのは迅雷だけだ。

「一年以上付き合いのあるウチでも知らんことを、一ヶ月未満の付き合いの迅雷君は知ってたわけか。いや、別にええけど……」

 そうぼやく翔子の肩に、励ますように手を置いた迅雷は、声を落として云う。

「しかし一年経って治らないということは……」

 神経をやってしまったのか、それとも? と、迅雷が思っていると、ことりが答えを明かす。

「お姉ちゃんは、肉体的にはもう回復しています。脚は治ってるんですよ。立てないのは体ではなく心の問題だって、お医者様が云ってました」

 そう告白、いや曝露をしたことりは、迅雷に眼差しを据えて云う。

「私が迅雷さんに云いたかったのは、このことなんです」

 迅雷はそんなことりの切ない視線を受け止めながらぽつりと云う。

「心、か……」

 実のところ、そんなことではないかと迅雷も思っていた。なぜなら、つばさはペダルワークは出来るのだ。アクセルやブレーキを踏むのにまったく支障がない。にも拘わらず車椅子に乗っているのは、どうしたことだろう。

 そこのところに想いを致すと、他に答えがなかった。

 そこからことりはしんみりとした面持ちで、ぽつりぽつりと思い出を語り出す。

 つばさはいわゆる『お父さん子』であり、その父親が目の前で死んだことがつばさにどのような衝撃をもたらしたのかは、妹のことりですら想像に余ると云う。確かなことは、父親の四十九日が終わり、体の傷が癒えても、心の傷は癒えることなく、自分の脚で立ち上がることが出来なくなってしまったということだ。

「お医者様が心の問題だって云うから、カウンセリングも受けたんですけど、あまり効き目がなくて。お母さんはお姉ちゃんにとっても優しくなって、お小遣いなんかたくさんあげてますけど、他にどうしようもないみたいで……」

 そこで言葉を切ったことりがつばさを振り返った。つばさは車椅子の上で軽く体を揺すっているようである。

「お姉ちゃんは元々オンライン・フォーミュラが好きでしたけど、あれ以来、前以上にのめりこんでしまったような気がします。あのゲームが、お父さんが私たちに遺してくれた唯一のものだから……」

 そしてその場に静寂が訪れた。

 が、やがて片山がぽつりと云う。

「お父さんが遺してくれたものって、どういうこと?」

 するとことりは、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて云った。

「私たちのお父さん、オンライン・フォーミュラの開発者の一人だったんです」

「ああ、そう。二条って云う開発者がいたって聞いたことあるけど、そうだったの。なるほどね……」

 片山はそう云うとつばさに視線をあて、独り言であるせいか英語で云う。

「時間が止まっちゃってるのかしらね。あの子のなかでは、父親がまだ生きているのかもしれないわ」

 それには迅雷も翔子もはっとした顔をした。

 もしそうだとするのなら、時間では解決できないことかもしれない。その時間自体が止まっているのだから。

 なにをどうすべきか、それともなにもしないのが正解か。迅雷が思案に余っていると、片山が突然笑って鞄を迅雷に預けてきた。

「持ってて」

「片山さん」

 目を丸くする迅雷に、そしてことりと翔子に微笑みを振りまいて、片山は気軽そうな足取りでつばさに近づいていく。

「まあここは大人に任せておきなさい」

 そうして片山はつばさのすぐ後ろまでやってきた。

「つばさちゃん」

 ことりの話が始まってから、まるで意地を張るようにずっと湖を見つめていたつばさは、その片山の声にも振り向かずに云った。

「慰めもお説教もいりませんよ」

「そうやっていつまでも閉じこもっているつもり? あなたの心の時間を止めることはできても、他のみんなの時間を止めることまでは出来ないのよ?」

 するとつばさは反射的な動きで片山を見た。その横顔に怯んだような色があるのを、迅雷は遠目にもしかと見極めることができた。

 片山は仮面のような笑顔とともに云う。

「迅雷君は来年ヨーロッパに行くわ。まだ将来が約束されているわけじゃないけど、彼が戦いに勝てば翔子ちゃんもその夢に乗っかって、二人で一つの未来を築き上げることになる。ことりちゃんだって、将来なにかやりたいことや行きたい場所ができるかもしれない。でも優しい子だから、あなたを見捨てたりはしないでしょうね。そのときあなたは妹の可能性を閉ざしてしまうことになる。それでいいの?」

 そうはっきり云われて、つばさが怯えたようにことりを瞥見する。

 そう、今は二人とも中学生で、兄弟姉妹は一緒にいるのが当たり前だけれど、大人になったら、血の繋がった兄弟といえどもそれぞれの人生に向かって船出するときがやってくる。いつも甲斐甲斐しくつばさの身の回りの世話をしてくれていることりだけれど、それはいったいいつまで続くのだろうか。

「それは……」

 目を逸らしたつばさに、片山は辛抱強く、穏やかに、噛んで含めるように云う。

「立てるなら立ちなさい。それがみんなのためだし、なによりあなた自身のためだわ」

 そして片山は小腰をかがめ、つばさの耳元に口を寄せると、低声こごえでこう付け加えた。

「あなただって迅雷君と人生を共にしたいはずよ。ことりちゃんと翔子ちゃんだけが彼と行ってしまっていいの?」

 するとつばさは傷ついた目をして片山に云う。

「ずいぶん、はっきり云うんですね。御母様ですら、ここまでのことは云わなかった」

 そんな非難に、しかし片山は胸を張ると唇を突き出すようにして笑った。

「忘れたの? 私はアメリカ人よ。アメリカ人は、云うべきだと思ったことははっきり云うわ。衝突など恐れないし、自分が正しいと思ったことをする。でも、だからって私があなたを傷つけようとしているわけじゃないことくらい、解ってくれているはずよ」

 そして片山はつばさに右手を差し伸べた。

「だから立ちなさい。今日がその日だと思って立ってごらんなさい。私も手を仮してあげるから」

 つばさは息を呑み、それからかぶりを振った。

「無理ですよ」

「どうして?」

「だって、本当に立てないんですもん。演技や芝居で立てないふりをしてるわけじゃない。私だって今まで何度も自分の脚で立ってみようとした。何度も。何度も。でも、立てなかった。本当に何度やっても駄目だったんです……」

 そう語るつばさの頬に真珠のような涙が散った。心が原因とは、そういうことなのだ。

 片山はため息をついて、つばさに差し伸べていた手を下ろした。その目は宙をさまよい、いったいどうしたらつばさを救えるか、答えを探しているようでもある。

 そのとき突然、つばさが反撃に出た。

「だいたい、片山さんにだけは云われたくないですよ」

「えっ?」

 驚いた様子でつばさを見る片山に、つばさは頬に散った涙を拭うと口吻を尖らせて云う。

「片山さんは、逃げてるじゃないですか。本当は実況レディのジェニファー・ハミルトンなのに、死んだ恋人の名前を騙って、その恋人に贈られた指輪を嵌めて、かつらをつけて伊達眼鏡をかけて、結婚してるって嘘まで吐いて、受付嬢の片山になってるじゃないですか。ストーカーがついただのネットで卑猥な言葉を浴びせられてるだのと片山さんにも色々云い分はあるんでしょうけど、あなただって戦ってない。逃げて隠れている。お兄さんや翔子ちゃんならいざ知らず、そんなあなたにだけは云われたくないです」

 それを離れた場所で聞いていた迅雷は、正直なところ震え上がった。この二人の友情が壊れてしまうかもしれないことが、たまらなく厭だったし恐ろしかった。

 だが意外にも、片山はにっこり笑って頷いた。

「云われてみればそうね。いいわ、じゃあ私も私を偽るのはやめにしましょう」

「えっ?」

 そう声をあげたのはつばさだったが、実のところ迅雷も似たような声をあげていた。

 そんな迅雷たちの視線を一身に集めた片山は、自分の頭に手をやると、栗色の髪のかつらをむしりとった。たちまち生来の波打つ金髪が露わになり、それが日の光りを反射してきらきらと光りを放つ。片山はかつらを足元に落とすと、ついで伊達眼鏡も外して青い瞳を露わにした。そこにいるのは、もう片山ではなく実況レディのジェニファーだった。

「片山、さん……」

 そう茫然と呟いたつばさに、片山はウインクをする。

「私を片山って呼ぶのはもうやめて。だってそれは、私の本当の名前じゃないんだから」

 そう云うと片山は、いやジェニファーは、左手の薬指にしていた指輪を外し、それを右の掌に握り込んだ。そして湖に体を向ける。

 つばさはこれからジェニファーがなにをするつもりなのか悟ったのか、はっとした様子で車椅子から身を乗り出した。

「いけない! それはあなたが恋人から貰った――」

「昔の話って云ったでしょう。もうとっくに振り切っていたわ。それに今は、他に好きになっちゃった男の子がいるし、ね!」

 そう云うと、ジェニファーは野球のピッチャーよろしく右腕を湖に向かって勢いよく振り下ろした。銀の光りが弧を描き、ポチャンとなにかが水に落ちる音がした。

「あ……」

 ことりが、そんな声をあげた。

 つばさは絶句している。そんなつばさの頭を、妹にするように撫でたジェニファーは、迅雷たちを振り返って両手でVサインを作った。

「実況レディとして完全復帰するわ。受付の片山は、今日でもうおしまい。というわけで、二度と私を片山さんなんて呼ばないように。オーケー?」

 迅雷は咄嗟になんとも答えられなかったが、とにかく云われたことは了解していた。二度と彼女を片山さんと呼んではいけないのだ。

 迅雷の傍らでは、ことりが胸に手を当てて羨ましそうに云う。

「ああ、そうか。ジェニファーさんは、飛べたんですね」

 そうなのだ。今こそジェニファーは自分を覆い隠すすべてのものを脱ぎ捨てて、自由の翼をひろげていた。

 そんなジェニファーがつばさを見下ろしてわらう。

「これで私も一足お先よ。つばさちゃんはどうするの?」

「私は……」

 つばさはそこで云いすと、結局口を閉じてうつむいてしまった。それが迅雷には、まるで水面に顔を出して息継ぎをしたあと、また水のなかに潜っていったように見える。

「がんばれよ」

 迅雷が思わずそんな声をかけると、つばさは迅雷をつと見て、しかしまた目を伏せてしまった。そのときジェニファーがため息とともに云った。

「今日はここまでかな」

 いや、まだだ。迅雷はそう思ったけれど、ジェニファーはそんな迅雷を目線で制しながら空を指差した。西の方から黒い雲が流れてきていた。

 それを見て翔子が云う。

「天気、悪なってきたな。雨が降るかどうかまではわからんけど、降ってきたら傘も持ってないし面倒や。今のうちに屋根のあるところまで撤収しよう」

 翔子はそう明るく云うと、迅雷の背中を叩いて低声こごえで付け加えた。

「それに今日はもうこの辺でええやろ。これ以上さっちゃんにきついこと云ってもしゃあないわ。また今度、また今度」

「……そうだな」

 今日はジェニファーが充分よくやってくれた。つばさのことは、このままでいいとは迅雷も思わないが、今はいったん時間を置いた方がいいであろう。

 このように話が纏まると、ことりがつばさのところへ飛んでいって「大丈夫?」とか「冷えるからもう行こう」などと声をかけており、つばさはそれに相槌を打ちながら答えている。普通に応対していたので、迅雷はほっとした。

 一方、ジェニファーは足元に落としていた鬘や伊達眼鏡を拾うと、迅雷たちの方に歩いてきて、手に持っていたそれらを翔子に差し出した。

「翔子ちゃん。今日の私たちの出会いを記念してあなたにあげましょう」

「いや、いらんわ。ごみやん」

 まさにジェニファーは、処分に困った変装道具一式を翔子に押しつけようとしたのだったが、そんなやりとりを聞いて迅雷は笑ってしまう。

「貰っておけよ。ウィッグも眼鏡も高級そうだし、なにかの機会に使えるかもしれん。おまえには伊達眼鏡とか似合いそうな感じがするし」

「ほんまに? なら掛けてみる」

 翔子はジェニファーの手からひょいと黒縁の眼鏡だけを取ると、それをかけて迅雷に向き直り、ポーズを作った。

「どや、賢そうに見える?」

「ああ、とっても」

「そうかそうか。まあウチって才女路線も捨ててないからな。たまにはこういうのでイメチェン図るのも効果的かもしれん」

「はい、これも」

 ジェニファーは翔子の後ろに回り込むと、その頭に鬘を無理やりかぶせようとした。

「いや、ウィッグはいらん。昨日急いで美容院行ってきたのに無茶苦茶になるやろ」

「眼鏡とウィッグはセットでーす」

 そうやって鬘を押しつけようとするジェニファーから、仕方なしにウィッグを受け取った翔子はそれを片手に持て余しているようだった。

「迅雷君、あとでコンビニで紙袋でも買うて。こんなの片手に新幹線とか乗られへん」

「俺が?」

「急遽東京に来たから懐具合が厳しいねん。TSRのシート譲ってあげたやろ? それにウチは迅雷君に都合のいい女になる覚悟は出来てるねん。優しくしてくれても罰は当たらんと思うな」

「……お、おう。よくわからんが、わかったよ」

 すると翔子が嬉しそうにはしゃいで、迅雷に右から抱きついてきた。左側にはジェニファーが立ったので、迅雷は預かっていた鞄を返そうとしたのだが、ジェニファーはそんな鞄など目に入らぬ様子で尋ねてくる。

「ところで迅雷君、なにか私に質問はない?」

「え、それは……」

 実のところ、迅雷はジェニファーに問い糾したいことがあった。彼女が今、好きになってしまった男の子とは誰なのか。だがそれを訊くには翔子が邪魔だ。

「い、今はいいです。また、あとで」

「そう?」

 ジェニファーは残念そうにも愉快そうにも微笑むと、左から迅雷に身を寄り添わせてくる。


        ◇


 はしゃぐ三人を、つばさとことりが少し離れたところから見守っていた。いつもなら悋気りんきに任せて突進していきそうなつばさも、今度ばかりは迅雷たちを遠巻きに見つめているだけだ。それほどジェニファーの話が堪えたのである。

 そんなつばさに、車椅子のハンドルを握っていることりが気遣わしげな声をかけてきた。

「お姉ちゃん、そろそろ行こうか」

「……ああ。いや、待て。ことり。おまえは、将来の夢とかあったかな?」

「ん? 私は普通のお嫁さんになりたかったかな。でも私の好きな人はもてるから、一夫一妻制のこの国じゃ無理かもって思ってるところ」

「そう、か……」

 つばさは少し衝撃に打たれたが、やがてその口元に笑みを刷くと云った。

「おまえも、時期が来たら好きにしていいんだぞ」

「ううん。私はお姉ちゃんとずっと一緒にいるよ」

 ことりはあまりにもあっさりとそう云い切った。実際、今のことりにはつばさの傍を離れるなど考えられないことだったのだろう。

 しかしそれは、長い目で見れば今だけのことではないか。つばさはジェニファーによって、そのことに気づかされていた。

 ――お兄さんも翔子ちゃんもジェニファーさんも飛べる。今にことりだって、飛びたくなるに違いない。でも、私は。

 つばさはそう思い詰めてぽつりと云う。

「私はきっと立てないよ」

「お姉ちゃん」

 ことりの声は、少しの非難と大きな悲しみを含んでいた。

 それを感じ取って、つばさの自分を嘲る気持ちはどんどん大きくなっていく。

 いったい自分はなんと不甲斐なく、悪い姉だろう。だがつばさは思うのだ。五年経っても十年経っても、自分はこのままではないだろうか、と。

 そして迅雷はつばさの前から去っていく。ことりも、去っていくかもしれない。つばさはそんな未来を想像し、恐怖し、怯えた。

 だからであろうか、こんな考えが出てきたのは。

「……ならば発想を変えるか」

「え?」

「私がどこへも行けないのなら、お兄さんを私の傍に引き留める。手段は選ばん」

 その静かで暗い宣言に、ことりは怯えたように目を見開いた。


        ◇


「お、お姉ちゃん……?」

 そう目を見開くことりは、動揺、さらには軽い恐怖を覚えていた。姉が急に悪い人になったように見えたのだ。

 つばさはことりが目に入っているのかいないのか、あらぬかたを見ながらぶつぶつと呟いている。

「お兄さんはナイト・ファルコンと戦いたいんだ。だったら、そう、TSRの決勝で……」

「お姉ちゃん!」

 ことりがそう声を張り上げると、つばさははっとしたようにことりを見た。それは闇と目を合わせていたのが、光りに目を戻したといった感じの表情だった。

 ことりはちょっとほっとしながら、不安のあまり早口で尋ねた。

「お姉ちゃん、なにを考えてたの?」

 つばさは答えない。ただことりから微妙に目を逸らした。

 ことりは一つ息を吸って、明るい口調で尋ねた。

「変なこと考えてないよね」

「ああ、もちろんじゃないか」

 そのつばさの一言で、ことりは安心しようとした。だが安心したいあまり、真実を追究すると云うもっとも大切なことから目を逸らしてしまっていることに、自分でも気づきながら、しかし麻痺していた。

 そうこうしているうちに、迅雷がことりたちを振り返って声をかけてきた。

「おおい! つばさ、ことり、なにしてる?」

 するとつばさはにっこり笑って、

「今、行きますよ」

 とそう云いながら、電動車椅子のスティックを前に倒した。車椅子のハンドルを握っていたことりもそれに引っ張られるようにして歩き出し、姉妹は迅雷の許へと向かった。


        ◇


 そのあと結局雨は降らなかったのだが、迅雷たちはいつ雨に降られても逃げ込めるよう、駅の周辺を中心にあちこち見て回ったりした。

 冬の繁華街はどこもかしこもイルミネーションで飾られており、道を歩くだけでそれなりに楽しかったものだ。

 夕方になるとつばさとことりは例の家政婦に迎えに来てもらい、車に乗って帰宅することになった。翔子もまた「夕飯は駅弁や」などとぼやきつつ、東京駅で新幹線乗り場へと姿を消した。

 つばさが微妙に牽制したのと、実況レディとして正式復帰するにあたってオンライン・フォーミュラの運営に色々と連絡を取りたいと云うのとで、ジェニファーもまた抜け駆けなどせず帰っていった。

 そうして一人になった迅雷は、電車に乗って青梅の自宅へ帰り、その日は解散となったのである。

 その晩、ことりから電話があった。

「迅雷さん、あの、ことりです。夜分遅くにすみません、突然」

「おう、どうした」

 ことりからの電話とは珍しい。迅雷はそう思いつつ、朗らかに笑って応対していたのだが、ことりの声は暗かった。

「あの、いきなりで不躾なんですけど、明日私と個人的に会ってもらえませんか?」

「えっ?」

 本当にいきなりのことで、迅雷は鼻白んだ。

「なんで?」

「えっと、お姉ちゃんのことで、ちょっと気になることというか、相談したいことがあって……」

 ――そういうことか。

 迅雷は納得しつつも、また別の疑問を覚えて首を傾げた。

「つばさのことなら、今日色々なことを話したじゃないか」

「そうなんですけど、そのせいでなんだかお姉ちゃんの様子が……ううん、これは直接会って話します」

「ふむ」

 迅雷は即答を避けたが、腹は決まっていた。

「いいよ。おまえの頼みなら俺はなんでもやってやるさ。でもつばさにはなんて云う?」

「お姉ちゃん、明日の午前中はお母さんと一緒に病院に行って、そこで定期検査を受けることになっているんです。定期検査と云っても、あまり意味はないんですけど。ですからとにかく、そのあいだにちょっと……」

「ふむ、なるほどな」

 とすると、これはつばさの目を盗んでの密会ということになる。そしてことりがつばさ抜きで単独行動をするのは、迅雷の知る限りこれが初めてだ。

「つばさには内緒ってことだな?」

「いえ、別に絶対秘密にしなくちゃいけないってこともないですけど……」

 煮え切らぬ答えである。こういうときは、自分が結論を出してやるのがいいと思って迅雷は云った。

「じゃあいつも通り、俺と二人でオンライン・フォーミュラをやってるってことにしておけよ。どうせつばさも後から顔を出すだろう。TSR予選前の、最後の練習もしなくちゃいけないし。話ならそれまでにすればいい」

「はい、わかりました」

 こういう次第で、迅雷は明日ことりと二人きりで会うことになった。

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