第七話 運命の二人(1)
第七話 運命の二人
正月気分も抜けてきた一月五日の午後一時、迅雷は秋葉原レーシングセンター二階にあるレーシングルームの一室で、つばさがエントリーシートに乗り込むのを手伝ってやっていた。いつものようにつばさを軽々と抱き上げ、シートにそっと座らせてやる。
そのままシートの傍にしゃがみこんでつばさと話をしていると、車椅子を少し後ろへどかしたことりがつばさのヘルメットやグローブを用意してやってきた。
「はい、お姉ちゃん」
「うむ、ありがとう」
つばさが手を伸ばして装備一式を受け取ったところで、ことりが迅雷に話しかけてきた。
「とうとうこの日が来ちゃいましたね」
「ああ、俺のつばさに対するリベンジマッチだ」
思い返せば一ヶ月前、バーチャルレーサーになった迅雷が最初に戦った相手がつばさであった。結果は迅雷の敗北。あのときの悔しさは今も忘れていない。だからもう一度つばさと走って、〇勝一敗の戦績をひとまず五分に戻したかった。
そのための勝負はいずれやると決めており、それが今日なのだ。
つばさは手元のヘルメットを撫でながら、どことなく元気のなさそうに云った。
「ではお兄さん、確認しますが、今日のレース、ホストは私でいいんですね?」
「ああ。サーキットの選択やルールの設定は任せる。ただし勝負はあのときと同じ、一対一のレースだ。フリー参戦者は募らない。俺とおまえの二人で走ろう」
「わかりました」
つばさの声はしっかりしていたが、表情は曇りがちである。それが迅雷には気がかりで、彼女の方へ顔を近づけると訊ねた。
「どうした? これから勝負だっていうのに元気がないじゃないか」
するとつばさは迅雷を愛しげに見て、しばらくの沈黙を挟んでから答えた。
「……ちょっと考えてしまったんですよ。私はいったいなんのために走るのか、って」
「なに?」
目をしばたたかせる迅雷を、つばさはくすりと笑う。
「お兄さんがこのレースをする意味はわかります。負けたままでは終われないという、私へのリベンジでしょう。でも私は? 私にとってお兄さんは、ライバルって感じじゃないんですよ」
「もう恋人だもんね」
にっこり笑ってそう云ったことりが迅雷の背後に回って膝をつき、しゃがみ込んでいる迅雷を後ろから抱きしめてきた。少女の肉体のぬくもり、重み、柔らかさ……そういったものに背中を覆われ、迅雷は幸せなくすぐったさを覚えて微笑んだ。
恋人だもんね――と云うことりの言葉は、つばさとことりの両方を指している。
つばさは大いに頷くと、きらめく瞳で迅雷を見つめてきた。
「そう……それなのになぜ、なんのために走るのか。それがわからないから、いまいち燃え上がるものがないんですよね」
「じゃあ負けてもいいって云うのか?」
迅雷がそう煽ると、つばさははっと息を呑み、それから初めて会ったときのような不敵な笑みを浮かべた。
「……いえ、たとえ誰が相手であろうと、そんなことはありえません。だって私は、バーチャルレーサーですから」
その言葉からほのかに伝わってくる熱気に、迅雷は嬉しくなってきた。
「そうだ、その意気だ。レースってそういうものだ。なにがどうあれ、走り出したら勝とうと思う。おまえはそれをわかっている女だよ」
迅雷は笑ってそう云うと後ろから自分の胸に回されていることりの手を軽く叩いた。以心伝心、ことりは迅雷の体に回していた手を引っ込めると迅雷の肩に手をついて立ち上がり、ついで迅雷もまたすっくりと立ち上がってことりを振り返った。
「さて、ことり。今日は翔子もサイモン先生もいない。俺たち三人きりだ。悪いが、俺とつばさの両方のサポートを頼む。といっても、俺の方はついででいいから、基本はつばさの方を見てやってくれ」
「わかりました」
そう返事をしたことりは、迅雷と場所を入れ替えてエントリー前のつばさとなにごとか話し始めた。
迅雷は踵を返し、レーサーの目をして自分のエントリーシートへ向かう。
シートが筐体内におさまってから、迅雷はヘルメットをかぶり、レーシンググローブを嵌めた。今日は体調もいいし、気力も充実している。あのときと違ってフリー走行をする時間ももちろんあった。負ける気はしない。いつでも戦えるつもりでいると、青い
「迅雷さん、参戦手続きはこっちで進めちゃっていいですか?」
「ああ、頼むよ」
「はい。えっと、それで今日のレースなんですけど、ノーマルサーキットでのオーソドックスなものになります。一対一でスターティンググリッドは現有DP順。つまりお姉ちゃんがポールポジションで迅雷さんが二番グリッドです」
「了解だ」
「それじゃあログインしますよ」
ことりがそう云った瞬間、目の前の画面が輝いて映像が映し出された。眩しげに目を細めた迅雷は、左斜め前、ポールポジションの位置につばさのエーベルージュがあるのを見た。それから周囲を見回し、目を瞠る。初めてバーチャルサーキットにログインしたときの記憶と感動が鮮やかに蘇った。
「ここは……」
「憶えていますか、お兄さん」
そんな言葉ととともに二つ目の通信画面が開き、つばさが顔を出した。既に赤いヘルメットを被っており、涼しげな目元がバイザーから覗いている。
迅雷はつばさを見返しながら、一つ大きく
「ああ、忘れはしない。ここはあのときと同じ……」
「はい。ここは私とお兄さんの始まりのサーキットです」
ほんの一ヶ月ほど前のことだ。サイモンにオンライン・フォーミュラの世界にいざなわれ、受付でジェニファーと出会い、そのジェニファーによってつばさたちに引き合わされた迅雷は、しかしいきなりつばさと諍いを起こし、お互いのプライドをかけて勝負することになった。そしてセンター二階のレーシングルームでコックピットドリルを受け、ライトニング・バロンとして初めてバーチャルサーキットにログインしたのである。
それがここだ。
このサーキットこそ、迅雷がバーチャルレーサー、ライトニング・バロンとなった始まりの地であった。
「一周回って、戻って来ちまったな」
「ですね」
「おまえにとってはよく走り込んだサーキットだっけ?」
「はい。前半がテクニカルセクション、後半がハイスピードセクションとくっきり分かれているので、練習には最適なコースの一つでした」
そこで言葉を切ったつばさは、心持ち胸を張って迅雷に云う。
「一周六・七キロメートルのこのサーキットを、あのときと同じく時計回りに十五周というセッションにしようと思うのですが、どうでしょう?」
「望むところだ」
一度負けた相手と、同じサーキットでまた勝負する。
「俺とおまえの再勝負の舞台として、こんなに相応しいサーキットはない」
迅雷は嬉しげにそう云うとステアリングから手を離し、両手の指を組んで掌を前に押し出すようにして、腕の軽いストレッチをした。
「このコースのことは憶えている。が、だからと云ってフリー走行なしはありえない。前回はそれで負けたようなもんだからな。今度は復習も兼ねてきっちり走らせてもらうぜ?」
「もちろんですよ。ことり」
名前を呼ばれたことりは一つ頷くと、ヘッドセットのマイクを唇に寄せて朗々と云う。
「フリー走行は十五分から三十分のあいだで調整してください。セッティングを変えたい場合は私にどうぞ」
「よし。それじゃあ行くぜ」
迅雷はそう云うと、クラッチを繋いでゆるりとマシンを発進させた。まずは調子を確かめる意味で、軽く一周するつもりである。
そこへことりが思い出したように云った。
「そういえばもう中継始まってますよね。映像、出しますね」
その直後、縦に並ぶ二つの通信画面の下に三つ目のウインドウが開いた。そこには実況レディの衣裳に身を包んだ金髪の美女がマイク片手に語っている。
「さあ、フリー走行の始まりです! まずはバロンがゆるりと発進、左回りのサーキット、第一コーナーを回っていく!」
「……ジェニファーさん、やってるな」
今日のレースのことはジェニファーももちろん知っていた。TSR決勝のあと、迅雷と口づけを交わした彼女はある決断をし、今は公私ともに忙しいのだが、このレースだけは自分が実況すると云い張って聞かなかった。
「これで本当に、あのときの再現だ」
つばさと走った最初のレースでも、ジェニファーが実況についてくれていた。
元より迅雷は不甲斐ない走りなどするつもりはなかったが、ジェニファーの見ている前で同じ相手に二度負けるなど許されない。
迅雷は追い風を受けているような気持ちで、フリー走行へと本格的に乗り出していく。
◇
フリー走行のあと、十分間の休憩を挟んでレース本番となった。
つばさはエーベルージュに、迅雷はブルーブレイブに乗り込んでピットから発進し、フォーメーションラップとして一周走ったあと、それぞれのグリッドに着いたところだ。
つばさは通信画面のなかの迅雷を見て云った。
「お兄さん、準備は万端ですか?」
「いつでも来い」
「それじゃあ、遠慮なく」
つばさはそう云うと、ホストとしてスタートシグナルの点灯をコールした。
それは実況側にすぐ伝わったのであろう、ジェニファーが青い瞳を輝かせる。
「ホストのダークネス・プリンセスがスタートシグナルの点灯をコールしました。レース開始まであと一分!」
ジェニファーがそう高らかに述べたとき、つばさの背後で猛烈なエキゾーストノートの音がする。迅雷がアクセルを踏み込んでエンジンに雄叫びを上げさせているのだ。
つばさもまたそれに応えてアクセルを踏み、エンジンの音を鳴らした。それはまるでお互いのマシンが、勝負の前に声を合わせて歌っているかのようだった。
その
――私はいったい、なんのために走るのか。
負けたくないから走る。レーサーの本能で走る。そういう部分はたしかにあった。
だがそれとは全然別の渇望がある。歌声を響かせあっているうちに、つばさはその渇望の存在に気づいた。だが正体はわからない。見えそうで見えない。
「……お兄さん」
「うん?」
「いえ……」
つばさは自分から話しかけておきながら言葉に詰まった。というのも、自分がこれから云おうとしている言葉に自分で驚いたからだ。
「私は、あなたと一緒に走りたい。一緒に」
「ああ。だからこれから勝負だろ?」
「……はい」
当たり前のことだった。だのにどうして、それが自分の渇望のように思うのだろう。渇望するまでもなく、それはこれから叶うと云うのに。
――一緒に。
つばさは自分でも自分の心が解らぬまま、ヘルメットに表情を隠して云う。
「いい勝負をしましょう」
「ああ、もちろん」
そしてスタートラインの真上で、横一列に並んだ五つの信号に赤い火が灯り、それが一斉に消える。この瞬間が――。
「スタートです!」
ジェニファーがそう声を張り上げた瞬間、迅雷が素晴らしいスタートを決めてつばさの前に躍り出た。つばさも決して遅くはなかったが、それ以上に迅雷が神がかっている。
「く――!」
つばさは最初のレースを思い出していた。あのときもスタート直後に迅雷は、つばさの先を行ったのだ。だが初めてブルーブレイブに乗った彼はマシンを御しきれず、第一コーナーで停車してしまった。しかし今度は違う。ポジションとラインを電光石火に奪い取っていった迅雷は、美しく力強い走りで第一コーナーにアプローチし、そして華々しい成果をあげた。
「バロンがいきなりプリンセスをオーバーテイキング! 第一コーナーを脱出して、先頭に躍り出ます!」
「くそっ!」
そのときつばさは、わざとらしく悔しがった。というのも、悔しさよりも怯えの方が強かったのだ。
――怯える? なにに怯えると云うんだ、私は?
迅雷が自分を追い抜いていった瞬間、自分の心が思わぬ一面を見せて、つばさは戸惑っていた。レーサーが追い抜かれたのなら悔しがるのが普通ではないか。だのになぜ怯えを感じるのか。
「いきなり、やられちゃったね」
ことりがそう声をかけてくれたので、気が紛れたつばさはヘルメットの下で微笑んだ。
「まだまだ、これからさ――!」
そう、まだレースは始まったばかりで、迅雷に追いつくチャンスはいくらでもある。それが尋常と云うものだ。
しかし。
「追いつけない……!」
周回を重ねるどころか、コーナーを一つ越えるたびに差をつけられ、ストレートではさらに引き離されるという有様で、走れば走るほど迅雷が遠のいていく。レースが中盤に突入するころには、その差は絶望的になってしまった。
「バロン、ぶっちぎり! しかし
――無理だ。
思わずそんな言葉が口をついて出かけた。あのときつばさが迅雷に勝てたのは単にハンデがあったからにすぎない。万全の状態の迅雷を相手にして、どこに勝ち目があったろう?
「……速いのはわかっていたが、これほどとは」
「大丈夫、まだレースは半分以上残ってるよ。がんばって、お姉ちゃん」
ことりは明るくそう話しかけてくれたが、つばさはほとんど聞いていなかった。ブルーブレイブが遠くなっていくにつれて、つばさの心では怯えと焦燥感が色濃くなっていく。
――もう見えなくなる。行ってしまう。
そしてあるとき、針でつつかれた風船が割れるように、つばさの心も弾けた。
「待って……行かないで」
なぜそんな言葉が口から出てきたのか、つばさには自分でもわからない。
だがそれを聞いた迅雷が、通信画面越しに低い声を寄越す。
「……つばさ。仮にもレーサーが勝負相手に『待って』とは、どういうことだ?」
「あ……」
それはその通りだった。だがなまじ無意識に口にしてしまった言葉なだけに、つばさはそれが自分の本心であることを完璧に理解できていた。そしてそれが、このレースの枠を越えた意味での『行かないで』だということも、わかってしまった。理性が一気に決壊を始める。
「……だって、置いていかれてしまう。リアルでも、バーチャルでも。お兄さんに、みんなに……私だけ、どこへも行けない!」
TSRのときは振り切ったつもりだったけれど、やはり本当は迅雷にヨーロッパへなど行ってほしくなかった。いつまでも自分の傍にいてほしかった。今さらそんなことで駄々をこねても仕方がないと解っていても、どうしようもないのだ。
そんなつばさの吐露に、しかし迅雷は小揺るぎもしない。
「そうか。だが、俺は待たない。こっちはこっちで急いでるんだ。一日も早くF1の世界に行きたい、早く大人になりたいって、いつも思ってるよ。だから、置いていかれたくなかったら、行かないでじゃなくて、自分で追いかけてこい!」
そしてブルーブレイブが更なる加速を見せる。
「お兄さん……!」
つばさはアクセルを踏み、ステアリングを切って、迅雷を必死に追いかけながら、胸をナイフで刺されたような痛みとともにこう思う。
――優しくない。
こんなに追いかけているのに、こんなに愛しているのに、迅雷は少しもアクセルを緩めてくれず、全開全速で自分の目指しているゴールへ突き進んでいく。待たないし立ち止まらないし振り返らないのだ。
だから迅雷の云う通り、自分で追いかけていくしかない。
そう考えが切り替わったとき、つばさの胸に初めて執念のようなものが燃え上がった。
――追いかける。追いかけて、捕まえる。私の男!
そして炎が草原を焼き尽くしながら迫るように、つばさは迅雷を追って走り始めた。バーチャルレーサーになってから四年、こんなに燃え上がるような気持ちで走ったことはない。しかしそれでも、それは大地に立つ人が流星を掴もうとして手を伸ばすようなものだったのではないか。
走れば走るほど力の差を思い知らされ、ついにレースは終盤を迎えた。
「一方的な、そして圧倒的なレースです! ライトニング・バロンはダークネス・プリンセスをまるで寄せ付けず、そして今、レースはファイナルラップへ!」
ここに至ってつばさは、火の鳥になっていた自分が燃え尽きて涼しげな雁に変わっていくのを感じていた。もう悟っている。未来は見えた。どう足掻いたって追いつけない。
「お姉ちゃん……」
ことりの声かけに、つばさはヘルメットの下で淡い笑みを浮かべた。
「わかっていたけど、圧倒的に速いな。どうしたって追いつけない」
「……でも、お姉ちゃんもさっきからずっとタイム上がってるよ。さっきのラップタイム、このコースの自己ベスト」
「……そうか」
何度も走り込んだこのサーキットで新記録を出せたのなら、自分もまだまだ捨てたものではないのだろう。この先も精進を続けていけば、自分はもっと速くなれる。だがこのレースはもう終わりだ。今さら巻き返すには、あまりにも距離が開きすぎていた。それこそ迅雷がコースオフなりクラッシュなりでもしない限り逆転不能だが、そんなことが起こるはずもない。
もはやつばさの視界に迅雷はなく、中継画面に目をやれば、ファイナルラップに至ってタイヤマネジメントをかなぐり捨てている迅雷が、バックストレートの終わりにある右コーナーをこれ以上ないくらいの絶妙なスピードで攻略していくところだった。
それを目の当たりにしたとき、つばさはスピードの威とでも云うべきものに触れて、意外にも胸に喜びが溢れかえるのを感じた。
――そうだ。これでいい。
最初は、ただバーチャルレーサーとしての矜持一つでこのレースに臨んだ。それが途中から迅雷を追いかけたいと思う気持ちに切り替わった。だが精一杯手を伸ばしたところで、
その嬉しさを感じながら、つばさは迅雷をまぶしく見つめて思う。
――お兄さん。あなたは常に私より速く、永遠に私の先を走っていなくてはいけない。そうでなくては好きじゃないんです。私より遅い男に魅力なんてないのです。私があなたに追いついてしまったとき、私のなかであなたと云う鳥は落ちるのです。
「お兄さん」
つばさはたまらなくなってそう声をかけたが、迅雷の返事はない。大詰めで集中を
「そうやって背中にも触らせてくれないところ、好きですよ」
するとどう思ったのか、迅雷が口を開いた。
「恋人相手だろうがなんだろうが、レースで手加減するなんてありえないからな。でもそれはレースだけのことなんだぜ?」
「え?」
「おまえが俺の背中に触れないのは、クルマに乗ってるときだけってこと。レースじゃ、勝たせてなんかやらないさ。でもそれ以外のことだったら、おまえはいくらでも俺を追いかけられるし、追いつける。空間的なことはもちろん、時間だって、人生だってだ。おまえは俺を追いかけてこられるんだ」
つばさは戸惑い沈黙した。実際にはそれほど長い時間ではなかったが、主観ではずいぶん黙っていたように思う。
それからつばさは、やっと云った。
「でも、お兄さん三つも歳上ですし」
「二十歳過ぎたら、そんなの大した違いじゃなくなるさ。他には?」
「ヨーロッパは遠いし、一年は長いんですよ」
「それを飛び越えてこられるって云ってるんだよ、俺は。他には?」
他にはもうなかった。沈黙が答えだ。つばさはアクセルとブレーキを使い分けながら、自分の両脚のことを思う。ペダルワークは出来るのだ。だがクルマでは迅雷に追いつけない。迅雷が追いつかせてはくれない。
しかしこのクルマの座席から立ち上がって、走って迅雷を追いかけていけるとしたらどうだろう。その背中を後ろから抱きしめて、時間さえ飛び越えて大人になって、迅雷と人生を共にできたらどんなに素晴らしいだろう。
だが今のつばさにとってそれは、人間の力で虹を架けるようなものだった。すべてはあの虹の向こう側にある夢だった。
「俺がヨーロッパに行くのは一月の終わりだ。そうしたら十二月まで日本には帰ってこないと思うが、別におまえの方から遊びに来てくれても構わんのだぞ?」
「お兄さん――」
つばさは通信画面越しに迅雷を見た。迅雷は笑っていた。元よりヘルメットを被っているけれど、つばさには迅雷が笑っていると確信できた。
「今日のレース、リベンジマッチってことだけど、本当はこれが云いたかった。おまえに俺を追ってきてほしかった」
その言葉に吐胸を衝かれたつばさがなにも云えずにいると、不意に迅雷がレーサーの目に戻った。
「さあ、大詰めだ」
無論、レースが最終局面を迎えようとしているのである。迅雷のブルーブレイブが素晴らしい速度で最終コーナーを回っていき、それをジェニファーが祝福するように語る。
「バロン、最終コーナーをターン!」
つばさがまだバックストレートにいるのに、迅雷はもう最終コーナーを回ろうとしている。圧倒的な力の差がそこにはあった。
一生かかったって、クルマでは追いつけないだろう。
――でも、私の脚でなら。
つばさは知らず知らずのうちに、そう考えてしまっていた。それは土のなかで眠っていた種子が、やっと眠りから醒めて芽を出したような、ほんの小さな変化であった。小さすぎて、これが大きな変化に繋がるとは、つばさにはまだ信じられない。
――立って歩いて走ってお兄さんの隣に並んで一緒に生きる。そんなことが、私にできるのだろうか。
迅雷はマシンをまっすぐ走らせて、フィニッシュラインへ飛び込もうとしている。それは一つのゴールだが、迅雷にとっての本当のゴールは遙か彼方にあるはずだ。
不可能に挑むという意味で、つばさは迅雷に自分を重ね合わせて尋ねてみた。
「お兄さん。お兄さんは、自分がF1ドライバーになれると……いえ、F1でチャンピオンになれると思いますか? そしてオンライン・フォーミュラの世界でもチャンピオンになれますか?」
するとヘルメットのバイザーの奥で迅雷の目が見開かれた。しかしそれも一瞬のこと、次の瞬間には、迅雷から威風が吹きつけてきた。
「なる! やる! 絶対に!」
その三つの言葉が銃弾となってつばさの心を撃ち抜いていく。
そして。
「バロンが今、ぶっちぎりでフィニッシュ――!」
ジェニファーの快哉とともに、ブルーブレイブがチェッカーを受けていた。
レースが終わってエントリーシートが筐体から排出されると、空の車椅子の傍でことりが待っていた。
レーシンググローブを外し、ヘルメットも脱いだところで、ことりがつばさに声をかけてくる。
「負けちゃったね」
「ああ、負けてしまったよ」
だが悔しさはほとんどなかった。それどころか、迅雷が速くて嬉しいくらいなのだ。
「……駄目だな、私は。お兄さんが私より速くて安心しているんだ」
「そうなの?」
「だっておまえ、私たちのお兄さんが私たちより遅かったら厭だろう?」
するとことりは「そうかも」と小さな声で云った。
そのあと迅雷がシートから下りてきた。迅雷はシートに座ったままのつばさを覗き込むと嬉しげに笑って云う。
「これでイーブンだな」
「はい、一勝一敗ですね」
つばさはそう云うと迅雷に向かって両腕を伸ばした。そしてことりが如才なくハンドルを握って待ち受けている車椅子に、迅雷がつばさを抱き上げて移動させてくれる。それに甘えながら、しかしつばさの頭のなかでは先ほどの迅雷の言葉が反響を繰り返していた。
――なる! やる! 絶対に!
そう思うと、つばさは自分の心臓が熱く高鳴るのを感じた。そして一昨年の暮れの事故以来、時に自分の体ではないような気さえしたこの脚に、自分の血がしかと流れているのを感じる。
もしかしたら、とつばさは思う。
今ならあるいは、奇跡を起こせるのではないか。
根拠はないが、そんな気がしたのだ。
「お兄さん」
「うん?」
車椅子に座るつばさを見下ろして、迅雷は微笑んでいる。その迅雷に手を伸ばし、つばさが脚に力を入れようとした、その瞬間だった。
ノックの音が響いて、迅雷がつと扉の方へ顔を振り向けた。つばさはたちまち挑戦する気が失せてしまい、また同時に安堵もした。これで駄目だったら、もう一生歩けないような気もするのだ。
ともあれ、迅雷と同じく扉の方を見たことりが小首を傾げる。
「次の人でしょうか? でもまだ時間ありますよね?」
「いや、時間通りだ。俺が呼んでおいた」
「呼んだ?」
迅雷の言葉につばさは思わずことりと顔を見合わせた。いったい誰を呼んだのか、つばさたちには見当もつかない。その人物を見てみるよりほかにない。
そして迅雷が扉を開けると、不遜な面構えをした一人の少年がレーシングルームに入ってきた。
「来てやったぞ、疾風迅雷」
そう上から目線の物云いをするその少年を一目見て、つばさは思わず声をあげた。
「プリンス!」
「やあ、つばさ嬢。久しぶりだね」
迅雷に向けていた表情から一変し、恋矢はつばさを見るなり満面に笑みを浮かべた。
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