第七話 運命の二人(2)
そのあと、つばさたちはレーシングルームを出てセンターの一階に下りた。いつもの流れであれば奥の喫茶店へ行くところだが、今日は恋矢の希望により、いつもは利用しないカフェ・パドックに入った。
天井から鋼鉄のアームによっていくつものディスプレイが固定されており、客たちは飲み物を片手にそのディスプレイに映し出されているさまざまなレースを眺めている。先日のTSRのときも、そうした光景はここにあっただろう。
つばさたち四人は円形のテーブルに着いた。車椅子のつばさから時計回りにことり、恋矢、迅雷である。飲み物の注文を終えたあとは先日のTSRなどの話をしていたが、飲み物が届くとつばさは顔つきを改め、真向かいに座る恋矢を見ながら迅雷に尋ねた。
「それでお兄さん、これはいったいどういうことなんです?」
「いや、俺、もうすぐヨーロッパに行くんだけど、思い出したんだよ。たしかこいつに、三ヶ月に一回くらいならつばさに会わせてやってもいいぞ……なんてことを云ったなって」
「ああ……」
つばさは記憶を発掘していた。そういえば、たしかに迅雷はそんなことを云っていた。それに自分は軽く不満を表明したのを憶えている。
「あのとき俺は、こいつに改心してほしくてああ云ったんだが、このまま渡欧したらあの約束が一つも果たせないことになるなと思って、こういう席を設けさせてもらったんだ。事後承諾になって悪かったな」
「いえ、まあ別にいいですけど」
――無駄に律儀なんですから。
つばさはテーブルの下で迅雷の脚を軽く蹴ってやりたいような気持ちに駆られた。もちろん、実際にはそんなことはせず、珈琲のカップを口元に運んだだけである。
そのとき恋矢が迅雷を見ながら低い声で云った。
「あの約束は、もういい」
意外な言葉につばさとことりは目を丸くしたが、迅雷は大して驚いた様子もない。
「そうか?」
「つばさ嬢の方から僕に会いたいと云うならいざ知らず、そうでないなら、口約束一つでそこまで徹底して求めたりしないさ。貴様が留守のあいだ僕がつばさ嬢を守るということも考えたが、このレーシングセンターも街中もセキュリティカメラで溢れているし、送り迎えの車もあるようだし、僕がガードする意義もなさそうだ」
そう云って静かにかぶりを振る恋矢を見て、迅雷が嬉しそうに笑う。
「ずいぶん聞き分けがよくなったじゃないか」
「人は成長するのだ。ずいぶん恥も掻いたがその分、大人物になってやるから見ていろ」
そう言葉でやりあう恋矢たちを見て、つばさは愕然とした。なにに愕然としたと云って、この恋矢でも人間が変わり、成長していくのだという事実に愕然としたのだ。
――ひょっとすると私は、お兄さんたちだけでなく、こいつにすら追い抜かれるのか?
それは厭だった。恋矢が自分より一つ歳上であることを考えるとさすがに失礼かもしれないが、人生の速度で恋矢にすら負けるのは耐えられそうにない。
そんなことを考えているつばさに、恋矢が顔を振り向けて微笑んだ。
「おっと。勘違いしないでほしいのだけれど、別に君に会いたくないというわけじゃないからね。いつも気に懸けているよ、つばさ嬢。こんながさつな男が恋人で君は本当に大丈夫なのかと心配でたまらないくらいだ」
するとそこへ迅雷が口を挟んでくる。
「云われなくても、つばさもことりも俺が二人纏めて幸せにしてやるよ」
「それだ」
恋矢は爪が綺麗に整えられた人差し指で迅雷を指差した。
「つばさ嬢のみならず、ことり嬢まで恋人だと? 貴様、それでいいと思っているのか?」
「おまえには関係ないことだ」
「ぐぬぬ……」
歯ぎしりする恋矢を見て、迅雷は笑いながら珈琲を一口飲んだ。そこへクリームソーダをちびちびやっていたことりが不思議そうな顔をして口を開いた。
「なんか二人とも、仲良くなってないですか?」
すると迅雷と恋矢は顔を見合わせ、それから二人揃ってことりに眼差しを据えると口々に云った。
「冗談じゃない。一応、あのレースのあとでプリンスのマイページからメッセージボックスにメールを送って、アドレスの交換くらいはしたが、それも必要最低限のやりとりをするためだし、ちっとも仲良くなんかなってないぜ」
「そうだとも、ことり嬢。あのレース以来、疾風迅雷とこうして顔を合わせるのは――」
と、そこで恋矢は言葉を切って苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……これが二度目だったな」
「俺がアシストしてやったときだな」
「アシスト?」
「アシストって、OFのレースでプリンスをアシストしたってことですか? いつ?」
つばさにとってはまったく初耳である。驚く姉妹に相槌を打ち、迅雷は笑って云った。
「正月にさ、おまえらが年賀の挨拶がどうのこうので俺と予定の合わない日があっただろ?」
「はい。別の日は、お兄さんが駄目だったんですよね。会社の人と会うとかで」
二条家は家柄ゆえに、迅雷はワークスチームの部長らから食事に誘われたりして、正月休みはお互いの予定が合わなかったのだ。
「それで俺、一人でこのレーシングセンターに来たんだよ。そこでこいつとばったり会ってしまってさ」
「出くわしてしまったのだ」
恋矢はそう云うと憂鬱そうに片手で顔を覆った。座りながら立ちくらみでも起こしたような気味合いである。
つばさは小首を傾げると、迅雷に重ねて問うた。
「それで、いったいなにが?」
「こいつ、婚約者とデートしてたんだよ」
「婚約者って云うと、例の七歳の?」
「そう、七歳の」
「彼女の年齢ばかり強調するのはやめてくれ。そしてデートなどしていない」
そう強い調子で云った恋矢は、そこから事のあらましを語り出した。
「つまり僕がバーチャルレーサーだということを知った彼女がオンライン・フォーミュラに興味を持ったのだ。それでセンターを案内してやっていたところ、疾風迅雷と遭遇した。ただそれだけのことだよ」
「それをデートって云うんじゃないか」
そうぶった切った迅雷は、そこからうきうきと云う。
「それでな、その可愛い婚約者が云うんだよ。恋矢様が走っているところが見たい、って」
「恋矢……様?」
つばさが胡乱げに恋矢を見ると、恋矢はその視線から目をそらすように顔を背けた。
「……ぼ、僕がそのように呼ばせているわけではないぞ? 向こうが勝手にそう呼ぶのだ」
「恋矢様、って無邪気におまえのことを慕ってるんだよな。可愛かったな。あんな可愛い子におまえのレースを見たいと云われたら、そりゃあ当然勝ちたいだろうが、まさか勝つためになんでもありな卑怯なレースを見せるわけにはいかんよな」
それでつばさにも話の先が透かし見えてきた。
「つまり、プリンスはその婚約者にいいところを見せたかった……いえ、期待を裏切るわけにはいかなかったということですね」
「そういうことだ」
迅雷は莞爾と笑って、つばさに親指を立ててみせた。それから先日の出来事をもう少し詳しく語ってくれる。
恋矢の小さな婚約者はもちろん恋矢の勝利を疑っていなかった。彼女にとって恋矢の走っているところが見たいとは、恋矢のかっこいいところが見たいと同義であったのだ。
それでかっこつけの恋矢のことだから、その場で「僕が一位でチェッカーを受けるところを見せてあげよう」などと約束してしまったのだ。
そのあと、恋矢は迅雷をトイレに誘って、その場で泣きついてきたと云う。
「泣きついてなどいない!」
「でも頭下げたよな、おまえ」
「くっ……」
恋矢は目を伏せ、なにか頭痛でも
「でもまあ、俺も断る気はなかったよ。あの子は本当に恋矢のこと王子様だと思ってるみたいだったし、そんな子の夢を裏切るのは可哀想だったからな」
「……それで、アシストですか」
唸るように云ったつばさに、迅雷が得意気な顔をして首肯を返す。
「ああ、俺は恋矢を勝たせてやった」
と、そこでいきなり恋矢が凄い目をして迅雷を睨みつけた。
「貴様、最後の最後で僕を本気で抜きにかかっただろう!」
「んー……」
と、迅雷は言葉を濁して珈琲を口元に運んだが、つばさにもそれは察しがついた。最後の最後でアシストという踏み台のまま終わることに耐えられなくなったのだろう。だが結局、恋矢が一位でチェッカーを受けたらしい。
迅雷はレースの詳細は省いて、結論へ飛んだ。
「とにかくこいつは、あの小さな可愛い婚約者に勝利をプレゼントしてみせた。めでたしめでたしってわけさ。まあ、よかったよ。俺が二位だったこと以外な」
「ふん、悪かったな。そんなに不満ならなにかしら埋め合わせをしてやろう。なにがいい?」
「いや、別になにもいらないよ。俺としては実のところ安心したんだ」
「安心?」
「ああ。おまえにもきちんと心を守ってやりたい相手がいるんだなって、そのことに安心した。あの子がいればおまえの改心の日も近いだろうな」
「僕はとっくに襟を正しているぞ。あの日以来、クリーンな走りを心がけているんだ」
「自分で云ってるうちは信用できないな」
そう云って呵々と笑う迅雷に、恋矢が突っかかっていく。
そんな二人の姿を見つつ、つばさとことりはお互いの顔を寄せてひそひそと離していた。
「やっぱり仲良くなってるよな、お兄さんとプリンス」
「うん」
「お兄さん、プリンスの面倒を見てやるほど暇じゃないとか云っていたのにな」
「男の人同士だからじゃないの?」
「そういうものか……」
自分であれば、恋矢とのこのような和解は絶対にありえない。だからこれは向こう側の出来事だった。
と、そのとき恋矢と話していた迅雷がやにわにつばさに眼差しを据えてきた。
「さっきからなにをひそひそ話してる?」
「別に大したことじゃないですよ。どうでもいいことですから」
そう、迅雷と恋矢の仲がどうであろうと、つばさには関わりのないことだった。恋人の男友達などどうでもいい。
つばさは背筋を伸ばすと、涼しげな顔をして珈琲カップを口元に運んだ。
そのカップが空になったころ、恋矢が席を立ちながら云った。
「さて、そろそろ失礼させてもらおう」
「そうか?」
そう声をあげた迅雷は恋矢を数秒見て、やがて納得したように頷いた。
「こうやって四人で会う機会もそうそうないだろうが、最後になにか云い残すことはあるか?」
「その云い回しだと僕がこのあと死ぬみたいではないか」
そう突っ込んだ恋矢は、しかし暖簾に腕押しと悟ったのか、ため息をつくと顎に手をあてて思案顔になった。
「……そうだな。一応、聞いておこう」
そう小さく呟いた恋矢がつばさに眼差しを据えてくる。
「つばさ嬢、またこうやって一緒にお茶をする機会はあるだろうか?」
「……それはお兄さん次第だな。今日のようにお兄さんがセッティングするなら私に否やはない。お兄さん抜きでということなら、たとえなにもなくとも、恋人の目を盗んで他の男と会うような真似をこの私がするはずもない。ましてお兄さんがヨーロッパへ行っているあいだなら尚更だ」
「おお……」
と、迅雷の目が輝きを増した。行動にいちいち口を挟んではうるさがされると思っているのか、迅雷はあまりつばさにあれをしてはいけない、これをしてはいけない、などと云わなかったが、実のところつばさは縛られるのが好きだった。箱にしまわれて大切にされたいような気持ちが、少しある。
もっとはっきり云えば、支配されたいのかもしれない。
――このことはあとでお兄さんに云うとして。
つばさは、まだ話を終えたつもりはなく、今のつばさの回答に寂しげな顔をしている恋矢に続けてこう云った。
「しかしあれだ、そちらが恋人連れということなら話は別だぞ」
それには恋矢も目を丸くした。
「恋人と云うと……」
「おまえの婚約者だ。正直一度、会ってみたくなった」
すると恋矢が、突き飛ばされたような勢いで仰のいた。
「あの子を連れてこいというのか!」
「そういうことだ。つまりプリンス、おまえと会うのではなく、おまえの婚約者と会う。そしてその付き添いと云うことなら、おまえの同席も認めよう」
つばさはしたり顔でそう述べると、迅雷に視線をあてた。
「ということなんですが、どうでしょう?」
迅雷が駄目と云うなら、それまでである。だが迅雷はふむと唸って云った。
「……いいんじゃないかな。しかしなんでまた?」
「可愛いという話ですし、プリンスと将来結婚する子がどんな子なのか気になります。そしてなにより七歳にしてオンライン・フォーミュラに興味を持ったというのがいいですね。もし本人にその気があるなら、バーチャルレーサーになったあと、フレンド登録して一緒に走るのも楽しいんじゃないかと」
つばさは胸の前で両手を組み、指を伸ばしたままふふふと笑った。付け加えるなら、恋矢はその婚約者を相当大切にしており、彼女が一緒にいてくれればいらぬ面倒事はもう起きないだろうという予感があった。
「ううむ」
と、動揺から立ち直ったらしい恋矢が、前髪を掻き上げて苦渋に満ちた顔をして云う。
「わかった、つばさ嬢。とにかく向こうに訊くだけ訊いてみよう。つまり、バーチャルレーサーになる気があるかどうか……」
「うん。それで前向きな答えがあるなら連れてきてほしい。だが本人の意思に反して無理やりやらせるようなことは、してくれるなよ?」
「云われるまでもない。僕は決して彼女にそのようなことはしないぞ」
恋矢は眉間に皺を作り、口吻を尖らせて云った。その不機嫌な感情の波が去ったのか、恋矢は目元を和ませると咳払いを一つした。
「だがつばさ嬢、一つだけ訂正させてくれ。彼女は親が勝手に決めた婚約者であって、断じて恋人ではない。どこの世界に七歳の少女を恋人にする十五歳がいるのかね?」
「でも婚約者なんだろう?」
「向こうはべた惚れだったじゃないか」
つばさと迅雷の立て続けの言葉に、恋矢は精神的打撃を受けたのかよろめいた。そこへことりが追い打ちをかける。
「そんなこと、本人の前で云ったらだめですよ? 弓箭寺さんのこと好きなんでしょう? 傷ついちゃいますから」
「わ、わかっているさ……」
そう、そのことを恋矢はよく心得ている。だから迅雷が安心したと云った意味が、つばさにも理解できた。
その後、恋矢が去ると、迅雷は自分の携帯デバイスを軽く睨んで云った。
「しかし俺がおまえとプリンスのあいだに立って連絡役をするのか……」
そう、つばさは別れ際、自分に連絡を取りたい場合は迅雷を通すようにと恋矢に云い渡しておいた。恋矢は文句の一つも云わなかったが、迅雷の方がこれである。
「おまえら、普通にアドレス交換すればよかったじゃないか」
「いやですよ。前にも云いましたけど私はお兄さん以外の男性にアドレスを教えたくないのです。いい子でしょう?」
つばさは小首を傾げて微笑んだ。迅雷以外の男性には、冷淡なくらいでちょうどいいと思っている。
「それともお兄さんは、私がお兄さん以外の男の人と仲良くしてもいいんですか?」
すると迅雷はちょっと考えるような顔をしたあと、テーブル越しに手を伸ばしてつばさの頭を撫でてくれた。
「えへへ」
「迅雷さん、私も」
ことりがそう云って迅雷の方へ頭を傾けたので、迅雷は苦笑してその
それから三人はカフェ・パドックを出てレーシングセンター周辺をあてもなくぶらついた。近隣の店を冷やかし気味に見て回るのは楽しいことだ。
つばさの車椅子のハンドルは迅雷が持ち、ことりはその迅雷の腕に腕を絡ませて歩いている。その姿がつばさには少し羨ましかった。自分もいつか迅雷と腕を組んで歩きたい。だが車椅子ではそれもままならないのが現実だ。
「……そういえば、お兄さん」
「うん?」
「途中でプリンスのやつが訪ねてきたせいでなあなあになってしまいましたが、えっと、その……」
あのとき自分は、立ち上がろうと試みてみたのだった。だが迅雷が恋矢とつばさを会わせるという口約束を律儀に守ろうとしたため、そのチャンスは失われた。それをこの場でもう一度、というわけにはいかない。たとえて云うなら、あのときは風が吹いていた。今は吹いていない。もう一度風が吹くのは、いったいいつになるだろう。
つばさは考え込んでしまい、言葉を途中で切っていたことにも気づかなかった。そこへ迅雷が云う。
「もう一ヶ月ないんだぜ?」
それは迅雷のヨーロッパ行きのことであろう。一度渡欧すれば、迅雷とはしばらく会えなくなる。自分が追いかけていかない限り。
つばさは車椅子を押してくれている迅雷を肩越しに振り仰いだ。
「お兄さん。明日は会えますか?」
すると迅雷は困ったような顔をして、控えめな声で云った。
「いや、明日は真玖郎と会うんだ」
「ああ、そういえばそうでしたね……」
TSR決勝レースの終わったあと、迅雷はホケキョを介して真玖郎と会う約束をしていたが、それが明日なのだった。
「どこで会うんでしたっけ?」
ことりが傍から迅雷にそう尋ね、迅雷は時間と場所をつばさたちに教えてくれた。
「楽しみですか?」
つばさの問いに、迅雷は足を止めると冬の青空を見てううんと唸った。
「どうかな……興味はあるが、怖いような気もするし、逃げる気もない。うん、一口では云い表せないような感情だ」
迅雷がそのまま空を見つめてしまったので、つばさはことりと目を見交わした。真玖郎のことについては、翔子も交えて色々と考えていることがある。
――さて、どうなるか。
迅雷にとってもつばさたちにとっても、明日は重要な一日となるに違いない。
◇
翌日の昼過ぎ、迅雷の姿は湖のある公園にあった。この湖はいつかジェニファーが指輪を投げ捨てた場所であり、湖の周りには転落防止用の柵が巡らしてある。
迅雷はその柵の前に立って、水面を渡る冬の風に面を吹かれていた。
――お誂え向きによく晴れたな。
迅雷はつと目を上げて、雲一つない青空を見た。風は冷たいが陽射しは熱い。寒いので厚着をしているが、日向にいると太陽の熱を少し疎ましく感じてしまう。
迅雷は落ち着かなげに腕時計を見た。まもなく正午だ。時間通りであれば、そろそろここに真玖郎がやってくる。
待ち合わせの場所について、迅雷は最初、真玖郎と最後に会った喫茶店を指定した。ところがホケキョが「浪漫がない」と云うわけのわからない文句をつけてきたので、翔子の提案でこの公園になったわけである。たしかにそれなりの広さの湖があるので、絵にはなるのかもしれない。
そんなことを考えながら、迅雷はまた腕時計を見た。だんだんそわつきだしている自分を自覚しているが、どうしようもない。
――くそっ、なんで俺はこんなに落ち着かないんだろう。
真玖郎と会う。ただそれだけのことだと云うのにこんなにも心がざわめくのは、やはりその正体を知ってしまったからだろう。
すなわち、真玖郎は女だった。だが本当にそうなのだろうか?
――だいたい真玖郎って云う名前で中学までカートやってたのに実は女でした、なんてことが現実的に考えてあるか? いや、ない。おかしい。無理がある。実はなにかの事情で女のふりをしているだけで、やっぱりあいつは男なんじゃないのか。
もちろん、オンライン・フォーミュラの通信画面越しに見た体つきは女のそれだったが、あれがなんらかのフェイクである可能性の方が、実は真玖郎が女だったという可能性より高い気がする。
――ああいう映像をごまかす技術とか、あるよな? あるある。
迅雷が、この土壇場でもはや現実逃避に等しい可能性を求め始めた、そのときであった。
「迅雷」
後ろからの呼びかけに、迅雷はまるで背中に銃でも突きつけられたように凍りついた。
振り返るのが、少し怖い。だが時間は待ってはくれぬ。湖面の水が波打っているのをちょっと見てから、迅雷は覚悟を決め、深く息を吸っておもむろに振り返った。
赤い髪を首筋まで伸ばした美少女がそこにいた。
身長は一六〇センチ程度で、顔は美しく鮮やかに彫刻されている。大きな緑の目はともすれば強く刺すような印象を与えがちだが、額の真ん中で分けた赤毛が目の横を流れているだけで印象が和らいでおり、したがって目つきは優婉であった。それが鮮やかな緑色のコートを羽織っている。コートの前は開けてあり、真冬の寒さゆえに多少着膨れてはいるが、それでも服の下から
そんな美少女が、じっと思い詰めたような、懐かしむような目で迅雷を見つめているのだ。
迅雷には、およそ花盛りの、十七歳の肉体を流れる彼女の血潮の熱さが、数メートルの距離を隔ててもなお感じられるようであった。
初対面であれば一目惚れしていてもおかしくない。
迅雷はそう思いつつ、
「し、真玖郎……か?」
「はい」
「はいじゃないだろ!」
――なんだその殊勝な返事は!
なにかが違う。もっと男同士の友達のように、気さくに肩をたたき合って「よう、久しぶり」などと軽い挨拶を交わしたかった。
それなのに、目の前の赤い髪の少女は、まるで生き別れの恋人にやっと巡り会ったような顔をしているのだ。
「ああ、うう……」
わかってはいた。覚悟もしていた。やはり真玖郎は女なのだ。
だが生まれ変わった真玖郎にこうして目の前に立たれてみると、真実がはっきり突きつけられただけに、却って足下の
「……まだ、信じられん。おまえが本当に女だったなんて」
迅雷が呻くように云うと、真玖郎はくすりと艶やかに
「だったら確かめさせてあげようか」
「なに?」
「君が納得するまで確かめていい。今日はそのつもりで来たし」
「え?」
話が見えずに小首を傾げてしまった迅雷に、真玖郎は笑いを含んだ声で云う。
「負けた方は勝った方の云うことをなんでも一つ聞く、だったろう?」
「ああ」
と、迅雷は眉を開いて頷いた。迅雷が勝てば真玖郎はF1ドライバーを目指し、真玖郎が勝てば迅雷のファンだという女の子とデートをする。その話を思い出したのだ。
「だがあれはもういい。ホケキョにも云ったけど、俺のライバルはナイト・ファルコンだから、もうおまえに無理やりF1ドライバーになれなんて云わないよ」
「うん、あのときのホケキョ姉さんとのやりとりは、私も聞いていたよ。でもそれならそれとして、私になにか別のことを要求すればいいじゃないか。そういう話だったんだから」
「いや、急に云われてもな……」
迅雷は筋が通っていることは認めつつも、真玖郎からは微妙に目を逸らした。どういう心理が働いたのかは迅雷自身もわからないのだが、真玖郎をまともに見られないのだ。真玖郎になにを求めるか云々より、こちらの方がより早く解決しなくてはならない問題だろう。
迅雷は真玖郎を見ながらにして見ず、ただ正直に自分の心を明かした。
「そもそも俺はどうすればいいだろう? というのは、つまり、俺はおまえにどんな風に接すればいいんだ?」
本当に迅雷はそれがわからなかった。小さいころから男だと思っていた相手が実は女だったと知ったとき、その人間と相対する上での前提がそっくりそのまますげ替えられてしまって、どう接すればいいのか。
その困惑や迷いを、真玖郎の言葉が鮮やかに断ち切った。
「女の子として接してほしい」
突き刺さるようなその言葉に、迅雷は息を凝らす。目を瞠る。そんな迅雷に真玖郎が一歩迫った。
「君のライバルは、ナイト・ファルコンなんだろう?」
「ああ」
「じゃあ、今目の前にいるこの私は、君にとってなんだい? もうすぐ真玖郎と云う名前を捨ててしまう私は?」
そんなことは決まっていた。
誰でもないし、なんでもない。強いて云うなら、かつての友が死んで生まれ変わってきたような存在だ。
迅雷は思わず天を仰ぎ、しかし答えは天になく、地上で迅雷自身が取り組まねばならぬことなのだ。
そう悟ると、迅雷は改めて真玖郎に眼差しを据え、覚悟を決めて云った。
「こうなったら、一から始めるしかないな」
「うん、私もそう思っていた。だから、君に女の子として見てほしいんだ」
このとき、迅雷は真玖郎とのあいだでなにかが繋がるような感じがした。つい先ほどまで真玖郎をまともに見られなかったのに、今度はその緑の瞳から目が離せない。
「迅雷」
その言葉とともに真玖郎が一歩、迅雷の方へ踏み込んできた。いよいよ迅雷も逃げられない。だが血路を切り開くためには必要なものがある。
「……名前」
迅雷が一言だけそう云うと、真玖郎はちょっとの間を置いてから反応した。
「え?」
「真玖郎って云うのはやっぱりどうしても『男』って感じがするからな。女の子として一から付き合いを仕切り直すってことなら、それ相応の名前がほしい。変えるんだろ? なんて名前にするつもりなんだ? 教えてくれよ」
すると真玖郎は恥ずかしそうに目を伏せ、数秒の沈黙を挟んで云った。
「……真玖」
「え?」
か細い声であったので、迅雷はそう訊き返していた。そこへ顔を上げた真玖郎が、今度は強い調子で云う。
「真玖郎の郎を取って、真玖だ」
「……しんく」
そう
「はっはっは。なんだ、大して変わらないじゃないか」
それには真玖郎も唇を尖らせる。
「笑うなよ。真剣に考えたんだ。叔母さんや、ホケキョ姉さんたちとも相談してさ。全然別の、もっと可愛い名前にする手もあったけど、やっぱり結局残すことにしたんだ。父がつけてくれた名前だから……複雑なんだよ。一言では云い表せないくらい」
そう話す真玖郎の顔を見て、迅雷も笑うのをやめた。一言では云い表せないというのは、きっとそうだろう。真玖郎の父親は彼女の人生を歪め、支配してきたわけだが、それでもたった一人の父親だったのだ。
そのことが真玖郎のなかでどう処理されているのかは、迅雷には窺い知れない。だが名前を変えるということは、その父親からの脱却を意味しているはずだ。まったく別の名前にしないあたり、完全な脱却ではないだろうが、それでもその名前を呼ぶだけで、彼女を父親の影の下から、女性として日の当たる場所へ連れ出してやることができる。
ただ、名前を呼ぶだけで。
「……真玖」
それは呼びかけというより独り言に近かった。この名前を目の前の女性に当てはめると、これと見込んだライバルの姿が本当に過去のものになっていく。そのことに一抹の寂しさを覚えながらも、迅雷は威儀を正して云った。
「じゃあ、これから真玖って呼ぶぞ?」
「……うん。呼んで」
その甘えるような、期待するような声は迅雷の胸の琴線に触れた。迅雷は急に彼女を喜ばせたくなって、先ほどのような独り言ではなく、彼女の名前を呼ぶつもりで三度云った。
「真玖」
「はい」
そう返事をした真玖郎は、いや真玖は、頬に薔薇色を散らして嬉しそうに、また恥ずかしそうに
この瞬間から、彼女の名前は迅雷のなかでも真玖になったのだ。迅雷は二人の関係が新しいものに変わっていくのを感じて、ただ寂しかった。だがこの寂しさも時間が押し流してくれるだろう。いきなりすべてが切り替わりはしないが、隼真玖郎はいずれ過去の幻になるはずだ。
だから迅雷は、今は真玖郎を悼むような気持ちでいつまでも感傷に浸っていたかったけれど、真玖の方は迅雷よりずっと切り替えが早かった。
「……ところで迅雷。TSRで私が勝っていたら、君のファンだった女の子がデートしてほしいって話なんだけどさ、その子が誰のことなのか、わかってる?」
迅雷はたちまち目を泳がせた。実のところ想像はついたが、それを知ることが恐ろしいような気もする。そこへ真玖は勇気の矢を放つように云った。
「それは私のことなんだ」
先手を取られて、すぱっと斬りつけられたような驚きが迅雷を襲った。迅雷はしばし沈黙し、思考停止から回復してもまだ黙って、十秒ほど経ってからやっと声を起こした。
「……俺、もう恋人がいるんだ」
「知ってる。先日のレース中に凄いこと云ってたもんね。同じチームの子たちをみんな籠絡したわけだ。もてるんだね、迅雷は」
真玖はそう云って、迅雷の左肩に右手を置いてきた。
「でもこの際、三人も四人も五人も一緒じゃないかな」
そうだろうか? いくら女側の同意があるとはいえ、際限なく数を増やしていけばさすがに破綻するのではないか。
そう未来を危ぶむ迅雷に、真玖がさらに云う。
「私……私は迅雷のことが好きだ。だから、私を君の手で女の子にしてほしい」
迅雷は一瞬、湖の方を振り返って思い切り叫んでやろうかと思った。だが理性の手綱でどうにかそれを
「おまえは、もうとっくに女の子だろう?」
「いや、違う。スカートを穿いても、名前を変えても、まだ足りないんだ。最後の一手がほしいんだ。それが君なんだよ、迅雷。君じゃなきゃ駄目だ」
そのとき迅雷は、自分の肩に置かれた真玖の手が震えているのに気づいた。真玖が迅雷を必死の目で見上げてくる。
「それとも私じゃ駄目かな?」
「……いや、そんなことはない」
迅雷はそう云うと、右手を自分の左肩にやって、そこにある真玖の手に手を重ねた。
「俺は嬉しい。でも、おまえは本当にそれでいいのか? 四人目だぞ?」
「君がいいなら構わない」
「そう、か……」
厳密にはこの場合、つばさたちにも許可を求めるのが筋ではあったろうが、恐らく駄目とは云わないだろう。もしあとで文句を云われたとしても、どうとでも説き伏せてやると思って、迅雷は腹を括った。
「じゃあ、そうするか」
その言葉に、真玖は心底安心したように
「よかった」
――そんなに嬉しいのかよ。
四人目の恋人の座をそれほどありがたがられると、少し悪い気もしてくる。だが今さら誰にどう倫理や道徳を説かれようと、つばさたちを手放す気はない。そして今、そこにもう一人加わろうとしているのだ。
迅雷は真玖の唇を見た。唇を見て、そこに吸い込まれそうになった。女扱いしてほしいと云うのなら、この際奪ってしまおうかと云う衝動に駆られた、そのときだ。
「はい、そこまでよ!」
清冽な声がし、はっと我に返った迅雷は声のした方を見た。今までどこに隠れていたのか、みどりの黒髪を長く伸ばした美少女が満面に朱を注いでこちらにのしのしと向かってくるではないか。その顔には見覚えがある。
「おまえは、ホー・ホケキョ!」
「韋駄あゆみです、あゆみ! 韋駄天の韋駄にひらがな三つであ、ゆ、み! そう名乗ったでしょう!」
それが先日、ことりが訊いてホケキョが答えてくれた、ホー・ホケキョの本名であった。
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