第七話 運命の二人(3)

 そのホケキョことあゆみが、びっくりしている真玖を迅雷から引きはがすと背中に庇うように立ち、迅雷を挑みかかるような目で睨んでくる。

 一方、迅雷はのんびりとしたものだ。

「いたのか、おまえ」

「いたわよ。真玖郎ちゃん……いえ、真玖ちゃんと一緒に来るって云ったでしょ?」

「でも今までどこに?」

「木の陰に隠れて様子を窺ってたの。そうしたらなんか、なんか……もおおおっ!」

 あゆみが地団駄を踏み始める。そこへさらなる闖入者の声がした。

「ホケキョ姉さん、邪魔しては駄目だ」

 低い落ち着きのある声に顔を振り向ければ、黒髪を髷にした長身の美少女がこちらへ蓮歩を運んでくるところだった。

 その女侍のような美少女のあとに、ふわふわの茶髪をした小柄な美少女が、頭の後ろで手を組みながら歩いてくる。

 云わずもがな、氷車千早と猿飛めぐるだ。

「おう、お揃いで。ま、ホケキョがいるならおまえたちもいるよな」

 そうのどかに呟く迅雷を尻目に、あゆみは千早を忌々しげに見て云った。

「だって今こいつ、真玖ちゃんにキスしようとしてたわよ!」

「えっ?」

 と、真玖は目を丸くして迅雷を見てきた。迅雷はその真玖から微妙に目を逸らしながら、あゆみの洞察力に舌を巻いていた。

 ――なぜわかるんだ? エスパーか?

 そこへあゆみが迅雷に視線を返し、指を突きつけながら勢いよく云う。

「だいたい人が黙って話を聞いていたら、なに、あなた? 四人目ってなに? 恋人が四人? そんなのが通ると本気で思ってるの? 馬っ鹿じゃないの!」

「まあまあ落ち着いて」

 憤激に駆られているあゆみを、千早がそう宥めている。それをめぐるがどうでもよさそうに眺めていた。

 迅雷は頭に血が上っているあゆみの相手をするのが厭で、ひとまず話を別のところへ持っていこうと考え、千早を見て笑いかけた。

「全員で来たんだな」

「うむ、真玖ちゃんを見守ろうと思ってな。それにこういう機会でもないと、なかなか東京まで来ることはないし」

「だね。私は中学のときの修学旅行以来、二度目のお江戸だよ」

 と、千早の尾についてめぐるが云った。

 ――へえ、名古屋の中学って東京が修学旅行先になるのか。

 迅雷はそんな益体もないことを考えつつ、千早からめぐるに視線を移した。首の角度が自覚できるほど下がって、迅雷は軽く驚いた。

「……一四〇センチくらいか? 想像以上にちっちゃいな」

「ああん? てめえが無駄にでかすぎるんだよ! リアルレーサーのくせにその身長はどういうことだ!」

 めぐるは地を蹴ると、いきなり迅雷に体当たりを仕掛けてきた。だが体重差があるから迅雷はぶつかられても小揺るぎもせず、めぐるの小さな肩を両手で押さえ込んで捕まえた。

「落ち着け、野生動物かおまえは?」

「離せ馬鹿!」

 めぐるがそう云うので離してやると、めぐるは迅雷の向こう脛を蹴っ飛ばしにかかった。しかし迅雷もさるもの、それくらいのことはやるだろうと予想していたので、軽く後ろへステップを踏んで躱す。

 蹴りを空振りさせためぐるがバランスを崩したところを、迅雷はそっと横から手を伸ばして、肩のあたりを支えてやった。

「落ち着いたか?」

「う……」

 一本取られたと思ったのか、めぐるはそこでやっと止まった。

 このようなじゃれ合いの傍らで、あゆみが真玖の両肩を掴んでその顔を真正面から覗き込んでいる。

「真玖ちゃん」

「はい」

「いい? 百歩譲って……いえ、一万歩譲ってあなたがこの男を選ぶのだとしても、その場合は、この男もあなたを選ばなくてはいけません。あなた一人を。三人も四人も五人も一緒とか、そういうことはありえません」

「どうしてですか?」

「どうしてって……それが常識と云うものでしょう!」

 すると真玖は迅雷をちょっと見て、それからあゆみに目を戻すとすまなそうに云った。

「実のところ、私はあまりそうは思いません」

 あゆみはちょっと怯んだように仰のいたが、めげずに云い募る。

「将来、ちゃんとした結婚をしたいと思わないの?」

「迅雷じゃない人と結婚するより迅雷の四号になった方がいいんですけど」

「くあっ!」

 あゆみは勢いよく天を仰ぐと、そのまま立ちくらみでも起こしたかのようによろめいた。それを千早が傍からしっかりと支えて云う。

「ほら、ホケキョ姉さん。気を確かに持って」

「うう……私の気は確かよ。確かじゃないのは真玖ちゃんの方……」

 愛する者が自分の望まぬ世界へ踏み出そうとしている。しかもそれを止められない。そんな親心のようなものが、その表情に溢れているのを迅雷は見た。

 そのとき、めぐるが迅雷の手を払ってあゆみの方へ向き直りながら云う。

「無駄だよ、ホケキョ姉さん。真玖ちゃんは恋愛に脳をやられて頭がおかしくなってるんだ。恋愛脳ってやつだよ。この病気に罹るともうまともな判断ができないんだ」

 それにはさすがの真玖も眉宇をひそめた。

「ひどいこと云うな、めぐるは」

「だって本当のことじゃん」

 めぐるがそう唇を尖らせたところで、あゆみが改めて真玖に眼差しを据えた。

「真玖ちゃん、どうしても?」

「どうしてもですよ。逆に訊きますけど、ホケキョ姉さんは好きでもない人と結婚するのと、好きな人と結婚しないままその恋人になるのと、どっちが幸せだと思いますか?」

 それにはあゆみも固まってしまった。

「う……それは……」

 彼女はそれきり沈黙し、答えられない。迅雷たち四人の視線があゆみに突き刺さり、あゆみは血路を切り開くように破れかぶれで云った。

「それは、どちらも幸せではない、よ!」

 それには真玖も意表を突かれたらしく、感心したような顔をする。

「そうかもしれませんね。でも、どうせ幸せになれないなら――」

 真玖はそこで言葉を切ると、迅雷のところまで歩いてきてその隣に立ち、迅雷の腕と自分の腕を絡ませてあゆみに見せつけるようにした。

「私は迅雷に寄り添って生きていきたいです」

 そのときあゆみは口から魂が抜けていくようにぽかんと口を開けたあと、いきなりがっくりとその場に両膝をついた。

「ああ……」

 と、慌てて千早が支えにかかる。

 一方、迅雷は真玖を見て憮然と云った。

「おい、幸せになれないなんて云うなよ」

「そう?」

「そうだ。俺はなにもおまえを不幸にしようなんて思ってない。みんなで上手くやっていけると思ってるんだよ」

「……私は、隅っこの方に置いてもらえればそれでいいかなと思っていたんだけど」

 そう低声こごえで呟いた真玖は、そこで迅雷を見て笑った。

「なら、さしあたっては、ダークネス・プリンセスたちと友達にならないといけないね」

「つばさたちと?」

「そうだよ。一夫多妻は今さらだし、迅雷が強く云えば私の存在を認めてもらうことはできるだろうけど、私たちが仲良くなれるかどうかはまた別の問題だろう? もしかしたら合わないかもしれない。だから私はたまに迅雷が私のところへ通ってくれればそれでいいかなと思っていたんだけど、みんなで上手くやっていくってことなら、迅雷を抜きにしてまず私たちが仲良くならないといけない。もし仲良くなれなかったら、やっぱりお互い見て見ぬふりをした方がいいね」

「そ、そういうもの……か?」

 迅雷は片手で口元を覆った。つばさ、ことり、翔子の三人はもともと仲がいいからあまり深く考えていなかったが、たしかに三人の輪のなかに真玖が入っていくとなると、これはどうなるか判らない。

「上手くいくと信じたいが……」

 迅雷がそう呟いたとき、気を取り直したらしいあゆみが千早の手を払いのけながら迅雷に云った。

「ふん、無理ね」

 その言葉に、迅雷はたちまち顔をしかめた。

「おい、厭なこと云うなよ」

「だって女の子って、ちょっとしたことで傷ついたり臍をげたり勘ぐったりするんだから。本当に全員平等に扱える? 誰か一人特別扱いしようものなら破綻するわよ? あとあなたってどう見てもまめにメールの返信とかするタイプじゃないわよね? 放置が一番駄目よ? わかってる?」

 そう立て続けに問いながらあゆみが迅雷に迫ってきた。迅雷は軽く身構えたが一歩も後ろへは退かない。

「アドバイスありがとう。善処するよ」

「そうあってほしいわね、あなたが失敗したら真玖ちゃんが不幸になるんだから、たまらないわ。あと云っておくけど――」

 ついに迅雷のすぐ目の前に立ったあゆみが、迅雷の胸に指を突きつける。

「認めてないから!」

 それには迅雷もあゆみを一蹴してやろうと思った。

「おまえに認められようと認められまいと知ったことか。これは俺と真玖のこと、そしてつばさたちとのことなんだから、外野は引っ込んでいてくれよ」

「外野じゃないわ。だって、こうして関わりを持ってしまったんだもの」

「だからって、おまえにそこまで指図する権利があるのか?」

「もちろんあります!」

「どういう根拠で?」

「それは……」

 と、そこで言葉が宙に浮いてしまったのは、実のところそんな権利はないからだ。

 しかしそれでもあゆみは、権利はあると啖呵を切って、迅雷相手に一歩も譲らぬ気構えである。

 迅雷はそんなあゆみを徹底的にやり込めてやろうかとも思ったが、あゆみはあゆみなりに真玖のことを案じているのだから、論破するよりは和解したかった。だが迅雷にはそのための妙案がない。

 ――さて困ったぞ。どうするよ?

 迅雷が途方に暮れかけた、そのときであった。

「ほんならウチがいい提案をしてあげる」

 その声に驚いて振り返ると、なんとしたことか、いつの間にか新たに四人の人物がそこに立っていた。厳密には、そのうちの一人は車椅子に座っている。

 つまり、つばさ、ことり、翔子、そしてジェニファーだ。

「なんで、おまえらが……」

「迅雷君が隼真玖郎といつどこで会うかはウチらも知ってるわけやし、こんな面白いイベント見逃す手はないと思ってな」

 翔子がにんまり笑ってそう話しながら近づいてきた。

 迅雷としては、驚くやら呆れるやらだ。

「そ、そのためにわざわざ大阪から来たのか」

「うん」

 いい笑顔でそう頷いた翔子に迅雷は微苦笑し、それから車椅子のつばさと、そのハンドルを持っていることりに視線をあてた。

「おまえらまで……」

「えへへ、来ちゃいました」

 そう笑うことりは、本気で叱られるとは思っていない様子である。もちろん迅雷だって怒ってはいない。ただ、やれやれ困ったものだ、くらいのものだった。

 と、そのとき迅雷の横を小柄な影が駆け抜けていった。めぐるだ。彼女は喜色を満面に湛えてことりに飛びついた。

「うおおっ、ことりちゃんだ! リアルで見ると三割り増しで可愛い!」

 あまりのことにことりは咄嗟に声もなく、ただジェニファーが「あらあら」と云いながら、ことりからめぐるを引き離しにかかった。そこへ千早も加わって、めぐるを後ろから羽交い締めにしている。

 車椅子の後ろで起こっているそれらを迷惑そうに見ていたつばさは、迅雷に目を戻すと小さな咳払いを一つして云った。

「物見高い気持ちもなくはありませんでしたが、実際のところ、隼真玖郎さんとはちょっと話をする必要があると思ったんですよ。色々と」

「色々って云うと……」

「云わなくてもわかりますよね?」

「はい」

 迅雷が思わずそう殊勝な返事をすると、つばさはなにも云わずにただにっこり笑った。

「――それで」

 冷ややかな声が迅雷たちのあいだに切り込んできたのはそのときだ。声の主はあゆみであり、彼女は翔子を見据えていた。

「翔子さん……いい提案とは、どういうことかしら?」

「ああ、それなんやけどな」

 翔子は笑いながらあゆみに近づくと、まるで挨拶でもするような気軽な口調でこう訊ねた。

「ホケキョさん……韋駄さんって、今誰か好きなひととか、付きうてる彼氏とかいんの?」

「は? どうしてそんなことを?」

「ええから答えてよ」

 翔子がそう云うと、あゆみは不審そうに眉をひそめながらもこう云った。

「……これといって特にいないわ。ウチは女子高だし」

「ふうん、ならええな。韋駄さんもウチらの仲間になりなさい」

 一瞬、翔子以外の全員の時間が止まった。翔子がなにを持ちかけたのか、迅雷が理解できたときには、あゆみが顔を真っにしながら震える声を起こしている。

「それはまさか、私に五人目になれと云っているのではないでしょうね?」

「そのまさかや」

 その言葉に、あゆみが翔子に食ってかかった。

「はああ? 冗談じゃないわよ! どうして私がこんな男の愛人に!」

 ――愛人て。

 迅雷は思わず訂正を求めたくなったが、まあ結局のところ自分はつばさたちを愛人にしようとしているのである。取り繕っても仕方がないのだと思い直して成り行きを見守ることにした。見守ると云っても、さすがにあゆみは承服しないであろうから、翔子がこれ以上彼女を怒らせないことを祈るばかりだ。

 しかしこのとき、翔子は切り札を見せるように云った。

「でもそうなると他人やないし、色々と口出す権利も生まれると思うよ?」

 それであゆみのなかの炎が、一気に鎮火してしまったようだった。

 翔子は迅雷を見ながら、瞳を抜かれたような面持ちのあゆみに顔を寄せて云う。

「それにな、一夫多妻はええとして、誰が正妻ポジションに落ち着くかはまだ決まってへんねん。韋駄さんがそのポジションを奪えたら、口出す権利どころか色々仕切れるよ」

 するとあゆみは迅雷をじっと見てきた。それまで怒りで曇っていた目が、初めて真実に光り輝いて、迅雷という男を改めて評価しようとしている眼差しである。

 やがてあゆみは翔子に云った。

「……一考の余地はあるわね」

 ――おいおいおい、マジかよこいつ。真玖のためにそこまでやるのか。

 本決まりではないにしろ、一考に値するというだけで迅雷はなんとなくあゆみに見られているのが苦痛になってきた。

 つばさやことりは可愛いが、なにが可愛いと云って彼女たちが迅雷を愛しているのが可愛いのだ。好いてくれれば、こちらも好きになる。好意には好意で報いたくなる。しかるにあゆみの場合は内心迅雷に敵意を持ちつつ、真玖のために迅雷たちの輪のなかに入り込もうと云うのだ。

 このとき、迅雷は素早く決断を下していた。

「……今のままなら、俺は厭だね」

「え?」

 あゆみが、信じられないといった顔をする。が、迅雷は構わない。

「俺のことを好きだと云うならいざ知らず、別の理由で入ってくるなら、俺は断る。そんなのは獅子身中の虫っていうのかな? とにかく息が詰まりそうだ」

「わ、私が獅子身中の虫! 疾風迅雷、あなた――」

 たちまち気色ばむあゆみの方へ、迅雷は自分でも正体不明の威勢に突き動かされて近づいていった。

「それに正妻がどうのこうのってのも間違いだ。俺は特定の誰かと結婚するつもりなんてこれっぽっちもない。戸籍上はずっと独身! たぶんその方が上手くいく……ような気がする」

 これには翔子も吐胸を衝かれたようだった。

「迅雷君……」

「だってそうだろう? 誰かと結婚するってことは、誰かと結婚しないってことだ。選ばれなかった方は厭な思いをするじゃないか。だから翔子。本気でホケキョを引き込むつもりなら、口を出す権利がどうのこうのじゃなくて、俺の格好いいところでも教えてやってくれよ」

 迅雷はそれだけ云うと、あゆみのすぐ前に立った。あゆみがちょっと呑まれたように仰のき、しかしそこで迅雷を悔しげに睨みつけてくる。

「な、なによ……」

「おまえ綺麗な顔をしてるけど、それだけじゃ可愛いってことにはならないんだぜ」

「なんですって?」

「俺たちのことに口出す権利が欲しかったら、俺に可愛いと思わせてみな。話はそれからだ」

「こ、この――!」

 怒りに目が眩んだのか、あゆみは右手を振り上げた。その手首を、迅雷が機先を制して左手で掴む。

「不正解だ」

「くっ……」

 少しばかり怯んだ様子のあゆみに、迅雷は笑いを含んだ声で云う。

「俺のこと好きになってくれたら、俺はおまえのこと可愛いって思うだろうな」

「冗談じゃないわ!」

 あゆみが迅雷から離れようとするので、もうぶたれることはあるまいと思い、迅雷は手を離してやった。

 あゆみはちょっとたたらを踏みながらも体勢を立て直すと、自由になったばかりの手で大見得を切りながら迅雷に叫んでくる。

「なにが『俺のこと好きになってくれたら』よ! 偉そうに、人のこと虫だの可愛くないだの好き勝手云ってくれちゃって! もう信じられない! 誰があなたなんて好きになるもんですか! もう一生、大嫌いよ!」

 それには迅雷も傷ついたが、あゆみはなおも容赦なく言葉の矢を射掛けてくる。

「宣言するわ! 今後一切なにがあろうと、私はあなたを好きになんてならない! もし好きになったらなんでも云うこと聞いてあげる! つまりそれくらい絶対ありえないってこと! わかった?」

「……わかったよ」

 迅雷はがっかりしたが、それをおくびにも出さず、強がって云う。

「それでいいけど、俺と真玖の邪魔はするな。名古屋に帰ったあと、俺のいないところで真玖に色々と吹き込んだり迫ったりするのは本当にやめてくれ。アドレスを渡すから、この件で文句があるなら俺に直接云ってこいよ。時間の許す限り付き合うからさ」

 あゆみは即答しなかった。唇を噛みながら迅雷を睨んでいるところを見ると、迅雷が去ったあと、改めて腰を据えて真玖にあれこれ諭そうと考えていたのだろう。

 やがてあゆみが恨みがましく云う。

「私はねえ、あなたが真玖ちゃんに誠実であろうとするなら、内心忌々しくても、別に反対なんかしないのよ? 真玖ちゃんがあなたのこと好きなのはわかってるし。ところがあなたと来たら、四股? 五股? もう!」

 あゆみは迅雷の腹に拳を押し当て、痛くするようにぐりぐりと動かしたあとで、その手を下ろし、ため息をついた。

「……でも、云っても無駄なんでしょうね。わかったわよ。私も真玖ちゃんにうるさがられて嫌われたくないし、ひとまず認めてあげる」

「おお」

 迅雷はぱっと顔を輝かした。ようやくわかってくれた、いや、少なくとも譲歩の姿勢は見せてくれた。

「ただし」

 と、あゆみは迅雷を一睨みし、自分のことを迅雷の胸に刻んでおこうとばかりに付け加えて云う。

「あなたたちのこと見守らせてもらうから。見守るだけじゃなく状況に応じて口も出すから。わかった?」

「お、おう。いつでも来いよ」

 迅雷は面倒とは思わなかった。考えようによっては、いい相談役を得たとも云える。男の自分では色々と気がつかないこともあるだろうし、あゆみの助言を貰えるならそれはそれでありがたい。

「じゃあ、アドレス交換するか」

 迅雷がそう云って携帯デバイスを出すと、あゆみもまた仕方のなさそうに自分の携帯デバイスを出し、二人はアドレスを交換した。

 この出来事が巡り巡ってあゆみの運命を迅雷の方へ引き寄せてしまうことを、今はまだ誰も知る由もない。

「さて」

 携帯デバイスを懐にしまった迅雷は、つばさたちを振り返った。そこでは真玖やつばさ、ことり、それに千早やめぐるまでもが輪になってお互いのアドレスを交換していたりする。翔子がつばさに笑って尋ねた。

「それでどう? こうして隼真玖郎と会ってみての第一印象は?」

「うーん……」

 つばさが真玖に視線をあてる。真玖はちょっと背筋を伸ばして胸を張った。

「冷静に考えてみれば、OFのワールドグランプリで入賞したすごい人だし、こうして知遇を得ることができたのは幸運かもしれない。ことりはどうだ?」

「……えっと、まだわからない」

 ことりはつばさの後ろに隠れるようにして、真玖をじっと見ている。迅雷がなんとなくどきどきしていると、真玖が咳払いを一つして云った。

「そういえばずっと迅雷をあいだに挟んでいたからこうして直接やりとりするのは初めてなのかな。まあ、なんていうか、今後ともどうぞよろしく」

 そう云って一礼した真玖は、頭を上げるとまなじりを決していた。

「私たちの関係を考えると、お互いをいないもののように扱うか、それとも家族になってしまうか、どちらかしかないと思う」

「家族……」

 と、そう呟いたことりににこりと微笑みかけて真玖は云った。

「そう、家族だ。普通の男女が出会って結婚して家族になるように、私たちも姉妹となって、迅雷のいないところで迅雷のことをあれこれ話せるくらい仲良くなれたら……きっと楽しいだろうな」

「えっ」

 思わずそう声をあげていたのは迅雷だった。自分の知らないところで女たちに自分のことをあれこれ云われるのが、どうにも陰口のように感じられたのである。

 しかしつばさたちはそれぞれ微笑んで頷いていた。同意のしるしであることはあきらかだった。そんな女たちの反応に呆気にとられた迅雷に、このとき翔子がするすると近づいてきて云う。

「迅雷くんのかっこいいところとか、迅雷君がなにしてたとか、なにをしてもらったとか、さっちゃんたちとそういうの話すのは楽しいもんよ」

「そう、なのか? 本当に? 愚痴とか陰口とかじゃなくて?」

「うーん、迅雷君の振る舞い次第ではそういうこともあるかもわからんな。でもそんな風にはなりたくないし、せやからウチらにそんなこと云わせんようなイケメンでいて」

 翔子がそう云って迅雷の背中を、手のひらで力強く叩いてくる。迅雷が小さな咳をしたところで、さらにことりがほんのりと頬を染めて云った。

「迅雷さんのことについてなんでも自由に話せたら、それって本当に家族みたい」

 ――そういうものか。

 それには迅雷も蒙を啓かれたような気がしていた。つばさとことりは元より家族だが、その家族の輪を拡げて、翔子や真玖を取り込んでしまおうというのだ。そういうことができなければ、女同士の関係は冷たく荒んだものになる。それは迅雷としても望むところではない。

 では彼女たち全員が家族になるために、迅雷はどうすればいいだろう。それとも、なにもせず傍観に徹していた方がいいのだろうか。

 にわかに思い悩み始めた迅雷に、このとき翔子が傍から云った。

「とりあえず迅雷君はどんと構えててよ? ウチらの基盤がぐらぐらしてたら叶わんからな。ウチらの顔色なんか窺わなくていいんやで? 女同士のことはこっちでやるから」

「……了解だ」

 そうは云ってもいざ爆弾が爆発しそうになれば処理に向かわねばならないだろうと思いつつ、迅雷は見守る構えであった。

 迅雷の視線の先では、ジェニファーが首を傾げながら真玖に尋ねていた。

「それで真玖郎ちゃん……いえ、真玖ちゃんって呼べばいいかしら? 私たち、どうやったら仲良くなれると思う?」

「レースですね」

 その閃光のような答えに、つばさの目がきらめいた。迅雷もまた口笛を吹きたいくらいだった。

 真玖は鋭い笑みを浮かべてつばさに眼差しを据える。

「セッションを、組もうか。ジェニファーさんが実況で、私たち四人で」

「いいですね。さすがはナイト・ファルコン。よく心得ている」

 おもえば彼女たちは全員バーチャルレーサーだ。なにはともあれ、ひとまず走ってみるのが仲良くなるための第一歩であるのに間違いはないであろう。

 そしてさらには、ジェニファーが笑いを含んだ声で云う。

「そういうことなら、私もバーチャルレーサーとして参加しようかしら」

 それには全員が目を丸くし、つばさが大きな声をあげた。

「えええっ! ジェニファーさん、乗れるんですか? 初耳ですよ?」

「云ってなかったかしら? リアルでも運転するし、バーチャルライセンスだって持ってるわよ。当たり前じゃない。ちなみに結構速い方なんだから」

 そう自慢気に微笑むジェニファーを見て、しばらく誰も声もなかった。考えてみれば乗れても不思議はないのだが、実況レディの印象が強すぎて彼女自身がレースに参加してくることは想像しなかったのだ。

 ジェニファーは輝く笑顔を振りまいて、少し離れたところで成り行きを窺っているあゆみたち三人にも声をかけた。

「ついでだから、あなたたちもやる?」

 すると三人を代表してあゆみが遠慮がちに口を開いた。

「私たちも参加していいの?」

「女の子同士の親睦会みたいなものだし、いいんじゃない? あ、ちなみに迅雷君は参加不可ね?」

「……わかってますよ」

 ジェニファーの云った通り、今度のレースは女同士の親睦会のようなものだ。迅雷がしゃしゃり出ては色々と台無しになってしまう。

「観戦させてもらいます」

 迅雷は笑ってそう云った。

 そのあと、詳しい話は昼飯を食べながらということになり、迅雷たちは連れ立って近くの料理店へ向かうのであった。


 昼食を経てその料理店から出てきたところで、真玖が云った。

「このあと迅雷を貸してもらいたいんだけど、いいかな?」

 迅雷は思わずつばさと顔を見合わせた。ややあってから、つばさが真玖を見て云う。

「と云いますと……」

「うん。つまり、その、久しぶりに会ったので、ちょっと二人きりで色々……」

 どうにも歯切れの悪い返事であったが、迅雷としては別に否やもない。

「そうだな。今日は真玖の日ということにするか」

「そうですね」

 と、つばさもまたすんなり了承してくれた。

「たしかに久しぶりで積もる話もあるでしょうし、私たちがいたらというのもあるでしょう。それに真玖の日ということは、私たちの日も作ってくれるんでしょう?」

 つばさが唇を薄くのばしてわらう。迅雷は一も二もなく頷いていた。

「もちろん」

結構よろしい。それならどうぞ行ってらっしゃい、お兄さん」

 そう云ってつばさは迅雷たちを送り出してくれようとし、ことりや翔子も特にはなにも云わなかったのだけれど――。

「駄目よ!」

 そう声を発した人物を見て、迅雷はため息をつきたくなった。

「またおまえか、ホケキョ」

「二人きりなんて絶対駄目! なにをされるか、わかったものじゃないわ」

「……あのなあ」

 あゆみの自分を見る目がけだものを見る目に思えて、迅雷は辟易していた。今のところ自分はまだ、三人の恋人に対して慎み深いものである。翔子は大阪にいるし、つばさたちはまだ中学生だし、迅雷も近々渡欧するので、恋人と云ってもまだそんなに大したことはしていない。せいぜいが手を繋いだり腕を組んだりハグしたりといった、スキンシップが増えたくらいである。

 むしろまだ正式には恋人になっていないはずのジェニファーとが、一番進んでいた。迅雷はあの日の口づけのことを思い出し、ちょっと頬を赧くする。

 それをあゆみが見咎めた。

「ほら! なんか悪いことを考えている顔よ、真玖ちゃん!」

「……はあ」

 迅雷はこらえていたため息をつくと、あゆみに眼差しを据えた。

「なにを云っても無駄なんだろうな」

「無駄ね」

「よし、わかった。じゃあ強行突破だ!」

「え?」

 いきなりのことに、あゆみが目を丸くする。そのときには、迅雷はもう身を翻して真玖の手を取っていた。男にそれに比べれば、やはり小さい手だった。その手をぐいと引っ張って、迅雷はあゆみから距離を取ると翔子に笑いかけた。

「翔子、足止めよろしく」

「ああ、うん、オーケ。埋め合わせは今度ね」

「は、はあ? ちょっと待ちなさい!」

 だが迅雷の方が早手回しで、あゆみは状況の変化への対応が遅れた。それと気づいたときには、もう翔子に腕を掴まれている。

「離して!」

「離さへん」

 そうやって綱引きのようなことを始めた二人を尻目に、迅雷はつばさたちの方へ顔を向けた。

「じゃあつばさ、ことり、ジェニファーさん。悪いけど今日は……」

「はい、行ってください。私たちは私たちで――」

 そこで言葉を切ったつばさは、翔子ともみ合っているあゆみを見ながら云う。

「――あの人をなんとかしておきましょう」

「そうか? そうだな……慰めてやってくれ」

 あゆみの気持ちだって、別に解らないわけではないのだ。彼女が迅雷と真玖の交際に反対するのも一理ある。周りがみんな敵になっては辛いだろう。

 迅雷の言葉に、つばさがひとつ頷いた。

 そして真玖は、状況の変転に一瞬ぽかんとしていたのが、迅雷と目を合わせるや顔を輝かせ、迅雷の手をぎゅっと握り返してくる。その手の強さに迅雷もまたわらった。

「行くぞ」

「……うん!」

 そして二人は走り出し――。

「あっ、こら、待ちなさいってば!」

 あゆみは追いかけようとしたが翔子に腕を掴まれていてどうしようもなく、縋るような視線をめぐるたちに向けた。

「めぐる! 千早! 捕まえて!」

「やだ、めんどくさい」

「私は別にあの二人のことについて反対ではない」

 めぐると千早にそうにべもなく断られ、あゆみが鼻白んだときには、迅雷はもう真玖の手を引いて人混みのなかに紛れていた。

 どこへ行ってなにをするのか、決めているわけではないけれど、ただなんとなく、真玖と二人でロケットのように飛び出していきたかった。飛び出すという行為自体が、今はとても楽しかったのだ。


        ◇


 迅雷と真玖の姿が雑踏に紛れて見えなくなると、あゆみはぐったりと脱力しながら忌々しそうに翔子を見た。

「もういいでしょう、離して」

「うん」

 翔子は存外素直にあゆみの腕を解放してくれた。自由になったあゆみはため息をつくと、真玖たちの走り去っていった方を名残惜しげに見つめて云う。

「ああ、行っちゃった……」

 結局、真玖はあゆみの云うことなど聞き入れてはくれなかった。

「怒ってる?」

 そう尋ねながら翔子があゆみの顔を覗き込んでくる。あゆみは翔子の顔を見て、ふっと微笑してかぶりを振った。

「いいえ。いざ飛び出して行かれてみると、悔しさも腹立たしさもないわ。ただ行く末が心配なだけ。真玖ちゃん、幸せになれるかしら」

 そう云って盛大なため息をついたあゆみの肩を、このとき翔子が軽く叩いて励ますように云った。

「一緒に見守らない?」

 その意味をすぐに理解したあゆみは、翔子を軽く睨み、口吻を尖らせて云う。

「真玖ちゃんを見守るのに、あの男の愛人になる必要はありません。私はあなたたちとは違うの。疾風迅雷のことなんか、これっぽっちも好きじゃないんだからね。だから変な宗教に勧誘するみたいなことはやめてくれる?」

「あっそう。それならウチらはウチらでぶらぶらしようか。今日は韋駄さんに迅雷君のええところいっぱいお話ししたるわ」

 ――帰りたい。

 あゆみは心底そう思ったが、翔子はすでにあゆみに背を向け、つばさや千早たちを呼び寄せてこれからどこへ行きたいか意見を募っている。千早やめぐるは乗り気なようだし、自分も付き合うよりほかにはなさそうだ。

 あゆみは嘆息すると、懐から携帯デバイスを取り出した。今さら戻ってこいと云うつもりはなかったが、何時頃に合流するのか、真玖に確認しておこうと思ったのだ。


        ◇


 走って走って、真玖の息が切れ始めたころ、迅雷はやっと速度を緩めて真玖を振り返った。

「もうバテたのか?」

「……やっぱり、体力では叶わないな」

「そうは云うけど、ここまで結構な距離を結構な速度で走ってきたじゃないか」

 迅雷はそう云いながら手を離そうとしたけれど、真玖の方が離してくれなかった。迅雷は一瞬戸惑ったが、すぐに自分からも改めて手を握る。そして人の流れに従って歩き始めると、迅雷はぽつりと訊ねた。

「どこか行きたいところとかあるか?」

「どこへでも。私は迅雷と一緒にいるだけでいい。でも夜になったら……」

 そこで真玖の声が途絶えてしまい、迅雷はいぶかしみながら真玖の顔を横から覗き込んだ。

「どうした?」

 すると真玖はなぜだか顔を赧く染め、深呼吸を一つして、決死の覚悟で挑むように云った。

「夜になったら、私たちのほかに誰もいないところへ行きたい」

 迅雷は特に返事をせず、顔を前に戻すと、真玖と手を繋いだまま前を向いて歩き続けた。それからややあって、真玖の方を勢いよく見る。

「え? どういう意味?」

「……だって、迅雷は、本当に私が女だってことを受け容れられているかい?」

「それは……」

 迅雷のなかでは、真玖はずっと隼真玖郎だったのだ。そのことに想いを致すと、ふっと夢が醒めそうになる。なぜ真玖郎と恋人のように手を繋いでいるのだ、こいつは真玖郎ではないか、と思い出してしまいそうになる。

 迅雷の心のどこかに、隼真玖郎という少年の幻がまだ残っていることは否めない。女の子なのだと頭ではわかっていても、男同士で恋人になってしまったような気さえしてしまう。

 と、真玖が迅雷の手をより強く握ってきた。

「実を云うと、私もそうなんだ。女の子として振る舞い始めてもうずいぶん経つけど、心のどこかに少年の自分がいる。少年の自分がいて、どうしてスカートなんか穿いてるんだってわらってる。そんな気がする。だから、今日は決めてきた」

 そこで真玖は立ち止まった。手を繋いでいた迅雷も、自然と足を止めることになる。真玖は迅雷を見上げて、挑みかかるような目をして云う。

「迅雷に、全部見てもらう」

「全部って……」

 彼女がなにを云わんとしているのか理解すると、なぜか膝にふるえが来た。そして真玖もまた迅雷と同じようにふるえていたのだが、彼女は迅雷から目を逸らさない。

「私がちゃんと女の子だって、確認してほしい。そして私に、確認させてほしい」

 ここまで云われれば、真玖が微妙に迂路を巡って直接は云わないことでも、迅雷は理解できた。間違いなく伝わった。

 だからこそ、心臓が跳ね上がって、どんどん鼓動が強さを増していく。

 ――やばい、どうしよう。

 レース中にコーナーを攻略しているときでさえ、こんなに鼓動が強く鳴ったことはない。率直に云うと倒れそうなくらいだった。

 だが真玖はもうなにも云わない。迅雷の答えを待っている。なにか云わねばならぬ。そして迅雷が追い詰められて、もう自分でもなにを云うかわからなくなったその一瞬、いきなり真玖の懐でバイブレーションの音がした。マナーモードにしてある携帯デバイスだ。

 真玖も迅雷も一瞬で我に返り、真玖は迅雷と繋いでいない方の手を懐にやって携帯デバイスを取り出し、画面を一瞥した。

「ホケキョ姉さんだ」

「そ、そうか」

 ――あいつもしつこいな。

 そうは思えど、同時に救われたような気もする。そこへ真玖が目顔で電話に出るべきかどうか尋ねてきた。迅雷は空いている方の手を真玖に差し出した。以心伝心、真玖が迅雷にデバイスを渡し、迅雷は少し考えて電話を受けることにした、

「もしもし?」

 真玖の電話に迅雷が出たわけだが、あゆみはそのことについては特になにも云わず、低い声で尋ねてきた。

「今、どこ?」

「どこだっていいだろう。ちなみにこの電話が終わったらこのデバイスの電源は切らせてもらう。最後になにか云うことはあるか?」

 電話をしているあゆみの傍には恐らく翔子たちもいるはずだが、このときばかりは静かにしている。邪魔をする気はないらしい。

 そしてあゆみは、たっぷり十秒の沈黙を経たのちにぽつりと云った。

「……真玖ちゃんのこと、幸せにしてあげて」

 あまりにも意外な言葉に、迅雷は目を丸くした。

「……どうした、急に?」

「急にじゃないわ。私は最初から真玖ちゃんのことだけ考えてる。本当は真玖ちゃんに合流の時間と場所を確かめようと思って電話したんだけど、電話ならあなたとも冷静に話せるみたいだから、この機会に云うわ。こんなこと一度しか云いたくないから、黙って聞いて」

 そこで言葉を切ったあゆみは、そこから切々と云う。

「真玖ちゃんを幸せにしてあげて。だって、これはあなたにしか出来ないんだもの。私ではどうにもしてあげられないの。たとえあなたが恋人を三人も持ってるようなプレイボーイだったとしても、あなたにとって真玖ちゃんが四人目だったとしても、真玖ちゃんはあなたじゃなきゃ駄目なの。だからお願い」

「わかった」

 あれほど迅雷を攻撃してきた女が、一転して頭を下げてきたのだ。しかもそれはすべて真玖のためなのである。そのことに迅雷は少なからず胸を打たれていた。頼りにされる喜びや、覚悟や責任といったものが胸の奥から湧き上がってくる。

「任せろよ」

「ありがとう」

 それを最後に迅雷は通話を終えると、携帯デバイスを真玖に返した。デバイスを受け取った真玖は画面を一瞥してから、迅雷を見て尋ねてくる。

「ホケキョ姉さんは、なんて?」

「おまえを幸せにしてあげて、だって」

 真玖は緑の目を見開き、そして優婉に笑った。

「それで『わかった、任せろよ』って云ったんだ」

 その嬉しげな声を聞いて、迅雷は恥ずかしさのあまり顔を背けたくなったが、これ以上逃げるわけにはゆかない。

「そういう、ことだ」

 押し出すようにそう云うと、真玖は一つ大きく頷いた。

「うん。まあ迅雷に一方的に幸せにしてもらうつもりはないけど、私の幸せのためには迅雷が必要だ。そして私も、迅雷を幸せにしてあげたい」

 そのまま二人は、いつまでも見つめ合うこともできた。だがここは天下の往来である。迅雷は繋ぎっぱなしだった真玖の手をぐいと引っ張ると、人の行き交う道の果てを見据えて云った。

「走るぞ」

「え?」

「息が切れるまで走りたい気分なんだよ」

 迅雷は今にも飛び出したくて飛び出したくて、路面で靴底を削るようにした。

「さっきはホケキョたちから逃げるためだったけれど、今度は、過去をここに置いていきたい」

 ――クルマがあればよかった。

 だがあいにく自分たちはまだ十七歳だ。運転免許も取れないし、サーキットでしかクルマに乗ることが許されない。だから今は、この脚で走るしかなかった。

 そんな迅雷の横顔を見ていた真玖が、このとき不意に笑って頷いた。

「わかった、走ろう」

 真玖が迅雷と同じように前を向く。二人は横目を使ってお互いの呼吸を確認すると、ふたたび顔を前に向け、合図もなしにまったく同時に走り出した。

 人混みはあるし手は繋いでいるし、真玖はスカートだから全力疾走というわけにはいかなかったが、心は飛び立っていく鳥のようだった。そしてその鳥を、隼真玖郎の幻が見送っている。

 今日は迅雷にとっても真玖にとっても長い一日になるだろう。そして明日には、真玖は本当に生まれ変わっているだろう。

 その明日に向かって、二人はこのとき新しいスタートを切ったのだ。

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