第六話 羽ばたく者たち 第一幕 立ちはだかるは嵐(1)


  第六話 羽ばたく者たち 第一幕 立ちはだかるは嵐


 迅雷は翔子とのシートを懸けた勝負に勝つことを見越して、数日前からつばさやことりとともにバトンタッチの練習を始めていた。去年のスリースターズレースの動画を参考にして始めたそれも、しかし今日までだ。明日はTSRの予選である。ことりをしごき、つばさが病院での検査を終えてやってきた月曜日の午後である今が、最後の練習時間になるだろう。

 ところでバトンタッチとはえ、モータースポーツのことだからもちろん本物のバトンを渡すわけではない。リレー形式であるTSRのバトンタッチとは、つまりこういうことだった。

「それじゃあお兄さん、行きますよ!」

 つばさの駆るエーベルージュが素晴らしい速さで最終コーナーに迫ってきた。周回は左回りで、練習走行モードでプレイしているから、他のマシンはもちろん走っていない。

 コースは運営がTSRの練習用として用意してくれたもので、一見してごく当たり前のノーマルサーキットだが、一つ特筆すべき点がある。最終コーナーの外側に、メインストレートとは逆方向の直線路が伸びているのだ。長さはメインストレートと同じでスターティンググリッドもあり、最終コーナーでコースと合流するレイアウトになっている。この予備ストレートこそがTSRで使われるサーキットに施される仕掛けであり、その目的はバトンを受け取る側が加速するのに必要な距離を与えることにある。

 本来このサーキットにこのようなものはないのだが、バーチャルサーキットならば走路一本増やすことなどわけはない。

 そしてつばさのエーベルージュが最終コーナーに突入しようという一方、迅雷のブルーブレイブは予備ストレートの一番グリッドについていた。タイミングを見て、ピットに入ってくれていることりが云う。

「迅雷さん、ゴー!」

 ことりの合図で迅雷はクラッチを繋いだ。ブルーブレイブがエキゾーストノートの雄叫びをあげながら、勢いよく発進していく。その青い勇姿は半透明をしていた。つまりゴースト状態だ。この状態ではレースには干渉しないし、他のマシンと接触してもすり抜けてしまう。このゲームならではの仕様が、モータースポーツでバトンタッチをするのに必要であった。

 エーベルージュが最終コーナーを回っていく。ダウンフォースが効いていて、鮮やかなまでの速さでコーナーを旋回する。そこへ予備ストレートからブルーブレイブが飛び出してきて、二台のマシンはほとんど同時にメインストレートへ突入し、合流し、しかも重なって走った。ブルーブレイブがゴースト状態を利用して、エーベルージュのいる空間に重複して存在しているのだ。

「憑依オッケー、いい感じでシンクロしてます」

 ことりは憑依と云ったが、まさに実体のあるエーベルージュに幽霊のブルーブレイブが取り憑いているような感じである。そして迅雷とつばさは、どちらかがどちらかを追い抜きそうで追い抜かない。

「もうわかってると思いますけど、そのまま周回基準線コントロールラインまで走って下さい。迅雷さんは、お姉ちゃんを追い抜かないように」

「ああ……つばさ、いいな?」

「はい!」

 左上の通信画面に映るつばさは真剣であった。さっきのことりの話が気になっていた迅雷は、そんなつばさの気魄ある返事に安心と頼もしさを感じながら、もう目の前に迫っているコントロールラインを見据えた。

 そしてエーベルージュとブルーブレイブが、ほとんど同時にコントロールラインを駆け抜ける。その瞬間、エーベルージュがゴースト状態になってレースから離脱し、逆にゴースト状態だったブルーブレイブは実体化してレースに突入した。

 それから五秒ほどの時間を置いて、ゴーストだったエーベルージュは規定通りコース上から消失する。一方、迅雷はブレーキを踏み抜いてマシンに急制動をかけると、通信画面のなかのことりに勢いよく訊ねた。

「どうだ!」

「誤差〇・三八秒です!」

 ぱっと顔を輝かしたことりのその答えに、迅雷は思わずガッツポーズを作った。

「よし!」

 そんな迅雷に、つばさも微笑みながら云う。

「だいぶ息が合ってきましたね」

「ああ」

 これがTSRにおけるバトンの渡し方であった。

 つまりメインストレートからコントロールラインまでのあいだをテイクオーバーゾーンとし、バトンを渡す側・甲が最終コーナーを回ってくるのに合わせて、予備ストレートにゴースト状態で待機していたバトンを受け取る側・乙が発進する。

 甲と乙はメインストレート上で合流し、甲はコントロールラインを駆け抜けるとゴーストになってレースから退場、逆にゴーストだった乙はコントロールラインを駆け抜けると実体化してレースに突入するというのが、基本的な仕組みである。

 その上で、さらにバトンを受け取るタイミングによってペナルティがあった。

「バトンを渡す側がコントロールラインを通過したあと、貰う側がコントロールラインを通過するまでの時間差……このタイムの二倍が、最終タイムにペナルティとして科せられるんだよな……」

 迅雷のぼやきに、ことりが一つ頷いて云う。

「はい。今回の場合は迅雷さんがお姉ちゃんに〇・三八秒遅れてコントロールラインを駆け抜けたので、最終的なタイムに〇・七六秒のマイナス修正がかかるということです」

 つまり終盤でデッドヒートの末に先にチェッカーを受けたとして、相手とのタイム差が〇・五秒だとした場合、最終的なタイムに〇・七六秒のマイナス修正がかかったら順位が逆転してしまうということだ。

「……これがチーム戦ということか」

「でも遅れた場合はまだいいですよ。逆にフライングしてしまうと……つまりバトンを受け取る側がバトンを渡す側より先にコントロールラインを駆け抜けてしまうと、即失格ですからね」

「練習を始めた最初のうちは、何回かやっちまったな」

 ログアウトした迅雷はヘルメットを外すと、青い初期画面クレイドルに遠い目を向けながらそう云った。ほんの数日前のことだが、ずいぶん昔のことのように感じる。

 乙が甲より先にコントロールラインを駆け抜けた時点で一発退場、甲も乙も強制ログアウトになるというのが、TSRのルールであった。救済措置はない。フライングをしたらレースはそこで終わりだ。

「シビアだよな。フライングは絶対駄目。しかし誤差の二倍のタイムを借金として背負うことになるから、フライングにびびってバトンを受け取る側が遅れすぎるのもやっぱり駄目」

 すると別の通信画面から、やはりヘルメットを脱ぎながらつばさが云う。

「でもだからこそ、緊張感があるんですよ。それに他のマシンやコース取りとの兼ね合いから、バトンタッチする際はお互いのマシンが重なって走るのが一番いい。そして理想は……」

「理想は、二人の心を合わせて同時にコントロールラインを駆け抜ける、か……」

 迅雷はうっそりと呟いた。もちろんそれは理想であり、云うは易し、行うは難しというものだ。実際には重なって走っていても同時にコントロールラインを駆け抜けるのは難しいし、マシンパワーのある方がない方に遠慮して減速しすぎてしまうということもある。迅雷たちの場合はブルーブレイブの加速力が仇にならぬよう、迅雷がつばさに合わせる必要があった。

「まあ誤差が出るのはどこのチームも一緒だし、相対的に考えると一秒以内なら借金はないに等しいはずだ。両方同時にコントロールラインを駆け抜けるなんて離れ業が出来るコンビは、まずいないだろうからな」

 その迅雷の軽口には一瞬の沈黙があり、迅雷がおやと思ったときにつばさが云った。

「いえ、その理想を実現した二人組も過去にはいましたよ」

「なに?」

 目を丸くした迅雷に、つばさは前置きから始めた。

「そうですね……順番に話すと、オンライン・フォーミュラって、空き時間を埋めるためのミニゲームがいくつかあるじゃないですか。ダイナミック駐車ゲームとか、崖に向かって突っ込めチキンレースゲームとか。ああいうミニゲームの一つに、TSRで採用されているバトンタッチのタイム最小差を競うものが、今年の夏休みに期間限定で開催されていたことがあるんです」

「ほう。それで?」

「そのミニゲームで、どこかの二人組がタイム差なし、まったく同時にバトンタッチに成功するという離れ業をやってのけたと云う話ですよ」

「まぐれじゃなくてか?」

 迅雷はそう云って笑った。多くの二人組が挑戦して、一回だけなら、そういうことも起きうるのではないか。

 ところがつばさは、そんな迅雷の指摘ににんまり笑ってこう返してきた。

「いえ、その二人組は、なんとそれを二回連続でやってのけたんですよ」

「なっ! 本当か!」

 迅雷は思わずそう叫んでいた。一回だけならまぐれかもしれないが、二回連続でやったとなるとこれは大したものである。

「誤差一秒差以内なら上等と云われるOFのバトンタッチで、誤差なしのパーフェクト・リレーを二連続ですからね。これは今でも、ちょっとした語り草になっていますよ」

「世に云う、ラブモンキーとジャッジメント・ホイールの奇跡です」

 と、ことりがピットからそう云い添えた。

 迅雷はちょっと面食らってしまう。

「ラブモン……そういうドライバーネームなのか?」

「はい」

 つばさがそう肯んじるのを受けて、迅雷はまた一つオンライン・フォーミュラの豆知識を増やしてしまったと思っていた。

 ――ラブモンキーにジャッジメント・ホイールね。うん? ジャッジメント・ホイールってどっかで聞いたことあるような……。

 と、そんな迅雷の考えをよそに、つばさが口調をがらりと変えて云う。

「私とお兄さんもかくありたいものです」

「そうだな。よし、次は選手交代してことりとおまえの練習をするか。TSR、俺たちの走る順番はことり、つばさ、俺の順だからな」

 だからバトンタッチの練習は、ことりとつばさ、つばさと迅雷である。つばさはバトンを受ける側と渡す側の、両方を担当するので負荷が高いのだが、そこはバーチャルレーサーとしてベテランの彼女に期待していた。実際、彼女は今日までバトンタッチの練習をそつなくこなしている。

 迅雷はエントリーシートを筐体から排出し、ことりと交代することにした。

 迅雷と入れ替わりにシートに入ろうとしていたことりは、しかしその足を止め、対面上にあるもう一つの筐体に視線を投げた。

 その筐体の傍には空の車椅子があり、筐体のなかにはつばさがエントリーしている。

「お姉ちゃん、普通ですね」

「ああ。手抜きも妥協もなく、真面目に練習してくれている。安心したよ」

 迅雷をヨーロッパに行かせたくないつばさがなにか仕掛けてくるのではないか。今日の午前にことりがそう警告してくれたから、迅雷も少し注意していたが、今のところつばさはおかしな動きを見せていない。

 ことりが心底ほっとしたように、またすまなそうに云う。

「私の思い過ごしだったんでしょうか」

「かもしれん。ま、俺はつばさを信じていたけどな」

 迅雷はそう云って笑うと、ことりの背中を励ますように叩いた。

 その日はそれから、シートを使える残り時間をバトンタッチの練習に費やして終わった。


        ◇


 そして火曜日、午前十時半。今日は珍しく迅雷が秋葉原のレーシングセンターに一番乗りを果たしていた。メールでつばさにそのことを伝えた迅雷は、エレヴェーターで四階に上がるとそこの椅子に座ってつばさたちを乗せた車がやってくるのを待った。

 待ちながら、つばさたちではないもう一人とメールのやりとりをしていると、つばさからメールがあって車の到着を報せてくれた。

 迅雷は椅子から立ち上がって屋上駐車場に出て行った。冬の風に面を吹かれながらスロープの方を見ていると、見覚えのある紺のワゴン車がそこを上ってきて駐車場をぐるりと回り、適当な駐車スペースにまった。

 迅雷がそこへ近づいていくと、助手席の扉が開いてことりが姿を現わした。

「迅雷さん、おはようございます」

「おう、おはよう」

 一方、運転席からは例の家政婦の女性が下りてきてワゴン車の後ろに回った。ことりはそれを見て自分も車の後ろに回る。

「手伝いますよ、小林さん」

 小林というのが、姉妹の送り迎えをしている家政婦の名前なのだ。

 二人がワゴン車の後部ハッチを開けると、そこにいたつばさが専用の昇降機リフトを使って車椅子ごと下りてきた。

 それを介添えしたことりがつばさの車椅子のハンドルを握って後ろへ下がると、小林はリフトを片付けて後部ハッチを閉めながら云った。

「では、私はこれで。また時間になったら迎えにきますが、なにかあったら連絡して下さい」

「はい、ありがとうございます」

 そうして迅雷たち三人が車から離れるのを見ると、小林は運転席に乗り込んでまたすぐ車を発進させた。それを三人で見送りながら迅雷は云う。

「……あの人、小林さんだっけ。一緒に来ないのか?」

「御母様に頼まれた買い物があるみたいですよ。あと、あの方はあまりOFに興味がないみたいなので、ここにいても退屈なんでしょう」

「ふうん」

 迅雷がそう生返事をしたところで、迅雷の携帯デバイスにメールがあった。それを見るなり迅雷はにやりと笑って云う。

「どうやら俺たちのボスも到着したようだ」

 そして迅雷たちは、十二月の冷たい風に追われるようにして屋上駐車場を横切り、建物の四階へと入っていった。

 そこで待ち構えていたのが迅雷たちのボス、すなわち伊達眼鏡をかけた豊頬ほうきょうの美少女である。

「来たな。さっちゃん、りーちゃん、迅雷君。待ってたで」

「翔子ちゃん」

 つばさがちょっと嬉しそうな顔をして、車椅子を翔子の方へと向ける。ことりがそれについていきながら翔子に微笑みかけた。

「本当に来てくれたんですね」

「当たり前やがな。ウチは予備の四人目に回ることになったけど、チーム・ソアリングのリーダーはそもそもウチや。今日の予選と明日の本戦、リーダーが現場におらんなんてありえへん」

「でも元々の予定じゃ大阪からログインして、ピットクルーはなしでやるつもりだったんだろ?」

 迅雷が笑って云うと、翔子はそのたくましい胸に手刀を打ち込んだ。

「余計な茶々入れるのやめて。とにかく迅雷君のピットワークには不安があるし、今回のTSRはウチが仕切る。こればっかりは大阪からやと出来んからな」

 翔子はそう云って呵々と笑うと、つばさ、ことりとタッチを交わし、迅雷には満面の笑みでハイタッチを求めてきた。

 迅雷がそれに応じ、パシンと爽やかな音がしたところで、翔子がそのまま迅雷の指に指を絡めてくる。

「てなわけで迅雷君、今日はよろしく。わかってると思うけど、予選に勝ったら本戦は明日やから、今日は東京に一泊するねん。もうホテルの予約取ったから勝っても負けても泊まっていく予定なんやけど、今日は良い気分で寝させてよ?」

「おう」

 迅雷がそう返事をすると、翔子は迅雷と繋いだままの手を下ろし、ふふふと笑って云う。

「しっかし、この年の瀬に連続で東京に来ることになるとは思わんかったわ。こつこつ貯めてきた貯金もいくらか吐き出してしもうた。ホテル代も馬鹿にならんし、迅雷君の家に泊めてもらえばよかったかな」

 えっ、と迅雷が絶句したところで、つばさがどろっとした目をして云う。

「翔子ちゃん」

「冗談やがな。云ってみただけ、云ってみただけ」

 絶対本気だった、と低声こごえでぼやいたことりに聞こえなかったふりをして、翔子は回れ右するとエレヴェーターのボタンを押した。

 気を取り直した迅雷たちが翔子の後ろに集まると、翔子もまた顔つきを真面目なものに改めて云う。

「もう知っとるはずやけど、先日予選の組み合わせとスターティンググリッドが発表されたな。例年通り、予選が一人五周で合計十五周、本戦が一人十周で合計三十周のセッションっちゅうことも。今日明日の細かい時間割なんかも、各自きちんと確認してきてるやろ?」

 それに迅雷たちが首肯すると、翔子は笑って続けた。

「でも一つだけまだ発表されてへんもんがある。それは使用サーキットや。なんのサプライズか知らんけど、公式のイベントレースで使われるサーキットは毎回毎回直前まで発表されへんのがOFの慣例やねん。似たようなレイアウトのサーキットで走って練習するのを妨害する嫌がらせやろうな。ま、例によってスペシャルサーキットのどれかやろうけどね」

「スペシャルサーキット?」

 初めて聞く単語に迅雷が目を丸くすると、翔子の方が逆に驚いたようだった。

「あれ、迅雷君は知らんかったの?」

 そのときあの音とともにエレヴェーターが到着したので、迅雷たちはひとまず話を打ち切って次々エレヴェーターに乗り込んでいった。

「一階?」と翔子。

「十一時までは部屋に入れないから一階だ」

 迅雷がそう云うと、翔子は一階のボタンを押した。エレヴェーターが動き出すと、迅雷は改めて訊ねた。

「で、スペシャルサーキットって?」

「スペシャルサーキットっちゅうんは、過去に一度でも現実でF1グランプリが開催されたことのあるサーキットのことよ。迅雷君、これまで何度もオンライン・フォーミュラで走ってきたやろうけど、よおく思い出して。F1が開催されたサーキットで走ったことはないやろ」

「……云われてみれば。オンライン・フォーミュラのサーキットは、レイアウト自体は現実のサーキットを写し取っているものが多くあるって聞いたけど、F1グランプリをやったサーキットレイアウトはなかったな」

 F1グランプリが開催されるということは、その時点でどれも第一級のサーキットということだ。それが今まで、一つもなかった。だがスペシャルサーキットとして存在はしているらしいのだ。これはいったいどういうことか? 迅雷がさらなる答えを求めて問いを発しようと云うとき、エレヴェーターが一階についた。

 迅雷たちはエレヴェーターを降り、ひとまず休憩コーナーに向かう。

 そこへ着く前からつばさが云った。

「結論から云いますと、過去にF1グランプリが開催されたことのあるサーキットはスペシャルサーキット指定を受けて、運営が全部押さえてるんですよ。参戦ドライバーの誰かがホストを務めるプライベートレースでは、スペシャルサーキットは使えないんです。逆に運営が主催する公式のイベントレースでは、ほとんどの場合、スペシャルサーキットが使われます。オリジナルデザインのサーキットが使われた例もありますけどね」

 そう話すつばさの後を引き取って、今度はことりが云う。

「私たち、リアルのレースはよく知らないんですけど、イベントレースに参加したり観戦したりしているうちにスペシャルサーキットの名前やレイアウトは覚えちゃいました。シルバーストン、カタロニア、スパ、モンテカルロ市街地コース、そして鈴鹿サーキット……どれが使われるのかは、今日の発表があるまでわからないんですけど」

「そうだったのか。道理で……」

 迅雷はすっかり感心しながら、休憩コーナーのソファに腰を下ろした。何食わぬ顔をしてその隣に座った翔子が、つばさやことりが「あっ」と声をあげたのも気にせず迅雷に身を寄せ、笑いかけてくる。

「まがりなりにもフォーミュラという名前を冠しているだけあって、オンライン・フォーミュラの運営はF1をかなり意識しているっちゅう話やで。オンライン・フォーミュラの総合チャンピオンを決める、フォーミュラクラスの人らしか出られんレースも、F1グランプリと同じく年間二十戦開催されるし。しかもわざわざその年のF1グランプリの日程が発表されるのを待って、その日程とずらして開催されてるんや。これは将来的にリアルのF1ドライバーがオンライン・フォーミュラに入ってくるのを見越してのことやってもっぱらの噂やね」

 そこで言葉を切った翔子が、伊達眼鏡の奥の目を不敵に輝かせた。

「迅雷君も助かるやろ。将来F1に乗ったときに、OFのレースと日程が被らんで」

「そうだな」

 まだF1ドライバーになれると決まったわけではないのだが、迅雷は決まったような顔をして答えた。

 その心意気に、翔子は嬉しそうであった。根拠がなくとも、自信に溢れた男が、女は好きなものなのだ。

 と、そこへつばさが冷ややかな声音で云った。

「翔子ちゃん、お兄さんに近づきすぎでは?」

「固いこと云うなや。このあいだ三人で話したやん。みんなの迅雷君にしようなって」

 それには迅雷も小首を傾げた。

「なんの話だ?」

「女の子同士の話なのでお兄さんは気にしなくていいです」

「でも薄々察してくれていると素敵だと思います」

 ことりがにっこり笑って云ったその言葉に、迅雷は内心で無茶なことを云うと思ったのだが、実のところ察しはついた。だから話を変えようとして、翔子の顔を見ながらこう云った。

「ところでその眼鏡、本当にかけてるんだな」

「ああ、これ」

 翔子はそう云って黒縁眼鏡のつるに触れた。あの日、ジェニファーが翔子に押しつけていった眼鏡だ。 

「迅雷君が、伊達眼鏡が似合いそう云うてくれたからな。って、そういえばジェニファーさんはどないしはったん? 今日はおらんけど」

「仕事だよ。メールでそう聞いてる」

 迅雷はそう云うと、受付の方を一瞥した。そこでは今も受付嬢たちが働いているが、ジェニファーの姿はない。彼女が受付嬢の片山としてあそこに立つことはもう二度とない。そう思うと、少しだけ寂しかった。

 黙ってしまった迅雷に代わって、つばさが翔子に云う。

「片山……じゃなかった。ジェニファーさんは今までお兄さんの専属みたいな感じで仮復帰していたけど、先日、本人が宣言していた通り、実況レディとして正式復帰することになったから……」

 と、そこでつばさの顔が陰ったのは、あの日のやりとりを思い出したせいであろうか。ジェニファーは既に飛び立っていった。一方のつばさは、見ての通り、今日も車椅子だ。

 言葉につかえたつばさの後を引き取って、ことりが明るく云う。

「迅雷さんが出てたプライベートレースの実況をしてたのはボランティアみたいなもので、実況レディの本来のお仕事は公式が主催するイベントレースを盛り上げることですから、だから翔子ちゃん、ジェニファーさんが復帰して最初のお仕事は、明日行われるTSRの決勝なんですって。今日はその準備で色々あるそうです。メールにそう書いてありました」

「ふうん。予選はちゃうの?」

「特に触れてませんでしたから、別の人がやるんじゃないでしょうか」

 ことりのその言葉に、迅雷は黙って相槌を打った。迅雷としても、ジェニファー以外にレースを実況されるのは今日が初めてということになる。他の実況レディか、それとも男の実況ファイターなのか。

「ジェニファーさんにやってもらいたいな。でないと調子が狂っちまうぜ」

 ははは、と迅雷は笑って云った。もちろん冗談である。実況が変わったくらいで力を出せなくなるようでは先が知れている。

 が、そのときつばさと翔子の視線が迅雷に突き刺さった。ことりは突き刺すようには見ていないが、上目遣いでやはりじっと見ている。

「なんだよ」

「いえ、別に」

 つばさがそう云ってなにかを韜晦とうかいする一方、翔子は笑いを含んだ声で云う。

「早よジェニファーさんとも話をつけんといかんな」

「そうか」

 と、迅雷は生返事をしてさっさと次の話題に移った。この件にはいずれ真正面から取り組まなければならないだろうが、TSRを控えたこのタイミングでは、そんな話はしたくないのだ。


 時間になると、迅雷たちは話を打ち切って二階のレーシングルームに場所を移した。例によってエントリーシートが二基設置された部屋で、一番乗りを果たした翔子が、部屋の中央で仁王立ちしながら左右のエントリーシートを指差して云う。

「さて、さっちゃんはあっち。りーちゃんはこっち」

「別にどっちでもよくないか?」

 迅雷は思わずそう嘴を入れていたが、そんな迅雷を翔子が軽く睨んでくる。

「どっちでもええならウチが決めてもええやろ。チーム・ソアリングのリーダーはウチやし、ウチが仕切るって云うたやん」

「わかった。わかったよ」

 つまらないことで怒らせたくはない。迅雷はすぐさま引き下がると、つばさがエントリーシートに乗り込むのを手伝ってやり、ことりとつばさの二人が筐体内へエントリーしていくのを見届けてから右側のピットブースに向かった。そこでは既に翔子がワイヤレスのヘッドセットをつけて着席しており、シート内の二人との通信を確立していた。

 翔子は予備のヘッドセットを迅雷に渡し、迅雷がそれを装着するのを待って云った。

「さっちゃん、りーちゃん。今さらトイレ行きたいとか云わへんよな?」

 姉妹はそれぞれ笑いながら大丈夫と請け合った。

 翔子が一つ咳払いをする。

「ほんなら今日の予定を確認するわ。迅雷君も聞いててよ?」

「ああ」

「時刻は午前十一時を回ったところや。このあと十一時十五分にTSRの予選および本戦で使われるサーキットの発表があり、それと同時に十二時まで四十五分間のフリー走行。ただし三人で四十五分や。入れ替わり立ち替わりやることになるけど、ウチらはりーちゃんが一番手でさっちゃんが中継ぎ、最終走者アンカーが迅雷君やからフリー走行もこの順番でいこう。二基のシートを使い回していくんで、本番のとき、迅雷君はさっちゃんが走ってるあいだにりーちゃんとシートを交代するんやで?」

「ああ」

 その辺りの段取りについては、バトンタッチの練習の際に確認しておいた。つばさを中継ぎにした理由の一つには、車椅子の彼女にシートの乗り降りを急がせるのは大変だろうというのもあったのだ。

「十二時、フリー走行が終わったら四十分の休憩。十二時四十分からログインが可能になって、最終調整ってことでちょっと走ってもええけど、五十五分にはグリッドにつかなあかん。そして十三時からレースや。ちなみにこの時間割は明日の本戦でも同じです」

 そこでいったん言葉を切った翔子が、咳払いをしてさらに続ける。

「今日は全十ブロックの予選が同時に行われ、それぞれのレースに違う実況ファイターないし実況レディがつく。第一ブロックは全十チームが出場、確実に決勝へ行けるのはトップチームだけや。二位のチームはワイルドカードでもうワンチャンスあるけど、三番手から下は全部ノックアウト。つまり三位以下になったら先はない。そしてウチらのグリッドはポールポジションや。りーちゃん」

 翔子がカメラの方をじろりと見る。名指しされたことりは、まだヘルメットを被っておらず、少し怯えた表情で返事をした。

「は、はい」

「スタート直後大事。云うまでもないけどスタート直後はポジション争いでもつれるし、そこで一気に前に出たろうって考えて仕掛けてくる奴が三人はいるはずや。下手なスタート切ったら、あっちゅう間にやられるで」

「が、がんばります」

 いかにも頼りない返事だったが、翔子はそれ以上ことりを虐めず、莞爾かんじと笑って云った。

「よっしゃ。ほんなら待とう。そろそろ使用サーキットの発表があるはずや」

 そう云うと翔子はピットの画面にTSRの総合中継の映像を出した。そこではもう実況レディのジェニファーが喋っていた。

 迅雷はその姿を見て、たちまち胸をときめかしながら云う。

「ジェニファーさん」

「中継は十一時から始まってたはずやから、冒頭の挨拶見逃したな」

 それでもジェニファーの話を聞いているうちに、どうやら明日の本戦で実況を務める彼女は、今日の予選では総合司会をやるらしいということが判ってきた。今はTSRの概要について先ほど翔子が話したようなことを説明し、さらに今日行われる予選の各ブロックの実況を担当する実況ファイターないし実況レディを手短に紹介している。

 そしてとうとう、ジェニファーが今日のサーキットの話題に触れた。

「さて、オンライン・フォーミュラの公式レースでは、使用されるサーキットはレース直前まで内緒にするという運営サイドの悪戯心が常に働いています」

「なにが悪戯心やねん。そんなのええからきちっと練習させてほしいわ」

 性分であるのか、翔子は画面に向かってそう茶々を入れている。一方ジェニファーは、その秘密にされてきたサーキットをいよいよ明かそうとしていた。

「それではご紹介しましょう。今年のTSR、今日の予選と明日の本戦で使われるスペシャルサーキットは、これだ!」

 放送席のジェニファーを映していた画面が切り替わり、今日のサーキットを上空から捉えた映像が発表された。それを一目見るなり、迅雷は「うおっ!」と唸ってしまった。

「あ、これって……」

 と、翔子も仰のいて背もたれに体を預けながら腕を組む。

 映像はさらに切り替わって、コースレイアウトがよくわかるように、コースの構造のみがコンピューターグラフィックスで再現されたものになる。

 一見した限り、そのサーキットは八の字型をしていた。サーキットの中央に立体交差橋があり、前半は右回り、後半は左回りという、一種の変則サーキットである。運営がイベントで用いるスペシャルサーキットは現実でF1グランプリが開催されたことのあるサーキットだという話だが、現実のサーキットは右回りか左回りかが決まっていることがほとんどであり、八の字型のサーキットはどちらかと云えば例外にあたる。

 その例外にあたるサーキットを有しているのが、他ならぬ日本だ。だから八の字型という時点で、迅雷にも翔子にも、そのサーキットがどこなのか一瞬でわかった。

 そこへ実況レディのジェニファーの声がする。

「日本では馴染みのあるサーキットですから、判った人もいるかもしれません! そう、今日と明日の戦いの舞台は――」

「す、鈴鹿か……!」

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