バーチャルレーシング、オンライン・フォーミュラ!
太陽ひかる
プロローグ
プロローグ
二〇XX年十一月、秋にしてはやけに強い陽射しの照りつけてくるこの日、熱い風の吹くギア・サーキットで、男たちがほとんど命がけの勝負をしていた。一台、また一台、フォーミュラカーが鋭いエキゾーストノートの雄叫びをあげてサーキットを駆け抜けていく。どのドライバーも栄光を掴み取らんと必死だ。ぎらぎらと輝く瞳、燃える面魂、ステアリングを握る手、年齢の長幼など関係ない、トップを目指し、コンマ一秒を争ってそれぞれのマシンを駆る。
――今、俺がトップだ。十七歳の、高校二年生の、この俺が、マカオで!
マカオグランプリ。毎年十一月、香港の南西およそ七〇キロの位置にあるカジノで有名な港街マカオの市街地にコースを敷設して開催されるこのレースは、一言で云ってしまえばF3の世界一決定戦である。このレースを制した者はF1レーサーになると云っても過言ではない。
今、迅雷はその夢に指をかけていた。
栄光への道をひた走るこの歓びを、いったいなんに喩えよう。加速することへの歓喜が迅雷をスピードの彼方へと駆り立てていく。勝利はすぐそこまで迫っていた。
――この道幅の狭いサーキットでは、オーバーテイキングは起こりにくい。一度トップに躍り出てしまえば、このまま最後まで行ける!
そして栄光へのファイナルラップ、迅雷は他を寄せ付けぬ圧倒的な走りで首位を守り続けた。難しい山側のテクニカルセクションを抜けた先に待ち構えているのは、フィッシャーマンズベンドと呼ばれる急な右コーナーである。そこを越えると短い直線に入り、最終コーナーであるRベンドを曲がれば、フィニッシュラインはもうすぐそこだ。
自分がミスさえしなければ、確実に一位でチェッカーフラッグを受けることが出来る。この気の狂いそうな緊張感を楽しんで、迅雷は二つのコーナーを稲妻のように駆け抜けた。
――勝った。
驕りでもなく、目が眩んだのでもなく、迅雷は確信を持ってそう心に呟いた。もう最終コーナーを越えたのだ。たとえ今この瞬間にエンジンが壊れて吹き飛んだのだとしても、マシンは惰性で走ってフィニッシュラインを越えるだろう。
飛ぶように後ろへ流れる景色、詰めかけた群衆の大歓声、エキゾーストノート、そうした夢のような時間のなかで迅雷は想う。
――どうだ、見てるか、真玖郎!
フィニッシュラインを駆け抜けてチェッカーを受け、爆発する歓喜のなか、右の拳で天を突いた迅雷の胸に去来するのは、昨年の春、中学三年生の終わりに自分の許を去っていったライバルの最後の姿だった。
……。
迅雷は黒髪を短くしたハンサムな少年だった。成長期ということもあって身長はどんどん伸びており、中学三年生の時点で一七五センチを超えている。だがレーサーにとって長身なのはあまりいいことではない。結局、迅雷の背丈は一八〇センチまで伸びることになるのだが、とにかく当時の迅雷は自分の身長が伸びすぎることを気にしていた。
季節は早春、梅の花が見頃を迎えてもまだまだ寒い日の続いていたその日、迅雷は幼いころからライバルと目していた
「やあ、迅雷」
店に入ってすぐ、男にしてはやけに甲高い声が自分をそう呼んだ。きっとまだ声変わりしていないのであろうと思いつつ、迅雷はにやりと笑って先に着いていたライバルに軽く手を振った。
「よう、真玖郎」
隼真玖郎は赤い髪に緑の目をした美少年である。この外見的特徴は、彼に西洋人の血が入っていることを示している。顔立ちは迅雷などよりよほど整っていて、いっそ女のようだった。髪型が坊主頭でなければ、本当に女と見間違えただろう。年齢は迅雷と同じく十五歳、身長はこの時点で一六〇センチ程度だ。服装は季節を問わずいつも長袖長ズボンで通しているのが不思議だった。また真玖郎には叔母が一人おり、彼女がいつも真玖郎の傍にいて彼の身の回りのことを取り仕切っているのだが、今日は珍しく一人である。
この真玖郎こそ、同世代ということもあって幼い頃から迅雷のレース人生にずっと付きまとってきた迅雷の最大のライバルである。一生のライバルになると、このときまでは思っていた。
真玖郎は二人掛けの席についており、その向かいの席に座を占めた迅雷は、珈琲を注文すると口を切った。
「で、用ってなんだよ」
「うん、実は、進路のことで相談というか、報告があって……」
「進路?」
意外な話に目を丸くした迅雷に淡い微笑で応えた真玖郎は、「まずは珈琲が届くまで待とうよ」と云って、まずは四方山話から入った。
あるとき、迅雷は真玖郎を不躾なほどじろじろと見て云った。
「おまえはいいよな、背が低くて」
「なんだよ。体格のこと、気にしてるのか」
「当たり前だろ。体がでかけりゃ単純に重くなるし、マシンのデザイナーにも嫌われるって云うからな。どうかこれ以上、身長が伸びないでほしい」
やがて熱い珈琲が運ばれてくると、いよいよ本題とばかりに真玖郎が口を切った。
「迅雷は、中学を卒業したらどうするつもり?」
「そりゃあとりあえずは高校に行くだろ。でも俺たちはレーサーだからな。それも全日本カート選手権に出場するようなレーサーだ」
「そう、俺がKF2クラスの総合二位で、君が総合チャンピオン」
迅雷を指差してそう云った真玖郎は、頭の後ろで手を組むと椅子にもたれた。
「あーあ、結局最後の勝負は、君に持っていかれてしまったか」
「なに云ってるんだよ、昔から勝ったり負けたりだったろ。それに勝負はこの先も続く。十六歳になったら限定ライセンスが下りるからな。夏休みに某自動車会社がやってるトライアルを受けてF3に乗るよ。目指すは全日本F3選手権、マカオ、そしてF1だ!」
迅雷は晴れ晴れと夢を語っていた。これは迅雷の夢だが、迅雷だけの夢ではないはずだ。真玖郎も同じ夢を見ている。
迅雷がそう信じて疑わぬ瞳を真玖郎に向けると、真玖郎は気まずそうに目を伏せた。
「……迅雷はすごいね。F1レーサーになるつもりなんだ」
「まあな。どうせやるならてっぺん目指すのが男ってもんさ。おまえもそうだろ?」
打てば響くような、気持ちの良い答えが返ってくると思っていた。しかし真玖郎は返答を拒むように自分の珈琲に手を伸ばし、カップの縁に口をつけた。
このとき初めて、迅雷の胸のなかで違和感が膨らんできた。真玖郎は進路について相談ないし報告があるという。では、迅雷にとって当たり前のその未来予想図は、真玖郎にとっては違うのではないだろうか。
「おい、真玖郎?」
迅雷は胸の裡の不安を紛らわすように笑いを含んだ声で尋ねた。しかし次に目を上げたとき、真玖郎は感情の張り詰めた真剣な顔をしていた。
「迅雷、実は去年の暮れに、父が病気で他界した」
突然の告白に迅雷は一瞬声を無くし、それから神妙な顔をして居住まいを正した。
「それはその、知らなかった。なんていうか、お悔やみ申し上げる」
そう云って頭を下げる迅雷に、真玖郎は急いでかぶりを振った。
「いいんだ。もう覚悟していたことだから。それより本題はここからなんだ」
迅雷は訝しそうな顔をして、向かいの真玖郎に眼差しを据えた。考えてみれば真玖郎が自分の父親の死を迅雷に伝える理由がない。伝えるにしてもメール一本でいいはずだ。となると、この件は真玖郎の云う進路とやらに絡んでいるはずなのだ。
なにを云われるのかと待ち構えている迅雷に、真玖郎は寂しげな顔をして云った。
「今日を以て俺はレーサーであることをやめようと思う」
「は?」
迅雷はなにを云われたのか解らなかった。一から十まで、理解できなかった。そんな迅雷をよそに、真玖郎は居住まいを正して云う。
「だからつまり、引退だ。父が死んだので、俺はレースを辞める。F3の世界へも行かない。ちょうど高校に上がる時期だし、いい機会だよ」
「な――!」
青天の霹靂、などというものではない。ほとんど頭に雷が落ちたも同じ、足元に穴が空いて、奈落の底へと真っ逆さまに落ちていくも同然の驚愕であった。
「な、なにを云ってる? 気でも違ったのか?」
迅雷は真玖郎の本気と正気を疑った。しかし真玖郎の緑の瞳は小揺るぎもしない。たまりかねて、迅雷は低い声で叫んでいた。
「どっちが先にF1レーサーになるか勝負だって云ったじゃないか!」
「だが迅雷、F1レーサーになるのは、俺の夢じゃなくて父の夢だったんだよ。俺たちみたいな十代のレーサーは、みんな子供のころに親にレースをやらされて始める」
「そうだ。子供のころからモータースポーツをやってる奴はみんなそうだ。ピアノや歌舞伎の世界でもそうだろう。だが、俺たちは辞めなかった。それは続けていくうちに、車を、レースを好きになったからなんじゃないのか!」
「違う。君はそうなんだろうが、俺は違う。父はかつてF1レーサーになろうとして挫折し、子供が生まれたら自分の夢を継いでもらうのを夢にしたんだ。そして俺が生まれた。それと引き替えに母は命を落とした。俺は父にとってたった一人の子供だったんだ。父は俺に真玖郎と云う名前をつけ、十五年間、俺の人生を支配してきた。その父が死んだ。俺は自由になったんだ」
そこで真玖郎は胸がいっぱいになってしまったようだった。深く息を吸って、吐き、それからまた続けた。
「迅雷、俺はずっとやらされてきたんだよ。信じられないかもしれないけど、それが本当なんだ。だから俺は、父に余命が宣告されたと知ったときから決めていた。この人が死んだらレーサーを辞めて、普通の……普通の人に戻ろうって。そこが俺のゴールなんだって」
「ふざけるな!」
迅雷はそう叫び、椅子を蹴倒して立ち上がった。店中の人々の視線が一斉に集まってくるが、そんなことはどうでもいい。迅雷にとっては今、この世界に自分と真玖郎の二人しかいないも同然なのだ。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな」
迅雷は真玖郎の言葉をすべて否定していた。真玖郎の話を聞いているうちに、その場で卒倒しそうになってさえいた。同じ時代に生まれて、死ぬまでライバルであろうと思っていた真玖郎が、レーサーを辞める?
「俺にはおまえがさっぱり理解できない!」
「理解してもらおうとは思っていない。ただ君とはずっとライバルだったから、レーサーを辞めること、君にだけは直接伝えたかった。それだけさ」
真玖郎はそう云って微笑むと、珈琲の残りをそのままにして、チェックを手にすっくりと立ち上がった。
「おい」
まだ現実が信じられずにいる迅雷を見返して、真玖郎は云う。
「中学を卒業したら、叔母さんと一緒に名古屋に行くよ。亡くなった母と叔母さんの実家があるんだ。君は東京だから、会うのが難しくなるな。でもその方がいいのかもしれない。もう会わない方が……そうだ、もう連絡は取らない。電話番号もアドレスも全部変える。引っ越し先の住所ももちろん教えない。これでお別れだ」
真玖郎は名残を惜しむように迅雷を見つめていたが、やがて自分で自分の心にけりをつけたのか、いつの間にか溢れていた涙を拭ってしんみりと云った。
「わざわざ来てもらったんだ。ここは俺が奢るよ。迅雷はゆっくりしていくといい」
「いや、待て、真玖郎」
かろじてそれだけ云った迅雷は、しかし続く言葉が出てこない。まるで悪い夢のなかにいるかのようだ。だが真玖郎はそれを最後に踵を返し、レジで精算を済ませると本当に店を出て行ってしまった。
あまりのことに思考停止に陥っていた迅雷は、彼が本当に去ろうとしているのを悟ると慌てて追いかけた。店を飛び出し、人混みに紛れようとしているその背中に追いすがる。
「待てって!」
迅雷は腕ずくでも止めようとしたのだが、それに先んじて真玖郎が云った。
「引き止めたって無駄だ。俺の決心を変えることは出来ない」
それはそうだろう。真玖郎が本気で迅雷とは違う未来を選び取り、そこに向かって走り始めたのなら、殴り倒そうがなにをしようが決心を翻させることは出来ない。
真玖郎を引き止めようとしていた迅雷の腕が、急に力を失って垂れた。
「嘘だろ」
そう愕然と呟いた迅雷を振り返った真玖郎は、悲しげに、それでいて爽やかに
「さよなら、迅雷。俺のライバル、俺のヒーロー、ずっと永遠に愛してる。君はF1レーサーになれよ」
その花笑みを迅雷の心に焼きつけて、真玖郎は踵を返し、颯爽と歩み去っていく。置き去りにされて、胸のなかに愛憎が溢れかえってくるのを感じた迅雷は、まだ冷たい早春の風のなか、駅の方へ向かってへ歩いていく真玖郎の後ろ姿に向かって叫んだ。
「ふざけんな! おまえは俺のライバルでレーサー! 俺と戦うために生まれてきた男なんだよ! わかったか、この馬鹿野郎!」
だがこのような血の叫びにも、真玖郎は決して振り返ることはなかった。
……。
そしてあれから一年と半年、迅雷はマカオグランプリの優勝台の上に立って、弾けるような笑顔でシャンパンファイトに臨んでいた。
そのあとに優勝インタビューがあったが、迅雷は最後の一言をこう締め括った。
「見てるか、真玖郎。どうだ、俺はマカオで優勝してやったぞ。このままF1に行ってやる! おまえもさっさと追いかけてこい! 今すぐにだ!」
今以て迅雷の最大のライバルは真玖郎であった。十七歳の日本人がマカオで勝利するなどという夢物語を実現してみせたのは、道半ばで去ったライバルへの反骨心、もう一度彼をサーキットに呼び戻そうという執念のなせる業であったと云ったら、人はそれをどう思うだろうか。
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