第40話 時の流れ

 歩は追われていた。深い薮なのかを、草木をかき分け、かき分け、歩は逃げている。


 追ってくるのは剣を振りかざす兵隊たちだった。その鎧や盾は、戦国時代を描く映画で見た物よりもシンプルで粗末なものだ。一方、歩はあの八枝刀を手にしていた。


 それが夢の中だと分かっていても、向きを変えて戦うことや、物陰に隠れることはできなかった。まるで、逃げることが運命づけられているようだった。


 先頭を走る兵隊が怒鳴る。


「若君、観念されよ」


 その声に、自分は八田王なのだと思った。


「私は大王の座など望まない」


 逃げる歩の口がそう言った。


「それを、大君の前で申されよ」


「その時は、私は首だけの姿になっているであろう」


 逃げろ、自分!……歩は矢田王を励ました。


 ヒュルヒュルと、何かが風を切る音がした。


 ――ドスン――


 音と同時に肉体を衝撃が走った。その場所は背中で見えるはずがないのだが、矢が突き立った背中が見えた。


 やられた!……感じた瞬間、足元から地面が消えた。


 歩は足をじたばたさせながら宙を歩いた。もちろん、自然落下する。


 周囲は闇に変わり、「黄泉の国か……」と八田王が言うのを聞いた。


「傷が……。手当をしましょう」


 どこからともなく百姓娘が現れて、歩は娘の住む小屋に運ばれた。立木を柱代わりにした粗末な小屋だ。


 娘は火を起こして湯を沸かすと背中の傷を熱い湯で消毒した。


「すまない」


 礼を言ったのは、歩か八田王か?……どちらでもいい、と歩は思った。


「困ったときは、お互い様というもの。気になされますな」


 ゆらゆらと揺れる炎の明かりに照らされた少女の顔は七恵によく似ていた。


 こんな昔から、七恵は生きていたのか?……感慨深く思うと、その顔が真由に変わった。


「このくらいの傷、すぐに治りましょう」


 彼女が歩の手から八枝刀を取った。そしてニヤリと笑った。その顔が恐ろしくて、歩は目覚めた。


 真由のことを知らなければならない。……歩は、彼女を疑っていなかったことを後悔した。


 出勤すると玉麗に事情を告げて、外出したいと頼んだ。拒絶されるかと思ったが、彼女はあっさり承諾した。


 真由の家はN市の川沿いにある長屋づくりの古い市営住宅だった。建物と建物の間にある側溝からヘドロの臭いがするひどい場所だ。


 彼女の家はすぐに分かった。〝桑野〟という表札が出ていた。それは、おそらくカマボコの板にマジックで書いたものだ。中に入るまでもなく彼女の暮らしぶりが想像できた。


 チャイムのボタンを押す。それは鳴ったが、誰も出てこなかった。


「桑野さんならパートに出ているよ」


 通路向かいで洗濯物を干していた年寄りに教えられた。真由の家が母子家庭だったことを思い出した。


 出直そう、と考えた。すると渋い玉麗の顔が頭を過った。家に誰もいないことぐらい気づかなかったのか、と彼女はののしるだろう。それで真由の母親が働いているという近所のスーパーを訪ねた。


 店員に尋ねると、真由の母親の真紀子はバックヤードで働いているということだった。その店員に頼んで、昼休みに会ってもらう約束を取り付けた。


 昼まで時間があった。近くの城跡を見て時間をつぶすことにした。江戸時代に築かれた城だが、戊辰戦争で焼け落ちていた。昔の面影を残しているのは石垣だけだった。


 石垣に沿って天守閣跡へ向かう。巨大な石垣が、かつての栄華と没落を思わせる。その石垣より昔から、七恵や月の巫女が生きてきたのかと思うと、時間の中を漂うような不思議な気持ちになった。


 昨夜の夢のことを考えた。それは八田王の経験なのか、自分の妄想なのか? 見たものが八田王の経験だとしたら、七恵は八田王と出会っているのかもしれない。そのことを彼女が話さないのは、当時、教養のない彼女は、助けた相手が八田王だと知らなかったのだろう。


 そんなことを想像すると不思議な縁に胸がバクバクいった。


 正午にスーパーの駐車場で待っていると、40代の細身の女性がやって来た。真紀子だった。


「娘が何かご迷惑をかけているのでしょうか?」


 彼女は車の助手席に乗ると、神経質そうな声で訊いた。


「いいえ。そういうわけではないのですが、モモさんとの関係を知りたいと思いまして」


 歩は車を走らせ、再び城跡の駐車場に向かった。他の店員に見られて妙な噂が立たない様に配慮したつもりだった。


「大国モモさんですね。大変なことになって、……私も心配していました」


 真紀子の表情は、ニュースで事件を知った他人が同情する程度のものだった。


「真由さんは、モモさんとも仲が良かったようですが、こちらに遊びに来られるようなことはありましたか?」


「いいえ。うちは貧乏暇なしで、住まいも他人をおもてなしできるようなものではありませんから。……真由は友達を連れてくることはありません。人はいい娘だと言いますが、あれでプライドが高すぎるのです」


 真紀子は正直に語っているように見えた。


「経済的なところがコンプレックスだということですね」


「ええ。あの子が小さいころは、そんなことはなかったのですが……」


「それは、ご主人のことが関係あるのでしょうか?」


 歩が率直に疑問をぶつけると、彼女の瞳孔が開いた。



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