第34話 父と娘

 冬美の長い物語を聞いた歩は、彼女のためにしなければならないことがあると思った。それが冬美だけでなく、モモや宝会計事務所のためになることだと信じた。


「冬美さんが、阿久さんと親子だと名乗りを上げたいのなら、僕は手伝うよ」


「それは、阿久さんに迷惑だと思うんです……」


 冬美の態度は、以前、彼女が話した母親の態度と同じだった。阿久を傷つけないために身を引いた事実だ。


「冬美さんは優しいね」


 歩は、彼女に深く同情した。


「私ね……」彼女が穏やかに話し始めた。「……家が貧乏だから、お父さんが金持ちだったら、お金をたくさんもらおうと思っていたんです。お母さんには、その権利があるはずだもの。でも、歩さんを見ていたら、お父さんも苦労したのかもしれないと思って……。それで、お母さんは身を引いたのだと思うの」


「僕を見ていたら……」


 歩は首を傾げた。


 若いころの阿久は自分と似たような存在だったのだろうか?……とてもそうは思えなかった。そして気づいた。彼女は、歩と阿久を重ね、自分と母親を重ね、歩と冬美の間に恋人関係を成立させてしまったのだ、と。


「若い会計士の人は、仕事が大変そうだから……」


 冬美がはにかむ。


 歩は、返す言葉を見つけられなかった。短い静寂が生まれた。エアコンの音だけが、グゥーンと響いた。


 ♪パァーンー♪


 突然、外で派手なクラクションの音がして、2人は静寂から解放された。


「もう、こんな時間」


 冬美が壁の時計を見て立ち上がった。


「歩さん、お仕事、頑張ってください」


 そう言い残して、彼女は立ち去った。


 歩はカーテンを開けて道路を見下ろした。自転車を引く冬美の背中があった。その背中が、不安定な何かを背負っているように感じて目が離せなかった。


 突然、冬美が振り返る。2人の視線がぶつかった。歩は、慌てて手を振った。





 出勤してから、玉麗に相談があると告げた。普段なら彼女の席で話すところだが、冬美と阿久のことがあるので打ち合わせ室に誘った。


「なんだ、私を連れ込んで、いやらしいことをするつもりではないだろうな?」


 彼女が目を光らせた。威嚇か期待か、いや、からかって楽しんでいた。


「まさか……」


「まさか?……私に、魅力がないというの?」


 玉麗は面倒な雇用主だった。


「そ、そんなことはありません。実は誰にも聞かせたくないことなので……」


 歩は、モモが意識を失ったのは、、という仮説を披露した。


「それで、冬美さんの邪念を払えれば、モモの意識が戻るというのね……」彼女の瞳には疑念の色があった。「……で……」言った瞬間、疑念の色が消えた。「……それはどうやってできるのかしら?」


「彼女の邪念は、生まれる前から父親に捨てられたというところにあると思います。それに伴う貧困にも原因があります」


「生活を助けろとでも?」


 玉麗が表情を険しくした。歩が、金を出せというと思ったのだろう。


「父親が名乗り出て、養育費を負担すれば改善すると思うのですが?」


「人の感情はそんなに簡単なものじゃないと思うわよ」


「それはそうですが、少しは変わるのではないでしょうか?」


「確かに歩の言うとおりだけれど、父親がどこにいるのか分かるのか?」


 玉麗が疑うように目を細めた。


「はい。それは冬美さん自身が突き止めていました」


 歩は冬美から聞いた、阿久と冬美の母親の昔の話を包み隠さず話した。


「ま、まさか……」玉麗が目を瞬かせた。「……阿久さんなの?」


「はい」


「ふむ……」玉麗が首を傾げる。「……彼女は阿久を父親だと知っている。なのに問題は解決しない。それは彼女に、親子の名乗りを上げる意思がないということよね?」


「彼女は迷っているのだと思います。自分が名乗り出れば、場合によっては父親の生活を壊すことになりますから。僕が説得しようと思うのですが、どうでしょう?」


「なんとも、けなげな娘だな。……母親はどう言っているの?」


「母親ですか?」


 言葉に詰まった。そこまで考えていなかった。


「冬美さんは未成年者。彼女が勝手に行動するなら問題ないが、我々が介在して何らかの法的行為をするなら、母親の意思を無視できない……」


「そうなんですか?」


 玉麗がテーブルをたたいた。


「馬鹿か! 社会人として勉強しろ」


「ハイ!」


 反射的に大きな返事をした。それとは逆に気持ちは大きくへこんだ。


「アホ、ボケ、カス……」という玉麗の罵倒から解放された後、自分の席に座る栄花の隣でボーと考えた。


 冬美の母親に会いに行くべきか、止めるべきか……「to be or not to be」うつろな瞳で歌うようにつぶやいた。


「アユミ、どうしたの?」


 案じた栄花が小首をかしげた。


「栄花、目を合わせちゃだめよ」


 梅世が栄花を抱き寄せた。


 貧乏を恥じる冬美に聞いても、母親に会うことを許してはくれないだろう。強引に話を進めたら彼女を傷つけることになる。……歩は別の方法を考えて無い知恵を絞った。


「そうだ!」


 名案を思い付いて玉麗のもとに飛んだ。


「……香さんが月の神の声を聞けたのに、日の神の声を聞けなかった原因を考えたのですが、によるのだと思うんです。御神体の鏡があれば、依代を呼ぶのと同じで、日の神を神域に呼び出すことが出来ると思います。そうすれば香さんを通して、直接、日の神と話ができます。それで……」


 歩は、事務所に保管してある四角縁神獣鏡を貸してほしいと頼んだ。


「なるほど。それには一理あるが、あれは1億円だ。もしなくしたり壊したりしたらどうする?」


 彼女の視線が刺すようだった。


「そんなことは絶対しません」


「世の中に絶対はない。想定外は常にあるものだ。歩には悪いが、1億の博打をするつもりはない。別の手を考えなさい」


 きっぱりと断られ、渋々引き下がった。


 しばらくほかの手段を考えてみたが、鏡を使うこと以外に方法が思いつかなかった。


 しかたがない!……歩は決意した。玉麗が席を外した隙を見計らい、ロッカーの鍵をあけて鏡を取り出した。


「アユミ、それをどうするつもり?」


 気づいた好子が声をかけた。


「少し借りるだけです」


 歩は、鏡をカバンに入れて足早に階段に向かった。


「アユミちゃん、止めろ、1億円だぞ」


 阿久が立った。彼は、事務所の出入り口まで追った。その腕を玉麗が握っていた。


 歩は階段を駆け下り、ビルを飛び出していた。


「玉ちゃん。いいのかい。1億円だよ」


 阿久は玉麗の涼しげな顔に驚いた。


「今回の事件。場合によっては宝会計事務所の人間も、問題の一因なのかもしれない」


 彼女が事務所に戻る。


「どういうことだ?」


 玉麗を追った阿久が首をひねる。


「今はまだ話せない。でも、歩は、あいつなりの解決策を模索している。今は彼の運を信じよう」


 玉麗が窓際に立ち、駐車場を出ていく車を見送った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る