第51話 希望

 夏の陽が昇るのは早い。


 玉麗は眩しさで目を覚まし、ぼんやりした意識の片隅に歩の裸体のイメージを感じた。まだ酔っていて夢を見ているのだと思ったが、朝日の持つ熱気が、現実の世界にいるのだと教えてくれた。


 瞼を持ち上げると、男性のものと思われるうなじが目に留まった。


 まだ夢を見ている?……自分を疑いながら、目の前の項から視線を降ろした。背骨の浮いた細い背中があり、その先には小さな尻があった。顔は見えないけれど、それは歩の背中だとすぐにわかった。


「歩。どうして私のベッドで寝ている?」


 疑問を持つのと同時に、自分の着衣に乱れがないか、慌てて確認した。寝ぼけたまま彼を襲ってしまった可能性がある。


 着ていたものはパジャマでもインナーウエアでもなかった。仕事用のスーツだ。それで昨夜、酔ったまま歩の部屋に上がり込んで眠ってしまったことに気づいた。


「まいったわね……」


 そうは言いながら、歩が戻ってきたことに喜び、安堵を覚えた。


「ウゥーン……」


 歩が声を漏らして寝返りを打つ。


 玉麗は、慌ててベッドの隅に寄った。


 大の字になった歩の首から股間に掛けて現れた八つの枝を持つ剣形の神紋は、昨日より色が薄くなっていた。その取っ手の部分も普段の、入社面接で彼が口ずさむタブーの音楽に合わせて露出した時のものと同程度に戻っていた。


 惜しい。……正直、そう思った。が、大きいからといって取って食おうというつもりもない。ただ、普通じゃないものは面白いと思う。生物多様性の時代、ユニークであることは価値がある。


「幸せそうに寝ているわね」


 歩の顔はどうみても〝能天気〟という言葉がぴったりくる。それに比べたら、胴体を真っ二つに割くように貫く神紋は異様だ。まさに御神体にふさわしい。それを体内に取り込んだ歩は何者だろう。


 それをマジマジと観察すると視線は下がる。……いけない。目が、離せない。


「阿久さんの言ったとおりだ。ずいぶんと小さい」


 思わず、それをツンツンと人差し指で突いた。


「ウゥーン……」


 歩が首を振る。


「面白いやつだな」


 ツンツンと、もう一度……。


「ウゥーン……」


 反応は同じだった。


 ツンツン……。3度も4度も突けば、たとえ熟睡していても神経細胞が刺激を脳に伝達する。


「やばい、大きくなった……」


 玉麗は逃げるようにベッドを下り、足を忍ばせて玄関ドアへ向かった。


 ベッドが揺れたからか、歩が目を覚ます。


「あれぇー、玉麗さんじゃないですか?」


 間の抜けた声を背中に受けて足が止まった。笑ってしまいそうだった。


「お、おはよう」


 振り返り、胸元で小さく手を振った。


「玉麗さん。僕の部屋で、何をしているんですか?」


「ナニって……。それはこっちのセリフだ」


 ある意味、逆切れだった。歩の股間を指さした。


「エッ、アッ、エッ……」


 歩が慌てふためいて股間を隠す間に、玉麗は彼の部屋を抜け出した。


 自分の部屋に戻り、シャワーを浴びる。水に洗われて頭が冴えれば冴えるほど、歩の今朝と昨日のナニがコピー&ペーストよろしく脳内で増殖して占拠した。


 朝から飛んでもないものを想像してしまった。……玉麗のプライドが自分の行動を軽蔑した。事務所で顔を合わせた時、彼に何と言えばいい?……シャワーを終えてからあれこれ言い訳を考えた。


 考えたところで、疲れるだけで結論は出ない。気付いたときには始業時間が近づいていた。急いで化粧をして事務所に下りた。


「おはようございます。遅かったですね」


 最初に声をかけてきたのは梅世だった。


「ええ、二度寝しちゃって……」


 玉麗はソファーに掛けている歩をちらりと見やった。彼がそこにいるのは、自分の席を栄花に占領されているからだ。


 歩の隣には阿久が座り、昨日の話をしていた。


「八田王に憑りつかれたアユミちゃんは、月の巫女と日の巫女を相手に、とてもいやらしい行為に及んでいたんだぞ」


「本当ですか? 僕どうしよう……」


 歩が頭を抱えた。


 それは嘘八百嘘。……玉麗は言いかけて口を閉じた。歩の部屋では何もなかったが、3人が姿を消した後、どこで何をしていたのか、玉麗にもわからない。歩の反応を見るに、彼自身も記憶がないのだろう。


「高校生相手に、とんでもないことをしてくれたなぁ」


 阿久は、歩をからかって楽しんでいた。


 玉麗が席に着くと、歩がその前に立った。


「昨日は、すみませんでした。僕、とんでもないことをしてしまったんですね。阿久さんに聞きました。僕、良く覚えていなくて……」


 彼は真剣に詫びていた。


「そうよ。とてもいやらしかったわ。でも、済んだことは仕方がない。体調は?……いやそれより、歩が連れ去った真由さんはどうしたの?」


 半分からかい、半分真面目に尋ねた。


「それなら、連絡がありました。昨夜、家に戻ったそうです。どこで何をしていたのか覚えていないそうですが、無事に戻ったとお母様から電話がありました」


 好子が立って報告した。


「良かったわ……。何も覚えていないのは、歩と同じね」


 事件が大きくならなかったことを喜んだ。


「妊娠していないと良いけどな」


 阿久が横から余計なことを言って歩を脅かす。


「それからモモさんは、退院したそうです」


 大国から連絡を受けた梅世が告げた。


「そう。それも目出度いわね」


 玉麗は言ってから、大きな溜息をついた。心に引っかかるものがある。


「玉ちゃん。全て解決したというのに、浮かない顔だな」


「だって、1億円の鏡がなくなったのよ。これじゃ、ただ働きじゃない」


 日之宮に歩が納めた鏡を取り戻せる方法はあるだろうか? いや、御神体は奉納すると大国と約束した。それとは別に大国に費用を請求しよう。……真剣に考えた。


「なるほど。それはアユミちゃんに責任を取ってもらうしかないな。持ち出したのは彼だ」


 阿久が振り返り、歩に目をやった。


「あの時は、それしか思いつかなくて……」


 歩が身を小さくした。


「取り返せないの?」


 梅世が訊いた。


「一旦おさめたものを持ち出したら、盗んだのも一緒よ。奴奈之宮の勾玉と一緒に大国屋から奉納した形にするしかないわね」


 玉麗は、建前の正義を告げた。


「鏡は、うちから神社に奉納した形にしたらどうですか。社会貢献ですよ。我が会計事務所の株が上がります」


 梅世が拳を振って力説した。


「それでは、大国屋から手に入れた時点で、うちの所得になる。所得税を課税されて、税金分だけ丸損になるわ。それを避けるには、大国屋から神社に直接に寄付したことにするしかないのよ」


 説明すると梅世がシュンとした。


「鏡は一旦大国屋に返したことにして、別に費用を請求したらどうだい? いささか面倒だけれど」


 阿久が提案した。


「大国さんからは、代金として鏡をもらったのよ。今更金にしてくれなんて、ウチの信用にかかわる。……阿久さんが言う通り、今回の報酬1億円は、アユミに払ってもらいましょう。給料から取り立てるわ」


 玉麗は歩に向かって宣告した。彼の反応が楽しみだ。


「えっ、僕の給料からですか?」


「歩が勝手に鏡を持ち出したんだもの。……窃盗、もしくは業務上横領で前科が付くよりいいでしょ」


 フン、と鼻で笑ってやった。


「月の巫女と日の巫女を抱いていい思いをしたんだ。あきらめろ」


 阿久が歩の肩に手を置いて慰めた。


「抱いたって……。本当にそうなんですか? 僕は何も覚えていないんですよ」


「それは、お前の記憶力不足だ。自分を恨め」


「そんな……」


 歩が頭を抱えて座り込んだ。


 そんな彼を、梅世と栄花が笑っている。


「実際にやったとしても、1億円は高いわね」


 二日酔いの好子が言った。


 歩が電卓をたたきはじめる。返済の計算を。


「一般的なサラリーマンの生涯年収は2億円といわれている。半分は返済で取り立てられるということだな」


 阿久が教えて笑った。


「もう、夢も希望もない……」


 歩が呻いた。かと思うと、「エッ?」と声をあげて立った。


「アユミちゃんどうした?」


 阿久が訊いた。


「声がしたんです。この借りは、必ず返すぞ、って……」


 そう応じながら歩が周囲を見回した。


「誰もいないわよ。大方、八田王の声でも聞いたんじゃない」


 玉麗は教えてやった。


「八田王……?」


 彼はつぶやき、自分の胸を抑えた。


「痛むのか?」


「い、いいえ……」


 彼はへなへなと座り込んだ。その姿には、かつての皇子の面影などない。


「それにしても……」


 玉麗は弱弱しい彼の姿に、ひそかに期待していた。彼ならばこのビルの5階に住み着いた霊異のモノの正体を暴き、浄化できるのではないか、と……。


                               (おしまい)

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成戸歩の妖(あやかし)事件簿 ――眠れるJKと、日と月の巫女―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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