第38話 降臨

「おりた……」


 身体を揺らす香を認めて七恵がつぶやいた。


「あなたは日の神ですか?」


 歩は尋ねた。それに対し、香の唇からこぼれた言葉は答えにならない切ない感情を帯びた消え入りそうなものだった。


「八田王さま……」


「君は?」


「ああ、やはり私を好いてはいただけなかったのですね……」


 声が泣いた。


 ――シャリ――


 枯葉を踏む足音に振り返る。玉麗の顔があった。七恵が右手を上げて彼女を制した。


「月の巫女がうらやましい」


 香がシクシクと泣いた。


「あなたは日の巫女ですか?」


 日の神でなければ、日の巫女だろう。


「八田王さまにそのように言われようとは、……なんと切ない」


「僕は成戸歩です。矢田王ではない」


「そんな嘘を、どうして……」


 香が顔を上げた。歩を見つめる瞳は、まるでウサギのもののように真っ赤だった。それが陽の色か、血の色か、愛や恨みといった感情の色なのか、理解できない歩は戸惑いながら尋ねた。


「君は水野冬美に呼ばれたのかい?」


「私はひとり、このような森の中でカラスに突かれて朽ちているのに……」


 二人の言葉はかみ合わなかった。


「森の中?……そこは、どこ?」


「……」


 香が、二度三度と舞うように身をひるがえす。歩の胸の神紋が熱を帯びた。


「あ、あぁ……」


 彼女が力尽きたように崩れ落ちた。


 助けてやりたい。……歩の中で、誰かが言った。ズンと殴られたように頭が痛んだ。


※   ※   ※


 玉麗は、七恵に制されて足を止めていた。歩と話をしていた香が地面に倒れたのに、歩はぼんやりと立ち尽くし、何かをブツブツ言っているだけで助けようとしない。それで足を進めた。


 今度は、七恵にも止められなかった。


 香を抱き起す。とても軽い身体だった。


 玉麗には理解できないのだが、歩は誰かと話しているようにぶつぶつとつぶやいていた。かと思うと、突然、走り出した。ザザザと笹やぶに分け入って行く。


「歩、待て! 戻れ!」


 玉麗は呼んだが、彼は止まるどころか振り返りさえしなかった。


「歩の魂が日の巫女に握られたのかもしれない」


 七恵が後を追った。


「まったく……」


 玉麗はぼやき、腕の中の香に目を落とした。息はある。気絶しているけれど、死ぬことはないだろうと思った。


 彼女を背負った。そうして七恵を追い、北向きの松林の中を走る獣道を下った。その先にあるのは、かつて山伏が修行した天狗の森だろう。そこに何かあるのか、考えたところで答えは見つからないだろう。それだけは分かった。


 北斜面の天狗の森は薄暗い。日が昇って間もないというのにヒグラシが鳴いていて、黒松の木の枝という枝にとまっているカラスが、時折、グァーと不気味な鳴き声を上げた。


 ――オオー!――


 吠えるような声がした。驚いて、足を止めた。


 ――オオー!――


 改めて聞けば、歩の声だ。


「今月は給料なしだ」


 見えない歩に向かって告げ、ゆっくりと歩き出す。天狗の森は目の前だ。


 乾いた空気が松の梢を渡り、笹の葉を揺らしている。あちらこちらに小さな石像が隠れていた。その中に、地蔵のように立っている七恵の姿があった。


「ここに来るだろうという予想は当たったが、……歩はどこだ?」


 玉麗は彼女の隣に並んだ。


 七恵は小さく頭を振った。分からないということだろう。


「モモのところに向かったのかもしれません。うふ」


 意識を取り戻した香が背中で言った。


「気が付いていたのなら、言ってちょうだいね」


 中学生相手に恫喝するわけにはいかない。どいつもこいつも、と思いながら優しく注意して香を降ろした。


「モモのところか。……歩は徒歩だ。先回りしよう」


 玉麗は七恵と香を連れて公園の駐車場に戻り、彼女たちを乗せて病院へ向かった。


※   ※   ※


 どういうことだ?……歩には意識があった。しかし、身体は自分の自由にならなかった。〝何か〟に操られているようだった。肉体が勝手に藪を駆け抜けた。


 天狗の森の中ほどに〝それ〟はあった。


 笹に覆われた窪地の中に、巫女装束の少女の身体が横たわっていた。仰向けに空を見つめる真っ白な顔は、鏡に映った日の巫女の顔だった。


 その顔は、4カ月前の早朝、歩の枕元に立った学園長の式神の顔と酷似していた。


「大丈夫か?」


 声をかけて抱き上げると、一瞬、巫女の瞳が歩を見つめた。


「矢田王さま……」


 彼女は微笑み、消え入るような声でささやいた。


「なんだ?」


「……」


 彼女は声を発することができなかった。顔から生気が消え、肌が氷のように透明になっていく。その奥に頭蓋骨が見える直前、身体も衣装も、見る見るうちに灰となり、そよぐ風に吹かれて消えた。


「オオー!」


 歩の喉が勝手に音を吐き、全身が震えた。


「オオー!」


 八田王が泣いている、と歩は感じた。


 お慕い申し上げておりました。……脳裏に日の巫女の澄んだ声が波紋のように広がって消えた。


「すまぬ」


 一言発して立ち上がった。それからは空を見上げて走った。消えた日の巫女を追うように……。


※   ※   ※


 玉麗は、七恵と香を連れてモモの病室を訪ねた。


 モモの意識はまだ戻っていなかった。ベッドの横に大国が座っていた。


「これは、皆さん。……何かあったのですか?」


 大国が目を丸くして、3人を見やる。


「ええ、実は今しがた日の巫女との接触に成功しました」


 玉麗は勿体つけて言った。それは仕事上の駆け引きだ。


「も、モモが、目覚めることができるというのですか?」


 大国の瞳に希望の光が揺れた。


「それはまだ分かりません。私どもの推理が当たっているのなら、ここに我が社の成戸がやってくるはずです。そうしたら、事態が変わると思います。私たちは真相に近づきつつあるのです」


 玉麗は慎重に、当たり障りのない説明をした。


 大国の希望と緊張が高まっていた。彼の喉の鳴る音がした。


「待たせていただきますよ」


 そう言ってから改めて、七恵たちを歩の助手だと紹介した。


「そうでしたか。奴奈之宮神社では、私がとんでもないことをしてしまい……」


 声が澱んだ。切りつけたのは彼が先だとはいえ、結果、傷を負ったのは彼一人だ。彼の中では、自分のほうが被害者だといった思いがあるのだろう。


「……モモのために、お力を貸していただき、ありがとうございます」


 彼は腰を上げて深く頭を下げた。


「気にしないで、うふ」


 香は答えたが、七恵はこけしのように動かなかった。


 4人は待った。歩が現れるのを。が、時が流れて昼になっても歩は現れない。香の腹がグゥーとなった。


「私が間違っていたのでしょうか? うふうふ」


〝うふうふ〟の語尾が泣くように下がった。


「もう少し待てばいい。まもなく来るはず……」


 七恵が確信ありげに言った。



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