第37話 四角縁神獣鏡

「俺の宝剣を返せ……」


 歩はいつもの夢で目覚めた。


 目覚めた後は、いつもと違った。隣に七恵がいる。しかも、すやすやと寝息を立てて……。


 どうしてここに?……自分に問いかけ、香の行水、いや、修行が終わるのを待つうちに眠ってしまったことを思い出した。


 壁掛け時計の針は午前1時を指していた。女子寮のドアは鍵がかかっている時刻だ。今から自分の寮に帰ることはできないし、朝までも時間がある。


 歩は、七恵の寝姿に目をやった。彼女も話しながら眠ってしまったのだろう。制服を着たままだ。おかっぱ頭に小さな鼻、薄くも厚くもない唇が薄っすら開いていて、穏やかな寝息が漏れていた。1500歳を超えているというのに、その寝顔は少女だ。


 歩は不安を覚えた。ここ数夜、自分の中の誰かが、知り合いの女性の名前をあげ、彼女らをものにしろ、と欲望を掻き立てていたからだ。その声がして、七恵に何かをしてしまうのではないか……。


 歩の不安は杞憂だった。普段なら目覚めるとほどなくあの声がして意識を失うのに、声はいっこうに聞こえなかった。七恵がいるからかもしれないと思った。途端に安堵し、眠りに落ちた。


「俺の宝剣を返せ……」


 その声で、次に目覚めたときは、空が白地んでいた。


 以前なら真っ先に七恵を彼女のベッドに戻すところだが、その日は放置してシャワーを使うことにした。今日は、なんとしても香と会わなければならない。


 シャワーを追えて身支度をする。軽い化粧と学園のジャージ、青いウイッグ。鏡の中に自分でも惚れ惚れする女性の姿があった。女装に抵抗はなかったが、青いウイッグは早く取りたいと思う。その色は自分の趣味じゃないし、似合うとも思えない。


 部屋に戻ると七恵が目覚めていた。歩のベッドでぼーっとしている姿は、子猫のようだ。


「香さんと会うからから、準備をしてね」


 アユミの声で言うと、彼女はベッドを飛び出した。二人の朝食は、ざる蕎麦だった。七恵の部屋には、それしか買い置きがなかった。


「飽きない?」


 不老不死の七恵は栄養の偏りで身体を壊すことはない。けれど、同じものを食べ続けて飽きるのは自然な感覚だと思う。


「蕎麦は好物なの」


 のっぺりとした顔が応えた。普通に笑えるようになったらいいのに、と思った。


「香さん、起きているかな?」


 尋ねると七恵は、昨夜のうちに約束を取り付けたという。なかなか気が利いている。


「駐車場にいるはず」


 彼女はそう言うと席を立った。


 駐車場に白衣姿の香がいた。


「おはようございまする。うふ」


「僕のためにすまないね」


「いえいえ、七恵さんのためです。うふふ」


 香が涼しい笑顔を作った。


 車に乗りこむと涅槃山の中腹にある天狗の森に近かい展望公園に向かう。そこに車を停めて歩くのが、最も楽に日之宮に行く方法だ。


「青い髪も似合いますよ。取ってしまうのは、残念です。うふ」


 歩の気持ちを知ってか知らずか、香が青い髪の歩をほめた。


「女装には慣れたけど、青い髪はどうもね……」


 苦笑し、ウイッグをむしるように外した。


「私の白髪はおかしいですか?」


 香が後部座席から手を伸ばし、歩の手から青いウイッグを取って自分の頭に乗せた。


 歩は「うふ」と言わない香に興味が湧いて、ルームミラーで後部座席に目をやった。灰色の瞳と視線がぶつかる。


「全然おかしくはないよ。それは香さんの個性だ」


「青い髪の私は、香ではない?」


「いいや。見た目が違っても、香さんは香さんだよ」


「それなら、私の個性はどこにあるの?」


 歩は返事に困って、助手席の七恵に目をやった。


 座高の低い七恵は青空を見上げるように座っていて、歩の視線を無視した。七恵にすれば、香の疑問は自分の疑問でもあったのだろう。


「個人の本質は個性と別物で、白髪は個性のひとつに過ぎない……、ということかな」


 納得のいく説明はできなかったが、それ以降、香が質問を重ねることはなかった。


 車は山裾を巡り、それから細い山道を上った。展望公園の駐車場に車を停めて降りた。日之宮の祠まで、そこからなら十分ほどだ。


 歩は事務所から持ち出した四角縁神獣鏡の箱をしっかりと抱えて坂を上った。それが日之宮から盗まれた御神体に違いないと確信している。そうでなければ、大国は1億円も出してその鏡を買うはずがない。


 日之宮の祠は熊野山の頂の平たい岩の上にある。それは朝日の中でぽつねんと誰かを待っているように見えた。


「これがあれば、日の神と話すことができると思うんだ」


 歩は四角縁神獣鏡を取り出した。


「これが日之宮の鏡か……」


 歴史に造詣の深い、端的に言えば、長生きして史実を目の当たりにしてきた七恵が興味深げに観察した。


「ふーん……」


 巫女という資格にあるはずなのに、香は無関心だった。


 空っぽの祠に鏡を納めると、それは鈍く輝き始め、中に少女の白い顔を映した。モモとは異なる顔だ。


「おっ……」


 歩の胸が鳴った。


「あ……」


 短い声を発して、香の身体が前後に揺れだした。



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