第36話 孤独
「仕事をしながらでいいので、耳だけ貸してください。冬美さんの同級生の大国モモさんの事件解決を依頼されていまして……」
歩は、モモの事件を調査するなかで冬美と知り合い、一緒に涅槃山に登ったことを朋子に話した。
時おりダンプカーがやって来て話の邪魔をした。朋子は旗を振ってそれを誘導する。そうした手間はほんの数分のことだけれど、日差しは絶え間なく彼女を焦がしていた。
「ここ2カ月の間に、冬美さんに変わったことはありませんでしたか?」
汗をふきふき、歩は尋ねた。
「モモさんが意識を失ってから、自分の責任だと言ってふさぎこむことはありましたが、……娘がモモさんに何かをしたというのですか?」
自分の娘が疑われていると感じたのだろう。朋子が気色ばんだ。
「そういうことではないのです……」
話の持って行き方が拙かった。……歩は後悔した。その誤りを取り繕うために、冬美が阿久を父親だと考えているということを話さざるを得なかった。
「……そうですか。そんなことをあなたに。……確かに冬美の父親は阿久さんです。が、もう遠い昔のことで、私は恨んでも後悔してもいませんし、こうして働いています。なんとか娘を大学にもやれそうですし……」
彼女は、冬美が父親のことを知っている、とわかっても動じなかった。冬美が父親のことを調べていることに薄々気づいていたのだろう。
「冬美さんが父親を知ったからには、阿久さんにも娘がいると知らせるべきではないかと思いまして。……私などが口を出すことではないと思うのですが……」
夏の日差しはきつく、茶色の大地を白くしていた。日陰のない道路端に朋子、歩、七恵と一列に並ぶ様子も不思議な景色をつくっていた。
「そのことは、しばらく考えさせてください」
朋子がそう応じた。
その日は、彼女の携帯電話の番号をきいて別れた。
車に戻った歩は、エアコンの強さを最高にして汗を拭く。ハンカチから土埃の臭いがした。
「どう思う?」
七恵に訊いた。彼女は1500歳。人生経験は豊かなはずだ。
「どう、とは?」
七恵は涼しい顔をしていた。
「冬美さんのお母さんが阿久さんを恨んでいて、その気持ちが冬美さんを悪い方向に向かわせているということはないかな?」
「表情を見る限り、ない、と言いたいけれど、人の心は簡単ではない。……あの仕事がどれだけの収入になるのか分からないけど、楽な仕事ではないはず。阿久という男に捨てられたことを心のどこかで恨んでいる可能性は十分にあると思う」
七恵が憂えるように言った。
「そうだよね」
阿久を恨んでいる、……そう言わない水野母娘をけなげだと思う。出来るだけ力になってやりたかった。
「とはいえ、その恨みがモモへの妬みに代わり、彼女を日の神に差し出したとはいいきれない」
「なるほどね」
七恵の賛同を得られず、少しだけ失望した。早朝、自転車で帰った冬美の寂しげな背中を思い出す。彼女のために、何かできることがあるはずだ。
「学園の女子大に、授業料免除で入れてあげられない?」
歩は無茶を言った。聖オーヴァル学園は、どちらかといえば富裕層の通う学園だ。何かとお金が必要になる。授業料を免除したぐらいで、友達とうまくやれるはずがなかった。
「冬美さんにそうするのなら、真由さんにもしなければならない。そうした基準で授業料を免除するのなら、日本中、世界中に無料にすべき子供たちがいる。学校経営など、できないのではないかな?」
その時の話ほど、七恵の事務的な口調が似合ったことはなかった。
「そうだよね」
歩には次の言葉が見つからない。
「見習いとはいえ会計士事務所の所員。そのくらいのことは分かるでしょ?」
「資本主義社会は厳しいなぁ」
「資本主義も共産主義も同じ。政権の運営次第で、世の中は住みやすくもなれば済みにくくもなる」
「1500年の間には、色々あったのだろうね」
歩はエアコンの設定を元にもどして車を出した。
「戦争がないだけ、今はマシな世の中」
「平和が一番だよね」
「うむ。しかし、油断すると、すぐに争いになるのが人間の世の中」
七恵が小さな身体をシートに沈めて目を閉じた。経験してきた戦争の歴史を、思い返しているように見えた。
「そろそろ、香さんの行水は終わったかな」
不機嫌にも見える七恵の気を逸らすように、あえて明るい声で言った。世の中の不条理に抵抗するかのように、アクセルを踏みこんだ。
正面に涅槃山が迫る。車を駐車場の目立たない場所に停めてから、歩は七恵が持ち込んだジャージに着替えた。それは、歩には小さくパツパツで、股間のふくらみが目立った。青い髪は不自然だけれど、歩を女に見せるには十分な小道具だった。
2人は堂々と……、いや、歩は身体の前に四角縁神獣鏡を入れた紙袋を下げて前を隠しながら学生寮に入った。
香の部屋を訪ねる。ノックに返事はなかった。まだ水ごりの修行は続いているようだ。僅かにシャワーの音がした。
2人は七恵の部屋に戻ってシャワーを使った。汗を流し、ベッドに腰掛けて七恵の昔話を聞きながら、香の修行が終わるのを待った。
1500年も生きている七恵には、語るべき記憶が山ほどあった。彼女は1200年前、ちょうど月の巫女と日の巫女が涅槃山に入ったころ、富士山や磐梯山などが噴火し、飢饉で人々が餓死した話しをした。
その物語を聞きながら、彼女が餓死者を見る時の気持ちを思い、あるいは餓死者の苦しみと悲しみに共感を覚えた。今までそうしたことに思い至らなかったのは、豊かな現代社会で他人と同じように生きていることに、横並びの安心感があったからだろう。それを思うと自分が嫌いになった。
七恵の話は負の感情を胸いっぱいにさせ、空腹さえも忘れさせた。それだけでなく、涙が体力を消耗させた。
「他人のために泣ける歩は偉い」
七恵が歩を抱きしめて励ます。それに対して、歩は何も応えられなかった。
「これからも戦争などが起きなければいいが……」
彼女が憂いた。
「核戦争にでもなったら……」
歩は想像した。焼けつくされた大地の真ん中でひとり、不死身の彼女が生きている世界を……。再び涙があふれた。
「案じることはない。私には死を選択できる玉がある」
彼女は金庫に保管されている玉のことを言っていた。それが核戦争で燃えてしまうことはないのだろうか?……歩は不安だった。あれやこれや、未来のリスクを考えるときりがない。そうしているうちに、七恵の膝枕で眠ってしまっていた。
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