第43話 涙

 歩は真由の唇から外の景色に目を移し、決心してから彼女の瞳に目をやった。


「モモさんに日の神が降りた時のことだけど……」


「ええ……」真由が相槌を打った。


「これは僕の想像だよ。真由さんにとっては嫌なことだと思う。だから信じなくてもいい」


「うん」


「モモさんのお父さんがN市に支店を出し、真由さんのお母さんを働かせてあげると言った時、真由さんはどう感じたかな?」


「それは……。そんなことが、モモの事件と関係があるの?」


「月の巫女がね、誰かが日の神とモモさんの縁を結んだと言うんだ。それは何らかの強い意志らしい」


「私がそれをしたと……?」


 彼女は賢い。察しが良かった。


「人の中には無意識という世界がある。意識にのぼらない気持ち。……深い心の中のことだ」


「ええ。聞いたことがある。イドとかエスとか、そんなやつね?」


 彼女の知識の豊かさに驚いた。


「うん。意識上では怒っていなくても、無意識の中では怒っていたり、泣いていたり、笑っていたり……」


「私の無意識が、日の神とモモを結んだというのね」


 彼女の視線が刺すように歩を見ていた。


「それは僕の想像だよ。……もし、僕の想像が当たっているのなら、モモさんの意識が戻るためには、真由さんの気持ちが解きほぐされることが必要かもしれない。だから、自分をごまかさないで、自分の心と素直に向き合ってほしい」


 彼女の父親の話を聞きたかったが、とても言い出せる雰囲気ではなかった。


「うん……」


 真由は一見素直に応じたものの、実質は沈黙した。


 まいったなぁ。……彼女を見ると視線が絡み合う。そして逸らせない。


 ハァー、ハァー……。真由の呼吸が荒くなっていく。


 歩は後悔した。彼女を追いこんでしまったことに……。


「……真由さんにとっても、モモさんは大切な友達だよね。そんな友達を誰かの手にゆだねるなんて……。僕の考えすぎだったようだ。忘れてくれ」


 彼女を苦悩から解放するつもりだったけれど、彼女の反応は違った。


「違うわ……」真由は強く言った。「……私は意識していた。あの時、モモなんてどこかへ消えてなくなれ、……って考えていた。私は、モモに成り代わりたかったのよ」


 真由の顔が歪んでいた。その頬を涙がこぼれた。それから彼女は背中を丸めて泣いた。泣き続けた。こぼれた涙がジーンズを濡らした。歩は、かける言葉を失っていた。


「自分では信じたくなかったけど、そう考えていた……」


 彼女の告白する姿は、見ているのも辛かった。


「私が……、私は……」


 真由の言葉は、唇の内側で渦を巻いていた。出口と続きを求めていた。きつく握られた拳は震えていた。


「無理をしないで……」


 歩はそれしか言えなかった。


 しばらく泣いた後、彼女が言った。


「私の気持ち次第でモモの意識が戻るの?」


「いや……」そんなに簡単なことではなかった。「……香さんが言うには、日の神がモモさんに執着しているそうなんだ。モモさんが日の神を受け入れないなら、代わりに日の神を受け入れる依代が必要だ」


 歩は、また嘘をついた。真由の父親が大国に奪われた八枝刀や矢田王のことを話さなかった。問題は彼女の中だけでなく、彼女が受け継いだ因縁にもあるのだ。


 身体のなかを木枯らしが吹いたように胸がざわついた。


「私は何もできないのね。私がいけなかったのに……、私が……」


 彼女は再び泣き始めた。その涙の量に、彼女の肉体が枯れてしまうのではないかと不安を覚えた。彼女の涙が枯れることがなかった。


「どうすればいいのかな……」


 泣くだけ泣いて少し落ち着いた真由が、ふらりと車を降りた。紫がかった空を見上げて涙をふいた。


 歩も車を降りた。瞬く間に、額に汗が浮いた。


 真由は冬美に電話をかけ、用事ができて行けなくなった、と伝えた。


「自分を責めることはないよ。慌てることもない。自分の気持ちに素直になって、気持ちを言葉にすることだ」


 歩が真由の手を取ると、真由は不思議そうな表情で自分の手に視線を落とした。その瞳に力が宿った。しかし、それで終わったわけではなかった。


 2人は車に戻り、空が陰るまで時間を使った。真由は何度も何度も泣き、泣き疲れるとため息をついた。


 歩は、闇が濃くなったのを確認して車を走らせた。彼女を家まで送り届けるつもりだった。


「私、どうしたらいいのかしら?」


 真由は答えを求めていた。


「その道をこれから探そう」


 格好をつけて言った時、歩の腹がグーと鳴った。


 格好悪いぞ、オレ。……自分の運の悪さが情けない。が、見れば、真由の曇った表情に笑みが浮かんでいた。まんざら運が悪いわけでもないらしい。目の前に、ラーメン店の看板もあった。


「ラーメン、いいかな?」


 訊くと、真由がうなずいた。


 店内の冷房はTシャツの真由が凍えるほど強く、出てきた醤油ラーメンのスープは濃かった。


 濃い湯気の中で、真由の涙が丼に落ちた。


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