第28話 童貞の噓
寮に戻ると、疲れた身体をベッドに横たえた。そうしてピンク色のチラシをながめて迷う。巫女の美子に聞きたいことは山ほどあるけど、デリヘルに電話を掛けることには抵抗があった。怖いのだ。
趣味の恋愛シミュレーションとエロゲーで場数を踏んだとはいえ、歩の女性経験は皆無に近い。経験といえば、人魚の鱗盗難事件で1500年前にタイムスリップした時、七恵と夫婦になり、人魚と関わったことだけだ。つまり記憶という意味では決して童貞ではないけれど、その記憶が魔法で改ざんされたものの可能性もあった。そうした記憶の曖昧さにおいて、あるいは、現在の肉体と限定するなら、童貞の可能性も残されていた。
恐怖の原因は童貞ということだけではなかった。寮にデリヘル嬢を呼んだとばれたら、玉麗に何をされるかわからない。デスゲームは御免だ。
チラシの電話番号を何度も読み返した。そうして、番号をそらんじることができるようになったけれど、スマホは手にしなかった。
考えても、考えても結論に至らず、チラシを見つめて時間だけが流れ、いつの間にか眠りに落ちていた。
「俺の宝剣を返せ」
歩は、闇の中に声を聞く。見えるのはただ、無限の漆黒の闇。聞こえるのは宝剣を要求する地を這うような声ひとつ……。
「俺の宝剣を返せ……」
耳から、鼻から、汗腺から……。身体中の穴という穴から闇が侵入し、身体が重くなり、思考も鈍る。闇が肺にいっぱいになると息ができなくなり、脳にいっぱいになると思考が止る。
歩は、あがき、悶え苦しみ、そして目覚めた。
「また、あの夢か……」
昨夜見たものと同じだった。スマホに目をやる。
30分か。……眠った時間も、昨夜と一緒だ。
不安を覚えた。昨夜と同じなら、目覚めている時も、自分の中の誰かが過去の性的な経験を思い出させて意識を奪うからだ。
〝無〟だ。何も考えないようにしよう。……歩は決めた。僧侶が座禅を組むように、何も考えないと……。
お前は馬鹿か?……歩の中の誰かが嘲り笑った。
思い出せ。背中にあたった香の巨乳を……。
思い出せ。詩織と合わせた唇の甘さを……。
思い出せ。額に触れた冬美の丸い尻を……。
その声に歩の脳は痺れた。それは頭から胸に、腹に、股間へと、宝剣形の痣を伝っていく。
「やめてくれ……」
歩は呻き、漆黒の闇に落ちる。そうして「俺の宝剣を返せ……」「俺の宝剣を返せ……」という別の声を聞いた。
その日も朝日が昇るまで、寝ても覚めても何者かの声に悩ませられた。ベッドを抜け出した時は、マラソンをしたような、実際に42.195キロを走った経験はないけれど、全身にそうした疲労感があった。
「こんな夜が続いたら、死んじゃう」
愚痴を言ってどうにかなるものではない。それが分かっていても言わずにいられなかった。
ベランダに出て街並を望む。すでに空気は熱を持っていた。
小さなビルとビルの隙間に浮かぶ金色の太陽が眩しい。それを見て気づいた。眠りについてから朝日が昇るまで、自分は〝あの声〟に苦しむ呪いを受けているのだ、と。その原因が、体内に消えた宝剣だということは明らかだ。
「何とかしないと……」
それは宝剣に呪われた自分のことでもあり、日の神に抗い意識をなくしているモモのことでもあった。
「何とかしないと……」
疲れた脳みそをギューッとしぼりつくして浮かんだのは、ピンク色の髪の少女だった。
「プンプン」
歩は彼女の口真似をして決心した。その日はズル休みをすることに……。
玉麗が事務所に出たころを見計らって恐る恐る電話を掛けた。
「頭痛がするんです」
仮病を使った。顔を見せろと言われたら、あるいは、ちょっと見舞いをしてやろう、と上がってこられたら、仮病はすぐにばれるだろう。職住接近は快適だが、リスクもある。
『そうか。ゆっくり休め』
電話の向こうの玉麗は意外に優しく、心がチクチク痛んだ。
仕事が始まれば、寮のフロアは無人になる。正確には栄花が夏休み中だから無人ではないけれど、彼女は歩の机を占拠していて、まるで所員のような大きな顔をして宿題をしたり本を読んだりしているはずだ。まだ子供なのだ。母親と同じところにいたいのだろう。
「従って、三階は無人だ」声にして、自分を鼓舞した。
昨夜、見つめていたピンク色のチラシの電話番号に電話を掛ける。心臓がバグバグなった。やましさもあったけれど、電話に出たのがヤクザのような相手なら、と想像すると恐怖心もあった。
『もしもし、月野でーす。プンプン』
受話器からしたのは、ハイテンションな美子の声だった。
直電だったのか!……歩はホッと胸をなでおろした。
「もしもし、あのう……、お願いしたいのですが、よろしいですか?」
『もちろん、よろしいですよ。プンプン』
昨日に会ったことは話さず、ただ部屋の住所を教えた。
『すぐに向かいまーす。お代はフルコースで5万円だよ。プンプン』
そう言うと電話が切れた。
「5万円……」それは想定外だった。
経費で落ちるだろうか? 考えるまでもない。ケチな玉麗が出してくれるはずがないじゃないか。第一、恥ずかしくて請求できない。……コンビニに走り、キャッシュコーナーで6万円引き出した。
「トホホ。残高は12,300円か……」
明細書を見ると、涙がこぼれそうだった。
悪いことはできないものだ。ビルの入り口で不測の事態が生じた。銀行に向かう梅世にばったりと出会った。
「あら……。風邪なのよね。医者に行ってきたの?」
梅世が歩の顔を覗きこむ。彼女から言い出したので助かった。
「え、ええ……」
そう応じて預金残高を思い描く。すっと血の気が引いた。
「本当だ。顔色が悪いわ。お大事に」
予想した通りだった。梅世が妖しげな笑みを浮かべて通りを渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます