第2話 事件の予感
「ところで……」好子が古美術品の載った帳簿を開く。「……固定資産に古美術品として銅鏡がありますが、会社の資産にすべきものなのですか?」
「それはお守りです。それを手に入れてから、あの
「個人の趣味というのではないのですね?」
「も、もちろんです。そんな趣味はありません」
大国が顔をひきつらせた。
「計上したのは3年前ですね。帳簿上では、1億円……」
えっ、1億!……歩は胸の内で叫んだ。
「店が繁盛するための投資なのですよ」
「この時、経理課長も社長に意見することに疲れたのでしょうね。その資産計上を、税務署がよく認めてくれましたね」
「会社のために買ったものですから……」
大国が複雑な表情をつくった。その時、まるで彼を救うようにリンゴの携帯電話が鳴った。電話を取った彼女の顔から血の気が引く。
「たいへん。モモが……」
「どうした?」
「病院からよ。モモが運びこまれたって。意識がないって……」
「貸しなさい」
大国がリンゴの携帯を取って話し始めた。
玉麗と好子は視線を合わせ、切り上げようとうなずきあった。
「お子さまのことですね。私どもは、失礼いたしましょう」
電話を終えた大国にことわり、宝会計事務所の三人は席を立った。大国夫婦も立ち上がったが、心ここに在らずといった顔をしている。
「申し訳ありません。せっかく来ていただいたのに」
「いいえ。正式に依頼すると決められたら、改めてご連絡ください。お待ちしています」
三人は大国屋を出ると、広い駐車場に停めたおいたセダンに乗り込んだ。ハンドルを握るのは歩で、玉麗と好子は後部座席に座った。
「打ち合わせが中途半端になってしまいましたね」
好子が溜息をついた。
「改革の希望を見せる前に話が途切れたのはまずかったわ。くたびれ損になりそうね」
玉麗はそう言ったが、ルームミラーに映る彼女の表情は明るかった。
「一億も出してお守りの銅鏡を買うなんて、大国屋もどうかしていますね」
歩は会話に加わろうとして口を開いた。ただのドライバーだと思われたくない。
「不思議に思うの?」
好子が応じる。
「ええ。経営者といえば、もっと合理的な考えをするものだと思っていました」
「歩さんは、どんなものを売れば商売が成功すると思うの?」
「それは安くて品質の良いものです」
反射的に答えた。〝うまい、やすい、はやい〟は必勝のルールだろう。
「売れなかった商品の名前を変えただけでヒットした、なんてこともあるのですよ。あるいは色を変えただけ、なんてこともあります」
「納入先を変えただけ、ということもある」
玉麗が付け加えた。
「中には、価格を上げたら売れたなんて珍しいケースもありますね」
好子が言った。
「それは面白い話ですね」
歩は、人間の不合理な行動がおかしくて笑った。
「アユミ、甘ったれるな」
玉麗のドスの利いた声に戸惑う。ちなみに、〝人魚のうろこ盗難事件〟の際、女子高に潜入するために歩が女装してから、彼女は歩をアユミと呼ぶようになった。もちろん、その場にいるのが所員だけの時だ。
「甘えてだなんて……」
歩は困惑した。玉麗が何に怒っているのかわからない。
「私たちは世間話をしているつもりはないのよ。アユミに教えているの。ぼんやり聞かずに真剣に考えなさい。一瞬、一瞬、一言、一言に気を配りなさい」
言われて初めて、玉麗の意図を知った。
「安くて良いものを作っても、店先に並べただけでは儲からないのが普通なのよ。だから商売は難しいし、経営者は迷う。そこに運という魔力のつけ入るすきがある」
「魔力ですか?」
その言葉に違和感を覚えた。人魚の鱗盗難事件で魔法や呪いといった非科学的な力があると知ったが、日常生活の中にまで魔力があるとは思えない。
「もちろん、それは本当の力ではない。ただの運なのよ。実体は偶然だったり社会情勢だったりするのだけど、経営者は運を引き寄せることにも気を使い、神や仏といった非合理的なものにもすがる。……経営者だけじゃない。政治家だって、スポーツ選手だって、多くの人間が多かれ少なかれ験げんを担ぎ、運や占い、
「そうそう、それは人間の心の弱さが原因だけれど、誰でも持っているものです。笑ってはいけないのよ」
好子が補足した。
「だけど、さすがに一億円は馬鹿げている。それだけあったら、支店も出せただろうに……」
後部座席の2人が苦笑した。
車は事務所の裏にある駐車場に入る。ビルは五階建てで、宝会計事務所の所有物だ。
一階には
二階は財部会計事務所で、クライアントが来た場合の打ち合わせ室以外はオープン形式の、いたって普通のオフィスだ。三階は独身寮で、2Kの部屋が5戸ほどある。今は金田好子と成戸歩、
梅世は雑務全般を担当する事務員で、
四階のフロアは玉麗の自宅だ。
五階は謎のフロアだった。エレベーターはその階に止まるが扉は開かない。非常階段の先はシャッターが下りている。時折その奥で獣のうめき声がするという話もあるけれど、歩は聞いたことがない。その中に何があるのか、知るのは玉麗ひとりだった。
事務所の冷房は、大国屋の会議室ほど効いていなかった。
「おかえりなさい」
3人を梅世と夏休み中の栄花が迎えた。
栄花は歩の机に夏休みの宿題を広げている。
「栄花、歩さんに場所をあけて」
梅世がいった。
「えぇー、もう少しで終わるのにぃー」
栄花が鼻を鳴らして抵抗する。歩には抗しがたい声だ。女性は子供の内から女性なのだ、と歩は感心してしまう。女装はできても、あの声は真似られないだろう。
「栄花ちゃん、そこを使っていていいのよ。気にいったのなら、ずっと使っていいわ」
彼女に掛ける玉麗の声は優しかった。
「歩はコンビニでアイスクリームを買ってきて。暑くてたまらないわ」
歩に向ける声は、カキ氷のように冷たい。
「歩、私にも」
好子が手を挙げた。
「へいへい」
歩は答える。宝会計事務所のブラック体質にはすっかりなじんでいる。
「私も!」
栄花が手を挙げた。
お前もかぁ!……天を仰ぎながら応じる。「へいへいへい」
「すみません。私もお願いします」
梅世が小銭を出した。
「へいへいへいへい」
歩は灼熱の太陽の下をコンビニに向かう。それは会計士見習いの過酷な業務であり、試練だった。
「暑い……」
銀色の太陽を見上げて汗を拭く。その時、凍るような嫌な予感が背筋を走った。
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