第14話 石姫
歩の物思いをよそに、七恵が資料を示した。どちらも古いものだが、奈良や平安時代の手書きの巻物とは違っていた。明らかに木版画や印刷物といった大量生産されたものだ。
印刷物とはいっても旧漢字とカタカナで書かれた文章は読み難い。歩は、彼女の話に耳を傾けた。
「江戸後期の瓦版と大正時代の新聞に、ご神体が盗まれた記録がある。江戸時代に盗まれたのは月の宮の御神体。それは戻った。大正時代には四つの御神体全部が盗まれたらしい。そして、関東大震災があった」
「らしい、というのは?」
「もともと上社と下社の御神体が秘宝だったために、それを見た人間がいなかった。それで、盗まれたものが何か、戻ったものが本物の御神体なのか、確認しようがなかった」
「御神体が何かわからないのに、盗まれたと、どうしてわかったの?」
「社の扉と宝物庫が開いた状態だった。当時、札付きの悪だった
七恵が新聞記事の一部を指した。黒島耕吉という名前だけは、歩にも読めた。
「それにしても、だろうって、アバウトだね」
「4つの御神体が一カ所にそろうと、この世が滅びるという伝説があり、黒島が4つとも盗んで一つにしたために関東大震災が起きたと考える住民がいた、と記事にある……」
七恵が旧漢字とカタカナの新聞記事をかみくだいて説明を続ける。
「……黒島は関東大震災の炎の中で焼け死んだ。御神体は見つからず宮に戻されることがなかった」
「御神体も焼けたのか、すでに売られたのか。分からないんだね」
彼女がフィルをめくった。少し新しい新聞の切り抜きがあった。
「ところが偶然、月の鏡が
七恵が、戦後に発行された地元紙を指して説明した。
「ふーん。それにしても御神体の影響で関東大震災が起きたなんて、涅槃山の祟り神は強力なんだね」
歩は、涅槃山の山頂の森に囲まれた上の宮の社や小さな祠を思い出していた。上の宮はともかく、月の宮や日の宮の貧弱な祠から、強力な霊力を思い描くことはできなかった。印象にあるのは自然豊かな景色だけだ。
「それはあくまでも伝説。上社と下社、日の宮と月の宮。その創建経緯は別物だから、4つの御神体がそろうと問題が発生するという理由にはなりにくい」
「伝説は、後から作られたということ?」
「もちろん」
「七恵さんの意見を聞かせてほしい。大国モモに祟る神が、その4神の中にいると思う?」
「今まで得られた情報では、祟る神はいないし、その理由もない。でも、人が変わるように神も条件によって変わるだろう」
「そうかぁ。もう一度山に登って視点を変えてみる必要がありそうだね」
「私もついて行く」
滅多に学園を出ない彼女がさらりと言った。
「心配しなくていいよ。子供にあの山登りは難しいでしょ」
歩はからかってみた。
「子供ではない。私は概ね1500歳。涅槃山に住んだこともある。アユミに迷惑をかけることはないから連れていけ」
名前を呼ばれて胸がドキドキした。シスター制度がある学内では〝おねえさま〟と呼ばれていたので、名前を呼ばれた記憶がない。新鮮だった。
何を思ったのか、七恵が突然、膝に乗って抱き着いた。おかっぱ頭の表情はのっぺりしたままだ。見かけ以上に豊かな胸が、歩の胸を圧迫する。
胸の内からグーっと熱が競りあがってくる。鼻血が出そうだ。
「ツ、連れて行くから、離れてちょうだい」
「うむ。分かればいい」
七恵は勝ち誇ったように言うと、僅かにほほ笑んだ。本物の笑みだった。
古文書にはないインターネット上の情報を調べるために、2人は書物庫を出て2階の情報機器コーナーに足を運んだ。
パソコンで下社に祭られた石姫の名を検索する。その名はすぐに見つかった。
石姫は欽明天皇の正室であり、敏達天皇の母親で、上社に祭られた八田王の母親でもある。日本書紀などの正史では石姫に関する記述はないに等しい。皇太后だったというだけで、死の時も墓所も不明だ。
ただ、宮内庁によれば、石姫は敏達天皇と合葬されたことになっていた。正確には、敏達帝が石姫のために造った墓に、彼自身も葬られたらしい。
「当時は蘇我氏が政権を取って、従わない豪族やその親族は粛清された。蘇我氏の手を逃れるために、崇峻帝の息子の蜂子皇子のように陸奥の国に逃げた貴族も多いと聞く」
七恵が言った。
「歴史の生き証人の言葉には重みがあるね」
「私など、長生きしたと言うだけで、ずっと下層民。流浪の時も長かった。学ぶ機会はなく正確な知識も得られなかったから、私の記憶の多くは噂話の域を出ない」
彼女は自分の不幸を他人事のように話した。
「そうなんだね」
不死の彼女は住人に恐れられ、同じ土地に長く住めなかった。彼女の不幸な旅の歴史を思い出すと泣いてしまいそうだった。それで話を下社のことに戻した。
「八田王や石姫が逃れてこの辺りに来た可能性は?」
歩と七恵の検討は続いた。謎を解きながら、歩は心のどこかで彼女との会話を楽しんでいた。
「八田王が死んだ日付は正史に残っている。蘇我氏の力で八田王は追われたか、殺されたとみるべきだ。日付を都から出奔した日と考えることもできるが、やはり、死が確認されたときなのだと思う。……どのような死に方で、その場所がどこだったのか、記紀に書かれなかったことに意味がある。でも、本当に皇子がこの土地まで逃れてきていたのなら、もっと明確な伝承が残ったと思う」
彼女が小首を傾げる。歩の胸がキュンと痛んだ。
「母親が追ってきたというのは、崇峻帝の妻の
その伝承も、ネットにあったものだ。小手子姫の子供が蜂子皇子だ。
「当時、似たような名前の姫が多かったことを差し引いてみても、石姫が逃れてきた可能性は否定できないと思う。奥州という
彼女が語ったのは、冬美たちから聞いたことと同じだった。
「……たとえば、敏達天皇を失った石姫は皇室との絆を失う。それは、行き場を失ったも同じだった。敏達天皇の有力な妻は蘇我一族で、後の
七恵の無表情な顔の口元が少しだけ動いた。石姫に共感した彼女は、悲しんだのだろう。
検索でヒットした万葉集には、奴奈之宮社を説明するような歌があった。それに気づいたのは七恵だ。
〖
「ヒスイの玉のように貴重な主が、老いていくのが切ないという意味らしい。奴奈之宮の奴奈は御神体のヒスイの勾玉のことを示唆しているのかもしれない。石姫は、歌と同じ気持ちで欽明天皇や八田王、敏達天皇を見ていたのだろうなぁ」
七恵が淡々と説明した。が、歩は全く理解出来なかった。
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