第15話 成長した彼女
「お腹がすいた」
突然、そう言ったのは七恵だった。
「夏休みは学食も休みだよね。食事はどうしているの?」
彼女は不老不死。食事をしなくても死ぬことはない。けれど、空腹を覚えることは良い傾向だと思った。人間らしくあるということだ。
「自炊」
「自室で?」
「もちろん」
寮の部屋は先輩と後輩が共同生活を行う前提の2人部屋で、人魚の鱗事件のとき、歩は七恵と同じ部屋で過ごした。その頃はコンビニ弁当を買うのが日課だったから、自炊というのは想像を超えていた。
6世紀の七恵は魚を焼くか、様々な具材を塩味だけでごった煮にするだけだったが、今、自室でどんな料理をしているのか、興味を覚えた。
「食べる?」
歩の返事を待たず、七恵がさっさと歩き始めた。
歩は七恵の後を追い、図書館とは違って近代的な作りの女子寮の入り口に立った。
「懐かしいなぁ」
思わず声になる。
「そうか……」
七恵が頷いたのを、不思議な気持ちで見下ろした。彼女も同じ気持ちなのだろうか?
寮の廊下を歩き、すれ違う学生と「ごきげんよう」と挨拶を交わす。時には「アユミさん久しぶり」と手を振る学生もいた。彼女らは通り過ぎた後、一様に首を傾げた。4か月間不在だった寮生が、夏休みになって姿を見せたので驚いているのだ。
「今も一人部屋なの?」
「ハイ」
他の学生や生徒たちと違った生活を繰り返す七恵は、ずっと一人部屋だった。歩が潜入した時に七恵と同室になったのは、危険な人魚の鱗を早急に回収するために理事長が取った苦肉の策だった。
同室になった歩と七恵は親しくなり、男女として惹かれあったが、実らせてはいけない愛だという自覚もあった。歳の差1500歳カップルなんて、非常識以外の何ものでもない。4カ月ほど離れたことで、歩の気持ちは落ち着きかけていたのだけれど、再会し、再び揺れはじめた。
七恵はどうなのだろう? いや、考えるまでもない。1500年生きてきた彼女にとって4カ月など、離れた時間に入らないはずだ。
七恵がドアを開けると、本ばかりが並ぶ殺風景な空間があった。歩が同居した時とまったく変わっていない。わずかな違いがあるとすれば、かつては無かった冷蔵庫があったことだ。
冷蔵庫の中には、コンビニのざるそばが、大量に買い置きされていた。
「調理って、これのこと?」
七恵と歩はプラスチックのふたを取って、固まった蕎麦に添付してある液体をかけて解きほぐした。
「便利な世の中になった。こうして蕎麦が楽しめるのも、アユミにコンビニに連れて行ってもらったおかげだ」
蕎麦を頬張る七恵は幸せそうだった。
「どんなに便利でも、こんな食事ばかりしていたら身体を壊すわよ」
そう言ってから、七恵は不老不死、と思い出して暗い気持ちになった。
「気に病むことはない」
七恵がそう言って、ズズズと蕎麦をすすった。
「もう一つ便利なものを見つけた」
七恵がスマホを取り出した。
「今更!」
歩は突っ込んだ。とはいえ、けなすつもりはない。それがあれば世界中の辞書を持ち歩いているようなものだし、緊急時には人を呼ぶこともできる。
「もしもし……」七恵が誰かに電話をかけ、空いている時間はないか、と訊いた。
まさか!……声が飛び出しそうになるのを抑えた。七恵がスマホを持ったこと以上に、彼女に友人ができたことに驚いた。歩と知り合う前の七恵は書物と向き合うだけで、親しい相手といえば理事長と学園長だけだった。
「うん、それじゃ、明日、駐車場で待っている」
そういって七恵が電話を切った。
「友達?」
「うむ。できちゃった」
彼女は妊娠したような言い方をした。
「そ、それは良かったね」
「今日は都合が悪いらしい。山登りは明日にしよう」
「誰を呼んだの?」
「秘密……、役に立つ友達だから、期待しなさい」
七恵が妖しげな笑みを浮かべた。
不気味な笑みだった。けれど、彼女が感情を表現できるようになったことが嬉しかった。
「わかった。明日、迎えに来るわ」
帰ろうとすると、七恵に袖を握られた。
「泊まっていきなさい」
七恵のうるんだ黒い瞳が、それは命令だと言っていた。
「そうしたいけど、この恰好じゃ、山には登れないよ」
歩はストッキングをはいた足を上げて見せた。
「ジャージならある」
淡々とした言い方。けれど彼女は、見かけ以上に懸命だった。
「分かった。それじゃ、七恵さんの言うようにするよ」
のっぺりとした七恵の口元がヒクリと動く。喜んだのだ。
午後は図書館で簿記の勉強をした。モモの祟りのことも気になったが、自分の勉強は欠かせない。会計士を目指しているのだから。霊異に関わる調査は一時のことだ。
歩が勉強する間、七恵は地下での仕事に戻った。
七恵が夕食もコンビニのざる蕎麦にしようとしたので、歩は彼女を連れ出した。特に何が食べたいというわけでもなさそうなので、ファミレスに連れて行った。4カ月前より、歩の懐は温かかったから。
「ふぉえー」
ファミレスに入ると七恵が声を上げて店内を見渡した。ファミレスに入るのは初めての経験だったようだ。無表情な顔に少しだけ汗が浮き、瞳が小刻みに震えている。その様子を歩は楽しんだ。
初めてコンビニに入った時のように、七恵の手を握って彼女の緊張を解きほぐし、歩がハンバーグセットとフルーツパフェを2人分注文した。
ハンバーグは寮の食堂でも出るが、パフェはない。七恵はそれを食べて喜んだ。もちろん表情には出ない。「初めて食べた。嬉しい、美味しい」そう言った。
帰りの車の中でも、彼女ははしゃいでいるように見えたが、寮の敷地に入ると、いつもの七恵に戻った。
七恵の部屋のクローゼットには、4か月前に歩が持ち込んだ衣類が1組だけ残っていた。ジャージと運動靴、パジャマに下着……。
「全部片づけてくれたのだと思っていた」
4カ月前、退寮する際には梅世が荷物をまとめたはずだった。
「ごめんなさい」
七恵がうつむいた。
「どうして謝るの?」
「事務所の人が荷物を取りに来た時、私が隠したから……」
その言葉に、歩は胸を締め付けられる思いだった。彼女の愛を感じた。
「……またここに来てくれると、願っていた」
七恵の瞳が濡れていた。
4か月前と同じように、それぞれシャワーを浴びて、それぞれのベッドにもぐりこんだ。
明日の朝、彼女は自分の上に乗っているだろう。……4カ月前はいつもそうだった。明日の朝のことを想像すると、容易に寝付けなかった。
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