第46話 愛憎

「甘えるな……」


 突然、七恵が口をきいた。その視線は真由の横顔に向いている。


「……同じ年齢で同じ学校に通っていながら、モモさんと真由さんの身の上には、あまりにも大きな格差がある。そのことが真由さんを苦しめていることは私にも分かる。……ともあれ、豊かな生活に何の感謝の気持ちも持たない大国とモモに悲劇が起きたことは、あるいは、格差を調整しようとする〝宇宙〟の自然な力なのかもしれない。……そう考えると、格差に納得できないもやもやしたものが、晴れるような気もする……」


 彼女は視線を歩に向けた。


「……八田王の宝剣を巡って、盗んだり殺したり、多くの人が不幸になった。そのような剣にこだわっていては、不幸が広がると思う。……だけれど、その剣も歩の体内に消えた。もう大国の手元にはない。……結局、どんな理屈を並べようと、真由さんは経済的に豊かな大国モモを羨んでいるだけだ。そんなのは子供のすること……」


 七恵は、歩と真由に向かって言いたいことを言うと眼を閉じた。


「豊かさを恨んでいるわけじゃない。剣にもこだわってはいないのよ。ただ、それを失った父は首をつって死んだ。私が7歳の時だった。……それからずっと、母は借金の返済に苦しみ続けている。それだけじゃない。大国は、父や私を裏切ったのよ」


 真由が唸るように言った。その瞳には、怒りが浮かんでいる。


 大国さんが真由さんを裏切った?……歩が考えた時、車が揺れた。地震かと思ったが違っていた。ルームミラーの中で、香の身体が大きく揺れている。彼女に何かが憑依したのだ。


「すまない、真由。可哀そうな真由……」


 香が普段より太い声を発した。〝うふ〟はなかった。


 彼女はトランス状態に入っていて、小さな身体がゆっくりと前後に動いている。


「真由、お父さんだ。分かるか……」


 香の半眼が真由に向いた。


「お父さん……?」


 真由は半信半疑のようだ。


「お父さんが悪かった。商売に失敗した上に、借金まで残してしまった……」


「そんなことはどうでもいいの。なぜ、私たちを残して死んだの?」


「お父さんは逃げたのだ。借金からではない。社会の眼が、家族の眼が、お父さんは怖かった。辛い現実から逃げたのだ。……残したお母さんと真由を、こんなにも不幸にしてしまうと思いもせずに……」


 香の話は、中学生が日常的に話すようなものではなかった。


「そうよ。お父さんひとりだけ逃げて、ずるいわよ」


「もう、お父さんのことにとらわれるな。今のままでは、真由が不幸になる……」


「今更、何よ。お父さんが悪いんじゃない」


「そうだ。全ては弱かったお父さんの責任だ。だから、他人を責めるな。自分を責めるな。お父さんだけを恨め……」


「お父さん……」


 真由が泣き崩れると、香も意識を失った。


「香さん、大丈夫かい?」


「香なら大丈夫……」


 答えたのは七恵だった。


 真由は身体をよじり、背もたれに頭を埋めるようにして肩を震わせていた。


 歩は、しばらく待って彼女に声を掛けた。


「真由さん。お父さんの気持ちを汲んであげてくれないか?」


「ひどいわ、お父さんまで大国みたいに裏切って……」


 彼女の嗚咽は、怒りを帯びていた。


 真由は、愛し、信じてきた父親に突き放されたと考えているのではないか?……歩は、同情より先に、彼女の怒りの矛先がどこに向くのか、不安を覚えた。その時、真由が大国に裏切られたと言ったことが頭に浮かんだ。


 父親と大国……。真由を裏切った二人の大人……。彼らに対する怒り。それが真由のエネルギーの源に違いないだろう。いや、ここにきて、その二つの負のエネルギーが掛け合わされたかもしれない。大国の裏切りとは、何だ?


 歩は、フロントガラス越しに空を仰いだ。


 真由は泣き止みそうになかった。一方、後部座席では七恵と香が、腹が減ったとむくれていた。


「わかったよ。真由さんを家まで送って行こう」




 歩は車を走らせ、N市のあの市営住宅へ真由を送り届けた。香が、不思議なものを見るように、古い長屋を見つめていた。


 帰り道、ファミレスに寄った。七恵と香はハンバーグランチを食べた後、チョコレートパフェを追加注文した。


 彼女たちのゲップを聞いてから、歩は訊いた。


「真由さんが話していた、大国さんの裏切りって、なんだと思う?」


 すると香がケロリとした顔で言った。


「真由さんは大国さんを嫌っているけれど、好いてもいるのよ。うふ」


 意外な答えだった。


「それは、香さんの想像だよね?」


 中学生にそんな複雑な感情が理解できるとは思えなかった。


「失礼ね。私は、噂話のような想像はしませんよ。うふふ」


「それって、どういうこと?」


 歩は七恵に目をやった。


「香は、霊と話すように、魂の声を聞くことができる。真由さんの場合、愛が憎しみに変わったという典型的なパターンだな」


 七恵が表情を変えずに答えた。


「真由さんの心を読んだということだね?」


 念のためにそう尋ねながら、自分の魂の声も聞かれていると知って空恐ろしいものを覚えた。


「成戸さん、心配しないでください。むやみやたらに他人の心は覗きませんから。うふふ」


「エー、覗いているじゃないかぁ」


「ごめんなさい。つい、からかってみたくなって。うふ」


 そう言うと、追加注文のボタンを押した。


 ゲッ、まだ食べるのか。……一瞬、懐具合を案じてから、無心になれ、と自分に命じた。


 歩の気持ちを知ってか知らずか、香はアイス・カフェオレを注文し、七恵にも同じものを頼むようそそのかした。


「憎しみが愛情に変わったとするとして、真由さんと大国さんに、どんな接点があるというんだい?」


 七恵に向かって尋ねた。彼女はウエイトレスにティラミスとコーヒーを注文してから歩に向いた。


「具体的なことは分からないけれど、真由とモモは同級生だから、接触する機会はゼロではないはず」


「真由さんも冬美さんも、ファザコンなのでしょ。うふふ」


 その時、香の〝うふふ〟は、とても妖しいものに聞こえた。



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