第6話 月の宮
笹藪をぬうように続く古い参道は、それをおおうように大きな松の木が点在していた。そのおかげで舗装道路を歩くより暑くないけれど、飛ぶ虫は多かった。
歩は白い肌の冬美が蚊の大群に襲われるのではないかと心配だった。
「虫に刺されない?」
「虫よけスプレーをしてきたから大丈夫」
先頭を行く真由が万歳するように両手を上げた。白い脇の下がまぶしかった。
「日の宮が天照、月の宮が月読、上の宮が素戔嗚と推定すれば、鏡が置かれる場所は月の宮ではなく、日の宮でなければならない」
真由が歩きはじめる。
かき氷が食いたい。……歩は思った。
「聞いてる?」
雷のような声がして、真由が振り返る。
「あ、ああ。聞いているよ。鏡は月の宮ではなく、日の宮にあるべきだということだね」
その答えが不満だったのか、真由のスピードが上がった。
山道は急で露出する木の根や大きな石も転がっており、3人は足元を見るために口数も減った。汗をぬぐう回数ばかりが増えた。
「日本書紀では、鏡も勾玉も、天照大神が
突然、赤い鳥居が現れ、冬美が歩みを止めた。彼女が口にしたことを歩は理解できなかった。けれど、高校生相手に知らないとは言えない。
「素戔嗚が天照の弟だからだろう?」
「それなら、同じ姉弟である月読に関係するものも神器に加えられる必要があるはずです」
「なるほどね……」
小さな赤い鳥居をくぐった冬美が「痛い」と小さく声を上げた。
「どうした?」
歩は彼女が指す場所に目をやった。ふくらはぎに赤い傷があった。
「虫に刺されたようだけど、マダニではなさそうだ。大丈夫だよ」
「マダニって?」
「草むらに住んでいるダニだよ。人に寄ってきて噛むんだ。ウイルスを持っていると、大変なことになる」
「この傷はマダニじゃないの?」
「マダニは噛みつくとそこに食いついたままでいるから、すぐに分かるらしいよ」
歩が傷に唾をつけると、冬美は「きゃっ」と声を上げて飛びのいた。その目は玉麗が阿久を見る目に似ていた。
「ごめん」
反射的に謝る。とにかく謝り倒す。それが歩の生存戦略だ。
「いえ……」
「もう効果が切れたのかな?」
真由がリュックから防虫スプレーを取り出し、自分と冬美の手足にたっぷりと振りかけた。歩にもかけたが、途中で切れた。
「なくなっちゃった」
真由がスプレー缶をリュックに戻して、歩き出した。
坂道は益々狭く急になった。陽射しが松の枝で遮られるのだけが救いだ。
冬美は喘ぐような息遣いをしていた。先頭を行く真由は元気だ。歩は、膝を自分の腕で持ち上げるようにして、木の根がむき出しになった坂道を上る。日ごろの運動不足を後悔した。
「もうすぐだよ」
真由の声が歩の後頭部を風に乗って過ぎた。気持ちの良い風が過ったと思うとすぐに、足元ばかり見ていた頭が柔らかいものにぶつかった。
「あれ?」
「きゃっ」
冬美が小さな悲鳴を上げた。
頭が、足を止めた冬美の尻にぶつかっていた。
「エッチ」
「ご、ごめん」
歩は、あらぬ方角に目をやった。そこに小さな
祠は高さ1メートルほど。近年になって再建されたものらしく、コンクリートでできている。扉は木製で格子状になっていた。
「ここが月の宮です」
そう教える冬美の頬が赤く染まっていた。
祠の横には小さな看板が立っている。祠には月読が祭られているということと、内部に祭られている鏡は上の宮に祀られている皇子が持っていたものだといった内容が記されていた。
歩は祠を覗き込んだ。暗い中に薄らと光る丸い物がある。
「あれが鏡だね。直径10センチぐらいかな」
「ええ、ご神体ですね」
冬美の顔が歩のすぐ隣にあった。
「私たちは、あれが本来なら日の宮のものではないかと考えているの」
真由が背後で言った。
「なるほど」
「太陽神天照を祀る伊勢神宮のご神体も鏡だから」
「でも神の宮の神主に聞いたら、鏡は昔からここに置かれていたそうなんです。昔というのがいつの事なのか、神主さんも知らないそうです。祠は何度か焼けているので、もしかしたらご神体も創建当時とは違っているのかもしれません」
「日の宮と月の宮は、
「上の宮のご神体が剣なら、私たちの想像は当たっていると思って上の宮を訪ねました。でも違った」
真由と冬美が、交互に自分たちの想像を語った。
「なるほどね。で、事件のあった日、ここに着いたのは何時ごろかな?」
歩は、少女たちの気持ちを神話から現実に引き戻した。求めているのは神話の謎ではなく、モモを眠らせている祟りの正体だ。
「そうでした。大切なことを忘れていました」
冬美が自分の頭をポンポンと叩いた。
「11時だよ。今日と同じくらい」
真由が答えた。
「その時ここにいたのは3人だけ?」
「もちろん。こんなところには、めったに人が来ないと思うよ」
「ここを出発したのは?」
「写真やビデオ撮影をして、15分ほどしてから出発したね」
「上の宮に向かったんだね」
歩は東に向かって尾根に沿う細い道を見やった。車が走る道はそれとは別にあって、山襞に沿いジグザグにうねっている。
「こんなことをして、本当にモモの意識が無くなった理由が分かるの?」
真由が小首をかしげる。
「最初は、熱中症かと思ったわ。でも、立ったまま全然動かないんだもの。熱中症なら気持ちが悪いとか、顔色が変わるとかするでしょ?」
冬美が言った。
「さっき、成戸さんが言ったマダニはどうなの?」
「話しを聞いたときには、僕も熱中症だと思ったけど、そうではないらしい。他の可能性は虫や植物の毒にやられたことくらいだけれど、検査では毒物も見つかっていないそうだよ」
歩は、大国から聞いた話を伝えた。
「それで、祈祷師は神の祟りだと言うわけね。祟られるようなことをしたつもりはないけど。ねえ、フユ」
「ええ。カメラのレンズを向けたのがいけなかったのかしら?……歩さんは何か気づいた?」
冬美が歩を見上げた。
「ここまでは何にもなかったなぁ。暑いだけだ」
「そうよね……」真由がほっと息をつく。「……行きましょう」
彼女が促し、3人は上の宮に向かって歩きはじめた。
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