第10話 社命

「全力を尽くすよ」


 少女の希望に対しておじさんに似合った言葉を吐いた。実際のところ五里霧中。まったく自信がない。皆目、原因の見当さえつかないのだ。


 3人は足元に注意をはらいながら赤土がむきだしになった坂を下る。しばらく下るとアスファルト道路にぶつかった。交差した道路を左に折れる。そこからは、奴奈之宮公園に向かってなだらかな坂道になる。


「真由さんは、隣のN市から通っているんだね?」


「どうしてわかるの?」


「さっき、大国屋がN市に店を出したらお母さんに働いてもらうと話していたじゃないか」


「そうだった」


 真由が笑う。


「通学が大変だね」


「電車があるから平気よ。帰りが遅くなっても、冬美の家に泊めてもらえるし」


「アパートが広かったら、下宿してもらえるのにね」


 冬美が笑った。その時、目の前に奴奈之宮公園が現れた。


「手がかりは無かったわね」


 公園の入り口で真由が振り返った。


「結論を出すのは速いよ。帰ってから、今日のことを整理してみるよ」


 歩は期待を持たせるようなことを言った。一番期待していないのは、自分だったけれど……。


「私たちにできることがあったら、いつでも声をかけてください」


 冬美は真剣な顔をしていた。


「ありがとう。駅まで車で送るよ」


 ささやかな礼のつもりだ。下心は……ないと言ったらウソになる。


「大丈夫。今日は、フユの家に泊めてもらうから。この近くなんだ」


 真由が応じた。


「それじゃ冬美さんの家まで送るよ」


 真由と冬美は顔を見合わせ、それから頭を左右に振った。


「ううん。遠慮するわ。恥ずかしいから」



 何が恥ずかしいのだろう?……考えたものの気弱で、声にして尋ねることができなかった。こういうところがダメなんだ。……歩は自分を叱った。


「それじゃ、バイバイ」


 真由が冬美の手を引いて歩き始める。その姿に歩は、コンビニに向かう時の七恵ななえを思い出した。彼女は元気にしているだろうか?


 公園の駐車場に停めておいた車に乗り込み、改めて事件のことを考えた。日の宮からの帰り道、2人はモモの話にほとんど触れなかった。話の端々から2人の少女の生活が決して楽ではないのもわかった。――モモがジュリエットなら、私たちは通行人AとB――そう言った真由の言葉は、正直な気持ちなのだろう。


 手をつないで坂を下りる2人は本当の姉妹のように見えたが、モモとも同じような関係だったのだろうか?


 天照、月読、素戔嗚、矢田王、敏達天皇……。歴史や伝説の知識が増えても、モモの意識が飛んだ理由に行き当たることはなかった。


 今日一日が無駄ではなかったはずだ。……自分に言い聞かせながら車で坂道を降りると、先に下りた二人の背中が見えた。クラクションを鳴らそうと考えたが止めた。2人は楽しそうに会話していて、歩には気づかなかった。


 下り坂はT字路にあたる。歩はルームミラーに映る2人の影を確認してからハンドルを右に切った。




 空腹だった。真由と冬美に昼食を分けてもらったけれど十分ではなかった。駐車場に車を止めた後、居酒屋福労に入った。


「ヨオ……」手を挙げたのは阿久だった。「……ずいぶんと日に焼けたな。美女が台無しだぞ。白い肌は、百難を隠すというのを知っているか……?」


 彼の向かいの席では、玉麗が生ビールのジョッキを片手にピリ辛手羽先にかぶりつき、隣では酒に弱い好子が真っ赤な顔に焦点の定まらない眼をクルクルさせて天井を見ていた。


 昼間っからいい気なものだ。……批判を自分の胸にしまいこんだ。


「モモさんが歩いたルートを案内してもらってきました」


 阿久を無視して玉麗に報告する。


「それで、収穫は?」


「何もありません。神話の知識が得られただけで、祟る神がどの神なのか、さっぱりわかりませんでした」


「やはりな」


 玉麗が手羽先のタレの付いた指を薄い唇でなめた。


「やはりって……」


 ダメだと知っていて行かせたのか?……抗議を胸にしまって手を挙げる。


「……とりあえずビールください」


「よろこんで!」


〝とりあえず〟と書かれた大ジョッキが出てくる。


「餃子と冷奴とだし巻き……」


 店員に注文しようとすると、玉麗が制止した。


「注文は後にしなさい。報告が先だ。アユミの判断の根拠を話しなさい」


 玉麗の眼がすわっているので名前の訂正は求めない。眼がすわっているのはアルコールのせいではない。仕事を優先すべきだ、という冷徹な怒りの表れだ。


「クッ……上の宮に祭られているのは六世紀ごろの八田王という欽明天皇の皇子です。問題の日の宮に祭られているのは誰か分からないし、ご神体も火災で焼失しているそうです。月の宮のご神体の鏡はありました。祭られているのは月読ということになっています。……そのことから、モモさんの友達は、日の宮には天照が祭られていて、月の宮にある鏡は本来、日の宮のものではないか、と推測しているのですが、僕にはそうは思えませんでした。天照が大国屋の子供に祟るなんて考えられないです」


「そんなに古い神が関係しているのか?」


 彼女の眉間に縦皴が浮く。


「それもよくわかりません。あそこの神が祟っているという祈祷師の話も疑ってみる必要がありませんか?」


「少し歴史を調べる必要がありそうだ。アユミ、図書館で調べてきなさい」


「アユムです」


 彼女の表情が普段のものに戻っていたので、名前の訂正を要求した。


「社命よ。もう一度、アユミになりなさい。聖オーヴァル学園に入るのには、アユミになるしかない。まだ、制服は持っているでしょ?」


 玉麗は生ビールを飲み干し、空のジョッキを掲げた。


「えー、また女装するんですか?」


 拒みながらも心は踊っていた。社命で、堂々と聖オーヴァル学園に入ることができるのだから。……女装して侵入するのだからというのは誤っているけれど、そんな小さなことは問題ではない。


「このあたりの伝説を調べるなら、あの図書館が一番いいのよ。七恵とかいうの様子も見てくるといい。気になっているんだろう?」


 店員が生ビールを運んできて「おまちどう!」と大声を上げた。


は止めてください」


 人魚の鱗事件で知り合った福島ふくしま七恵は、見た目は15歳だが中身は1500歳の老婆なのだ。


「歩はロリコンだからな」


 阿久が笑った。


「違います」


「明日、女装が済んだら下着をチェックしてやろう」


「阿久さんの世話にはなりません」


「こいつ、成長したな。女装は完璧らしいよ。玉ちゃん」


「ふむ……」


 彼女は冷めた目を歩に向けた。阿久が玉ちゃんと呼んでも、玉麗が嫌がることはない。古い付き合いの彼がこの会計事務所のエースだからだ。もちろん歩は、玉ちゃんと呼ぶ冒険をしたことがなかった。そんなことをして殺されるのは嫌だ!


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