第32話 意外な顔

 歩が考えあぐねた末に頭に浮かんだのは玉麗の顔だった。そうして宝会計事務所の従業員としてやるべきことを思い出した。玉麗の業務命令を成し遂げることだ。


 シャワーを浴び、身支度を整えて事務所に降りる。そこには所員の顔がそろっていた。栄花まで、いつものように歩の席に掛けて本を読んでいる。それぞれが自分の仕事に集中していて、歩が来たことにさえ気づいていないようだった。


 歩の存在に最初に気づいたのは栄花だった。歩に視線を向けると口をとがらせ、再び視線を文字に戻した。明らかに怒っている。


 次に気づいたのは梅世だった。


 ――ヒューヒュー――


 彼女が冷やかすように口笛を吹いた。すると、全員の視線が歩に集まった。


「おや、休日出勤かい?」


 阿久が訊いた。


「いいえ」


「女の子を泣かせちゃいけないな」


 そういう阿久の戯言を無視して玉麗の机の前に立った。


「栄花ちゃんに聞いたよ。おっぱいの大きな女を連れ込んだんだって」


 背後で好子が言った。


「大人になったのね」


 梅世が目じりに涙を浮かべている。感激しているのではなく、笑いすぎているのだ。


「寮で公序良俗に反する行為を行うのは規則違反だ」


 目の前で玉麗が厳しい瞳で見上げていた。それが、決して怒っているものではないと、歩にはわかる。


「独身寮に男女が混在しているんだから、いいじゃないですか。第一、僕の場合は仕事です」


 きっぱりと、……ある意味やけくそで言うと胸がスカッとした。


「まぁー、オカマちゃんだから許してやってもいいが……」


 玉麗は、意外としつこいタイプだ。


「僕は男です」


「確かに。抜かれて気持ちがよさそうだから、男と認めるしかないか……」


 玉麗が、ニッと右側の口角を上げた。やっぱり、しつこいタイプだ。


「仕事で抜けるなら、変わってくれよ」


 阿久が言った。


「領収書はもらってありますが……」


 歩は、嫌がる美子に無理やり領収書を書かせていた。


「甘えるな。仕事に経費は使えない。公私混同するな」


 その回答は予想していた。おかげで精神的ダメージは小さかった。が、経済的ダメージは大きい。


「やっぱり。……ああ、僕の6万円……」


 声が漏れた。


「まぁ、いやらしい。聞いちゃだめよ」


 梅世が栄花の耳をふさぐ。


「聞きたい!」


 栄花が大声を上げた。


「なぬ、6万も払ったのか?」


 阿久が目を見開いた。


「基本料金が5万円で、話を聞くのに1万円追加でした」


「ぼったくりだな」


「相手は神様ですからね」


「おっぱいの大きな巫女でしょ?」


 好子が突っ込む。


「巫女は身体を売らないだろう。いや、だからこそ価値があるか……」


 阿久が真顔でうなずき、月野美子の電話番号を教えろと迫った。


「古代には、神聖娼婦や神殿娼婦といったものがあったのよ。巫女が歩を気持ちよくしてくれてもおかしくはないわ……」玉麗が言った。「……ともかく、遊びは終わりだ。みんな仕事をしなさい」


 玉麗が号令をかけると、所員はムズムズする気持ちを抑え込んで帳簿とパソコンに向きあった。


「そうだ。さっき、水野冬美さんという女性が来たわよ」


 梅世が言った。


「僕に会いに来たんですか?」


「そのようだったけど、栄花と少し遊んで帰ったわ」


 梅世が歩に背中を向けている栄花を指す。


「栄花ちゃん、水野さんは何か言っていた?」


 歩の質問を栄花は無視した。


「栄花ちゃん……」


「フン……」


 彼女はあからさまなそっぽを向いた。


「完全に嫌われたな」


 玉麗が笑った。


「歩は若い子にモテていいな」


 阿久がキーボードをたたきながら言った。


「阿久さんだって、モテるじゃないですか。若いころは、沢山泣かせたのでしょう?」


「俺はもてないよ」


「僕の見舞いに来てくれた時には、冬美さんと仲良く話していたじゃないですか。今日は何か聞いていませんか?」


「ああ、相手にもされなかったよ」


 阿久が、あっちに行け、というように手のひらをヒラヒラと振った。


「阿久さんったら、口説こうとしたから嫌われちゃったのよ」


 梅世が歩の耳元でささやいた。


「で、アユミ、用事はなんだ?」


 改めて玉麗に呼ばれ、矢田王の神紋や日の神がモモに憑依しようとして失敗していることなど、途中経過を報告した。


「なるほど……」


 彼女が冷たい笑みを浮かべた。歩の背筋が凍った。


「な、何か?」


「アユミを担当にしたのは正解だったようだ。しかし、デリヘルの領収書など経費では落とせないからな……」


 彼女が自分の財布から紙幣を出して歩の前に置いた。きっちり6万円あった。


 いつもケチな社長がどうして?……意外だった。嫌な予感がした。でも6万円は返さなかった。


「ありがとうございます」


 一生ついていきます!……声にできなかったのは、事務所に貧乏神の妖気が渦巻いている、と香りが言ったことを思い出したからだ。玉麗に金を出させた者こそ、貧乏神ではないか?


「引き続き頼んだわよ」


 玉麗はそういうと、ハエでも追い払うようにシッシと手を振った。


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