第4話 神が与えた試練

「いやー、暑い、暑い」


 車を降りるなり阿久が言った。50代の彼は、そのサラリーマン然とした風貌から大手企業や金融機関といった硬い企業の仕事を任されている。が、中身は酒好きでふにゃふにゃのエロオヤジだ。暇さえあれば玉麗や好子の胸元や太ももを観察して時間をつぶしている。


 歩は彼のビジネス鞄を持って後ろを歩く。得意先で伝票を確認し、帰ってきたところだった。


 ビルに入ると、阿久がエレベーターのドアをうらめしそうに見て階段に向かう。エレベーターは電気料金削減のため、所員が利用することは原則禁じられていた。あくまでも原則だ。何事にも例外はある。玉麗や栄花は度々例外を利用した。例外は主観的なもので基準は不明確だった。とても会計事務所らしくない、と歩は思うが批判は避けている。


 事務所のガラスドアを阿久が押し開けた。


 歩はフロアの奥で手を振る玉麗を認めた。2人を歓迎しているようだ。


「アユミー!」


 彼女が呼んだ。


「あ、ハイ」


 阿久の鞄を彼の机に置いて玉麗の前に立った。とても機嫌がよさそうに見えた。


「これ見て」


 彼女が目の前を指差す。それは、机の上に置かれた平べったい桐の箱だった。蓋が開いていて、中には直径25センチほどの赤黒い銅鏡が光っていた。


「お宝、四角縁しかくぶち神獣鏡しんじゅうきょうよ」


 彼女は得意げだった。


 歩の歴史の知識は、高校で教わった日本史の歴史ぐらいだった。古美術にも関心はない。しかし、アニメ好きだから剣と勾玉まがたま、銅鏡が三種の神器だという程度の知識はある。


「三角縁神獣鏡というのは学校で習いましたが、四角縁神獣鏡なんてあるんですね?」


 率直な感想を言っただけだが、玉麗が不機嫌そうに頬をふくらませた。


「三でも四でも似たようなものだ……」


 会計士にもかかわらず、彼女は数字にアバウトだった。


「……私だって詳しいことは知らない。御利益ごりやくがあればいい。……この前、大国屋で聞いただろう? 会社が発展するお宝の銅鏡がこれだ……」


「事務所が急成長するための、神だのみですか……」


「馬鹿か。私は神や運など信じない。実力で勝負する。大切なのは評価額1億円ということよ」


 1億円の札束を想像したのか、彼女の頬が緩んだ。


「ですよね。僕には鍋のふたにしか見えませんが、会計士試験の御利益があるのなら、神様も運も信じます」


 歩は銅鏡を取って観ようと手を伸ばした。


 ――パシン!――


 激しい音がした。同時に、手の甲に痛みが走る。玉麗にプラスチックの物差しで叩かれた。その時はじめて、彼女が白い手袋をはめていることに気づいた。


「汚い手で触るな。1億よ」


「トイレの後はちゃんと洗ってますよ」


「そう言う意味じゃない」


「どういう意味です?」


「男はだめだと言うことだ。暇さえあれば私や好子の胸元や太ももを眺めて鼻の下を伸ばしている。そんな汚れた心の持ち主には触らせない」


 玉麗の目尻がつり上がっていた。


「それは僕じゃないです」


 言いながら、冷たいおしぼりで顔をゴシゴシふいている阿久を見やる。


「第一僕は、年上の女性に関心はありません」


 歩は少女趣味のオタクだ。


「私に女の魅力がないというの?」


 玉麗の定規が、歩の額を打った。パチンと高い音が鳴った。


「これはパワハラですよ」


 涙目で言った。


「まあ、とにかく、汚れたら値が下がる」


 歩の抗議はスルーされた。彼女は、銅鏡が大国の愛娘、モモを助ける対価だと、手に入れた経緯を説明した。


「……と言うわけで、この四角縁神獣鏡がここにある。あとは、大国モモの意識を取り戻すだけだ」


「さすが所長です。そんなことができるのですね」


 医師も祈祷師もお手上げの治療をするという玉麗に感嘆してみせた。人間関係を円滑にする〝おべんちゃら〟というやつだ。


「歩には悪魔祓いを頼むわ。その汚い手なら、モモに取付いた悪魔も逃げるに違いない」


 玉麗が悪魔のような笑みを浮かべた。


 本物の悪魔を見たことはないけれど、彼女は悪魔並みかそれ以上だ。歩はそう思った。


「具体的には、どうすればいいんです?」


「そんなことは自分で考えなさい」


 彼女がクルリと背中を向けた。


 そんなこと? それなら自分でやればいいじゃないか!……歩の抗議は声にならない。代わりに、疑問が口を突いた。


「えっと、悪魔祓いって?……涅槃山の三神の祟りなのですよね。それを僕が祓うのですか?」


「他に誰がいる? 悪魔も神も似たようなものだ。人魚の鱗事件を解決したアユミなら、きっと涅槃山の三神も逃げてしまう。頼んだわよ」


 彼女が向き直った。顔が笑っている。


「無茶ですよ。人魚の鱗の事件は、偶然解決したんですよ。僕に神や悪魔と闘う能力があるわけじゃありません」


 歩は知った。会計士としての才能は期待されていないが、雑用係としての素質を買われているらしい、と。


「甘ったれるな。歩は、私の奴隷……、いや、社会人として一歩踏み出したのだ。私の言うことを信じなさい。運も実力のうちなのよ。自信を持ちたまえ。アユミちゃん」


 玉麗が立ち上がり、歩の両肩に手を置いた。


「神や運など信じないと言ったのは、玉麗さんです」


「物事には二面性がある。明暗、裏表……。神を信じない、と信じている無神論の不条理……。うーん……、とにかくやれる。アユミならできる。そう信じるのが成功への第一歩よ」


 なにやら理屈をこねて彼女が自分を説得しようとしている、ということは理解できた。


「自己啓発本を読んでごらんなさい。神様は、解決できない困難を与えたりしない。……いいわね。アユミに与えられる期間は、そう、モモさんの夏休みが終わるまでよ」


「そんだけー!」


 歩はのけぞった。夏休みがいつ終わるか分からないけれど、すでに8月半ばだ。残された日は少ないだろう。




 神の祟りを払い、モモの意識を取り戻せと言う玉麗の業務命令は、雲をつかむようなものだったけれど、歩は新入社員という奴隷として従うしかなかった。


 自分の席に戻ると、そこには栄花が掛けていた。


「あのう。栄花ちゃん」


「うるさいわね。宿題の邪魔をしないでちょうだい」


 10歳の子供にぴしゃりと言われて戸惑う。少女好きだけれど、ロリコンではない。彼女の拒絶に萌えることはなかったけれど、追い飛ばして児童虐待だと騒がれるのも困る。


 きっと素敵な女王様になるに違いない。……そう自分に言い聞かせて彼女を許し、温かい気持ちで自分の席を譲った。


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