本当に欲張りだな
レムがアパートに戻ってきたとき、部屋は真っ暗だった。
(よかった、間に合った。遅くなりすぎたから、もう駄目だと思ったけど……)
レムは手探りで電源を探す。蛍光灯の灯りは苦手だったが、このときばかりはほっとした。
しかし、安堵したのも束の間だった。
サミュエルは病的なくらいに綺麗好きで、台所はいつもきちんと片付いている。
たまにレムが、テーブルの上に本やら食べかけのパンやら残していても、いつのまにか片付けられているのが日常だった。
ぎょっとしたのは、手を付けていないコーヒーカップを見つけたときだ。
すっかり冷めたコーヒーが残ったままだった。つまり、何時間も前にサミュエルは帰ってきていたのだ。
震えて動けなくなりそうだった身体を叱咤して、レムはいま来た道を引き返そうかと思った。
教会にはまだきっとイヴァンがいる。
いますぐに逃げろと言って、間に合うだろうかと、レムはすこし迷ってしまった。
(いや、それよりは……)
レムは寝室の扉を開けた。ここも真っ暗だった。灯りを付けずにレムはベッドに近付く。
「サミュエル……?」
彼は、レムの前であまり疲れた顔を見せなかった。
裏組織に属するサミュエルは、少年の頃に教会に売られてからというもの、どんな汚れ仕事でもやった。
組織にどれだけ酷使されても、サミュエルは組織の言いなりだ。
(いや、サミュエルに意思はない。あいつは組織なんてどうだっていいし、何も感じていない)
サミュエルが求めているのは、ただひたすらにカトリーヌの幻影だ。
「なんだ……? 帰ってきたのか?」
レムはぎくっとした。ここに戻って来たのかという意味ではなく、エルムトに行かなかったのかという意味だ。
ノアは密かにイヴァンと接触したが、レムの言伝を残したノアの動きなど、サミュエルにはお見通しだろう。
「うん……。僕の場所は、ここしかない」
レムはそのままベッドに引き摺り込まれた。
ここに戻ってくるまでに覚悟はしていた。どうせ間に合ったとしても、サミュエルはレムのわずかな心の
しかし、サミュエルはレムを腕に閉じ込めたまま、動かなかった。
「サミュエル……? どうしたの?」
彼だって人間だ。疲れることだってあるだろうし、ただ人肌恋しくなるときもあるだろう。
「お前は、いくつになった?」
レムは呆れた。十歳のときから四年間、ずっと一緒に暮らしてきた。
(そんなことも知らなかったわけ? それとも、忘れているだけ?)
「十七だよ。ひとつ歳を取ったのも、知らない?」
「ああ、そうだったな」
サミュエルの声があまりに弱々しかったので、急にレムは不安になった。
「カトリーヌよりも、三つも下だ」
「知らないよ、そんな人。会ったこともないもの」
レムはカトリーヌという女が大嫌いだった。
サミュエルもイカレているが、カトリーヌも大概だ。
善悪がない人間は、悪と変わりがないとさえも思う。良いことも悪いことも区別が付かないのは、とにかく手に負えない。だから、どこの種ともわからない子どもを孕まされた。
(そんな女、早く忘れてしまえばいいのに)
嫉妬という感情が、そこに含まれていることを、レムは認めている。
サミュエルはレムを通して、カトリーヌを見る。正直、気分が悪いのだ。常軌を逸したサミュエルの行動も、レム個人を愛していてくれたのなら、レムは逃げたりなんかしなかった。
(僕も大概だな。気狂いの女から生まれたから、やっぱりおかしくなるのかな?)
こんな卑屈すぎる考えを声に出したら、サミュエルは悲しそうな目をする。イヴァンだったら、自分の母親をそんな風に言うなと怒る。
(でも、仕方がないじゃないか。僕はカトリーヌを知らない)
母親を知らないレムはカトリーヌの真実を知らない。
サミュエルを裏切ったカトリーヌ。単に絆されたのか、愛のない行為を強要されたのか、それともサミュエルよりもその男を愛してしまったのか。真実は誰も知らないから、たしかめようもない。
(わかってる。カトリーヌに同情したくないのは、僕が自分を憐れみたくないからだ。いまさら、自分の母親を気の毒に思ったところでどうにもならない。忘れたいし忘れさせたい。いつまでもカトリーヌに囚われていてはだめだ)
「エルムトには、いつ行くの?」
「明朝には発つ」
「そう。僕も、一緒に行った方がいい?」
「いや……」
自分できいておきながら、答えが否だったことにレムは安堵した。
エルムトは壊滅するかもしれない。イサヴェルは本気だ。
「お前はバルブロの見張りだ」
「わかった」
護衛ではなく、見張りというのがサミュエルらしいところだ。
サミュエルはこんな組織になど、なんの愛着も感じていないものの、ネズミたちを好きに使われるのは気に入らないようだ。
(明朝なら、急がないといけない)
レムはサミュエルに跨がって、彼のアメジスト色の目を見た。
そうして甘えた声を出せば、彼はレムにご褒美をくれる。
(でも、いまほしいのはそれじゃない。僕がほしいのは、約束だ)
「お願いがあるんだ、サミュエル」
「軍神イヴァンと
「そう、正解。彼らだけは、生かしてあげてほしいんだ」
これは、契約。レムがサミュエルを裏切らないという証。
「それに、ユハ。彼女は巫女の獣だから、エリサの傍にいる。それから、」
「多すぎるな。お前は欲張りだ」
レムはくすくす笑う。自分が強欲だという自覚はある。
「お前はここで良い子にしていろ」
「僕のことよりも、自分のことを考えて。僕は、あんたにも死んでほしくない」
「本当に欲張りだな、お前は」
宝箱を開けて、そこからひとつだけ選べと、そう言われたときのレムの答えは決まっている。
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