あの子の父親は

 イサヴェルの猛攻がつづいている。


 奴らは船で海を渡って、どんどん軍隊を送り込んでくる。対するエルムトは、輝ける月の宮殿グリトニルの守りを固めさせることで、どうにか耐えている。


 それも限界が近いと、イヴァンはそう思っている。


 毎日のように怪我人が、輝ける月の宮殿グリトニルへと運ばれてくる。

 オリヴァーが急逝してから、軍神テュールには軍医がいなかった。臨時の救護班を作り、女たちが負傷者の手当てを任される。しかし、怪我人は増える一方で、どこもかしこも人でごった返している状態だ。


 こんなときにまで、番人ヘーニルたちは議論をつづけている。

 

 それが彼らの仕事と言ってしまえば、それまでだ。

 この次に、イサヴェルの攻撃を防ぎきれる保証はどこにもなければ、軍神テュールの数もとても足りない。では、いまこそ戦乙女ワルキューレたちを戦場に送り込むべきと、声高に訴える番人ヘーニルたちに、隊長のマルティンがとうとう激怒した。


 イヴァンも怒りを堪えている。

 戦乙女ワルキューレの育成ははじまったばかり、一朝一夕いっちょういっせきやそこらで、イサヴェルの軍隊と戦うのはさすがに無謀すぎる。


(しかし、そんなことは番人ヘーニルだって、わかりきっているはずだ。彼らは時宜じぎを待っている。エルムトはもう……)


 降伏の意思を示すなら、早い方がいい。

 イヴァンは軍神テュールの副隊長としても、エリサの兄としても、何度も月の巫女シグ・ルーナと相対した。けれども、彼女の言葉は決まっていた。


「私の命を差し出してエルムトが助かるなら、とっくにそうしています。でも、そうじゃない。イサヴェルはエルムトからすべてを奪う。いま生きている人たちだけではなく、これから生まれてくる子どもたちの未来まで、奪ってしまう権利が私たちにありますか?」


 月の巫女シグ・ルーナの意志は固かった。

 エリサの兄だからこそ、わかる。エリサはけっして、理想を口にしているのでは無いことを。彼女が訴えるのは現実、そして未来。


 しかし、どれだけ声高に叫んだとしても、エルムトがイサヴェルに屈するのも時間の問題だ。


番人ヘーニルが俺を前線に出さなかったのは、戦乙女ワルキューレの育成のためだけじゃない。エリサを説得させるためだ。だが、エリサが頑固なことくらい、番人ヘーニルもよく知っているはず……)


 エリサを巫女から引きり下ろす。

 それには次の巫女が必要だったが、巫女の候補もいない。こうも差し迫った状況ならば、巫女が不在であっても許されるのだろうか。


(しかし、どうやってエリサを……)


 ここでやっとイヴァンは気が付いた。

 イサヴェルの軍隊の他にも、先に暗殺組織が入り込んでいる。奴らの狙いは最初からエリサだ。


番人ヘーニルたちに、月の巫女シグ・ルーナを手に掛ける勇気なんてない。巫女殺しは神殺しに等しい所業。その魂は黄泉の国ヘルヘイムを永遠に彷徨う)


 イヴァンは副隊長として、自分も前線に立って戦いたかった。

 

 イサヴェルの軍隊は輝ける月の宮殿グリトニルに近付きすぎている。隊長のマルティンは、残る軍神テュールを率いて、三日前に発った。イヴァンがマルティンに命じられたのは、わずかな軍神テュールたちとともに、最後の砦を守ることだ。

 

 そのマルティンが戻って来たとき、すでに輝ける月の宮殿グリトニルにまでイサヴェルの侵攻を許してしまっていた。


 女子どもの避難もままならないなかで、番人ヘーニルたちを上手く逃がせたかどうか、それすらわからない。こうなれば衆寡敵しゅうかてきせずも同然だった。


 いざというときは、エリサとユハを連れて逃げろ。

 そう、イヴァンはマルティンに命じられていた。そんなことが不可能だと言うことも、マルティンはわかっていたはずだ。


 軍神テュールたちが、イヴァンに月の巫女シグ・ルーナのところに行くように、訴えている。

 エルムトが、落ちる。それでも軍神テュールは最後の一人になっても戦う。イヴァンもそうするつもりだった。マルティンと会うまでは。


「隊長! マルティン隊長……!」


 マルティンの身体を受け止めたイヴァンの手が、すぐ血の色で染まった。

 これだけの血を流しながらも、マルティンは戻って来た。それはイヴァンに声を伝えるためだった。


「ああ、よかった……。イヴァン、お前は無事、だな」


 背に刺さった無数の矢。それだけではない。マルティンは腹を斬られ、胸を刺され、それでもなお輝ける月の宮殿グリトニルへと帰ってきたのだ。


「イヴァン……、アストリッド、は?」

「あの子は無事です。安全なところに避難させています」

「そうか、よかった……」

「会いに行きましょう。これが、終わったら一緒に」


 一人娘が無事だときいて、マルティンは微笑んだ。

 イヴァンは他の軍神テュールに手を貸すように、目顔で訴える。医務室は負傷者でいっぱいだ。だとしても、イヴァンはマルティンをそこまで連れて行く。


「頼みが、ある……。イヴァン」


 二人掛かりで運ぼうとして、マルティンに拒まれた。彼はもう自分一人では歩けないくらいだったが、それでも最後の気力を振り絞って、イヴァンに会いに来た。


「アストリッドを、頼む。お前にしか、任せられない」

「やめてください、隊長!」


 ふたたび崩れ落ちたマルティンを、イヴァンはどうにか起きあがらせようとする。


「アストリッドを、俺の代わりに、」

「あの子の父親は、あなたしかいません! マルティン!!」


 軍神テュールたちがすすり泣いている。イヴァンは彼らに泣くなと怒鳴りつけ、自分だけは意地でも泣くまいと堪える。

 承諾などしていないのに、やっと安心できたのかマルティンは目を閉じた。

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