それを優しさだと思い込んでいた

 耐えがたい苦痛を感じているときに、それらをどうやってやり過ごしていたか、レムは思い出そうとして諦めた。


 身体中が痛くて堪らない。

 昨日は特にひどかった。レムはちゃんと自分の非を認めているので、彼の気が済むまで耐えていようと思っていた。


 でも、そんな考えは甘かったのかもしれない。


 幼い子どもの癇癪よりも手に負えない。

 抵抗すればもっとひどい目に遭うので、早くこの時間が終わることだけを考えていた。以前はそのくらいの余裕があったように思う。


 サミュエルにいたぶられているあいだに朝が来た。

 とっくに限界を超えていたレムは、ほとんど気を失うように眠った。目が覚めたとき、いきなり激しい頭痛に襲われた。吐き気を堪えているうちに、身体がぶるぶると震えだした。


 薬の時間がいつだなんて、覚えていなかった。それくらいにレムの依存は進んでいたのだろう。


 頭痛だけならば、ただじっと耐えていればいい。


 夜になればサミュエルが帰って来る。毛布に包まって激しい頭痛をやり過ごし、台所からいいにおいがしてきたら起きればいいのだ。


 この時間まで何も口にしていなかったと言えば、サミュエルは呆れるだろう。

 それでも、テーブルの上に並べられたあたたかい食事を平らげるまで待ってくれるし、風呂の準備をしてくれる。


 新聞を読んでいるサミュエルの向かいにちょこんと座って、蜂蜜を落としたホットミルクをゆっくり飲んで、すこし眠くなったら甘えればいい。やさしいときのサミュエルならば、レムの懇願は何でも受け入れてくれる。


(でも、今日がそうだとは、限らない)


 手足が震えて、吐き気もどんどんひどくなる。

 レムはそれを薬が切れたときの症状だと知っていたが、その半分は自分が怯えていることもわかっていた。


(サミュエルが帰って来るのがこわい。それでも……、早く戻ってきてほしいと思うのは)


 がないと、耐えられないからだ。


 レムは毛布のなかで笑っていた。それが笑い声なのか、それとも嗚咽おえつなのか、自分でもよくわからなかった。





          *




 レムはひさしぶりに夢を見ていた。


 幻覚ではないとわかったのは、夢のなかでは苦しさを感じなかったからだ。

 おまけにレムもいまよりもっと幼い。輝ける月の宮殿グリトニルに来たばかりの十四歳のレムだった。


「先生は、どうして僕にをくれないの?」


 熱が出たとかお腹を下したとか、あれこれと適当な嘘を口にして、レムは医務室に入り浸った。

 背が低くて小柄なレムは、いかにも繊細そうに見えたのだろう。おなじ年頃の軍神テュールたちには、白兎とよく揶揄やゆされた。


「甘えるな。解熱剤も鎮痛剤も、子どもが多用するもんじゃない」

「でも、こんなに苦しいのに……」

「減らず口をたたけるくらいの余裕は、まだあるみたいだからな」


 ベッドで大人しく良い子にしているのに、オリヴァーはレムに厳しかった。

 十四歳のレムは、が解熱剤でも鎮痛剤でもないことくらいわかっていた。


(いや、でも最初はそうだった……)


 レムがサミュエルから最初に与えられた薬が、熱冷ましだった。

 本土イサヴェルは冬はエルムトほど雪が降らなくとも、厳しい気候であることには変わらない。レムはよく熱を出す子どもで、いまよりずっと身体が弱かった。


(でも僕は馬鹿だから、気づかなかったし、それを優しさだと思い込んでいた)


 素直な子どもは平気で嘘を吐くようになった。

 そうすれば、痛みも苦しみも、さみしさも孤独もぜんぶ消えてくれた。


 だから、レムはオリヴァーがものすごく意地悪な人間だと、そう思っていたのだ。

 

(ごめんなさい、先生。先生の薬棚から盗んでいたのは僕です)


 これは夢だ。どんなに懺悔したところで、本人に直接謝らなければ意味がない。


 レムはオリヴァーの助手を務めるようになってから、薬の知識が付いた。

 いくつかの薬を調合すれば、と似たような効果があることも、自分の身体で試して確信を得ていた。二年間、サミュエルから離れていてもなんとか保っていたのも、これのおかげだった。

 

(たぶん先生はとっくに気付いていたんだ。ちょっとずつ与えてくれたけれど、それじゃあ僕が足りなくなって。いつかエルムトを出て、僕がサミュエルのところに戻ることだって、きっとわかってたんだ)


 だとしたら、勝手に出ていったレムのことをオリヴァーは怒っているのかもしれない。もう会えないけれど、ちゃんと謝ってそれからお礼を言っておくべきだったと、レムはいまごろになって悔やんだ。


「レム。お前もいつか、きっと俺とおなじことをする」


 これは、夢だ。過去の夢を見ている。


 それなのにオリヴァーは、いまのレムに向けて声を残していた。




         *




「サミュエル……?」


 レムが目覚めたとき、彼は傍にいてレムの髪を撫でていた。

 白金の美しい髪はすっかり色が抜けて、老爺ろうやみたいな白髪になった。

 

(でも、そんなのいまにはじまったことじゃない)


 白兎のレム。

 

 白金の髪と白皙はくせきの肌。見た目も女の子みたいなレムは、どこにいってもおなじ年頃の男の子にいじめられたし、そんなものは慣れっこだった。


「帰ってきたのなら、灯りくらい付けたらいいのに」


 こう零しながらも、レムはなぜ彼がそうしなかったのかをわかっていた。

 薬が切れたあとの時間は地獄だ。ただ苦痛だけが永遠につづく。眠ってやり過ごせるなら、それは運がよかっただけだ。


「サミュエル……?」


 彼はレムの声に応えなかった。サミュエルの長い指が、瞼へ鼻筋へ唇をたどって、レムの首にたどり着く。ああ、またはじまった。レムは息ができなくなった。


「またちがう男の名前だった。お前はその顔で、どれだけの男をたぶらかせた……?」


 否定の言葉を紡いだところで逆効果だ。

 レムはもう抵抗することをやめた。この時間が過ぎるのを、天井を見つめながらただただ耐えていた。

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