僕にはそんな勇気なんてない

 サミュエルの影響で、レムも新聞を読むようになった。


 社会情勢から娯楽に関する情報まで、隅から隅までびっしりと文字が綴られているが、どれもさして興味がない。

 それでもレムは朝ポストに投函されると、すぐに新聞を取りに行くようになったし、端から端までちゃんと読むようになった。


(おかげですっかり早起きが身に付いたけど、やることがない)


 自分のためだけに料理を作るのは苦にならなくとも、そのうちなんだか空しくなって、手の掛かる料理を作るのをレムは止めた。

 

 苦手な片付けや掃除にも挑戦するものの、サミュエルがふだんから部屋を綺麗に保っているので、それほど時間が掛からない。散らかそうにもここにはレム一人だし、そもそもレムの私物など無いに等しかった。


 サミュエルの本棚は好きに触っていいと言われていたが、だいたいどれも一度は読んだことがある上に、内容を覚えているので退屈しのぎにもならない。


 それなら、サミュエルに命じられたとおりに、バルブロの見張りに専念するべきだろう。


(正直、気が重い……。なんでわざわざ、あの男の顔を見に行かなきゃいけないのか)


 バルブロは短躯たんくで出っ歯の醜男だ。


 人を外見だけで嫌悪したくはなかったが、顔を見るだけで吐き気がするくらいに、レムはバルブロが嫌いだった。


(あんなやつが組織のリーダーだって? 出っ歯の栗鼠ラタトスクはサミュエルで保っているようなものなのに)


 そのサミュエルは帰ってこない。


 ふた月はあっという間に過ぎた。本土のイサヴェルは、エルムトよりも春の訪れが早い。朝晩の寒さが和らぐとともに、街路樹の色が変わっていくのに気が付いて、レムは急に不安になった。


 サミュエルが家を空けることはままあったものの、それは長くても十日くらいだった。


(帰ってこられない理由はわかってる。でも……)


 今朝の新聞にも、エルムトの情勢に関わる記事は載っていなかった。

 安堵する自分にも、それも時間の問題だと思っている薄情な自分にも、ほとほと嫌気が差す。これほど落ち着かない日々をただ過ごすのなら、やはり無理を通してレムもエルムトに行くべきだったのだ。


(だけど、僕にはそんな勇気なんてない)


 サミュエルは約束を守ってくれる。だから少なくとも、イヴァンとエリサだけは助かるだろう。

 気まぐれでユハや他の者にも、手を出さないかもしれない。そうなることを祈るしかないことが、レムはもどかしくて堪らなかった。


 レムはふと顔をあげた。玄関の方から物音がしたからだ。


 鍵はちゃんと閉めているはずだ。それならサミュエルが帰ってきたと考えるべきでも、レムはその可能性をすぐ捨てる。音ひとつ立てずに、いつのまにか帰って来るのが、サミュエルという男だからだ。


 いきなり台所の扉が開いて、レムは全身から嫌悪を滲ませた。


「なに……? 僕に、何か用なの?」


 短躯で出っ歯の男が立っていた。

 羽振りの良い生活をしているらしく、バルブロはいつも貴金属や宝石を身に付けている。品の無い男は、レムを見ながらにやにやしている。


「サミュエルの愛人が残っていると聞いてな」


 近付いてもいないのに、バルブロからはアルコールのにおいがする。

 昨夜の酒が抜けきっていないのか、朝から飲んでいるのか。おそらくは前者だ。


「言伝があるなら、ノアに言ってくれる? 僕も暇じゃないんだけど?」

「まあ、そう言うな」


 酒の影響だけではない。バルブロの目は血走っていて、呼吸も荒かった。


(こいつ……、まさか自分でも)


 レムの推測はおそらく正しい。

 

 組織の幹部は、飼っているネズミたちを従順にするために、違法な薬物を投与する。組織によって壊されたネズミたちはやがて廃人となって、死を迎える。そのさじ加減がむずかしく、用量を誤ればあっという間に死ぬらしい。 


 それだけ危険な薬とわかっているからこそ、上層部の人間は自分では手を出さないはずだ。少なくともサミュエルはそうだった。


 武器は持っていないようだが、得体の知れない不快感から、レムはとにかくバルブロから距離を取ろうとした。しかし、バルブロはじわりじわりと近付いてくる。


「帰ってくれない? 僕はあんたなんかに用事はない」

「なに……。ちょっと味見するくらい、いいだろうが」

「なんだって……?」


 生理的な嫌悪感の理由がわかった。この男はいつもレムを見ていた。手を出してこなかったのは、レムの傍にサミュエルがいたからだ。


(くそっ、剣は寝室だ。あとは……)


 出掛けるときには外套のなかに短刀を忍ばせている。だが、レムは家のなかまでは携帯していなかった。


 サミュエルには武器の扱い方とともに、護身術も習った。

 けれども、レムはあまり体術が得意ではなかった。身体がちいさい分、どうしても不利になるのだ。


(どうする? 剣を取りに行くか……? それとも素手で戦うべきか)


 逡巡しゅんじゅんするレムに、バルブロは気持ちの悪い笑みを浮かべている。


「それ以上、僕に近付くな」

「まあ、落ち着け。ひとつお前に、面白い話を聞かせてやろうと思ってな」

「面白い話……?」

「ああ、そうとも。お前は、あの女が生んだガキだろう?」


 あの女というのが、カトリーヌを意味しているのがわかって、レムは息ができなくなった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る