私が殺してあげるのに
「それで、のこのこ帰ってきたの? まったく、情けないわね」
容赦のない一言を浴びても、イヴァンはなにひとつ言い訳を返せなかった。
一日でも早くと、とにかくイヴァンは急いで
その疲れももちろんあったし、昨夜は遅くまで
イヴァンは隊長のマルティンとともに、
祈りの塔は、関係者以外の夜間の出入りは禁じられている。
エリサの近親者であるイヴァンも例外なくだ。そのおかげで、
ただし、エリサの機嫌が悪い理由は他にもある。
カウチに座るイヴァンの前に紅茶は出してくれたものの、いつもように大量の焼き菓子は出てこなかったし、ユハも給仕を止めてエリサの隣に座っている。
「イヴァンはいったい、何をしにケルムトまで行ってきたの?」
「何しにって……、それはあんまりだろう。エリサ」
「
「それは……」
エリサの視線から逃れたところで、ユハと目が合った。
いつもはイヴァンの味方をしてくれるユハだが、どうやら今日はちがうらしい。涼しそうな表情で、ただ紅茶を飲んでいる。
「だいたい、レムは嘘つきなのよ? 知ってるでしょ、兄さん」
レムがエリサの前で、嘘を吐くような必要があったのかどうか。イヴァンはすこし考えてみたものの、わからなかった。
「過去が何? それはいまのレムに、なにも関係がないじゃない」
「だが、レムは」
「じゃあイヴァンは、そのサミュエルって男に負けたのね」
妹とはいえ、なぜここまで言われないといけないのか。
身体が熱くなるような怒りをイヴァンは耐える。挑発に乗ってこないイヴァンにエリサは呆れたのだろうか。あるいは、失望したのかもしれない。エリサの目は明らかに怒っていた。
「大事なのは過去じゃない。今よ」
エリサはもう一度、言う。
「私は、彼の気持ちもわからなくはないですよ」
ユハだ。イヴァンとエリサは同時に彼女を見た。
「あら、いやだ。ユハはイヴァンの味方かしら?」
「いいえ。そうではありませんよ、エリサ。ですが、限られた選択肢でひとつだけを選ぶとしたら……、私もおなじことをするかもしれませんね」
「ユハ、お前……」
カチャンと、わざとらしく音をたてて、エリサはカップを長机に置いた。
「ふうん。ずいぶんと舐められたものね。私もイヴァンも、そんなに弱そうに見えるのかしら?」
イヴァンは閉口する。サミュエルに負けたイヴァンには、弁明する資格もないのだ。
「そのサミュエルって男……、あちらから仕掛けてくれたら、私が殺してあげるのに」
「よせ、エリサ。その男はレムの、」
「うふふ。冗談よ、兄さん」
口元に指を当てながら、エリサはくすくすと笑う。
(冗談には見えない。エリサはその気になれば本気で……)
エルムトの
そう、エルムトの人々は思っているのかもしれないが、エリサを知っているイヴァンだからこそわかる。エリサはあらゆる呪いを相手に跳ね返す。いわゆる呪詛返しを得意とするし、黒魔術の類いも平気で使う。
さすがに目に見えない攻撃からは、
「いいわ、イヴァン。兄さんが望むように、ちゃんと演じてみせるわ。これからもずっとね」
エルムトの巫女ではなく、魔女。
本来のエリサの姿を知っているのは、イヴァンとユハだけだ。
(レムは気付かなかったのだろうか? いや、知っていてもなお、サミュエルから俺たちを守ろうとして……)
「
「ああ、エリサ。戦うのは、
*
祈りの塔から
エルムトの危機が迫る中、
イヴァンはそれが歯痒くてならない。そんな心配をされなくとも、
おそらく、マルティンもまた執務室にいるだろう。
隊長を迎えに行こうと、イヴァンは回廊を歩いていたところだった。
「イヴァン!」
呼び止めたのは、ミカルだった。こうして会うのは、半年以上もひさしぶりだった。
長いこと面会謝絶だったミカルは、もうすっかり元気そうだった。
それも当然かもしれない。ミカルを看たのは軍医だったオリヴァーだし、ミカルを斬ったレムは明らかに手加減していた。
しかし、イヴァンが驚いたのはそこではない。
ミカルの後につづくのは、少年ばかりの
「ミカル、お前まさか……」
「
寄せ集めにしても三十人はいる。ミカルの呼びかけに応える
「無理だ。アウリスのところまでたどり着く前に、やられるぞ」
「なら、イヴァンはどうやって帰ってきたんだよ」
山越えのことを言っているのなら、出会さなかったと正直に応えればいい。
ただしそれは、イヴァンが単身で戻って来たからできたことで、見逃されただけという方がきっと正しい。
「止めても、無駄だ。俺は兄貴を見捨てたりはしない!」
イヴァンにしても、彼らを止められるとは思わなかったし、アウリスへの加勢が必要なことくらいよくわかっていた。
反論してこないイヴァンに気を削がれたのか、歯を剥き出しにしていたミカルが急に大人しくなった。
「あいつは、一緒じゃなかったのか?」
「あいつ……? レム、か?」
名を出せば、ミカルはあからさまに嫌な顔をした。
一方的にミカルはレムを嫌っていた。その理由を思い出して、イヴァンは不自然に目を逸らしてしまった。
「なんだよ……。やっぱりあいつ、俺たちを」
「ちがう、レムは」
「どうだっていいよ。どうせあいつは、臆病な白兎だ」
一方的に吐き捨てて、ミカルは去って行った。
副隊長として、自分が彼らを止めるべきなのではないか。そう、自問自答したものの、イヴァンは答えを出せないまま、ミカルたちを送り出してしまった。
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