オリヴァーの遺言

 扉をノックしてみても、返事がきこえないのは想定内だった。


 ここの主は居留守をよく使う。あるいは、用件を告げずに出歩く癖もあると言う。

 これほど自由な人をイヴァンは知らない。だが、弟子のレムもけっこう自由なところがあるので、悪いところを見事に引き継いでしまったと言える。


 ふた呼吸ほど待ってみて、イヴァンは扉を開けた。


 熱烈な煙草の煙の歓迎がなかったことにまず驚き、それから部屋が綺麗に片付いていることにもびっくりした。


(先生が自分で片付けたのか? いや、ちがうな。オリヴァー先生もレムも、片付けは下手だったし、ここまで綺麗にするのは不可能だ)


 ベッドのシーツまでちゃんと整えられている医務室で、イヴァンはオリヴァーを探すも、その姿は見当たらなかった。


(オリヴァー先生、外出中なのか? でも、隊長はここに行けと……)


 医務室はいつ訪れても煙草臭くて、換気が必要なくらいだった。ところが、薬のにおいはするものの、それらしきにおいは感じない。


 長期休暇にしては妙だ。

 

 エルムトはいままさに、イサヴェルの脅威に備えているところで、これからどんどん負傷者の数も増える。レム以外の助手もいなかったオリヴァーは、一人でその役目を果たさなければならない。


 じきにここも、怪我人たちでいっぱいになるだろう。


 となると、ここが片付けられているのも当然かもしれない。

 本棚はちゃんと整理されているし、薬品棚も誰が触っても、どこに何があるのか、ちゃんとわかるように並べられている。おまけにオリヴァーの机の上からも、大量の本や書類の山が消えている。


 そこで、イヴァンはようやく気が付いた。オリヴァーの机の上から、煙草の灰皿も消えていることに。


 たった一日で灰皿を煙草で一杯にするくらいに、オリヴァーはヘビースモーカーだった。

 身体に悪いからと、レムに愚痴愚痴言われても、聞く耳を持たなかったのがオリヴァーだ。


 とっさにオリヴァーの机に駆け寄ったイヴァンは、ただひとつ机に残った彼の眼鏡を手に取った。

 オリヴァーは三十に差しかかったところだったが、老眼に悩まされていると、レムからきいたことがある。


(先生の愛用の眼鏡だけが残されている。これではまるで……)


 遺品みたいだ。イヴァンは出そうとした声を飲み込んだ。


 そして、背徳感に駆られながらも、机の抽斗ひきだしを片っ端から開けた。

 以前は、抽斗がちゃんと閉まらないほどに、いろんなものが詰め込まれていた。それなのに、はじめから何も入っていなかったかのように、中は空だった。


 急な眩暈がして、イヴァンはよろめきかけた。ちょうどそのとき、マルティンも医務室へ入った来た。


「ずいぶん綺麗になっただろう? あいつが見たら、たぶん怒り出すな」

「隊長……。先生、は?」

「すまん、イヴァン。俺の口から言えなかった。俺もまだ、混乱している。オリヴァーがもういないってことを、信じられずにいる」


 イヴァンは瞠目どうもくする。同時に足がぶるぶると震えだした。


「先生が、死んだ……?」


 悪い冗談などではないはずだ。マルティンは、こうしたたちの悪い冗談を口にするような人ではなかった。


「そこの本棚を見てくれないか?」


 問い詰めたいことはたくさんあったのに、イヴァンは声を出せなかった。それくらいマルティンの表情が痛々しかった。


 イヴァンは言われたとおりに、端から本棚を探った。

 自身では理解できないようなむずかしい医学の本ばかりだと思いきや、女の裸が描かれた卑猥ひわいな本も混じっていて、慌ててイヴァンは本棚に戻した。


 と、そのとき、一枚の紙切れが落ちてきた。


「意地悪なやつだろう? そんなところに隠しておいて、見つけてほしかったのか、そうでなかったのか」

「これは……遺言?」


 マルティンがゆっくりうなずく。イヴァンが読んでもいいという合図だ。


 イヴァンはさっと目を走らせる。ここは好きに使え。たったそれだけ。これは本当に遺言なのだろうかと、疑うほどにあっさりだ。そういうところが、オリヴァーらしいといえばそうだが。


「たぶん、レムに宛てたものだろう」


 イヴァンもおなじことを思った。オリヴァーの弟子はレム一人だった。


「先生は、どこか身体の具合が悪かったのですか……?」

「さあ、どうだろう? 情けないことに、俺は何も気付かなかった。いや、あいつのことだ。上手く隠していたんだろう」


 マルティンとオリヴァーは従兄弟同士だった。

 気の置けない関係であったマルティンが、オリヴァーの病に気付けなかったのなら、他の誰にも見抜けなかったのかもしれない。


「すまんが、イヴァン。それをお前が持っていてくれないか?」


 イヴァンはうなずいた。

 オリヴァーの遺品である眼鏡、彼の遺言。まもなく、ここは混沌とするだろう。紛失する前にどこかに保管しておくべきだ。そして、しかるべきときが訪れたら、然るべき人へと渡す。


 マルティンが出て行ったあとも、イヴァンはベッドに腰掛けて、しばらくオリヴァーの机を眺めていた。


 耳を澄ませばすぐにでも、オリヴァーとレムの会話がきこえてきそうな気がする。

 

 仲の良い師弟同士だったと、イヴァンは思う。

 そして同時に、あれだけ近しい存在であって、レムはオリヴァーの病状に気付けなかったのだろうか。


(いや、先生は身内である隊長にも上手く隠していたんだ。それに……レムだって)


 他人の容態を気に掛ける余裕がないほどに、レムの状態は悪かったのだ。

 となれば、オリヴァーもまたと、イヴァンはある疑念にたどり着く。オリヴァーはレムのことにやたら詳しかった。


(先生がレムの近くにいたからじゃない。たぶん、先生もレムとおなじように)

 

 オリヴァーはエルムトから離れていた時期がある。

 五年ほど消えて、あるときフラッとエルムトに戻って来たのだ。その間にイサヴェルにいたのなら、その可能性は十分に考えられる。


(組織に関わっていたのか、あるいはそれとは無関係なところで薬物に……)

 

 イヴァンはかぶりを振った。あれこれ考えたところで、オリヴァーはもう戻って来ないのだ。


 やおら立ちあがり、イヴァンは部屋を出た。

 扉を閉めたとき、消えたはずの煙草のにおいを感じた気がした。

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