ラタトスクには気をつけろ

 輝ける月の宮殿グリトニルに戻ったイヴァンは、隊長のマルティンに報告に行った。


 このところのマルティンは忙しくしている。

 軍神テュールの訓練はいっそう厳しくなったし、いつも豪快で元気なマルティンは、疲れた顔を見せるようになった。


 それもこれも番人ヘーニルたちのせいだと、イヴァンはそう思っている。


 月の巫女シグ・ルーナ暗殺未遂。

 幸い、大事には至らなかったものの、番人ヘーニルたちは事態を重く受け止めている。あの本土イサヴェルから来た要人の警護を任されたのは、イヴァンだった。イヴァンも厳しく追及された。


 理不尽な罵倒を受けても、イヴァンはぐうの音も出なかった。

 そんなイヴァンをマルティンは常に庇ってくれた。マルティン自身も、この責任を追求されていたのにかかわらずだ。


(暗殺未遂などと、事を大きくし過ぎた。やつらは、エリサにたどり着いてさえいない)


 とはいえ、イヴァンの心中も穏やかとはいかない。

 エリサは大事な妹であるし、母も父も亡くしたイヴァンにとって、たった一人の家族だ。


 先代の頃から、巫女は常に命を狙われてきた。


 エルムトにて月の巫女シグ・ルーナは神聖なる象徴であり、人々にとっての希望でもある。精神的支柱を奪われてしまえば、エルムトは簡単に崩れかねない。


 だからこそ、巫女はなにを差し置いても守るべき存在なのだ。


(わかってはいる。だが、レムは本当に……)


 イヴァンの思考は途中で遮られた。執務室には先客がいたのだが、ちょうど話し終えたところだろう。マルティンに呼ばれてイヴァンは顔をあげる。


「そうか……。だが、よかったじゃないか。ミカルはもうすっかり回復したのだろう?」

「はい。身体は問題ないと、アウリスもそう言っていました」

「なら、うじうじ考えていても仕方がない。ミカルが復帰するまで待つしかないな」


 マルティンはここ数日あまり寝ていないと言っていたが、それでもいつものように大きな口を開けて笑った。イヴァンは苦笑いで返す。


(うじうじって……、俺はそんな風に見えていたのか)


 歯に着せぬ物言いをするのがマルティンだ。報告も終わって退出しようとするイヴァンを、まだ話があるとマルティンは呼び止めた。


「気分転換というわけではないが、イヴァンにはエルムトを離れて頼みたいことがある」

「それはまた……イサヴェルですか?」

「いや、ちがう。ケルムトだ」


 イヴァンは目をしばたいた。

 

 あの事件が起きてから三ヶ月が経っていた。イヴァンは番人ヘーニルに命じられて、エルムト中を隈なく探し回ったものの、レムは見つからなかった。


 一度輝ける月の宮殿グリトニルに帰還し、それから本土イサヴェルにも渡った。組織の痕跡を見つけるためだった。

 

 されども、小国のエルムトと異なりイサヴェルは広い。おまけに暗殺組織や闇の売人などといった、法で取り締まるべき組織が複数存在しているにもかかわらず、野放しの状態だ。

 

 失意のうちにふたたびエルムトに戻ったイヴァンを叱責するのは、妹のエリサ。励ましてくれたのは、ユハとマルティンだ。

 

(しかし、今回はケルムトとは、どういうことなのだろうか……?)


 さっぱりわからないといったイヴァンに、マルティンがつづける。


「じつは俺もケルムトには行ったことがない。砂と岩と夏の国ケルムト。あそこはエルムトとちがって、沃土よくどに恵まれているし、もっと強い軍隊もいる」

「まさか……、戦争でも仕掛けると?」

「そうじゃない、その逆だ」

「その逆とは……?」


 同盟だと、マルティンが言う。イヴァンからしてみれば寝耳に水だ。


「ここに、番人ヘーニル月の巫女シグ・ルーナしたためた手紙がある。こいつをケルムトの太陽の巫女ベナ・ソアレに渡してほしい」

「太守ではなく、ケルムトの巫女に?」

「ああ。いきなり行っても、まず太守は相手にしないだろう。だから、先に巫女に接触する」

 

 合点がいった。イヴァンがエルムトを離れていたあいだ、エルムトは例年にない長雨に見舞われた。旱魃かんばつも困るが水害も困る。エルムトはけっして蓄えの多いとは言えない国だ。これが毎年つづくと、たちまち民は困窮する。


 執務室を後にしたイヴァンは、さっそく旅の支度に取り掛かることにした。

 

 なにしろ行き先はケルムトだ。

 本土イサヴェルから南下して、駱駝らくだで荒野を移動する。その旅路は長いものとなるだろう。ひょっとしたら、冬至の祭りユールには間に合わないかもしれない。


「なんだ? また出掛けるのか?」


 途中で会ったのはオリヴァーだった。ただでさえ、イヴァンはオリヴァーを苦手にしていて、レムのことがあってからはより気まずくなった。


「ええ、ケルムトに」

「ふうん。レムはもういいのか?」


(こういうところが、嫌なんだよ)


 イヴァンは口のなかだけで零す。相も変わらず、オリヴァーは煙草臭いし、女物の香水のにおいがする。


番人ヘーニルからの指令です。優先するのは……当然でしょう」

「ふん……。まあ、どのみちケルムトに行くには、イサヴェルを通るしな」


 イヴァンはぎくっとした。心のなかを見事に読まれている。


「以前、先生は俺に言いましたよね? レムには関わるな、と」

「ああ」

「それとは逆のことをおっしゃるんですね」

「まあな。お前は案外根性のあるやつだと、俺は思っているからな」


 褒められているのかけなされているのか、イヴァンは判断に迷った。オリヴァーはずっとにやにやしている。


「ひとつ忠告だ。ラタトスクには気をつけろ」

出っ歯の栗鼠ラタトスク……?」


 なにかの隠語だろうか。いぶかしむイヴァンに、それ以上教えることなくオリヴァーは行ってしまった。

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