ふつうの生活
「ネズミ退治……?」
シチューの入った鍋を掻き混ぜながら、レムは問い返した。
今日の夕食は、鶏肉と根菜をたっぷり使ったシチューだ。
このところ、イザヴェルでは牛乳やバターが高騰している。金は湯水のように湧き出てくるものではない。乳製品を使った料理を避けていたが、好きなものを食べればいいと言われて、レムはそうさせてもらうことにした。
レムが付け合わせのバケットを切ったり、グリーンサラダを盛り付けたりしているあいだに、サミュエルは席に着いて新聞を広げている。最初は独り言かと思って、危うくきき逃すところだった。
「そうだ。実験中の鼠が何匹か逃げた」
レムは眉間に皺を寄せた。平然とのたまうサミュエルは、こうしてときどきレムにも仕事を手伝わせる。
(ネズミにだって、自由を求める権利くらいあるだろうに)
レムが同情的になるのも理由がある。
度重なる実験は、身体に負担が掛かり過ぎるのだ。苦痛から逃げたいと思うのは、誰だっておなじだろう。たとえそれが、組織で飼われた鼠であったとしても。
レムはこの組織をそう呼んでいる。リーダーは
バルブロはただの豪商に過ぎないので、戦闘能力はほとんどない。
しかしバルブロの護衛を務めるのがサミュエルだ。一度その恐ろしさを味わえば、二度とサミュエルには逆らえなくなる。それくらいにサミュエルの強さは異端だ。
そして、バルブロが
上にはボスと呼ばれる男がいるらしいが、本当に存在しているのか疑うくらいに謎に包まれていた。元はエルムトの
それとなくレムはサミュエルに問うてみたものの、彼は濁すだけだった。もしかしたら、サミュエルですらボスには会ったことがないのかもしれない。
(ともかく、そいつが
つまりそいつさえ消してしまえば、エリサは命の心配をしなくても良くなる。
とはいえ、ボスに近付くどころか何の情報も入らないのだから、手出しができないも同然だった。
「それで? イサヴェル中を探せって?」
「いや、イサヴェルにはおそらくいない」
「いない……?」
あたため終わったシチューとパンをテーブルに並べながら、レムは問い返す。サミュエルは涼しげな笑みを作っている。
「やつらはケルムトだ」
「砂と岩と夏の国……? なんでまた」
「イサヴェルのどこに隠れたところで、そのうち見つかって始末される。鼠どもも馬鹿じゃない」
(ああ、そういうこと)
レムはため息を吐きたくなるのをぐっと堪えた。
バルブロは組織に忠実な鼠を作っている。違法な薬を投与された鼠たちは、まともな人間に戻れないし、裏の世界からも逃げられなくなる。つまりバルブロの表の顔は豪商で、裏の顔は薬の売人だ。
(馬鹿なネズミたちだな。逃げたところで苦しみからは逃れられないし、もっと苦痛を味わう羽目になるのに)
とはいえ、レム自身が一度逃げた身だ。鼠たちへの
「いいよ、行ってくる。僕も、自分が
「ずいぶんと
「これでも
「ひどい濡れ衣だな」
くつくつ笑うサミュエルに
最高の出来のシチューだ。
これならどこかの料理人の見習いにでも、すぐなれるだろう。ただしサミュエルはいい顔をしないだろうし、レムも偉そうな親方に怒鳴られるのも嫌なので、職探しはお預けだ。どのみち、レムもふつうの生活なんてものには戻れないのだ。
「道中には案内人を付ける。期限も設けていないので、ゆっくりしてくればいい」
「なにそれ。観光でもしてこいってこと? べつに案内人も要らないのに……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、レムは途中で口を閉ざした。案内人というのは建前で、実際は監視役というやつだ。そして、わざわざレムを遠ざけておく理由も、ろくなものではないはずだ。
(イサヴェルは本気でエルムトを……。いや、よそう。知ったところで、僕がどうこうできるものじゃない)
ケルムトで鼠退治をしてイサヴェルに戻ってくる頃には、エルムトの
そうすれば、なにもきこえないしなにも見なくてもいい。すべて終わったあとならば、痛みだって少ないだろう。たぶん、これは彼なりの恩情だ。
ありがた迷惑だと、レムは思う。
しかし、抗う術を知らないレムには、どうすることもできない。なぜなら、レム自身も組織に飼われている鼠の一匹に過ぎないからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます