エピローグ 番人イヴァンと白鬼のレム

家族は私だけではないのだから

「はい、兄さん。お待たせ。着心地はどうかしら?」


 この日、イヴァンがエリサに呼び出されたのは、急ぎの用件があったからだ。


「ああ、ちょうどいい。無理を言ってすまなかった」

「いいのよ、兄さん。私がやりたいって言って、引き受けたんだもの」


 イヴァンが袖を通すのは番人ヘーニルの服である。

 色は軍神テュールの軍服とおなじ黒でも、素材や身丈が異なるせいか、正直ちょっと動きづらい。


「ふふ。兄さん、似合っているわよ。きっと、父さんも喜んでる」

「ああ、そうだな」


 やさしく微笑むエリサに、イヴァンもおなじ笑みで返す。

 

 イヴァンが正式に番人ヘーニルに任命されたのは、ひと月前だ。

 急なことだったので、一から仕立てるのは間に合わないと見て、エリサは父親のお古をイヴァンの背丈に合わせてくれた。長身のイヴァンは、少年の頃に父親の背を追い越していたからだ。


「たまには父さんのお墓参りにでも行ってあげないと。あの人、淋しがっているわよ。きっと」

「まあ……、そうだな」


 イヴァンは苦笑で返す。

 イヴァンとエリサの生家は、輝ける月の宮殿グリトニルからそう遠くなかったが、自由の効かない身であるエリサに墓参りは不可能だ。


「もうすこし落ち着いたら、行くよ。いろいろ報告したいこともあるし」

「それはそうと……。兄さん、あの家はどうするの?」

「どうするって……」

 

 イヴァンが軍神テュールに、エリサが月の巫女シグ・ルーナになってからというもの、あの家には帰っていない。

 父親の服も輝ける月の宮殿グリトニルまで届けてもらったし、あの家の管理など含めて執事長に任せきりだ。


「あの家を必要とする誰かがいたら、そのときは譲るさ。それに、いつかお前が使ってもいいじゃないか」

「いつか、ね……」


 エリサらしくないぎこちない笑みでうまく躱された。そんな日が来るのかどうか。イヴァンも声にせずにいる。 


 エリサはさっきからずっと欠伸を繰り返している。

 このために、三日ほど徹夜をしたと言っていた。もういいから早く休めと、そう訴えるイヴァンを引き留めたのもエリサで、たまには兄妹水入らずの時間を過ごしたいのだとか。

 

 それでなくとも、イヴァンは妹を心配している。


 エルムトはエリサに守られたも同然だった。


 エリサの魔力は歌となりて、嵐を起こした。

 季節はとっくに冬から春を過ぎているにもかかわらず、エルムトはひと月も雪と氷に閉ざされた。


 輝ける月の宮殿グリトニルまで入り込んでいたイサヴェルの軍隊は、どうにか壊滅させた。そのあと、増援を近づけさせなかったのはエリサの力である。


 エルムトの人々は、巫女の祈りが月の女神マーニへと届き、そうして守られたのだと、そう思っているのだろう。

 しかし、真実を知る者はごくわずかだ。イヴァンはそれでいいと思っている。


「私ね、兄さんに感謝しているの。本当よ?」

 

 それはエリサとしてだけではなく、月の巫女シグ・ルーナとしての意味も含まれている。


 イヴァンは月の巫女シグ・ルーナ番人ヘーニルに命じられて、砂と岩と太陽の国ケルムトを訪れた。

 ケルムトの太守に接触はできなかったものの、その娘である太陽の巫女ベナ・ソアレには会えたし、彼女に気に入られたおかげで、エルムトとケルムトの同盟はすんなり話が進んだ。


「いや、俺はいいんだ。でも、今度はちゃんと、太陽の巫女ベナ・ソアレに礼を言わなければな」

 

 ケルムトは、エルムトへと侵攻を繰り返すイサヴェルを激しく追及した。侵略行為は残虐で許されないと、ケルムトは声高に訴えつづけてくれたのだ。


 その結果、イサヴェルはエルムトから退いた。

 本土としても、エルムトだけではなくケルムトを敵に回すような余裕はないというわけだ。


「そうね。ケルムトのクロエ様には、イヴァンにお礼を伝えてほしいもの」

「ああ。もうすこし落ち着いたら、俺が行く」

「お願いね、兄さん。あ、ちゃんと護衛も付けるから」


 イヴァンは首を傾げる。自分が心配性の自覚はあったものの、妹に心配されるのは心外だ。


(護衛は要らないんだが……、下手に逆らうと怒らせそうだな)


「でもお前は、もう大丈夫なのか?」

「心配しないで、兄さん。私はだいじょうぶよ」


 エリサはそう繰り返す。


 あれはローレライ。エリサは歌に自身の魔力を乗せて、それから敵と見做した者の命を奪う。

 ただし、そう何度も多用できるような代物ではないことはたしかだ。実際、イサヴェルの侵攻が止まったあの日から、エリサは弱っていた。


「私のことよりも、自分のことを心配して。イヴァンが倒れでもしたら、きっと泣くわよ」


 イヴァンは苦笑する。泣き顔はもう見たくないと、そう思っている。


「それに、家族は私だけではないのだから。ちゃんと自分の身体は大事にしなければだめよ」

「ああ、わかってる」

「本当かしら? でも、いいわ。今日は、長々とお説教しているような時間もないものね」


 段々とエリサの機嫌が悪くなってきた。

 徹夜続きで眠気も限界なのだろう。イヴァンは余計な声を落とさずに、そこで話題を切りあげた。

 

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