もう泣かなくてもいい

 獣の遠吠えがきこえた。

 あの声が巫女の獣だと気付いたとき、レムはユハに呼ばれていると思った。

 

(エリサが危ない。それに、イヴァンも)


 ミカルを山小屋に残してから、レムはただひたすらに輝ける月の宮殿グリトニルを目指した。


 少年たちばかりの軍神テュールは、まだ山に篭もって戦いつづけている。

 彼らを説得する前に、逆にレムは彼らに懇願されてしまった。輝ける月の宮殿グリトニルに戻って、そして月の巫女シグ・ルーナを守ってほしいと。


 月の巫女シグ・ルーナは、この国の希望だ。


 エリサを失ったとき、彼らは精神的支柱をなくしただけでなく、エルムトという国そのものを失ってしまう。


(でも、僕にはこのまま戦いつづけることが、正しいかなんてわからない)


 あまたの軍神テュールたちが犠牲になった。

 レムはここまで戻って来るまでに、それをまざまざと見せつけられた。少年から往年おうねんの男まで、いくつもの死体を見た。


 どこかでサミュエルと会えると思っていたが、会えないままレムは輝ける月の宮殿グリトニルまで来た。

 

 そこは、ひどいなんてものではなかった。女子どもだけでも先に逃がしていたのが、幸いか。そんな台詞を吐けないくらいに、どこもかしこもが死体だらけだ。


(こんな状態なら、暗殺者の意味なんてない。早く、サミュエルを見つけないと。それに……)


 イヴァンは祈りの塔だ。


 最後に月の巫女シグ・ルーナを守れるのは、イヴァンとユハだけだ。

 それとも、もうとっくにエリサを連れて逃げているのだろうか。外はものすごい吹雪で、レムが雪原で迷わずに輝ける月の宮殿グリトニルまで帰ってこられたのも、奇跡に近かった。


 輝ける月の宮殿グリトニルは、イサヴェルの軍隊にほとんど制圧されているようなものだった。


 けれども、まだ月の巫女シグ・ルーナがいる。

 番人ヘーニルたちが逃げ出しても、最後までエルムトを守ってくれるのは月の巫女シグ・ルーナだ。


 イサヴェルの軍服を着ているためか、ここまでレムは戦闘を避けられてきた。

 しかし、掠奪りゃくだつや虐殺を繰り返す兵士たちを前に、身体は勝手に動いていた。

 レムに気付いた軍神テュールたちが、次々に訴える。自分たちはいいから、早く祈りの塔に行くようにと。


 レムは歯噛みする。

 ここに残って戦うこと、あるいは軍医としてすこしでも多くの命を救うこと。きっと、それはどちらも正しい。


 後ろ髪を引かれる思いで、レムは宮殿を駆け抜ける。

 外はすごい吹雪だったが、ずっとレムを呼んでくれるのがユハだ。狼の遠吠えがきこえる。嵐のなかで立ち往生するイサヴェルの兵士たちを蹴散らしながら、とにかくレムは祈りの塔へ急いだ。


 そして、とうとう祈りの塔へとたどり着いたとき、レムは信じられないものを見た。


 機関銃を持った兵士たちが、重なり合うようにして死んでいる。

 数は三十といったところだろうか。死体を押しのけて、レムはもっと塔へと近付く。最初に見えたのは銀の狼だ。


(あれはユハだ。じゃあ、エリサは塔の中……。この歌声はエリサだ)


 風の音にかき消されない強い声が、レムの耳朶じだを打つ。エリサの魔力が歌となってエルムトを守っている。


「イヴァン……?」


 そして、レムは次に彼を見た。よかった、イヴァンは無事だと、安堵するのはまだ早かった。


「イヴァン? サミュエル……?」


 イヴァンの腕に抱かれているのは、たしかにサミュエルだった。

 

 レムは急に足が震えて動けなくなった。こうなることは、最初からわかっていたはずだ。サミュエルは暗殺者としてエリサを狙う。エリサを守るためにイヴァンは立ちはだかる。戦えば、二人のうちのどちらかが死ぬ。そんなことはわかっていた。


(いや、ちがう。そんなはずはない。だって、サミュエルは約束してくれた。イヴァンもエリサも殺さないって)


 では、イヴァンがサミュエルを討ったのだろうか。


 二人に駆け寄ろうとして、足がもつれてレムは倒れ込んだ。

 白い雪が血の色に染まっている。ここで激しい戦闘が行われていたのは確実だ。

 

「イヴァン! サミュエル!」


 はじめに反応したのはイヴァンだった。


「レム……」

「イヴァン、どうして……」


 レムはここで何があったのかを理解した。

 二人はたしかにここで戦っていた。しかしそこで第三者の介入があったのだ。イサヴェルの軍隊。本来なら、味方であるはずのサミュエルもろとも銃を放った。


「すまない、レム。俺は……」

 

 サミュエルを抱きしめながら、イヴァンが言う。ずいぶんと弱々しい声だった。当然だ。イヴァンはひどい怪我を負っている。だが、サミュエルはもっとひどい。


「サミュエルは俺を庇った。俺は、ユハに守られるだけで……、サミュエルが一人で、戦った」


 レムは恐る恐るサミュエルに触れた。

 身体中を蜂の巣みたいにされたサミュエルは、もう動かない。


「サミュエル、おきて」


 風がすこし弱まった。でも、まだレムの声はサミュエルに届いていない。


「サミュエル、起きてよ。僕は、ここにいる」


 サミュエルの頬をたたいて、手を握って、レムは懸命に呼びかける。嗚咽おえつが邪魔して上手く声が出せなくとも、それでも何度も何度もレムはサミュエルを呼んだ。


「すまない、レム。俺がサミュエルを、」

「ちがうよ、イヴァン。サミュエルは……」


 そのとき、ようやくレムの声に反応したのか、サミュエルが目を開けた。

 涙が視界の邪魔をする。レムは乱暴に目元を拭って、笑みを作ろうとして失敗した。


「カトリーヌ? いや、レムか……」


 その面を叩きたくなったのを、レムはどうにか堪えた。こんなときでもまだカトリーヌだ。


「お前は、また……泣いているな」

「あんたが、こんなにぼろぼろだから」


 レムの前でサミュエルはいつも強かった。

 エルムトへと発つ前日、一度だけ弱々しいところを見せたものの、あれきりだ。


「ああ、約束は……守った。お前は、もう泣かなくてもいい」


 レムは声をあげて泣いた。馬鹿な約束を取り付けてしまったと、そう思ったのだ。


 カトリーヌに裏切られたサミュエルは、約束を絶対に破らない。

 自身が幼い頃に恋い慕う少女と交わした約束。けっして叶わない約束を、サミュエルはいまでも忘れずにいるのだろう。


(もう、いいよ。そんな約束はどうだっていい。解放してやるべきだ、彼を)


 それなのに、レムは次から次へと溢れ出てくる涙を抑えきれず、それきり二度と目を開けてくれないサミュエルに縋りついて泣いた。

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