優先するものなど、決まっているでしょう?

 祈りの塔から輝ける月の宮殿グリトニルへと戻ろうとして、ユハに会った。


 思わずイヴァンはまじろいだ。

 ユハはたしか、実家に行くと言っていた。それなのに、いつものように燕尾えんび服姿だった。


「おや? もうお帰りですか?」

「ああ、用件は済んだ。それに……エリサが眠そうだから」


 ユハがくすっと笑う。

 眠たいときのエリサの機嫌の悪さを知っているのは、イヴァンとユハくらいだ。


「ユハの方こそ、もう戻って来たのか? 話はちゃんとできたのか?」

「ええ、ご心配なく。父にはしっかり礼を伝えましたよ」


 艶麗えんれいな笑みで応えるユハは、辺境伯の十番目の娘だ。

 時間さえ許せば、イヴァンがアーネルトン伯に会いに行くつもりだったがそうもいかず、ユハが自ら申し出てくれたのだった。


「本土のイサヴェルにも、エルムトの番人ヘーニルにも、どちらにもいい顔をして、のらりくらりとやり過ごしている人ですけどね。でも、此度の侵略戦争では、イサヴェルにかなり圧力を掛けてくれましたから」


 イヴァンはうなずく。

 エルムトの同盟国として動いてくれたケルムト、そして辺境伯アーネルトン。ふたつの力が合ってこそ、イサヴェルの侵攻を止められたのは事実だ。


「此度の戦いで、犠牲のほとんどが軍神テュールだったとはいえ、父も心を痛めていました。事実上、軍神テュールは壊滅したも同然ですし、エルムトのことをとても案じている様子でした」

「お心遣い痛み入る。俺としては、何から何まで世話になって申し訳ないくらいだ」

「いえいえ、それがあの人の仕事でしょうし」


 ユハが父親をどこか他人のように話すのは、自身が勘当された身であるからだ。


 エリサもユハも、妙齢みょうれいに近付いた頃に婚約が決まりかけていた。

 破談となったのは、エリサが月の巫女シグ・ルーナに選ばれたからではない。二人はその前から互いを想い合っていたので、無理強いをすれば駆け落ちしかねない勢いだったのだ。


「それで? は引き受けてくれたのですか? 軍神テュールとして、輝ける月の宮殿グリトニルに残ることを」

「ああ……。あいつもエリサに頭をさげられては、断れないだろう」

「まあ、そうですね」


 隊長のマルティンを筆頭に、多くの命が失われた。

 残った軍神テュールたちも、けっして無事とはいえない状態だった。負傷者の数は多すぎたし、傷が癒えても心の傷が癒えるとは限らない。ミカルがまさにそうだった。


 ミカルは片足を失っただけではなく、兄のアウリスまで失った。

 他の軍神テュールたちも似たようなものだった。戦場で親しい友や仲間、上官に部下たちの死を見届けて、それでもまだ戦えるかといえば、そうではない者の方が多かったのだ。


「どちらにしても、彼にはやってもらわなければ困ります」

「表向きは軍医として、しかし有事のときはしっかり働いてもらうさ」

「当然です。彼は最後の軍神テュールですからね」

 

 イヴァンは苦笑する。


(ずいぶんと手厳しいな。でも、ユハは怒っているのかもしれない。あいつがエルムトもエリサも捨てて、イサヴェルに戻ったのは事実だ。理由はどうあろうとも……)


 エルムトの裏切り者。

 おなじ軍神テュールだけではなく、番人ヘーニルたちも彼をそう見做みなしていた。それを黙らせたのが他でもないエリサだ。


(それだけじゃない。あいつは、最後までエルムトのために、エリサを守るために戦ってくれた)


 エリサのローレライはエルムトを氷と雪に閉ざした。


 その時間稼ぎをしたのはイヴァンと彼だ。

 サミュエルとの戦いで、満身創痍もいいところだったイヴァンも倒れるわけにはいかなかった。どうにか最後まで立っていられたのは、彼がイヴァンの隣で戦ってくれたからだ。


(それに、ユハ。あのとき俺は、ユハにも助けられた)


「なあ、ユハ。俺は君に礼を言いそびれている」

「礼ですか? はて……? 思い当たる節などありませんが」


 わざととぼけているのか、それとも本気で忘れているのか。イヴァンは未だにユハのこういうところが読めずにいる。


「あのとき君が止めてくれなかったら、俺はいまここにはいない」

「ああ、そのことですか。そんなに恩義を感じることもないですよ」

「どうしてだ?」


 ユハは唇に笑みを乗せたものの、その目は笑ってはいなかった。


「あの男……サミュエルでしたか? あれとあなたを天秤に掛けて、優先するものなど、決まっているでしょう? 私はエリサの泣く姿など見たくありませんからね」


 無数の銃口がイヴァンとサミュエルに向けられていた。

 

 銃声が響く前にサミュエルは飛び出していたし、イヴァンはユハに首根っこを押さえられてそのまま雪に沈んだ。どんなに訴えてもユハはイヴァンから離れずに、銃声がきこえなくなった頃には、サミュエルが銃隊を全滅させていた。


(レムが、サミュエルを恐ろしい男だと何度も訴えていた意味がわかった。でもあれは、約束のためだと、そう言っていた。俺は、なにひとつとして、あの男に勝てなかったな……)


「だいたい、イヴァンはマルティン隊長のご息女を託されていたのでしょう? あそこで無茶をするような気が知れませんよ」

「そこは……ちゃんと反省してる」

「それなら、早く戻った方がいいのでは? 番人ヘーニルの議会がはじまるでしょう?」


 イヴァンはユハに半ば追い返される形で輝ける月の宮殿グリトニルへと戻った。

  

 この日、イヴァンははじめて番人ヘーニルとして議会に臨んだ。繰り広げられる議論は様々だが、一刻も早いエルムトの復興が要求された。


 イヴァンも兼ね兼ね、彼らとは同意見だった。

 戦争の爪痕は大きい。イサヴェルを食い止めたとはいえ、あまりに犠牲は大きすぎた。


 軍神テュールの壊滅によって、早急に望まれたのが、戦乙女ワルキューレの育成である。

 なにしろエルムトでは男子の数が少なすぎる。これからエルムトを守っていくのは、少女たちの集団となる。イヴァンとしては受け入れがたい事態でも、これはもう認めるしかない現実だった。


 そして、エルムトを統べる番人ヘーニル


 構成される十三人の番人ヘーニルに、何人か欠員が出た。

 イサヴェル侵攻の際に、巻き込まれた番人ヘーニルがいたのだ。逃げ切れなかったのか、あるいは暗殺か。ともかく、イヴァンがこれに選ばれたのは必然だった。


 イヴァンの父親は、病死するまで番人ヘーニルを長く務めていたし、イヴァンはエルムトのために最後まで戦いつづけた功績を認められたのだ。


 イヴァンの性格ならば、たとえ軍神テュールの最後の一人になったとしても、軍神テュールとして戦いつづける所存だ。


 しかし、そういうわけにもいかなくなった。

 イヴァンは週に三度、必ず医務室を訪れる。扉をたたいても返事はなく、それでも居留守を使われているのだろうと、すぐ察した。


 思ったとおり、彼は在室だったし、おまけにとても不機嫌だった。

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