僕のことをなにも知らない
「やあ、イヴァン」
祭壇の前に
ケルムトで再会したときには、わからなかった。
宵闇に包まれて月の灯りだけが頼りだったし、じっくり相手を観察できるような状況でもなかった。
あの夜、イヴァンはレムがなにも変わっていないことに、少なからず安堵していたのかもしれない。
現実はけっこう残酷だ。
イヴァンはゆっくりとレムに近付く。
数歩分の距離を残して、そのまま動けなかったのは、イヴァンの知っているレムとは別人みたいだったからだ。
「お前、その髪……」
「ああ、これ? 長く薬をやってるとね、色が抜けるんだ」
何でもないことのようにレムは言う。馬鹿なことを口にしたと、イヴァンはすぐ後悔した。
「ほら、僕はもともと色素が薄いから。エルムトの人間みたいだよね」
気にするなと、レムはそう言っているのだ。イヴァンはレムを見ているのが辛くなった。
(俺は馬鹿か。なにも変わっていないわけがない)
イヴァンも
それが、どうか。いまのレムは無理やり引っ張って、病院に押し込みたいくらいにがりがりに痩せていて、おまけにひどい顔色だ。
イヴァンはケルムトの巫女であるクロエと、その弟のセサルから組織のことをきいた。
組織がネズミたちに施している実験は
(でも、それだけじゃない。レムは
「ひさしぶりに会えたから、ゆっくり話したいところだけど、僕にはあんまり時間がないんだ」
「レム、お前」
「きいて、イヴァン。きみは、こんなところにいる場合じゃない。一刻も早く、エルムトに戻らないといけない」
「なにを……」
レムはいつもイヴァンから逃げた。
軍医のオリヴァーは、イヴァンがレムを追いかけ回すからレムが逃げるのだと言った。あの頃のイヴァンは、まだ自分の気持ちに何も気が付いていなかったし、ひたすらにレムが心配だったのだ。
ただでさえ、レムは余所者なのだ。
おまけにレムは他の少年たちよりも身体がちいさくて、弱々しかった。どういうつもりで、
「そんな心ここにあらずって、顔しないで。まだ間に合う。だから、僕は君に行ってほしいんだよ」
「お前を置いて、早くエルムトに帰れと?」
「そう。僕のことなんて忘れて」
イヴァンは鼻からゆっくり呼吸を繰り返した。そうでなければ、思わずレムを殴ってしまうところだった。
(なんで、お前はいつもそうやって、自分のことよりも……!)
ケルムトで、
サミュエルの攻撃を受けたのも、毒を食らったのも、ぜんぶイヴァンの失態である。レムが尻拭いをする必要なんてなかったはずだ。
「いい? イヴァン、大事なことだよ。エルムトはまもなく総攻撃を受ける。イサヴァルは本気で、エルムトを手に入れようとしているんだ。組織の暗殺者たちだけじゃない。やって来るのは正規の軍人たちだ」
エルムトは
外部の人間が多く出入りしている時期でもある。
「あれ……? あんまり驚いていないってことは、知っているんだね。
イヴァンは沈黙で返す。それは肯定の意味だった。
エルムトに帰還する前に、イヴァンは手紙を送っていた。
「一緒に来い、レム」
一歩、イヴァンはレムに近付いた。うしろは祭壇で、レムに逃げ場なんてなかった。
「俺と一緒に帰ろう、レム」
ついさっきまで饒舌だったレムが急に黙り込んだ。心底驚いているという、そんな顔をしている。
「エルムトに帰るんだ、レム。俺がお前を連れて帰る」
「無理だよ」
「無理なんかじゃない。
「できない」
「……っ、レム!」
掴みかけた腕をすごい力で振り解かれた。追い詰められた兎が最後の抵抗をするかのように。
「きみは、なにもわかってない」
「なにを言って」
「イヴァンは、僕のことをなにも知らない」
「それは……」
いまにも噛みつきそうな目で睨まれて、思わずイヴァンは怯んだ。
エルムトにいた頃のレムは、自分の話をあまりしなかった。
人の心を土足で踏むような勇気もなかったイヴァンは、それでもいつか心を開いてくれるのではないかと、その日をただ待っていた。
「いいよ。じゃあ、話してあげる。僕の過去、僕の生まれ、あいつとの関係。ぜんぶだ」
きっと、以前のイヴァンならば皆まで話をきいて、そして後悔しただろう。
受け入れる覚悟もないくせに、人が見せたくない弱みも、痛みも、無理に共有しようとするのはただの傲慢だ。
(諦めさせようと、それで俺に教えようとしているんだ。レムは)
それでも、いまのイヴァンは、レムのすべてを知りたいと思っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます