僕のことをなにも知らない

「やあ、イヴァン」


 祭壇の前にたたずむレムの姿を見たとき、イヴァンはすぐさま駆け寄って、そのちいさい身体を抱きしめたい衝動に駆られた。


 ケルムトで再会したときには、わからなかった。


 宵闇に包まれて月の灯りだけが頼りだったし、じっくり相手を観察できるような状況でもなかった。


 あの夜、イヴァンはレムがなにも変わっていないことに、少なからず安堵していたのかもしれない。


 現実はけっこう残酷だ。


 イヴァンはゆっくりとレムに近付く。

 数歩分の距離を残して、そのまま動けなかったのは、イヴァンの知っているレムとは別人みたいだったからだ。


「お前、その髪……」

「ああ、これ? 長く薬をやってるとね、色が抜けるんだ」


 何でもないことのようにレムは言う。馬鹿なことを口にしたと、イヴァンはすぐ後悔した。


「ほら、僕はもともと色素が薄いから。エルムトの人間みたいだよね」


 気にするなと、レムはそう言っているのだ。イヴァンはレムを見ているのが辛くなった。


(俺は馬鹿か。なにも変わっていないわけがない)


 軍神テュールのときのレムは、とにかくよく食べた。

 イヴァンも健啖家けんたんかだが、レムの食べっぷりには負ける。本人は育ち盛りだからと言い張っていたけれど、いまならわかる。あれも薬の影響だったのだろう。


 それが、どうか。いまのレムは無理やり引っ張って、病院に押し込みたいくらいにがりがりに痩せていて、おまけにひどい顔色だ。

 

 イヴァンはケルムトの巫女であるクロエと、その弟のセサルから組織のことをきいた。


 組織がネズミたちに施している実験は苛烈かれつで、耐えられなくなってイサヴェルから逃げ出したのだと、そう教えてもらった。


(でも、それだけじゃない。レムはあの男サミュエルに、ひどい扱いを受けているんだ。そうでなければ、こんな……)


「ひさしぶりに会えたから、ゆっくり話したいところだけど、僕にはあんまり時間がないんだ」

「レム、お前」

「きいて、イヴァン。きみは、こんなところにいる場合じゃない。一刻も早く、エルムトに戻らないといけない」

「なにを……」


 レムはいつもイヴァンから逃げた。

 

 軍医のオリヴァーは、イヴァンがレムを追いかけ回すからレムが逃げるのだと言った。あの頃のイヴァンは、まだ自分の気持ちに何も気が付いていなかったし、ひたすらにレムが心配だったのだ。


 ただでさえ、レムは余所者なのだ。

 

 おまけにレムは他の少年たちよりも身体がちいさくて、弱々しかった。どういうつもりで、エリサがレムを軍神テュールに任命したのなど、知らない。爪弾きにされても傷つかないなんて、それは嘘だとイヴァンは思った。


「そんな心ここにあらずって、顔しないで。まだ間に合う。だから、僕は君に行ってほしいんだよ」

「お前を置いて、早くエルムトに帰れと?」

「そう。僕のことなんて忘れて」


 イヴァンは鼻からゆっくり呼吸を繰り返した。そうでなければ、思わずレムを殴ってしまうところだった。


(なんで、お前はいつもそうやって、自分のことよりも……!)


 ケルムトで、太陽の巫女ベナ・ソアレに頭をさげたのはレムだ。

 サミュエルの攻撃を受けたのも、毒を食らったのも、ぜんぶイヴァンの失態である。レムが尻拭いをする必要なんてなかったはずだ。


「いい? イヴァン、大事なことだよ。エルムトはまもなく総攻撃を受ける。イサヴァルは本気で、エルムトを手に入れようとしているんだ。組織の暗殺者たちだけじゃない。やって来るのは正規の軍人たちだ」


 エルムトは冬至の祭りユールの最中だ。

 外部の人間が多く出入りしている時期でもある。軍神テュールたちはもちろん暗殺者を警戒しているし、不用意に月の巫女シグ・ルーナへと近づけさせない。


「あれ……? あんまり驚いていないってことは、知っているんだね。太陽の巫女ベナ・ソアレが教えてくれたのかな?」


 イヴァンは沈黙で返す。それは肯定の意味だった。


 エルムトに帰還する前に、イヴァンは手紙を送っていた。番人ヘーニルたちは、ケルムトの情報を鵜呑みにしないだろうが、きっと隊長のマルティンが彼らを説得すると信じていた。


「一緒に来い、レム」


 一歩、イヴァンはレムに近付いた。うしろは祭壇で、レムに逃げ場なんてなかった。


「俺と一緒に帰ろう、レム」


 ついさっきまで饒舌だったレムが急に黙り込んだ。心底驚いているという、そんな顔をしている。


「エルムトに帰るんだ、レム。俺がお前を連れて帰る」

「無理だよ」

「無理なんかじゃない。月の巫女シグ・ルーナがお前を許してくれる。だから何も、」

「できない」

「……っ、レム!」


 掴みかけた腕をすごい力で振り解かれた。追い詰められた兎が最後の抵抗をするかのように。


「きみは、なにもわかってない」

「なにを言って」

「イヴァンは、僕のことをなにも知らない」

「それは……」


 いまにも噛みつきそうな目で睨まれて、思わずイヴァンは怯んだ。


 エルムトにいた頃のレムは、自分の話をあまりしなかった。

 人の心を土足で踏むような勇気もなかったイヴァンは、それでもいつか心を開いてくれるのではないかと、その日をただ待っていた。


「いいよ。じゃあ、話してあげる。僕の過去、僕の生まれ、あいつとの関係。ぜんぶだ」

 

 きっと、以前のイヴァンならば皆まで話をきいて、そして後悔しただろう。

 受け入れる覚悟もないくせに、人が見せたくない弱みも、痛みも、無理に共有しようとするのはただの傲慢だ。


(諦めさせようと、それで俺に教えようとしているんだ。レムは)


 それでも、いまのイヴァンは、レムのすべてを知りたいと思っている。


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