そこに白兎が待っている

 行きの倍の時間を掛けて、イヴァンはようやくイサヴェルまで戻って来た。


 セサルの忠告は正しかった。体内に回った毒は、イヴァンの身体を蝕んでいるのだ。


 あれをぜんぶ取り除くのは、太陽の巫女ベナ・ソアレでも不可能で、しかし彼女は死の淵にいたイヴァンを救ってくれた。


 できうる限りの感謝を言葉に乗せて、イヴァンはケルムトを発った。セサルは人好きのする笑みで見送ってくれたものの、太陽の巫女ベナ・ソアレはちょっと不満そうに腕組みをしていた。でも、あなたはケルムトよりもエルムトが似合っていると、そう言ってくれたけれど。


 けっきょく、冬至の祭りユールには間に合わなかった。

 

 軍神テュール失格だと、自分をなじるのはまだ早い。イヴァンは、番人ヘーニルの期待通りの結果を残したのだ。ケルムトはエルムトが危機に陥ったとき、必ず力になってくれるだろう。


 本土イサヴェルまで帰れば、エルムトは目と鼻の先だ。

 ただし、イヴァンが万全の状態ならばの話である。怪我の後遺症というのは、思っていた以上にイヴァンを疲弊させた。


(サミュエルは殺そうと思えばできたはずだ。でも、そうしなかったのは……、こうしてじわじわといたぶるためだろうか)


 ほんの少しだけでも、サミュエルと対峙したイヴァンならわかる。

 あの男から逃げるのは不可能だ。ならば戦って死ぬか、あるいは。


(同情するつもりはないが、こうなると組織のネズミたちも憐れだな……)


 サミュエルからは逃げられない。何の負荷も掛かっていないイヴァンなら、それでも戦う道を選ぶ。


(だが、レムは……)


 そこで急に眩暈がして、イヴァンはよろめきかけた身体をどうにか起こした。

 大通りにはたくさんの人でひしめき合っている。ここで倒れたとして、誰もイヴァンを見て見ぬ振りだろう。イサヴェルはそういうところだ。


 商業区のマーケットを抜けて大通りを通過する。美術館や学校、それから病院を素通りして、裏路地へと入った。

 金は番人ヘーニルから余るくらい貰っていたが、かといって無駄使いするつもりもないイヴァンは、安宿を探した。


 道中、そこらにたむろする女たちと目が合ったものの、イヴァンは早足で駆け抜けた。あれは娼婦たちで、金さえ払えば快楽と情報のふたつを与えてくれる。


 イヴァンのほしいのは情報だけで、後者は余計だった。

 上手く立ち回れば、もっと早くレムにたどり着けたのに、イヴァンはいつもこうした不器用な生き方しかできない。


「おい、あんた」


 うしろから声を掛けられた。まだ少年の声だった。

 

 イヴァンは振り向かずに、外套に隠してあるダガーへと手を伸ばす。得物は腰にいたファルシオンだが、こんなところで振り回していいような代物ではなかった。


「ずいぶん、具合が悪そうだな。病院はそっちじゃない。反対方向だ」

「知ってる。さっき通り過ぎたから」


 親切な子どものふりをして掏摸すりをするつもりか、もしくは道案内と称して、仲間のところへ連れて行くつもりか、本土イサヴェルではよくある日常だ。


「ふん……。あいつにやられたくせに、よく生きてるな」


 イヴァンは思わず振り返っていた。

 癖のある黒髪の少年だった。歳はレムよりもすこし下だろうか。気の強そうな大きなどんぐり目が、イヴァンを睨みつけていた。


「それとも、サミュエルのやつ、わざと生かしているのか? どっちでもいいけれど、あんた目立つんだよ」

「お前は、何者だ……?」

「ノアだ。あんたのことは知ってる」


 サミュエルの名が出てきたということは、この少年も組織の一員なのだろう。


 出っ歯の栗鼠ラタトスク。しかしそのリーダーはサミュエルではなく、あのときイサヴェルの要人と偽って、エルムトに来たバルブロという男だ。


 裏社会で暗躍する出っ歯の栗鼠ラタトスクのところには、大人から子どもまで身寄りのない人間がたくさんいるという。

 彼らは組織のネズミで、上の人間に実験されてまっとうな人間として、生きられなくなった。

 

(こんな子どもまでも……)


 挑みかかるようなノアの視線を受けながら、やはりイヴァンは同情を禁じ得なかった。ふんと鼻を鳴らしたノアは、そんな同情など邪魔なだけと、そう言いたそうな顔をしている。

 

軍神テュールのイヴァンにあれこれ嗅ぎ回られると、迷惑なんだよ」

「なら、どうする? お前が俺とここで戦うと?」


 相手が子どもでも、ノアという少年は組織の人間だ。

 イヴァンは軍神テュールである。この命はエルムトのために、月の巫女シグ・ルーナのためにある。


「まさか。あんたの強さは知ってる。そして、あんたがどういう人間かもきいた」

「……だから?」

「信じられそうなのは、あんたしかいない。余所の人間にこんなことを頼むのは癪だけど……、こうするしかないんだ。サミュエルにずっと閉じ込められていて、外に出るのも叶わない。このままでは、あの人が死んでしまう」

「ちょっと、待て。それは、レムのことか!?」

「五つの鐘が鳴ったあと、すぐ教会に行け。そこに白兎が待っている」


 イヴァンは再度呼びかけたが、ノアはそう言い残して走って行った。

 

 少年のうしろ姿を見つめながら、イヴァンは一瞬これは罠ではないかと疑った。けれども、そうする必要もないだろう。殺すつもりならば、ケルムトでサミュエルはイヴァンを生かしたりはしなかった。


 来た道を引き返しているうちに、五つの鐘が鳴った。

 ちいさい教会なので入館の手続きも必要なく、イヴァンは礼拝堂へと向かった。ノアに言われたとおりだった。レムがイヴァンを待っていた。

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