そこに白兎が待っている
行きの倍の時間を掛けて、イヴァンはようやくイサヴェルまで戻って来た。
セサルの忠告は正しかった。体内に回った毒は、イヴァンの身体を蝕んでいるのだ。
あれをぜんぶ取り除くのは、
できうる限りの感謝を言葉に乗せて、イヴァンはケルムトを発った。セサルは人好きのする笑みで見送ってくれたものの、
けっきょく、
ただし、イヴァンが万全の状態ならばの話である。怪我の後遺症というのは、思っていた以上にイヴァンを疲弊させた。
(サミュエルは殺そうと思えばできたはずだ。でも、そうしなかったのは……、こうしてじわじわといたぶるためだろうか)
ほんの少しだけでも、サミュエルと対峙したイヴァンならわかる。
あの男から逃げるのは不可能だ。ならば戦って死ぬか、あるいは。
(同情するつもりはないが、こうなると組織のネズミたちも憐れだな……)
サミュエルからは逃げられない。何の負荷も掛かっていないイヴァンなら、それでも戦う道を選ぶ。
(だが、レムは……)
そこで急に眩暈がして、イヴァンはよろめきかけた身体をどうにか起こした。
大通りにはたくさんの人でひしめき合っている。ここで倒れたとして、誰もイヴァンを見て見ぬ振りだろう。イサヴェルはそういうところだ。
商業区のマーケットを抜けて大通りを通過する。美術館や学校、それから病院を素通りして、裏路地へと入った。
金は
道中、そこらにたむろする女たちと目が合ったものの、イヴァンは早足で駆け抜けた。あれは娼婦たちで、金さえ払えば快楽と情報のふたつを与えてくれる。
イヴァンのほしいのは情報だけで、後者は余計だった。
上手く立ち回れば、もっと早くレムにたどり着けたのに、イヴァンはいつもこうした不器用な生き方しかできない。
「おい、あんた」
うしろから声を掛けられた。まだ少年の声だった。
イヴァンは振り向かずに、外套に隠してあるダガーへと手を伸ばす。得物は腰に
「ずいぶん、具合が悪そうだな。病院はそっちじゃない。反対方向だ」
「知ってる。さっき通り過ぎたから」
親切な子どものふりをして
「ふん……。あいつにやられたくせに、よく生きてるな」
イヴァンは思わず振り返っていた。
癖のある黒髪の少年だった。歳はレムよりもすこし下だろうか。気の強そうな大きなどんぐり目が、イヴァンを睨みつけていた。
「それとも、サミュエルのやつ、わざと生かしているのか? どっちでもいいけれど、あんた目立つんだよ」
「お前は、何者だ……?」
「ノアだ。あんたのことは知ってる」
サミュエルの名が出てきたということは、この少年も組織の一員なのだろう。
裏社会で暗躍する
彼らは組織のネズミで、上の人間に実験されてまっとうな人間として、生きられなくなった。
(こんな子どもまでも……)
挑みかかるようなノアの視線を受けながら、やはりイヴァンは同情を禁じ得なかった。ふんと鼻を鳴らしたノアは、そんな同情など邪魔なだけと、そう言いたそうな顔をしている。
「
「なら、どうする? お前が俺とここで戦うと?」
相手が子どもでも、ノアという少年は組織の人間だ。
イヴァンは
「まさか。あんたの強さは知ってる。そして、あんたがどういう人間かもきいた」
「……だから?」
「信じられそうなのは、あんたしかいない。余所の人間にこんなことを頼むのは癪だけど……、こうするしかないんだ。サミュエルにずっと閉じ込められていて、外に出るのも叶わない。このままでは、あの人が死んでしまう」
「ちょっと、待て。それは、レムのことか!?」
「五つの鐘が鳴ったあと、すぐ教会に行け。そこに白兎が待っている」
イヴァンは再度呼びかけたが、ノアはそう言い残して走って行った。
少年のうしろ姿を見つめながら、イヴァンは一瞬これは罠ではないかと疑った。けれども、そうする必要もないだろう。殺すつもりならば、ケルムトでサミュエルはイヴァンを生かしたりはしなかった。
来た道を引き返しているうちに、五つの鐘が鳴った。
ちいさい教会なので入館の手続きも必要なく、イヴァンは礼拝堂へと向かった。ノアに言われたとおりだった。レムがイヴァンを待っていた。
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